第27話 聞かずに、ほどきます
上ってくるはいには、どれも同じ糸が添っていた。
一本ずつ、撚り目を抜けて、奥の机へ上っていく。そのたびに、ミナの唇がかすかに動いた。
「あの店、粥なんて、一度も出したことありません」
ミナが言った。
「届け出ると、銀貨三枚でしたよね。村の立て札に」
「はい」
「……出すようになったんですね。一椀で、銀貨三枚になるなら」
行李に腰かけたガロンが、低く言った。
「あの親父なら、やる。《寡黙》を売ってたのも、あの店だ」
井戸端のハンナさんの首にあった、安物の一本を思い出した。
僕は、添っている糸の向こうをたどった。撚り目から、問いの束を逆さにさかのぼって、搬入口の外へ。その先は、ここからは見えない。
それでも、張り方で分かった。問いが降りた人の口からは、答える前から、同じ糸が束を伝って上ってきていた。どの一本も、端を同じ一か所へ繋いでいる。
貸した人の首へ。テルムのカッセルと同じだ。貸した糸の根元は、いつも貸し手の首に残っている。
「ほどけますか」
「ほどけます。端は、ここまで上ってきていますから」
「じゃあ、わたしが聞きます。この声で」
ミナが、撚り目に左手を添えかけた。
「待ってください」
ミナの手が、止まった。
「聞けば、はいが返ってきます」
「……あ」
「あの糸は、問われたときにだけ働きます。僕が『ほどいていいですか』と聞いても、返ってくるのは、あの店のはいです」
ガロンが、うなった。
「聞くほど、向こうの思うつぼってことか」
「はい」
キルスの井戸端から、聞けるときは聞いてきた。聞かなかったときは、それが僕の都合だと分かっていた。聞いて、待って、それから弾く。僕のいちばん大事な手順だった。
あの店は、その手順ごと商いにしていた。問いさえ来れば、答えは決まっている。問われることを前提にした糸だ。
なら、問わなければいい。
「聞かずにやります。これは、僕の都合です」
僕は、受付にいる全員に聞こえるように言った。
「その前に、代償を言います」
「一つ目。この糸は、貸した人の首へ、全部戻ります。酒場の主人は、問われれば、はいとしか言えなくなります。何十本ぶんも」
「二つ目。もう上ってきてしまったはいは、そのままです。その人たちのところへは、便が出ます。止まりません」
「三つ目。あの店の粥は、明日から出ません。粥と引き換えに結ばれていた糸なので。並んでいた人は、一椀ぶん、食べるものを失います」
ミナが、唇を結んだ。
「伝えていいですか。聞くんじゃなくて」
「お願いします」
ミナは撚り目に手を添えて、目を閉じた。
「ミナです。今から、粥の糸を、ほどきます。聞きません。聞いたら、はいになってしまうので」
「明日から、あの店の粥は出ません。領主館の蔵へ、行ってください」
僕は、撚り目を上ってくる細い糸を、親指と中指でまとめてつまんだ。
ぱち。
添っていた糸が、撚り目のところで、いっせいに外れた。
砂にはならなかった。端が外れただけで、根元は貸した人の首に結ばれたままだ。束になったまま、問いの糸を伝って、東へするすると下っていく。
来た道を逆向きに。貸した人の首へ。
「返す先は、僕じゃありません。貸した人です」
ここからでは届かない距離へ、一応、言っておいた。
首の内側で、ヨナさんが言った。
「おなじ、はやさの、はいが、なくなりました」
◆
夜を七つ越えた。
ミナの首の印は、濃くなっていた。閉じた二つの目のうち、片方が、細く開きかけている。言ったとおりになった。それでも、ミナに糸が視えるようになったわけではなかった。
ときどき、彼女は目を閉じて、何かをやり過ごすように手首を押さえていた。
僕は一度、奥の机まで歩いた。
