第24話 瓶の首の結び方
机のあいだを、走った。
糸は、もう見えなかった。机の列の下を滑って、先に行ってしまった。
すぐ後ろで、ガロンの足音が床板を鳴らしていた。
受付の藁の上に、ミナが座っていた。
左手で、自分の口をふさいでいた。
ドグとセラが、その両脇に膝をついている。十九人は少し離れて、黙ってそれを見ていた。
「さっきから、ずっとこうなの」
セラが、僕を見上げた。
「手を離すと、あの丁寧な声が出るのよ。だから、自分でふさいでる」
僕は、ミナの右の手首を見た。
指を重ねて結んだ結び目が、そこにあった。端の重さを、ちゃんと持っている。
その結び目から、古い糸が一本、腕の内側を這い上がって、襟の中へ消えていた。
首すじに、刻印が出ていた。閉じた、二つの目。まだ薄い。
先に言った、四つ目だった。たぶん君の首にも、僕と同じ印が出ます、と。
言ったとおりになったことが、少しも嬉しくなかった。
「ミナさん」
ミナが、目だけでこちらを見た。左手が、口から少し浮いた。
「……ルカ、さん」
彼女の声だった。
言い終えて唇が閉じると、同じ唇が、すぐにまた開いた。
「こちらのほうが、ずっと、馴染みます」
ミナの声で、ミナの言わない言い方だった。
彼女は、もう一度、口を手でふさいだ。
藁の上で、右の指が動いていた。
親指と人差し指が、輪を作る。中指が、それをくぐる。何も持っていない指が、何度も同じ形をなぞっていた。
輪を作って、くぐらせて。
「口だけじゃ、ないんですね」
僕が黙ると、ミナの口が答えた。
「この方の手は、糸の結び方を一つしかご存じありません。あなたさまの結び方だけでございます。……習うのに、手間がかかりません」
喉の奥が、ひやりとした。
机は『口より 習う』と書いた。僕の手は、まだ順番が来ていなかった。
ミナの手は、僕が教えた一度きりの結び方しか知らない。だから、口のすぐあとに、もう手まで届いた。
僕は膝をついた。ミナと、同じ高さになった。
「先に、謝ります」
ミナの目が、僕を見た。
「奥で、これを弾きました。君のほうへ来ると、分かっていました。分かっていて、聞きませんでした」
「……」
「聞いて待たないのは、聞かないより悪い。奥で、自分でそう思ったばかりでした。君には、聞きもしなかった」
だから、と僕は言った。
「今度は、君が決めるまで弾きません」
ミナの左手が、口からゆっくり離れた。
「……結び方」
彼女は、自分の右手を見ていた。
「ルカさんの、ですよね。これ。だから、来たんですよね」
「はい」
「じゃあ」
唇が閉じかけて、彼女は急いで続けた。黙れば取られると、もう分かっているのだ。
「わたしの結び方に、します」
「……君の」
「酒場で二年、葡萄酒の瓶の首を縛ってました。店の瓶を、毎日、何十本も。藁を巻いて、紐を二回まわして、最後に一回、ひねるんです」
右の指が、また輪を作りかけた。ミナは、その指を左手で握り込んで、折り曲げた。
「ルカさんの結び方は、一回しか、やったことがありません。瓶のは、目をつぶっててもできます」
すぐには、何も言えなかった。
縛られていた二年で覚えた手を、彼女は今、自分のために使おうとしている。糸の視えない人が、自分の手の癖で、僕の手の癖を追い出そうとしていた。
「代償を、言います」
声が、少しかすれた。
「一つ目。今の結び目を、僕が弾きます。ほどけたとたん、端は誰の手にもありません。欠損と読まれて、奥で補充の一行が書かれはじめます。第六号さんが三枚めくる前に、結び直してください」
「はい」
「二つ目。君の結び方は、藁を巻いて、二回まわして、ひねる結び方です。重ねて巻いた結び目は、ぱちの一回ではほどけません。僕でも、何度か弾くことになります」
麦畑のそばの村で、いつでも解いてくれますか、と聞かれた。ぱちの一回です、と僕は答えた。
