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第29話 ほつれは、継ぐものです

受付の椅子で、ベルナール様が首を垂れて眠っていた。


首に結ばれた一本は、何も受け入れないまま、軽く張っている。


「奥へ行ってきます。ペンのところへ」


藁の上で、ミナが顔を上げた。


「解きに、ですか」


「いいえ。継ぎに、です」


ミナが、首を傾げた。


「先に、ひとつ言っておきます。うまくいけば、僕は毎晩、あそこへ通うことになります。本院から一晩で戻れないところへは行けなくなります」


ミナは、手首の結び目を撫でた。


「わたしは、ここで持っています。ルカさんは、あっちを持ってください」


「はい」


「行っていいですか、って、聞かないんですか」


「……行っていいですか」


「はい」


     ◆


机のあいだを、ガロンと歩いた。


止まったままのペンと、さらさらと書き続けるペンが、両側に並んでいる。書き続けているほうの字が、奥へ行くほど薄かった。


最奥の椅子の上で、アリシアが身を乗り出していた。指先で、帳面の端を押さえている。


「さっきから、これよ」


羽根ペンが、帳面の上に寝ていた。


起き上がりかけて、ぐらりと傾いて、また倒れる。紙の上に、書きかけの行が残っていた。


『南方 ドルヴァ支所 割当』


そこで、切れていた。


僕は、軸を見た。


八十年書いてきた糸が、そこに巻いてある。三筋を撚った一本だったのだろう。そのうち二筋が、軸の根元でちぎれて、毛羽立った先を垂らしていた。残った一筋だけが、ペンの重さを支えきれずに、たわんでいる。


帳面の端に、新しい行があった。


『交替要 解呪師 問』


前と同じ問いだった。


「答えは、変わりません」


ペンが、這うように傾いた。


『返答 否』


ガロンが、軸を覗き込んだ。彼に見えているのは、倒れたペンだけだ。


「傾いてんな。……替えが要るってやつか」


「机は、そう思ってます」


根元から毛羽立った、ちぎれ方に、見覚えがあった。


キルスの酒場で、三か月前に半分ちぎれていたと僕が言った、あの《鉄壁》。


「ガロンさん。あなたの鉄壁、半分ちぎれてたって、言いましたよね。酒場で」


「……言ったな。人前で」


「あれ、継いでたんです。皆さんが寝たあとに、毎晩。二年間」


ガロンが、口を開けて、閉じた。


「ほつれは、替えるものじゃありません。継ぐものです」


机は、同じ手の誰かが座らなければ書けないと思っている。


座らなくても、継げる。二年間、毎晩、僕はそうしてきた。荷物を背負って、飯を炊いて、三人が眠ったあとに。


ただ、継げば、机は続く。


今夜ペンが倒れたままなら、明日、管区じゅうの窯の火が落ちる。継げば、壁の向こうの人たちは、座ったままだ。止めたいのは机で、落としたくないのは窯の火だった。今夜の僕の手には、その二つを分ける方法がない。


だから、継ぐ。僕の継ぎ方で。


「第七号さん」


僕は、倒れたペンに言った。


「代償を、言います」


アリシアが、肘掛けから身を起こした。


「一つ目。ちぎれた先は、継ぐ前に解きます。解いたぶんは、持ち主のほうへ戻ります。その人の手に、書いてきた癖が、ほつれたぶんだけ戻ります。持ち主は、最初の日にこの椅子を立った方です。今どこにいるのか、戻った癖でその方に何が起きるのかは、僕には読めません」