帳面は、見たことのない並びで埋まっていた。
『返答 ――』
『返答 ――』
答えのない行が、いくつも待っていた。その合間に、同じ二行が何度も挟まっている。
『東方 キルス支所 無籍 減 一 モルス家人』
『問 取下げ 空にあらず』
少し離れたところに、ひと固まりの行があった。
『東方 キルス支所 着 元器 十二 元受入 一 問』
その下に、『返答 否』が十三、並んでいた。
さらに一行。『元代理 一 問』。その下の返答の欄だけが、まだ空いていた。
元受入。第五号さんだ。
「受け入れません、と言ったんでしょうね」
「何がおかしいのよ」
アリシアが、椅子の上から僕を睨んだ。肘掛けの手が、前より細く見えた。
「全然、埋まらないじゃない」
「はい。埋まりません」
受付へ戻ると、搬入口の梁に、鳩が一羽とまっていた。
足に筒が結んである。セラが外して、中の紙を広げた。
「あんたたち宛てよ。字が、やたらと偉そう」
受け取って、読んだ。
『解呪師、ならびにミナ殿。
教会の鳩を借りた。頭を下げてな。
あの晩から、列の者が口々に言う。酒場の娘の声がした、待ってよいと言った、モルス家に札を頼めと言った、と。
勝手に人の家名を触れ回るな。
三百十八枚、書いた。腕が上がらぬ。
継所の荷車は、継所ごとに馬を替えて走り、二日前の夕刻に着いた。その晩、器だった者たちにも問いが来たそうだ。リゼ殿は、アデル様の手を握ったまま、いいえと答えた。第五号と名乗る男は、受け入れません、と言ったきり、笑っていた。
酒場の主人のことを書く。あやつは列の者に粥を配り、引き換えに安物を結び、問われたらはいと言わせて、届け出の銀貨を教会から受け取っていた。
ある朝から、あやつは何を問われても、はいとしか言わぬ。
教会の者が、銀貨を返すかと問うた。はい。
列の者が、蔵の麦を出すかと問うた。はい。
客が、つけでよいかと問うた。はい。
店は、もう半分空だ。
私は、あやつに何も問わぬことにした。問えば、はいと言うのでな。
ベルナール様は、何も言われぬ。夜ごと、首に手を当てておられる。
ヴァレン・ド・モルス』
ガロンが、手紙を覗き込んで、腹を抱えた。
「つけでいいか、はい、か。あの親父が」
ドグとセラも、肩を揺らしていた。十九人のあいだからも、押し殺した笑いが漏れた。
ミナだけは、笑わなかった。
手紙の最後の行を、指でなぞっていた。
「あの人に、何も聞かないでいてくれる人がいて、よかったです」
僕は、何も言えなかった。二年ぶん、はいしか言わせてもらえなかった人の言葉だった。
三百十八枚、と書いてあった。三百十八人が、自分で頼んだ一本を首に下げて、蔵の前に並び直しているのだろう。あの問いは、その人たちにはもう用がない。
キルスの『いいえ』に、ようやく置き場所ができはじめていた。
手紙を畳んで、懐にしまった。ヴァレン様の字は、最初の行より最後の行のほうが、ずっと乱れていた。
その夜。
受付の藁の上で、ミナが、ふいに目を開けた。
「ルカさん」
首の内側で、ヨナさんも言った。
「はいが、ひとつ、きました。……ゆっくりの、はいです。ちゃんと、かんがえた、はやさです」
撚り目を、一つだけ、はいが上ってきた。
添っている糸は、なかった。誰にも言わされていない、その人の口から出たはいだった。
指を当てて、読んだ。
『返答 はい 東方 キルス支所 元代理』
ミナが、手首を握りしめた。
「……ベルナールさまの、声です」
奥の机のほうで、ペンの走る音がした。
ほどなく、送致の糸が一本、受付の脇の床を這って、搬入口を抜けていった。
東へ。
長いあいだ座らされていた、あの椅子のある街へ。
朝には、迎えの便が出る。




