↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
25/36

第25話 答えを、待ってください

指先が、閉じていく。


ガロンの両手に押さえられて、手首は動かない。それでも、親指と中指だけが、少しずつ近づいていた。


「おい。止まらねえぞ、これ」


「止まりません。指だけなので」


僕の口は、まだ僕のものだった。今度は、手から習っている。


「ルカさん」


ミナが、藁の上から言った。自分の口で。


「その指、どこを向いてますか」


僕は、指の先を見た。


どこも、向いていなかった。


ただ、弾く形を習っている。習い終えたら、指の先に来た結び目が、聞かれないままほどける。ミナの端も、ヨナさんの糸も。


首の内側で、ヨナさんが言った。


「ルカさん。おくで、ペンの、おとが、します。とまって、また、はじまって」


指が止まると、ヨナさんの言う音も止まった。指が動くと、また始まった。


この手が何をしても、それは習う。僕の手が欲しいからだ。替えの手が。


――だったら。


息を、吐いた。


閉じていく指を、止めようとするのをやめた。


「……習うなら、全部、習ってもらいましょう」


「は?」


ガロンが、眉を寄せた。


「第七号さんは、僕の口から、手順を習いました。先に言う。聞く。でも、答えを待つところだけ、抜けていました」


奥の机で、アリシアの首へ伸びていった指を思い出した。いやだと言われても、止まらなかった指。


奥で右手が動いたのは、机に書かれた手順に引かれただけだった。第七号さんが習ったのは、口のほうだけだ。


「抜けたのは、口から習ったからです。待つのは、口じゃない。手なんです」


聞いて、答えが来るまで、指を止めておく。弾く形のまま、弾かずに。


キルスの井戸端から、ずっと、僕の指がやってきたことだ。


「それが、今この手に入ってきている。だったら、待つところまで、見せます」


第七号さんは、替えを欲しがっている。同じ手を欲しがっている。


その前提を、置いたのは向こうだ。


少しだけ、笑いそうになった。怖いのに、指先が熱かった。二年間、毎晩ほつれを継いでいたときと、同じ熱だった。


     ◆


「第七号さん」


僕は、閉じかけた指に向かって言った。


「代償を、言います」


「あなたが待つことを覚えたら、あの机は、人を動かす行の相手に答えを聞くようになります。補充も、送致も、交替もです。答えがなければ、便は出ません。配給の行は、今までどおり書かれます」


「欠けたぶんは、埋まらずに積まれます。管区のどこかで、配給が少しずつ細くなっていきます。それは、僕には止められません」


「それから。はいと答えた人のところへは、便が出ます。ここの受付が空いていても、便は、よその受付へ回されます。答えるしかない人の『はい』も、僕には止められません」


「最後に。あなたは、僕の手を最後まで覚えます。あの机は、僕と同じ手で結び、同じ手でほどけるようになります。僕が結んだ結び目は、あの机にもほどけます。覚えられたものは、返ってきません」


僕は口を閉じた。


ヨナさんの輪も、ミナの首の二本も、テルムの三十一本も、水場の二十二本も、西の関で席を埋めた人の一本も、第三号さんの目も、僕が結んだものだ。机にほどけるようになるのは、その全部だった。


「ヨナさん。あなたの輪も、僕が結んだものです。いいですか」


「……はい」


「ミナさん。君の首の二本も、僕が結んだものです。いいですか」


ミナは、首すじに一度だけ触れた。


「はい」


ここにいない人たちには、聞けない。聞かずに決めるのは、僕の都合だ。


「教えて、いいですか」


喉が、鳴った。


「あなたさまの手のなさることなら、なんなりと。それを、習いにまいりました」


迷いのない答えだった。替えの手が教えることを、断る理由が、それにはなかった。


「ミナさん」


僕は、藁の上を見た。


「君に、聞きます。本当に聞きます」


ミナが、顔を上げた。


「君の結び目を、ほどいていいですか。一回では、ほどけません。ほどけるまで、何度でも弾きます。ほどけたら、端は欠損に戻って、どこかへ便が一つ出ます。君の首の印は、残ります」