「二つ目。継げば、あなたは書き続けます。補充の問いも、送致も、配給も。壁の向こうの人たちは、座ったままです。今夜は、何も終わりません」


「三つ目。僕の継ぎ目は、一日しか保ちません。書くたびに擦れるので。僕は毎晩、ここへ継ぎに来ます」


「四つ目。書かれる行は、全部、継ぎ目を通ります。僕の指に響きます。下ろせません」


「最後に。僕が来なかった夜が明けたら、あなたは書けなくなります。そのとき、配給も止まります。止めるかどうかを決めるのは、交替の誰かではなく、僕になります」


ガロンが、低く唸った。


「聞けない人たちがいます。壁の向こうの人たちと、このほつれの持ち主です。聞かずに決めるのは、僕の都合です」


僕は、ペンに向き直った。


「継いでいいですか」


ペンが、震えながら身を起こした。


自分の行ではない欄へ、ゆっくり傾いていく。


『返答 はい』


聞いて、待って、答えが来た。教えたのは、僕だった。


垂れた毛羽の先に、指をかけた。


ぱち。


一筋目の先が、軸から外れた。


ぱち。


二筋目。


ほどけた先は、砂にならなかった。


帳面の上を滑って、頁の綴じ目に潜り、机の脚を伝って床へ落ちた。床を這っていく。机の列の奥でも、搬入口でもない。横へ。壁のほうへ。


板の継ぎ目に、するりと吸い込まれた。


あの向こうに、窓のない部屋がある。


砂にならないのは、根元がまだ誰かに結ばれているからだ。この手の持ち主は、壁の向こうで、まだ生きている。


第五号さんの声を、思い出した。いちばん最初の日に、一度だけ受け入れた。荷札に、『解呪師 一名』。


最初の頁の二行目には、『器 一 解呪師 自ら』とあった。


あの人は、この椅子を立って、目を閉じて、受付で受け入れられたのだろう。最初の器として。それきり、仕掛けが始まった日から、あの壁の向こうに座っている。


僕は、残った一筋に、ちぎれた二筋の根元側を寄せた。


輪を作って、くぐらせて。


つ、と。


もう一筋。


つ、と。


ペンが、立った。


ぐらつかなかった。書きかけの行の続きを、まっすぐに書いた。


『南方 ドルヴァ支所 割当 増 一』


一行ぶんの重みが、継ぎ目を通って、指の腹に、こつりと響いた。


次の行。また、こつり。


中には、問いの行もあった。『欠損 補充要 問』。それが継ぎ目を通るとき、指の腹の奥で、僕の声が小さく鳴った。座っていただけますか、と。


下ろせないと言ったのは、僕だ。机の列のずっと手前まで、薄かった字が、順に濃くなっていくのが見えた。


ペンは、そこで一度、迷うように止まった。


それから『交替要 解呪師 問』の上に、横線を一本引いた。


脇に、書き足した。


『交替 不要 継ぎ手 あり』


ガロンが、吹き出した。


「座らねえで、済ませやがった」


それから、太い指で自分の首を掻いた。


「二年、俺の首でそれやってたのか。……礼くらい、言わせろよ」


「今、言ってもらいました」


アリシアが、帳面と僕の指を、何度も見比べた。


「……ちょっと。じゃあ、あたしが座ってるこの席は、何なのよ」


「決める席です。書く手を毎晩継ぐのが、僕だというだけで」


「一番上じゃないってこと?」


「上も下も、ありません。毎晩、来るだけです」


アリシアは何か言いかけて、肘掛けを握り直した。ペンは、彼女の顔ではなく、僕の継ぎ目の拍子で書いていた。


指の腹が、こつり、こつりと鳴り続けていた。


首の内側で、ヨナさんが息を呑んだ。


「ルカさん。かべの、むこうで」


「はい」


「ルカさんの、ゆびと、おなじ、おとが、しました」


僕は、壁を見た。


糸の吸い込まれた板の継ぎ目は、黙っていた。


「それから、あしおとが、ひとつ。かべの、むこうを、あるいて、います」


ペンが、ひとりでに傾いた。


誰も、何も言っていない。


『器 一 離席』


最初の頁の四行目にあった『離席』と、同じ二文字だった。


ほつれたぶんの癖が、持ち主の手に戻った。その手が、何かを弾いたのだろう。


僕と同じ指の音を立てた誰かが、壁の向こうで、最初の日から座っていた席を離れたのだと思った。

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