第23話 最初の日に座った人
「ご挨拶が、遅れました」
ガロンの手が、僕の腕の上で固くなった。
「……今のは、お前か」
「いいえ」
言えた。僕が選んだ言葉だった。
僕が喋っているあいだ、それは黙っている。僕が口を閉じると、同じ喉を使って、続きを始める。
「回収人、第七号でございます」
僕の声が、そう名乗った。
宿場の裏で、第一号さんが言っていた。わたしのような者は、第七号まであります、と。
第一号さんから第六号さんまで、みんな顔があって、首があった。どこかに、身体の置き場があった。
第七号さんには、それがなかった。僕の喉の中にいた。
「ルカさん」
首の内側で、ヨナさんが言った。
「ペンの、おとが、しません。……ルカさんの、なかで、します」
「はい」
奥の机で、ペンは立ったまま動いていなかった。アリシアが椅子の上から、それを睨んでいた。
「……ねえ。今の声、誰よ」
「僕の声です。僕じゃない誰かが、使っています」
アリシアは、肘掛けの上で指を縮めた。自分の口にも同じことが起きないか、確かめるみたいに。
「どこから来たんですか」
黙ると、答えが来た。
「最初の日から、でございます」
◆
「第六号さん」
机の列の途中で、紙のめくれる音が止まった。
「この机の、いちばん最初の頁を、見せてもらえますか」
第六号さんは、しばらく自分の指を見ていた。
「戻せとは、書いてございません」
「はい」
「……戻すなとも、書いてございません」
彼は奥の机まで歩いてきて、帳面の頁に指をかけた。
前へではなく、後ろへ。
ぎこちない手つきだった。この仕掛けが始まってから、一度もその向きにめくったことがないのだろう。頁が何百枚も、逆さに流れていった。
最後の一枚で、指が止まった。
墨が、茶色く褪せていた。
『解呪師 一名 着席』
『器 一 解呪師 自ら』
『以後 この手にて書く』
『解呪師 離席』
四行だけだった。
「……自分を、最初の器にしたんですね」
「はい」
僕の口が答えた。
「ご自分に、お聞きになりました。『結んでいいですか』と。そして、ご自分で、はいとお答えになりました」
背すじが冷えた。
第五号さんは、自分をいちばん古い器だと言っていた。その前に、一人いたんだ。最初の頁にだけ数えられて、すぐに席を立った人が。
三行目から、糸が一本出ていた。細く、古く、ところどころ毛羽立っている。頁から立ち上がって、羽根ペンの軸に巻きついていた。
結び目を見た。
見て、息が止まった。
この結び方を、僕は知っている。
領主館の三階で、アデルの唇から解いた一本。もっと古くて、もっと丁寧で、もっと慣れていると思った、あの結び目。
それだけじゃない。
この奥へ走ってくる前に、受付で、ミナの指に自分の指を重ねて、手首へ回した結び方。輪を作って、くぐらせて。
僕の手の、癖だった。
思い返せば、あの結び目は上手すぎた。二年、毎晩結んできた僕の結び目より、ずっと先まで慣れていたから。
「同じ手で、ございましょう」
僕の声が、少しだけ嬉しそうに言った。
「わたしは、その手の癖でございます。最初の日、あの方はここにわたしを結んで、椅子を立たれました。目を閉じて、出ていかれました」
閉じた、二つの目。
印璽の裏にも、ベルナール様の首にも、窓のない部屋の十二人にも、僕の首にもあった、あの刻印。
最初に閉じたのは、その人の目だったのか。
「キルスの娘御の口も、わたしが結びました。書けと、書いてございましたので」
「ほかの糸は」
「たいていは、下の机や印璽が写したものでございます。この机がじかに結んだものは、ごくわずか」
左の拳が、握られていた。今度は、僕が握ったのだと分かった。
「この糸、ほつれてますね」
「はい。八十年、書いてまいりましたので」
「交替というのは、あなたの替えですか」
「はい。同じ手を持つ方でなければ、この軸には馴染みません。九千を超える方々の行き先を、同じ癖で書き続けねばなりませんので」
「あの方の、名前は」
「存じません。ご自分で、消していかれました」