ミナは、手首の結び目に左手を置いた。


ずんぐりした、彼女の結び目だった。


「いいえ」


迷わなかった。


「わたしが決めて、わたしが結んだので。いいえ、です」


指先は、触れる寸前まで閉じていた。


僕は、そこで、指を止めた。


止めたのは、ガロンの手ではなかった。僕だ。僕が止めたのを、指がそのままなぞった。弾く形のまま、弾かずに、待った。


いいえ、を聞いたあとの指が、どうするのか。


僕は、親指と中指を、ゆっくりと離した。


手のひらが、開いた。


何もつままずに、ミナの手首から、ひと息ぶん遠ざかった。


「ガロンさん。もう、大丈夫です」


ガロンは、僕の手首を握ったまま、僕の顔を見た。


「……お前の声か、どうやって分かる」


「今、待ちました」


ガロンは、しばらく黙っていた。


それから、鼻を鳴らして手を離した。


「待つなら、お前だ」


ミナが、藁の上で、ほんの少しだけ笑った。伝言を守ってくれた人に、頭を下げていた。


喉が、ひとりでに鳴った。


「……これが、待つ、でございますか」


「はい」


「いいえ、のあとは」


「手を、引きます」


長い沈黙があった。


第七号さんが、言葉を探しているのが分かった。僕の声が、少しだけ、ためらう形になった。


「では、あなたさまに、伺います」


僕は、口を閉じて、聞いた。


「あの席に、お座りいただけますか」


それから、喉は鳴らなかった。


続きを、言わなかった。


待っていた。


八十年、書いた行をそのまま通してきた手が、初めて、相手の口が開くのを待っていた。


「いいえ」


僕は、僕の口で言った。


「……承りました」


机の並ぶほうへ目を向けた。受付の扉の向こう、果てまで続く机の上で、羽根ペンが、手前から順に、一本ずつ持ち上がったまま止まっていった。全部ではない。止まらないペンも、さらさらと書き続けている。それでも、止まったペンの列は、奥へ奥へと伸びていった。


首の後ろが、すう、と冷たくなって、それから、ぬるくなった。


背中を、何かが降りていった。床に落ちて、机のあいだを、奥へ這っていく。


右の指は、もう、どこへも閉じていかなかった。


     ◆


最奥の机まで、ガロンと歩いた。


アリシアが、椅子の上で帳面を睨んでいた。


「……止まったのよ、これ」


羽根ペンは、立っていた。


床を這ってきた糸が、机の脚を登り、軸へ巻き戻っていくところだった。毛羽立ったほつれは、そのまま残っている。替えは、見つからなかったのだ。


帳面の上に、新しい行が並んでいた。


『交替要 解呪師 問』


『返答 否』


その二行に、横線が引かれていた。


その下に、もう一行。


『欠損 補充要 問』


そこで、ペンが止まっている。


「あたしが書けって言っても、書かないのよ。相手が答えるまでって」


アリシアが、僕を睨んだ。


「あんた、何したのよ」


「手に、待つことを教えました」


「……待つ? それだけ?」


「はい。それが、いちばん難しいので」


アリシアは何か言い返しかけて、やめた。決めても書かれない席の上で、肘掛けを握り直しただけだった。


第六号さんが、隣の机の頁に指をかけたまま、こちらを見た。


「補充の行だけ、めくっても、次が、ございません」


「はい」


「配給の行は、書かれております。補充と送致と交替の行だけが、八十年で初めて、待っております」


止まったのではない。どこかへ聞きに行っている。


僕は、補充の行から出た糸をたどった。


床を這って、搬入口を抜けて、東へ。


キルスへ。


印璽が砕けてから、籍のない人が半分。アデルが蔵を開けて飯を配り、ヴァレン様が頭を下げて回っている街。継所の老人の荷車が、ベルナール様と十二人と第五号さんを乗せて、今も向かっている街。


雇い主は記録を残せない。店は、パンを売れない。


器になれば、座ってはいられる。アリシアが、そう言っていた。


窓のない部屋で、目を閉じて。


聞かれれば、答えられる。答えられるのなら、断ることもできる。


それは、腹が満ちている人の理屈だ。


蔵を開けたアデルの前に、今も列ができているはずだった。その列の首へ、この一行が、一本ずつ枝分かれして降りていく。首の内側で、声が聞くのだろう。ヨナさんが僕にそうしたように。


「ルカさん」


ヨナさんが言った。


「ひがしから、なにか、もどって、きます。たくさん」


ペンが、傾いた。


『返答 はい』


すぐに、もう一度傾いた。


『返答 はい』


『返答 はい』


二年間、『はい』しか言えなかった人を、僕は知っている。その人の『はい』と、自分で選んだ『はい』の違いを、机は読めない。


ペンは、待つことを覚えた。


東から返ってくる答えは、一つも、待つまでもなく届いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。