↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
31/36

第31話 継いだ方は、どなたですか

夜ごとに、同じことをした。


日が暮れると、奥へ歩く。擦れた継ぎ目を見る。聞く。


「継いでいいですか」


『返答 はい』


つ、と。


それから、帳面を読む。


『欠損 一 補充要 問』の下の返答の欄は、埋まらなかった。かわりに、『未充当 割当より差引』の行が、夜ごとに一つずつ増えていった。


ときどき、返答の欄に『否』が一つ書かれて、横線で消された。そのたびに、問いはキルスの列の、次の首へ降りていった。いいえが置かれても、欠けた一人ぶんは埋まらない。こつりは、夜ごとに軽くなった。


指の腹に、たこができはじめていた。


「毎晩来て、飽きないの」


四晩目に、アリシアが言った。肘掛けの手は、また少し細くなっていた。


「二年、毎晩やってましたから」


「……鉄の牙の?」


「はい。皆さんが寝たあとに」


ガロンが、机の脇で咳払いをした。アリシアは、それ以上は聞かなかった。


受付には、そのあいだ、便が一つも着かなかった。ベルナール様は、着かない荷札を待って、椅子の上で起きていた。ミナの首の印は、片目が、また少しだけ開いていた。


そして、夜ごとに、ヨナさんが言った。


「あしおとが、ちかく、なりました」


一晩目は、壁の向こうの、ずっと奥。三晩目には、机の列の半ばあたり。五晩目には、アリシアが肘掛けの上で耳をそばだてた。


「……何も聞こえないわよ」


「僕にも、聞こえません」


「じゃあ、なんで分かるのよ」


「聞こえる人が、いるので」


アリシアは僕の首の後ろを見て、それから目を逸らした。


足音は、まっすぐには来なかった。止まって、戻って、また進む。


(目を、閉じているんだ)