「あのとき言ったことを、守れなくなります」
ミナは、少しだけ笑った。
「三つ目。第七号さんは、君の中にいられなくなります。同じ手は、ここにはもう僕しかいません。僕のほうへ戻ります。目が開いたままなので、入るところは空いています」
ミナの笑みが、止まった。
「それ、ルカさんが」
「僕が払うぶんです。聞かずに弾いたぶんの、残りなので」
「……」
「解いていいですか」
ミナは、答えなかった。
僕は、待った。
藁が、かさりと鳴った。十九人の誰かが、息をひそめた。ドグが、膝の上で拳を握っていた。
ミナの唇が開きかけて、閉じた。
閉じた唇が、ひとりでに開いた。
「どうぞ。ちょうど、よろしゅうございます」
「あなたには、まだ聞いていません」
僕は、ミナの目だけを見ていた。
待った。
やがて、ミナが髪を耳にかけた。
右の手首を、僕のほうへ差し出した。
キルスの井戸端でも、麦畑の村でも、彼女はそうやって首すじを差し出した。この手つきを、第七号さんは知らない。習ったのは、結ぶ形だけだ。
「はい」
ミナの声だった。
「第七号さん。あなたにも聞きます。この結び目から、出ていただきます。いいですか」
黙ると、彼女の口が答えた。
「どうぞ。あなたさまのほうへ、戻るだけでございます」
僕は、手首の結び目に指をかけた。
ぱち。
僕の結び目が、ほどけた。
端が、手首からずれて落ちかけた。僕はつままずに、指先で押して、ミナの手首の、元の場所へ寄せた。
そして、指を離した。
「ここです。重ねません」
「……ここだけ、重いです」
「そこに、あります」
ミナは、目を閉じた。
両手の指が、重いところを探り当てた。袖口を一巻きして、藁の代わりにした。見えない端を、二回まわした。
右の指が、輪を作ろうとして、跳ねた。
ミナは、跳ねた指ごと左手で押さえ込んで、最後に一回、ひねった。
つ、と。
彼女の指の下で、音がした。
僕は、結び目を見た。
ずんぐりして、固くて、少しもきれいではない。僕の手なら、絶対にこう結ばない。
それでいて、端の重さを、しっかりと噛んでいた。
ドグが、ぽつりと言った。
「……今の手つき、瓶の縛り方だな。酒場で、毎晩見てた」
「ほどけたこと、ないでしょう」
ミナは、目を閉じたまま言った。
「一本も、割らせませんでした」
「ルカさん」
ヨナさんが言った。
「おくの、ペンが、とちゅうで、とまりました」
補充の一行は、便になる前に、書きかけで止まったのだ。
ミナの腕の内側から、古い糸が滑り落ちた。
襟から抜け、手首を素通りして、藁の上に落ちる。新しい結び目のどこにも、かかるところがなかったのだ。
ミナが、大きく息を吐いた。
「……わたしの、口です」
「はい」
首の刻印は、薄いまま、そこに残っていた。一度出た印は、もう消えない。
藁の上の糸が、こちらを向いた。
床を這って、僕の膝に触れ、背中を登ってくる。
首の後ろが、すう、と冷たくなった。
開いた両目の奥へ、それは、迷わずに入った。
喉は、鳴らなかった。
かわりに、右の指が動いた。
奥の机の前でも、一度こうなった。あのときは、書かれた手順に引っぱられて、形だけを作らされていた。指の先には、アリシアの結び目があった。
今度は、どこにも引かれていない。狙う結び目も、ない。
それなのに、親指が中指の腹を探って、爪の位置を確かめている。力の溜め方を、離すときの角度を、一つずつ試している。
ミナの手が知っていたのは、結ぶ形だけだった。僕の手は、ほどく形を知っている。
手そのものが、それを覚えはじめていた。
「――ガロンさん」
言うより早く、太い両手が、僕の右の手首を掴んでいた。
誰の結び目に向けているのかも分からないまま、指先は、それでも少しずつ閉じていった。




