第30話 空いた席のぶんは、どこかが細ります
『器 一 離席』
ペンは、その四文字を書き終えても、寝なかった。
指の腹に、こつり、と響いた。次の行が、継ぎ目を通っていく。
『欠損 一 補充要 問』
その下に『返答』とだけ書いて、ペンは止まった。
待っている。
「……ちょっと。今の、何よ」
アリシアが、肘掛けから身を乗り出した。
「器が一つ、席を離れました。机は、それを欠けたと読みます」
「欠けたなら、埋めるんでしょ」
「埋めていいかを、聞きに行っています。答えが来るまでは、埋まりません」
「待たなくていいわよ。あたしが決める。埋めなさい」
ペンは、動かなかった。
「……ほら、また。決める席なんでしょ、ここ」
「決めるのは、誰に聞くかまでです。答えるのは、聞かれた人です」
アリシアは唇を噛んで、肘掛けに爪を立てた。座ったまま決めた行のぶんだけ、その指は前より細くなっていた。
補充の行から細い糸が一本、床を這って、搬入口のほうへ伸びていった。東へ。籍のない人が並んでいる、あの街の列へ。
ガロンが、首を掻いた。
「で、埋まらねえと、どうなる」
「積まれます」
僕は、次の行が継ぎ目を通るのを待った。
『東方 ラハ支所 割当』
こつり。
さっきより、軽かった。
次の行も。その次も。どの行も、ほんの少しずつ軽い。
「一人ぶんを、一か所から抜いていません。管区じゅうの割当から、薄く引いています」
帳面の端に、ペンが小さく書き足した。
『欠損 一 未充当 割当より差引』
「……要するに、どっかのパンが硬くなるってことか」
「はい」
ガロンは鼻を鳴らしかけて、やめた。
僕は、補充の行から出ている糸を見た。この机の前で、一度これを解いて、端を持ったことがある。持てば、欠けた一人ぶんは僕を通り続けて、どこからも引かれない。
「お前が、また持つのか」
ガロンが、僕の目の先を追って言った。糸は見えていないはずなのに、勘のいい人だ。
「持てば、僕はこの机の前から動けなくなります。受付ではミナさんが端を持っています。ここで僕が持てば、糸に触れられる者が、二人とも止まります」
「動けなきゃ、どうなる」
「壁の向こうへ、誰も行けません」
それに、と思った。持って埋めるのは、席を立った人のぶんを、僕が座って埋めるのと、あまり変わらない。
「お前のせいか。この、硬くなるやつは」
「半分は」
僕は、正直に言った。
「ちぎれた二筋を解いたのは、僕です。持ち主の手に何が起きるかは読めないと、先に言いました。読めないまま、解きました」
アリシアが、肘掛けを指で叩いた。
「じゃあ、残りの半分は」
「席を立った方です」
壁のほうを見た。板の継ぎ目は、黙っていた。
机の列の途中で、紙のめくれる音が止まった。第六号さんが、頁に指をかけたまま、こちらを見ていた。
「離席の行は、最初の頁のあとには、一度もございませんでした」
「はい」
「めくって、よろしいのでしょうか」
「あなたの欄です」
第六号さんは少し考えて、いつもより、ゆっくりとめくった。
首の内側で、ヨナさんが言った。
「あしおと、まだ、します。……ゆっくり、です。とまって、また、あるいて」
「どちらへ」
「わかりません。いったり、きたり、して、います。……なにかを、さがして、いる、ような」
僕は、壁に手のひらを当てた。
板は冷たかった。何も響いてこない。ヨナさんにしか聞こえない音だった。
「壁なら、ぶち抜きゃいい」
ガロンが、拳で板を軽く叩いた。
「やめてください」
思ったより、強い声が出た。
「配給の行から出た糸は、みんな一度この板を抜けて、向こうの部屋の人たちを通ってから、外へ出ていきます。板を割ったら、通り道が切れます」
ガロンは、拳を下ろした。
「……壁まで、人質かよ」
「最初から、そう作ってあるんだと思います」
ペンが、また一行を書いた。こつり。軽い。
◆
受付に戻ったのは、天窓が白みはじめたころだった。
ベルナール様は、椅子の上で目を開けていた。机に、荷札は一枚もない。
藁の上で、ミナが手首の結び目を押さえていた。
「……ルカさん。夜のあいだに、問いが一つ、通りました」
「補充の問いですね」
「はい。キルスの列へ。座っていただけますか、って。いつもの、ルカさんの声で」
撚り目に耳を澄ますように、ミナは目を閉じた。
「わたしの声も、一緒に降りました。その問いは待ってくれます、って」
「答えは」
「まだ、ひとつも。……待っている音だけです」
僕は、離席のことを話した。壁の向こうの足音のことも。割当から薄く引かれていく、一人ぶんのことも。
ミナは、黙って聞いていた。
聞き終えて、ぽつりと言った。
「いいえが置けたぶんだけ、どこかのパンが硬くなるんですね」
「はい」
「知ってました。先に、言われてたので」
彼女は、少し笑った。笑いながら、手首を握る指に力が入っていた。
「壁の向こうの人、探しに行かないんですか」
「行けるところまでは、行きます」
僕は、自分の右の指を見た。腹のところに、まだこつりの名残がある。
「継ぎ目は、一日しか保ちません。日が暮れたら、奥へ戻って継ぎ直します。一晩でも抜かせば、ペンが倒れて、管区じゅうの配給が止まります」
「……だから」
「はい。本院から一晩で戻れないところへは、もう行けません」
ベルナール様が、椅子の上で、ゆっくり首を回した。
「……こぞう」
「はい」
「わたしと、おなじ、だな」
枯れた指が、自分の首に結ばれた一本を、つまむような形をした。
「ここから、うごけん」
「はい。同じです」
言ってから、少しだけ違うと思った。
ベルナール様は、動けない。けれど、呼べばいつでも離れられる。僕は、どこへでも動ける。けれど、離れたら、どこかの窯の火が落ちる。
それは、言わなかった。
ドグとセラが刈ってきた麦で、粥を炊いた。十九人と、迎えの便で来た四人に配って、最後の一椀をミナに渡した。ミナは結び目から左手を離さずに、右手だけで椀を持った。
「少し、硬いですね。麦が」
「刈り入れが、遅かったので」
言ってから、それだけではないのかもしれないと思った。
昼のあいだ、僕は壁に沿って歩いた。
板は、どこまでも続いていた。扉も、窓も、覗く隙間もない。帳面から出た糸だけが、ところどころで板の継ぎ目に潜っていく。
日が中天を過ぎたところで、足を止めた。ここから引き返して、ちょうど日暮れに奥の机に着く。
それが、今の僕の、行ける果てだった。
板に、手のひらを当てた。
「ヨナさん。足音は」
「とおい、です。……かべの、ずっと、おくの、ほう。いったり、きたり、した、ままです」
向こうはまだ、何かを探しているだけだった。僕のほうへは、来ていない。
日が暮れて、僕は奥へ戻った。
ペンは、倒れかけていた。継ぎ目が擦れて、毛羽が浮いている。一日で、ここまで擦れるのだ。
アリシアが、椅子の上から黙ってそれを見ていた。
「継いでいいですか」
ペンが、身を起こした。
『返答 はい』
輪を作って、くぐらせて。
つ、と。
ペンが、まっすぐに立った。
その瞬間、首の内側で、ヨナさんが息を呑んだ。
「ルカさん。……あしおとが、とまりました」
「はい」
「それから、むきを、かえました」
壁の板は、黙っていた。
「こっちへ、きます。……ルカさんの、つ、の、おとの、ほうへ」




