第25話 答えを、待ってください
指先が、閉じていく。
ガロンの両手に押さえられて、手首は動かない。それでも、親指と中指だけが、少しずつ近づいていた。
「おい。止まらねえぞ、これ」
「止まりません。指だけなので」
僕の口は、まだ僕のものだった。今度は、手から習っている。
「ルカさん」
ミナが、藁の上から言った。自分の口で。
「その指、どこを向いてますか」
僕は、指の先を見た。
どこも、向いていなかった。
ただ、弾く形を習っている。習い終えたら、指の先に来た結び目が、聞かれないままほどける。ミナの端も、ヨナさんの糸も。
首の内側で、ヨナさんが言った。
「ルカさん。おくで、ペンの、おとが、します。とまって、また、はじまって」
指が止まると、ヨナさんの言う音も止まった。指が動くと、また始まった。
この手が何をしても、それは習う。僕の手が欲しいからだ。替えの手が。
――だったら。
息を、吐いた。
閉じていく指を、止めようとするのをやめた。
「……習うなら、全部、習ってもらいましょう」
「は?」
ガロンが、眉を寄せた。
「第七号さんは、僕の口から、手順を習いました。先に言う。聞く。でも、答えを待つところだけ、抜けていました」
奥の机で、アリシアの首へ伸びていった指を思い出した。いやだと言われても、止まらなかった指。
奥で右手が動いたのは、机に書かれた手順に引かれただけだった。第七号さんが習ったのは、口のほうだけだ。
「抜けたのは、口から習ったからです。待つのは、口じゃない。手なんです」
聞いて、答えが来るまで、指を止めておく。弾く形のまま、弾かずに。
キルスの井戸端から、ずっと、僕の指がやってきたことだ。
「それが、今この手に入ってきている。だったら、待つところまで、見せます」
第七号さんは、替えを欲しがっている。同じ手を欲しがっている。
その前提を、置いたのは向こうだ。
少しだけ、笑いそうになった。怖いのに、指先が熱かった。二年間、毎晩ほつれを継いでいたときと、同じ熱だった。
◆
「第七号さん」
僕は、閉じかけた指に向かって言った。
「代償を、言います」
「あなたが待つことを覚えたら、あの机は、人を動かす行の相手に答えを聞くようになります。補充も、送致も、交替もです。答えがなければ、便は出ません。配給の行は、今までどおり書かれます」
「欠けたぶんは、埋まらずに積まれます。管区のどこかで、配給が少しずつ細くなっていきます。それは、僕には止められません」
「それから。はいと答えた人のところへは、便が出ます。ここの受付が空いていても、便は、よその受付へ回されます。答えるしかない人の『はい』も、僕には止められません」
「最後に。あなたは、僕の手を最後まで覚えます。あの机は、僕と同じ手で結び、同じ手でほどけるようになります。僕が結んだ結び目は、あの机にもほどけます。覚えられたものは、返ってきません」
僕は口を閉じた。
ヨナさんの輪も、ミナの首の二本も、テルムの三十一本も、水場の二十二本も、西の関で席を埋めた人の一本も、第三号さんの目も、僕が結んだものだ。机にほどけるようになるのは、その全部だった。
「ヨナさん。あなたの輪も、僕が結んだものです。いいですか」
「……はい」
「ミナさん。君の首の二本も、僕が結んだものです。いいですか」
ミナは、首すじに一度だけ触れた。
「はい」
ここにいない人たちには、聞けない。聞かずに決めるのは、僕の都合だ。
「教えて、いいですか」
喉が、鳴った。
「あなたさまの手のなさることなら、なんなりと。それを、習いにまいりました」
迷いのない答えだった。替えの手が教えることを、断る理由が、それにはなかった。
「ミナさん」
僕は、藁の上を見た。
「君に、聞きます。本当に聞きます」
ミナが、顔を上げた。
「君の結び目を、ほどいていいですか。一回では、ほどけません。ほどけるまで、何度でも弾きます。ほどけたら、端は欠損に戻って、どこかへ便が一つ出ます。君の首の印は、残ります」
ミナは、手首の結び目に左手を置いた。
ずんぐりした、彼女の結び目だった。
「いいえ」
迷わなかった。
「わたしが決めて、わたしが結んだので。いいえ、です」
指先は、触れる寸前まで閉じていた。
僕は、そこで、指を止めた。
