第28話 受付の、空いた椅子
夜が白むころ、搬入口に黒塗りの箱が引き出された。
窓のない箱。御者台の横に、閉じた二つの目。御者が、馬に水を飲ませていた。
掛け金に、糸が一本巻いてあった。ゆうべ受付の脇を這っていった、あの送致の糸だ。
僕は掛け金の前に膝をついて、糸に指を当てた。
《送致 一 東方 キルス支所 元代理 受付の席へ》
窓のない部屋へ、ではなかった。
振り返ると、受付の机があった。第五号さんが立ったあの朝から、椅子には誰も座っていない。
数える。輪を開く。控に写す。ここに受け入れる者がいなければ、着いた便は、よその受付へ回される。よその椅子には、受け入れる人が座っている。
机は、ここの椅子に座る人を探していたのだ。
「ルカさん」
藁の上から、ミナが言った。手首の結び目に、左手を置いたまま。
「ベルナールさまへの問いだけ、ほかと違いました。窓のない部屋、とは言っていませんでした。……どこへ」
「そこです」
僕は、空いた椅子を指した。
「受付に座っていただけますか。そう聞かれたんでしょう。長いあいだ、椅子の上で上の言葉に答えてきた方です。机から見れば、いちばん座り慣れた人なんでしょう」
ミナが、息を止めた。
僕は、掛け金の糸を見下ろした。
解ける。ぱちの一回で、この箱は空のまま出て、空のまま戻る。
「解けば、ベルナール様のはいは、なかったことになります。この椅子は、空いたままです」
言いながら、親指と中指が輪を作りかけていた。
ミナが、小さく聞いた。
「……止めますか」
「あの方が、自分の口で机に答えたのは、これが二度目です」
僕は、指をほどいた。
「一度目は、異常なしという嘘でした。僕が頼んで、言ってもらった嘘です」
二度目まで、僕が取り上げるわけにはいかない。
箱が軋んで、動き出した。
首の内側で、ヨナさんが言った。
「くるまの、おとが、ひがしへ、とおく、なります」
◆
昼過ぎ、搬入口の梁に鳩がとまった。
ヴァレン様の手紙を運んできたのと同じ、教会の鳩だった。セラが筒を外して、僕に渡した。
細くて、まっすぐな字だった。
『ルカさま
父が、はいと答えました。わたしの前で、自分の口で。
受付という席に座るのだと、父は申します。空いていれば、便はよその受付へ回されて、そこで受け入れられる。問いの中で、ルカさまの声がそう申したそうです。空いた椅子は、いつか誰かが、はいと言って埋める。粥のかわりに座る者が、きっと出る。それなら、いいえと言うつもりの者が座るほうがいい、と。
父がいいえと言うのを、わたしは一度も聞いたことがありません。父は、最初のいいえを、遠いところで言うつもりなのです。
止めました。これはわたしの答えだと、父は申しました。
母は、何も申しません。自分もいいえと答えた人なので、父のはいを取り上げないのだと思います。
解いてくださいとは、書きません。書けば、ルカさまは解いてくださるでしょうから。
ひとつだけ、伺います。その席に座ったら、父は、もう立てないのでしょうか。
アデル』
返事は、出せなかった。鳩は、本院へ帰る鳥なのだろう。本院から出る鳥は、机の行しか運ばない。キルスからここへは飛んでも、ここからキルスへは飛ばない。
手紙を膝に置いたまま、しばらく動けなかった。
「ルカさん」
ミナが言った。
「橋の上で、三十二本通したとき。奥で、端を持ったとき。わたし、止めませんでした」
「……はい」
「止めたかったです。どっちも」
彼女は、手首の結び目を撫でた。
「わたしが端を持つって言ったときも、ルカさんは、止めませんでしたね」
言い返す言葉が、なかった。
自分で選んだ重さを、横から下ろしていいのなら、僕はとっくに、この人に下ろされている。
器にさせたくない。それは、僕の都合だ。あの方の答えではない。
それでも、アデルの問いには答えなければならなかった。
もう、立てないのか。
第五号さんの糸は、ぱちの一回でほどけた。あの人が床から起き上がれなかったのは、結び目のせいではない。八十年ぶんの受入が、ほどけたとたんに全部あの人へ戻ったからだ。