奥の机の前で、僕が目を閉じたときと、同じ進み方だった。視えないまま、指先で糸に触れて、たどっている。


ほどけた二筋が、帳面の綴じ目から机の脚を伝い、板の継ぎ目へ潜っていった、あの道を。逆さに。


持ち主が、自分の手の癖を、さかのぼってくる。


     ◆


六日目の昼、搬入口の梁に、鳩がとまった。


キルスの教会の鳩だった。ここからは飛ばせないが、向こうからは来る。


セラが筒を外して、紙を広げた。広げたとたん、中から何かが藁の上に落ちた。


紐だった。麻の、細い紐がひと巻き。


「……あ」


ミナが、それを拾い上げた。


手紙は、相変わらず偉そうな字だった。


『解呪師、ならびにミナ殿。


 また鳩を借りた。頭の下げ方には、慣れてきた。


 近ごろ、パンが硬い。窯の火が弱いと、パン屋がこぼしている。よその街から来た荷馬車の者も、同じことを言っていた。


 酒場の主人のことを書く。


 あやつは今も、問われればはいとしか言わぬ。誰も問わぬので、空いた店で黙って座っている。


 昨日の夕刻、あやつが蔵の列まで来た。誰も何も問うておらぬのに、自分から口を開いた。


 「瓶を縛るやつがいねえ。割れる」


 それから、これを私に押しつけた。


 「あいつのだ」


 問えば、はいと言うのでな。私は、何も問わなかった。


 同封する。


 ヴァレン・ド・モルス』


ガロンが、行李の上で笑いかけて、やめた。


「割れる、だとよ。あの親父が、瓶の心配か」


「瓶の心配しか、したことのない人です」


ミナは、あっさり言った。


彼女は、紐を指に巻いていた。藁を巻いて、二回まわして、最後に一回ひねる。二年間、毎日、何十本も瓶の首を縛ってきた、あの店の紐だった。


「給金、二年ぶんで、これだけですね」


そう言って、彼女は笑った。


それから紐を握ったまま、しばらく黙っていた。


「あの人、聞かれてないのに、喋ったんですね。はい以外のことを」


「はい」


ミナは、紐の端を指でつまんだ。


「わたし、二年、あそこで一度も名前を呼ばれませんでした。おい、とか、そこの、とか」


紐の端が、指のあいだで揺れていた。


「あいつ、って。……あいつのだ、って言ったんですね」


名前ではなかった。それでも、おいでも、そこのでもなかった。


ミナは、手首の結び目には触れないようにして、紐の端を背負い袋の口へ回した。藁をひとつかみ巻いて、二回まわして、最後に一回ひねった。


ずんぐりした、少しもきれいではない結び目だった。


「割れませんように」


誰に言ったのかは、聞かなかった。


僕は、手紙の三行目をもう一度読んだ。パンが硬い。窯の火が弱い。夜ごとに軽くなっていくこつりの、その先にあるものが、そこに書いてあった。


藁の上で、誰かが、薄い麦の粥をすすっていた。


     ◆


その夜。


奥の机の前で、継ぎ目に指をかけたときだった。


「ルカさん」


ヨナさんの声が、ひどく近かった。


「あしおとが、とまりました。……すぐ、そこ、です」


ほどけた二筋が吸い込まれていった、あの板の継ぎ目の、すぐ向こうだった。


僕は、指を止めた。


それから、いつもの順番を、いつものとおりにやった。


「継いでいいですか」


『返答 はい』


つ、と。


継ぎ目が締まって、ペンがまっすぐに立った。


その音に答えるように、板の向こうで、小さな音がした。


爪の先で、板を一度だけ叩く音だった。


僕にも、聞こえた。


ガロンが身構えた。アリシアが、肘掛けを握りしめた。


「……そちらで、継いでおいでの方」


声がした。


僕の声ではなかった。かすれて、乾いていて、長いあいだ誰とも話していなかった人の声だった。言葉の運びだけが、ひどく丁寧だった。


「はい」


「継いだ方は、どなたですか」


「ルカといいます。解呪師です」


板の向こうが、しばらく黙った。


「わたしも、そうでした」


ガロンが、僕の顔を見た。僕は、小さく首を横に振った。今のは、僕の喉ではない。


「席を、立たれましたね」


「ええ。ほつれたぶんだけ、手が戻ってまいりましたので。自分の結び目を、ひとつ、弾いてみました」


あっさりした言い方だった。仕掛けが始まった日から、ずっと座っていた席のことを。


「あなたが立ったぶん、欠けたと書かれています。埋まらないぶんは、管区じゅうの割当から引かれています。パンが、硬くなっているそうです」


「そうでしょうね」


板の向こうの声は、驚かなかった。


「そう書くように、作りましたので」


アリシアが、肘掛けの上で息を止めた。


首の内側で、ヨナさんが小さく言った。


「このひとの、ゆびです。……あの、よる、かべの、むこうで、ルカさんと、おなじ、おとを、たてた、ゆびです」


最初の日に、あの椅子に座った人。自分に結んでいいですかと聞いて、自分ではいと答えた人。目を閉じて、壁の向こうへ行った人。


「目は、閉じたままですか」


「ええ。閉じたまま、あなたの結び目まで続く糸を、指でたどってまいりました」


声が、少しだけ笑ったように聞こえた。


「同じ手でした。糸越しに触れて、すぐに分かりました」


「どうして、ここへ」


「毎晩、同じ刻限に、つ、と鳴りますので。目を閉じておりますと、音のほうが、よく分かります」


六晩。僕が継ぐたびに、この人は一晩ぶんずつ、近づいてきていた。


僕は、継いだばかりの結び目を見た。


輪を作って、くぐらせて。僕の手の癖で、この人の手の癖だった。


「では、伺います」


板の向こうで、爪が、もう一度だけ板を叩いた。


「そのペンを、ほどいてよろしいですか」


代償は、ひとつも言われなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。