第26話 いいえの置き場所
ペンは、休まなかった。
『返答 はい』
『送致 一 東方 キルス支所 次便』
『返答 はい』
『送致 一 東方 キルス支所 次便』
二行ずつ、同じ並びが帳面を下っていく。送致の行が書かれるたび、机の脚から細い糸が一本、床を這って搬入口のほうへ伸びていった。
「ほら」
アリシアが、肘掛けの上で顎を上げた。
「ちゃんと聞いて、ちゃんと待ってるじゃない。それで、はいなのよ」
僕は答えずに、補充の行から東へ降りていく糸に指を触れた。
文が、流れ込んできた。
《代償を言います。窓のない部屋に、座っていただきます。目は閉じます。名は、預かります。座っているあいだ、飢えることはありません》
《座っていただけますか》
読めた、というより、聞こえた。
僕の声だった。僕がいつも誰かの前で使っている順番と、言い回しだった。
指を離した。
「……僕の言い方です」
「でしょうね。あんたに習ったんだもの」
アリシアは、鼻で笑った。
「先に言って、聞いて、待つ。あんたのやり方で、はいって言ってるの。何が違うのよ」
ガロンが、僕の横で何か言いかけて、やめた。
違う、と言いたかった。どこが違うのかを、すぐには言えなかった。
「ルカさん」
首の内側で、ヨナさんが言った。
「はいの、おとが、みんな、おなじ、はやさ、です。かんがえる、あいだが、ありません」
「……はい」
「それと。うけつけの、ほうからも、ルカさんの、こえが、します。ルカさんは、ここに、いるのに」
僕は走った。ガロンの足音が、後ろからついてきた。
◆
受付の藁の上で、十九人が首を押さえていた。
搬入口を抜けて東へ這っていく糸の束から、細い枝が何本も逆向きに戻ってきて、一人ずつ、首の中へ降りている。
キルスの、籍のない者を探して。ここにも、十九人いる。
「あんたの声だ」
広場の男が、僕を見上げていた。
「首ん中で、あんたが、座れって聞いてる」
それから、男は僕の口元を見た。
「……なのに、あんたの口は動いてねえ」
答えた者は、まだいなかった。聞こえてくる声と目の前の顔が合わないので、誰も口を開けずにいた。
仕立て屋の少年が、唇を舐めた。腹が、小さく鳴った。
ミナは、手首の結び目に左手を置いたまま、十九人を見ていた。
「ご主人様も、毎晩、聞きました」
ぽつりと言った。
「『明日も働け、いいな』って。わたし、毎晩、はいって言いました。ちゃんと聞かれてたんです。二年間、一晩も欠かさずに」
「……」
「聞かれても、ほかに言える言葉がなかったら。それは、聞かれてないのと同じです」
アリシアに、言い返せなかったことだった。
先に言う。聞く。待つ。全部そろっていても、答える側に『いいえ』の置き場所がなければ、問いは命令と変わらない。
ミナが井戸端で選んだ『はい』は、断っても次の朝が来るはずの『はい』だった。器の『はい』は、目を閉じて、名を預けて、その先の答えを全部取り上げる。
(僕の手順は、空腹の前では、ただの決まり文句だ)
なら、先に腹のほうを片づければいい。
僕は十九人に向き直った。
「その問いは、待ちます」
首の中の問いと、同じ声で言った。
「待つように、僕が教えました。答えがなければ、いつまでも待ちます。今すぐ答えろとは、どこにも書いてありません」
十九人が、顔を見合わせた。
「急かしていたのは、問いじゃありません。お腹のほうです」
「ただ、先に言っておきます。待っているあいだ、欠けたぶんは積まれて、どこかの配給が細ります。前に言った代償です。どこになるかは、机が決めます」
広場の男が、首から手を下ろした。
「なら、先に食う」
ガロンが、受付の脇に下ろしたままの行李を開けた。
「聖女さまの荷だ。干し肉と、麦と、焼き菓子」
「いいんですか」
「叱られんのは俺だ」