「どこへ、行かれたんですか」
「それも、存じません。目を閉じた方の行き先は、帳面には書かれませんので」
書かれないものは、この机には、いないのと同じだ。着いていない荷と、同じように。
第六号さんが、頁から指を離して、一歩下がった。自分の欄の外へ、出すぎたと思ったのかもしれない。
◆
糸を、もう一度読んだ。
頁から軸へ。そして軸から、もう一本。
細い、新しい糸が、机の縁を越え、宙を渡って、僕の首の後ろへ伸びていた。
開いた両目の、その中へ。
さっきは、この糸はなかった。『口より 習う』と書かれてからだ。
結び目は、まだなかった。
糸の先が、刻印の縁を何度もくぐりかけては、戻っている。
輪を作って、くぐらせて。僕がミナに教えたのと同じ手順を、ゆっくり、なぞるように。
(覚えはじめて、いた)
はじめていた、だけだ。
まだ、覚えきっていない。
入ったあとのものは、糸じゃない。でも、結んでいる途中のものは、まだ糸だ。
結び終わっていない糸には、端がある。
「第七号さん」
「はい」
「あなたを救える方法を、探してました。第一号さんにも、第三号さんにも、第四号さんにも、第五号さんにも、そうしてきたので」
黙ると、それが答えた。
「救っていただく所が、ございません。わたしは器ではなく、手でございます。怒ることも、思い出すことも、いたしません」
「……そうですか」
「あなたさまが座ってくださるまで、わたしは書き続けます」
僕は、左手を上げた。右腕は、まだガロンが押さえていた。
「代償を、言います」
自分の口で言った。言い終えるまで、それは待っていた。
「この結びかけを解くと、あなたは僕から出ます。行き先は、僕には選べません。でも、たぶん、ミナさんのほうへ行きます。僕と同じ結び方をした端を、あの人が持っているので」
言いながら、喉の奥が冷えた。ミナの口も一度、勝手に動いている。
「それから、僕の目は開いたままです。閉じ直せません。次に何かが来ても、同じところから入ります」
「はい」
ミナには、聞けない。受付は、ここから遠すぎる。
ためらえば、次に覚えられるのは手だ。僕の手を覚えられたら、ぱちが、誰にも聞かずに鳴るようになる。アリシアの糸にも、ヨナさんの糸にも。
「聞かずにやるのは、僕の都合です」
誰にともなく、そう言った。それから、喉の中の相手に向き直った。
「解いて、いいですか」
黙った。
答えは、すぐに来た。
「どうぞ。……ちょうど、よろしゅうございます」
やはり、と思った。
ぱち。
結びかけの糸が、刻印の縁からほどけて、落ちた。
喉が、軽くなった。
「……ガロンさん」
喉と口が、同じ拍子で動いた。続きは、来なかった。
「もう、大丈夫です。放してください」
ガロンは僕の顔をじっと見てから、ゆっくり手を離した。
「今のは、お前だな」
「はい」
左手の指で、右の指を一本ずつ折ってみた。どれも、僕が折ったとおりに折れた。
ほどけた糸は、砂にならなかった。中に、まだ第七号さんがいたからだ。まだ、どこにも結ばれきっていない。
床に落ちて、蛇みたいに、机の脚のあいだを這っていく。
行き場を探している。
いちばん近くにある、同じ結び目のほうへ。
僕は、その先を目で追った。
この机から受付まで、ずっと伸びている一本がある。僕がミナに渡した端だ。その先は、ミナの右の手首に結ばれている。
僕の指が、ミナの指に教えた結び方で。
分かっていて、僕は弾いた。ミナに、聞かないまま。
「――ガロンさん、受付へ」
言うより先に、走り出していた。
糸は、端を伝って、机の列の下をまっすぐ滑っていった。僕の足より、ずっと速かった。
背中のほうで、紙の上をペンが走る音がした。
「ルカさん」
ヨナさんの声が、かすれていた。
「ペンの、おとが、ひとつ。……おなじ、おとが、うけつけの、ほうでも、しました」
机の並びの向こうから、声が届いた。
ひどく小さく。でも、はっきりと。
「回収人、第七号でございます」
ミナの声だった。
ミナは、自分を番号で名乗ったことが、一度もない。