そして、あの椅子に人を結ぶのは机だ。机は、僕と同じ手で結ぶ。
僕の結び目なら、僕の指の一回でほどける。
「ミナさん」
「はい」
「一人も受け入れなければ、ほどいたとき、戻ってくるものがありません」
結び目の文は、《この者、受入のため、動くべからず》。数えているのは、受け入れた荷だけだ。決めたことの重さを積む奥の椅子とは、文が違う。
ミナが、目を見開いた。
「いいえと言い続けるかぎり、あの椅子は、いつでも離れられる席です」
座らされたら終わりの席だと、思い込んでいたのは僕のほうだった。
◆
そのあいだ、ドグとセラが、本院の手前の刈る者のいない麦畑から、麦を刈ってきた。ミナは手首を押さえたまま、藁の上で問いを聞き続けていた。
迎えの便が戻ってきたのは、二十日あまりあとの夕方だった。
藁の上に、ベルナール様がいた。壁にもたれて、膝を抱えている。ほかに、四人。粥の糸に言わされたはいが、先に上ってきてしまった人たちだ。ほかの者は、受付が空いていたあいだに、途中の継所でよその便へ積み替えられたと、御者が言った。
ガロンとドグが両脇から抱えて、ベルナール様を受付の椅子の前まで運んだ。
僕は、椅子の手前に膝をついた。座る前に、言うことがあった。
「ベルナール様。アデルさんから、手紙をいただきました」
枯れた指が、ぴくりと動いた。
「座れば、机があなたをこの椅子に結びます。受け入れのため、動くべからず、と」
「……うむ」
「結ぶのは机ですが、手は僕と同じです。僕なら、ぱちの一回でほどけます」
「ほどいたとき、受け入れた人のぶんは、全部あなたに戻ります。第五号さんは、それで起き上がれなくなりました。一人も受け入れなければ、何も戻りません。離れたい日に、離れられます」
ベルナール様の目が、僕を見た。
「そのかわり、座っているあいだ、着いた荷の全部に、あなたがいいえと言わなければなりません。一人でも言いそびれたら、その人は器になります。キルスへは、離れる日まで帰れません」
「それでも、座りますか」
長いあいだ、ベルナール様は僕を見ていた。考えている人の、遅さだった。
「すわる」
「離れたくなったら、呼んでください」
「……よぶ。こぞう、と」
ガロンが、そっと椅子に下ろした。
机の脚から糸が一本伸びて、ベルナール様の首に結ばれた。
輪を作って、くぐらせて。僕の結び方だった。
御者が、荷札を四枚、受付の机に置いた。名前ではなく、番号が書いてある。
ベルナール様の喉が、ひゅう、と鳴った。
「この者らは、粥で、はいと言わされたのだな」
「はい」
ベルナール様は、四人のほうへ顔を向けた。
「ここに、すわりたいか」
四人は顔を見合わせて、それから一人ずつ、首を横に振った。いちばん若い女が、小さく言った。
「……いいえ」
ベルナール様は、荷札へ向き直った。
「受け入れ、ません」
かすれた声だった。それでも、口のほうが先だった。
最初のいいえを、遠いところで言うつもりなのです。
ここが、その遠いところだった。
藁の上で、ミナが手首を握りしめて、目を閉じていた。
そのとき、机の列のほうから、紙のこすれる音が近づいてきた。
第六号さんだった。頁をめくる手を止めて、ここまで歩いてきたらしい。
「受付が埋まりましたので、よその受付へ回していた行が、奥で一度に、こちらへ書き直されました」
「はい」
「ペンが、二度、倒れました」
第六号さんは、自分の手首を見ていた。
「起き上がるのが、遅うございます。配給の行の字が、途中でかすれて、切れております」
羽根ペンの軸に巻き戻っていった、あの毛羽立った糸を思い出した。替えは、見つからないままだった。
「第六号さん。あのペンが、起き上がらなくなったら」
「書かれぬ行は、便になりません。配給も、同じでございます」
第六号さんは、めくるための手を、膝の前で握った。
「明日の窯の火も、井戸の水も、管区のどこにも、降りません」