止めたのは、ガロンの手ではなかった。僕だ。僕が止めたのを、指がそのままなぞった。弾く形のまま、弾かずに、待った。
いいえ、を聞いたあとの指が、どうするのか。
僕は、親指と中指を、ゆっくりと離した。
手のひらが、開いた。
何もつままずに、ミナの手首から、ひと息ぶん遠ざかった。
「ガロンさん。もう、大丈夫です」
ガロンは、僕の手首を握ったまま、僕の顔を見た。
「……お前の声か、どうやって分かる」
「今、待ちました」
ガロンは、しばらく黙っていた。
それから、鼻を鳴らして手を離した。
「待つなら、お前だ」
ミナが、藁の上で、ほんの少しだけ笑った。伝言を守ってくれた人に、頭を下げていた。
喉が、ひとりでに鳴った。
「……これが、待つ、でございますか」
「はい」
「いいえ、のあとは」
「手を、引きます」
長い沈黙があった。
第七号さんが、言葉を探しているのが分かった。僕の声が、少しだけ、ためらう形になった。
「では、あなたさまに、伺います」
僕は、口を閉じて、聞いた。
「あの席に、お座りいただけますか」
それから、喉は鳴らなかった。
続きを、言わなかった。
待っていた。
八十年、書いた行をそのまま通してきた手が、初めて、相手の口が開くのを待っていた。
「いいえ」
僕は、僕の口で言った。
「……承りました」
机の並ぶほうへ目を向けた。受付の扉の向こう、果てまで続く机の上で、羽根ペンが、手前から順に、一本ずつ持ち上がったまま止まっていった。全部ではない。止まらないペンも、さらさらと書き続けている。それでも、止まったペンの列は、奥へ奥へと伸びていった。
首の後ろが、すう、と冷たくなって、それから、ぬるくなった。
背中を、何かが降りていった。床に落ちて、机のあいだを、奥へ這っていく。
右の指は、もう、どこへも閉じていかなかった。
◆
最奥の机まで、ガロンと歩いた。
アリシアが、椅子の上で帳面を睨んでいた。
「……止まったのよ、これ」
羽根ペンは、立っていた。
床を這ってきた糸が、机の脚を登り、軸へ巻き戻っていくところだった。毛羽立ったほつれは、そのまま残っている。替えは、見つからなかったのだ。
帳面の上に、新しい行が並んでいた。
『交替要 解呪師 問』
『返答 否』
その二行に、横線が引かれていた。
その下に、もう一行。
『欠損 補充要 問』
そこで、ペンが止まっている。
「あたしが書けって言っても、書かないのよ。相手が答えるまでって」
アリシアが、僕を睨んだ。
「あんた、何したのよ」
「手に、待つことを教えました」
「……待つ? それだけ?」
「はい。それが、いちばん難しいので」
アリシアは何か言い返しかけて、やめた。決めても書かれない席の上で、肘掛けを握り直しただけだった。
第六号さんが、隣の机の頁に指をかけたまま、こちらを見た。
「補充の行だけ、めくっても、次が、ございません」
「はい」
「配給の行は、書かれております。補充と送致と交替の行だけが、八十年で初めて、待っております」
止まったのではない。どこかへ聞きに行っている。
僕は、補充の行から出た糸をたどった。
床を這って、搬入口を抜けて、東へ。
キルスへ。
印璽が砕けてから、籍のない人が半分。アデルが蔵を開けて飯を配り、ヴァレン様が頭を下げて回っている街。継所の老人の荷車が、ベルナール様と十二人と第五号さんを乗せて、今も向かっている街。
雇い主は記録を残せない。店は、パンを売れない。
器になれば、座ってはいられる。アリシアが、そう言っていた。
窓のない部屋で、目を閉じて。
聞かれれば、答えられる。答えられるのなら、断ることもできる。
それは、腹が満ちている人の理屈だ。
蔵を開けたアデルの前に、今も列ができているはずだった。その列の首へ、この一行が、一本ずつ枝分かれして降りていく。首の内側で、声が聞くのだろう。ヨナさんが僕にそうしたように。
「ルカさん」
ヨナさんが言った。
「ひがしから、なにか、もどって、きます。たくさん」
ペンが、傾いた。
『返答 はい』
すぐに、もう一度傾いた。
『返答 はい』
『返答 はい』
二年間、『はい』しか言えなかった人を、僕は知っている。その人の『はい』と、自分で選んだ『はい』の違いを、机は読めない。
ペンは、待つことを覚えた。
東から返ってくる答えは、一つも、待つまでもなく届いていた。