ドグが行李の底から小鍋を出した。僕は搬入口の外で火を起こして、麦と干し肉を煮た。荷物持ちと飯炊きだけは、二年間、誰にも負けなかった。
椀が、十九回、手から手へ渡った。
仕立て屋の少年が、最後の一口を飲み込んでから、言った。
「……いいえ」
首の中へ降りていた枝が、一本、すっと引いていった。
まだ考える、と言う人がいた。黙って椀を舐めている人もいた。急かす声は、もうどこからもしなかった。
◆
「キルスは、待っていいことを知りません」
鍋を下ろして、僕はミナに言った。
「今も、聞かれた端から答えています。僕の声で聞かれて、僕の手順で待たれて」
「行きますか」
「間に合いません。便のほうが、ずっと速い。それに、僕の声ではだめです」
問いと同じ声で、答えなくていいと言われても、向こうはどちらの僕を信じればいいのか分からない。
「器は、空でないと通りません。首に、自分で選んだ糸が一本でもあれば、あの問いは、その人に用がなくなります」
ミナは、自分の手首を見た。
「……わたしの声なら」
僕は、床を見た。
ミナの手首から奥の机へ伸びている端と、搬入口へ這っていく問いの束が、受付の前で、指一本ぶんの距離で並んでいる。
「撚り合わせれば、君の声が、問いと一緒に降ります。列の首の、全部へ」
「わたしが、瓶の結び方で」
「撚りは、一本ずつ見ながら絡めないとできません。視えない手では、無理です」
僕は息を吸った。
「代償を、言います」
「一つ目。キルスへの問いも答えも、全部、君の手首を通ります。はいの一つ一つを、君が聞くことになります。下ろせません」
「はい」
「二つ目。君の声は、列にいる全員に届きます。酒場の娘の声だと、分かる人には分かります。酒場のご主人の耳にも、いずれ入ります」
「……はい」
「三つ目。撚るのは僕の手です。机は、いつでもほどけます。ほどかれたら、君の声はそこで途切れて、問いだけが降ります」
「四つ目。通るぶん、君の首の印が濃くなります。片目が、開きはじめます」
ミナは、首すじに一度だけ触れた。
「それと、君が何を言っても、はいと言う人は言います。止まりません」
「知ってます。わたしが言いたいのは、止めてください、じゃないので」
「……撚っていいですか」
「はい」
張ったままの端と問いの束を、指でつまんだ。ひと撚りずつ絡めて、最後に結び目で留めた。
つ、と。
ミナの膝が、一度沈んだ。唇が震えて、それから、ゆっくり閉じた。
彼女は目を閉じて、息を吸った。
「ミナです」
「キルスの、《鉄の牙》がよく飲んでいた酒場にいました。二年、はいしか言えませんでした」
行李の脇で、ガロンが顔を伏せた。
「その問いは、待ってくれます。すぐに答えなくていいです」
「いいえと言うなら、そのまま蔵の列にいてください。それから、モルス家の文官さまに、家人の札を頼んでください。わたしも、モルス家の札で街道を歩きました」
ミナは、少しだけ笑った。
「一本だけなら、持てます」
首の内側で、ヨナさんが言った。
「はいの、おとが、へりました。……まって、いる、おとが、ふえて、います」
息を吐きかけた、そのときだった。
「でも、ひとところ、だけ。まえと、おなじ、はやさです」
撚り目を、はいが一つ、上ってきた。
僕は指を当てて、それを読んだ。
『はい』の下に、もう一本、細い糸が添っていた。答えた人の首から出たものではない。外から、その人の口に結ばれている。首には、何も結ばれていなかった。器の問いが用があるのは首のほうだ。この人たちは空のまま、口だけを貸していた。
《粥一椀につき、問われれば、はいと答えよ 貸主 キルス酒場》
「……キルスの、酒場」
声に出して読むと、ミナが目を開けた。
「わたしが、いた店です」
次のはいが、上ってきた。同じ糸が添っていた。その次も。
追い詰められて、答えるしかないのではなかった。
答えさせられていた。




