第31話 継いだ方は、どなたですか
夜ごとに、同じことをした。
日が暮れると、奥へ歩く。擦れた継ぎ目を見る。聞く。
「継いでいいですか」
『返答 はい』
つ、と。
それから、帳面を読む。
『欠損 一 補充要 問』の下の返答の欄は、埋まらなかった。かわりに、『未充当 割当より差引』の行が、夜ごとに一つずつ増えていった。
ときどき、返答の欄に『否』が一つ書かれて、横線で消された。そのたびに、問いはキルスの列の、次の首へ降りていった。いいえが置かれても、欠けた一人ぶんは埋まらない。こつりは、夜ごとに軽くなった。
指の腹に、たこができはじめていた。
「毎晩来て、飽きないの」
四晩目に、アリシアが言った。肘掛けの手は、また少し細くなっていた。
「二年、毎晩やってましたから」
「……鉄の牙の?」
「はい。皆さんが寝たあとに」
ガロンが、机の脇で咳払いをした。アリシアは、それ以上は聞かなかった。
受付には、そのあいだ、便が一つも着かなかった。ベルナール様は、着かない荷札を待って、椅子の上で起きていた。ミナの首の印は、片目が、また少しだけ開いていた。
そして、夜ごとに、ヨナさんが言った。
「あしおとが、ちかく、なりました」
一晩目は、壁の向こうの、ずっと奥。三晩目には、机の列の半ばあたり。五晩目には、アリシアが肘掛けの上で耳をそばだてた。
「……何も聞こえないわよ」
「僕にも、聞こえません」
「じゃあ、なんで分かるのよ」
「聞こえる人が、いるので」
アリシアは僕の首の後ろを見て、それから目を逸らした。
足音は、まっすぐには来なかった。止まって、戻って、また進む。
(目を、閉じているんだ)
奥の机の前で、僕が目を閉じたときと、同じ進み方だった。視えないまま、指先で糸に触れて、たどっている。
ほどけた二筋が、帳面の綴じ目から机の脚を伝い、板の継ぎ目へ潜っていった、あの道を。逆さに。
持ち主が、自分の手の癖を、さかのぼってくる。
◆
六日目の昼、搬入口の梁に、鳩がとまった。
キルスの教会の鳩だった。ここからは飛ばせないが、向こうからは来る。
セラが筒を外して、紙を広げた。広げたとたん、中から何かが藁の上に落ちた。
紐だった。麻の、細い紐がひと巻き。
「……あ」
ミナが、それを拾い上げた。
手紙は、相変わらず偉そうな字だった。
『解呪師、ならびにミナ殿。
また鳩を借りた。頭の下げ方には、慣れてきた。
近ごろ、パンが硬い。窯の火が弱いと、パン屋がこぼしている。よその街から来た荷馬車の者も、同じことを言っていた。
酒場の主人のことを書く。
あやつは今も、問われればはいとしか言わぬ。誰も問わぬので、空いた店で黙って座っている。
昨日の夕刻、あやつが蔵の列まで来た。誰も何も問うておらぬのに、自分から口を開いた。
「瓶を縛るやつがいねえ。割れる」
それから、これを私に押しつけた。
「あいつのだ」
問えば、はいと言うのでな。私は、何も問わなかった。
同封する。
ヴァレン・ド・モルス』
ガロンが、行李の上で笑いかけて、やめた。
「割れる、だとよ。あの親父が、瓶の心配か」
「瓶の心配しか、したことのない人です」
ミナは、あっさり言った。
彼女は、紐を指に巻いていた。藁を巻いて、二回まわして、最後に一回ひねる。二年間、毎日、何十本も瓶の首を縛ってきた、あの店の紐だった。
「給金、二年ぶんで、これだけですね」
そう言って、彼女は笑った。
それから紐を握ったまま、しばらく黙っていた。
「あの人、聞かれてないのに、喋ったんですね。はい以外のことを」
「はい」
ミナは、紐の端を指でつまんだ。
「わたし、二年、あそこで一度も名前を呼ばれませんでした。おい、とか、そこの、とか」
紐の端が、指のあいだで揺れていた。
「あいつ、って。……あいつのだ、って言ったんですね」
名前ではなかった。それでも、おいでも、そこのでもなかった。
ミナは、手首の結び目には触れないようにして、紐の端を背負い袋の口へ回した。藁をひとつかみ巻いて、二回まわして、最後に一回ひねった。
ずんぐりした、少しもきれいではない結び目だった。
「割れませんように」
誰に言ったのかは、聞かなかった。
僕は、手紙の三行目をもう一度読んだ。パンが硬い。窯の火が弱い。夜ごとに軽くなっていくこつりの、その先にあるものが、そこに書いてあった。
藁の上で、誰かが、薄い麦の粥をすすっていた。
◆
その夜。
奥の机の前で、継ぎ目に指をかけたときだった。
「ルカさん」
ヨナさんの声が、ひどく近かった。
「あしおとが、とまりました。……すぐ、そこ、です」
ほどけた二筋が吸い込まれていった、あの板の継ぎ目の、すぐ向こうだった。
僕は、指を止めた。
それから、いつもの順番を、いつものとおりにやった。
「継いでいいですか」
『返答 はい』
つ、と。
継ぎ目が締まって、ペンがまっすぐに立った。
その音に答えるように、板の向こうで、小さな音がした。
爪の先で、板を一度だけ叩く音だった。
僕にも、聞こえた。
ガロンが身構えた。アリシアが、肘掛けを握りしめた。
「……そちらで、継いでおいでの方」
声がした。
僕の声ではなかった。かすれて、乾いていて、長いあいだ誰とも話していなかった人の声だった。言葉の運びだけが、ひどく丁寧だった。
「はい」
「継いだ方は、どなたですか」
「ルカといいます。解呪師です」
板の向こうが、しばらく黙った。
「わたしも、そうでした」
ガロンが、僕の顔を見た。僕は、小さく首を横に振った。今のは、僕の喉ではない。
「席を、立たれましたね」
「ええ。ほつれたぶんだけ、手が戻ってまいりましたので。自分の結び目を、ひとつ、弾いてみました」
あっさりした言い方だった。仕掛けが始まった日から、ずっと座っていた席のことを。
「あなたが立ったぶん、欠けたと書かれています。埋まらないぶんは、管区じゅうの割当から引かれています。パンが、硬くなっているそうです」
「そうでしょうね」
板の向こうの声は、驚かなかった。
「そう書くように、作りましたので」
アリシアが、肘掛けの上で息を止めた。
首の内側で、ヨナさんが小さく言った。
「このひとの、ゆびです。……あの、よる、かべの、むこうで、ルカさんと、おなじ、おとを、たてた、ゆびです」
最初の日に、あの椅子に座った人。自分に結んでいいですかと聞いて、自分ではいと答えた人。目を閉じて、壁の向こうへ行った人。
「目は、閉じたままですか」
「ええ。閉じたまま、あなたの結び目まで続く糸を、指でたどってまいりました」
声が、少しだけ笑ったように聞こえた。
「同じ手でした。糸越しに触れて、すぐに分かりました」
「どうして、ここへ」
「毎晩、同じ刻限に、つ、と鳴りますので。目を閉じておりますと、音のほうが、よく分かります」
六晩。僕が継ぐたびに、この人は一晩ぶんずつ、近づいてきていた。
僕は、継いだばかりの結び目を見た。
輪を作って、くぐらせて。僕の手の癖で、この人の手の癖だった。
「では、伺います」
板の向こうで、爪が、もう一度だけ板を叩いた。
「そのペンを、ほどいてよろしいですか」
代償は、ひとつも言われなかった。




