第32話 代償を、まだ伺っていません
板の向こうは、それきり黙っていた。
待っている。僕が答えるまで。ペンが補充の行の下で待っているのと、同じ黙り方だった。
指の腹に、こつり、と響いた。継いだばかりの結び目を、次の行が通っていく。
「……ほどくって、何をよ」
アリシアが、肘掛けから身を起こした。
「ペンを? これを?」
「はい」
「止まるんでしょ、そしたら。全部」
答える前に、ガロンが板の前へ半歩出た。拳は握っていない。それでも、肩の構えは、酒場の床で何度も見たものだった。
僕は、板に向き直った。
「伺う前に、ひとつ、いいですか」
「どうぞ」
「代償を、先に言っていただけますか」
板の向こうが、長く黙った。
「だいしょう」
かすれた声が、その言葉を、初めて口に入れるように転がした。
「ほどいたら、何が起きて、誰が何を払うのか。ほどく前に、全部言います。それから聞きます。答えが来るまで、待ちます」
「……ああ」
声が、少しだけ明るくなった。
「そうでした。あなたの手は、そういう順番でしたね」
「ご存じなんですか」
「聞くのは、もとから存じておりました。最初の日に、自分に聞きましたので。待つところは、ほつれたぶんと一緒に、この手へ戻ってまいりました」
僕は、自分の右の指を見た。
受付で、第七号さんは僕の手から、待つことを習った。いいえのあとは、手を引く。それが、あの二筋に染みたまま、持ち主のところへ帰ったのだ。
「先に言うところは、戻ってまいりませんでした」
「……口の癖だからですね」
「おそらく」
第七号さんは、まず僕の口から、先に言うことと聞くことを習った。待つことが手に入ってきたのは、そのあとだ。ほどけて壁の向こうへ帰ったのは、手の癖だけだった。
だから、この人は聞いた。待った。代償だけを、抜かして。
最初の頁の四行を思い出した。着席、器、この手にて書く、離席。自分に結んでいいかと聞いて、自分ではいと答えた人の行のどこにも、代償は書かれていなかった。
「では、僕が読みます」
「お願いいたします」
「読んだら、あなたが、僕に言ってください。あなたの口で」
板の向こうで、爪が一度、こつ、と鳴った。はい、のかわりのように聞こえた。
僕は、ペンの軸から出ている糸を、一本ずつ指でたどった。
帳面へ。綴じ目へ。机の脚へ。床を這って板の継ぎ目へ潜るもの。搬入口へ向かうもの。受付のほうへ伸びるもの。
軸に指を戻して、言った。
「一つ目。ペンが倒れます。配給の行が、書かれなくなります。明日の窯の火も、井戸の水も、管区のどこにも降りません」
「二つ目。補充と、送致と、交替の行も止まります。キルスの列への問いは、そこで消えます」
「三つ目。受付の椅子と、ベルナール様の首の一本が、どうなるかは読めません。机が結んだものなので、一緒にほどけるのかもしれません。残るのかもしれません」
「四つ目。壁の向こうの人たちを通っている糸は、通り道のまま、何も運ばなくなります。その人たちが立てるのかどうかは、僕には読めません」
「最後に。今このペンを立たせているのは、僕の継ぎ目です。ほどくなら、あなたは僕の結び目をほどくことになります。あなたの手なら、ぱちの一回でほどけます」
言い終えて、口を閉じた。
アリシアが、肘掛けを握る指に力を込めていた。細くなった指の、関節だけが白かった。
「どうぞ」
僕は、板に言った。
しばらく、何も聞こえなかった。
それから、かすれた声が、ゆっくりと始めた。
「代償を、申し上げます」
一語ずつ、置くように。
「一つ目。ペンが、倒れます。配給の行が、書かれなくなります。窯の火も、井戸の水も、管区のどこにも、降りなくなります」
僕の言った順のまま、僕の言った言葉のまま、その人は四つ目まで言い直した。読めないと僕が言ったところは、読めませんと言った。
最後のところで、少しだけ止まった。
「あなたの結び目を、わたしが、ほどくことになります。……ぱちの、一回で」
息を吐く音がした。
「言ってみると、重いものですね」
「はい」
「あの日に、これを言っていたら」
声は、そこで切れた。続きは来なかった。
「……あらためて、伺います。そのペンを、ほどいてよろしいですか」
指の腹の下で、ペンが一行を書いた。こつり。どこかの支所の割当だった。軽い。
止めるかどうかを決めるのは、交替の誰かではなく、僕になる。この机の前で、自分でそう言った。
聞かれたのは、僕だ。
「いいえ」
板の向こうが、静かになった。
「ほどけば、窯の火が落ちます。火と机を分ける方法が、今の僕の手にはありません。だから、今は、いいえです」
「今は」
「はい。分ける方法が見つかったら、僕のほうから伺います」
長い沈黙のあとで、小さな声がした。
「承りました」
爪の音は、もうしなかった。
「いいえのあとは、手を引くのでしたね」
「はい」
「戻ってきた癖が、そう申しております」
ガロンが、肩の力を抜いた。拳を握っていなかったことに、自分で今気づいたような顔をしていた。
◆
「ひとつ、聞いてもいいですか」
「どうぞ。聞かれたら、答えます。答えないときは、そう申します」
「どうして、これを作ったんですか」
板の向こうで、衣の擦れる音がした。座り直したのかもしれない。
「飢える方が、多うございました」
それだけ言って、声は少し間をおいた。
「座っている方の首を通せば、火も、水も、遠くまで降ります。座っているあいだは、その方も飢えずに済みます。最初に座ったのは、わたしです」
「ほかの人にも、聞いたんですか」
「机を作る前に、何人かには。……どなたも、はいとお答えになりました。お腹の空いた方は、はいと申しますので」
受付の藁の上の、十九人を思い出した。椀が手から手へ渡り終えるまで、誰も、いいえと言えなかった。
「それで、聞くのを、やめました。どうせ、はいですので。手には、書くことだけを残しました。聞くことは、教えませんでした」
八十年、あの机が誰にも聞かずに書いてきたのは、そのためだった。聞くことを教えたのは、僕の口だ。
アリシアが、何か言いかけて、唇を閉じた。
「わたしは、目を閉じて、壁の内に座りました。座ってしまえば、手が何を書いているのか、もう分かりません」
「分からないように、ですか」
答えは、すぐには来なかった。
「……答えないときは、そう申すと言いました。それには、答えないでおきます」
ガロンが、板から目を逸らした。
責める言葉は、出てこなかった。キルスの井戸端からこの机まで、僕も何度か、聞かずに弾いてきた。そのたびに、これは僕の都合だと言った。言えば、少しだけ楽になったからだ。
この人には、言う口がなかった。
「席を立って、何をしていたんですか」
「隣の方に、聞いてみました。立ちたいですか、と」
「答えは」
「どなたも、まだ。……口の使い方を、お忘れのようです。わたしも、あなたの音を聞くまでは、忘れておりました」
首の内側で、ヨナさんが小さく言った。
「かべの、むこう。……いきの、おとが、たくさん、します。こえは、ひとつ、だけです」
壁の向こうから九千を超える息が聞こえたのは、僕の両目が開ききったあの晩だけだった。ヨナさんには、たぶん毎晩聞こえていたのだ。
僕は、板に手のひらを当てた。冷たかった。
「ルカさん、でしたね」
「はい」
「では、別のことを、伺わせてください」
板の向こうで、息を吸う音がした。
「その前に、代償を申し上げます。……教わったとおりに」




