第22話 僕の口は、まだ貸していません
「……今の、あんたが言ったの」
アリシアが、肘掛けを握ったまま僕を見ていた。
違います、と言おうとした。
喉のほうが、先に鳴った。
「しょざい、この、つくえの、まえ」
僕の声だった。口が、あとからその形になった。
帳面の上で、ペンが同じ文字を書き終えて、立った。
『解呪師 所在 この机の前』
「ルカさん」
首の内側で、ヨナさんが言った。
「ペンの、おとと、ルカさんの、のどが、おなじ、はやさ、です」
「……はい」
今度は、僕の口で言えた。少しだけ、遅れて。
書かれたものが、そのまま喉から出ていく。ベルナール様がそうだった。あの人の喉には糸が一本結ばれていて、僕はそれを解いた。
僕の喉には、何も結ばれていない。開いた両目から、書かれた文がじかに入ってきている。つまむ端が、見当たらない。
ペンが、また傾いた。
『交替 手順 一 着席者を解く』
右手が、上がった。
僕が上げたのではなかった。肘が勝手に伸びて、指が開いて、椅子の上の首へ向かっていく。アリシアの首に結ばれた一本。《この席に着く者、決するまで、立つべからず》。
左手で、右の手首を掴んだ。
「ちょっと」
アリシアが、椅子の背に張りついた。
「何する気よ。いやって言ったでしょ。降りないって」
「……分かってます」
分かっている。分かっているのに、右手は止まらない。左手ごと、少しずつ前へ引きずっていく。
そして、僕の口が、ひとりでに開いた。
「代償を、言います」
アリシアの目が、見開かれた。
「解けば、あなたは、立てなくなります」
僕の声が、丁寧に続けた。
「解いて、いいですか」
「いやよ!」
指は、止まらなかった。
答えは、もう聞いた。いやだと言われた。それでも、指は結び目へ伸びていく。
ぞっとした。
キルスの井戸端から、この机の列まで。僕が何度もくり返してきた順番を、それはそっくり覚えていた。先に言う。聞く。
答えを待つところだけが、抜けていた。
聞いて、待たない。それは、聞かないより、ずっと悪い。
井戸端のハンナさんにも、ミナにも、アデルにも、僕は答えを待った。待っているあいだがいちばん怖くて、いちばん大事だった。
(僕の口で、それをやるな)
右の指先が、結び目に触れた。
親指と中指が、勝手に輪を作る。弾く形だ。僕の指が、いちばんよく知っている形。
ぱ、と鳴りかけた。
目を、閉じた。
指が、結び目を外れて、空を掻いた。
(……やっぱり)
それは、僕の口を覚えはじめている。手は、書かれた手順に引かれているだけだ。そして、僕の、顔についているほうの目は、まだ覚えていない。糸を視ているのは、この目だけだ。
「目を、あけて、ください」
僕の口が、僕に言った。
僕の声で。いつも誰かに何かを頼むときの、あの調子で。
開けなかった。
「……僕の口は、まだ貸していません」
自分の口で、そう言い返した。言えるうちに、言っておきたかった。
右手は、見えないまま、手探りで前へ出る。糸は、触れればつまめる。僕がずっと、そうしてきたからだ。指先が肘掛けに当たり、アリシアの手の甲に当たって、首のほうへ這い上がっていく。
「来ないで」
アリシアの声が、震えていた。
「来ないでって、言ってるでしょ……!」
◆
「ルカさん」
ヨナさんが言った。
「おもい、あしおとが、はしって、きます。ひとり」
机のあいだを、片膝をかばうような、重い足音が近づいてきた。
目を閉じたまま、右の前腕を、太い両手に掴まれた。
「――っと。細えな、相変わらず」
ガロンだった。
「ミナが、行けってよ」
「……ミナさんは」
「受付だ。動けねえんだろ。ドグとセラが見てる」
ガロンは、僕の右腕を引き戻しながら、息を切らして言った。
「あの子の口も、一回だけ勝手に動いたんだ。『こうたいよう』ってな。お前みてえな、妙に丁寧な声の出し方だった」
心臓が、一つ鳴った。
「そしたら、自分の口を手でふさいで、俺を蹴り出した。伝言がある」
腕が、ぐいと押し返される。僕の右腕が、ガロンの両手を振りほどこうとしている。僕の力を、全部使って。
「『ルカさんが放してくださいって言っても、放さないでください。その声は、ルカさんじゃないかもしれないので』」
右腕が、止まった。
止められた。
ガロンの手に、糸はないはずだ。《鉄壁》は、キルスの酒場で僕が解いた。今のこの人にあるのは、生まれつきの腕だけだ。
加護がなくても、ただの人としては丈夫なほう。
キルスの酒場の戸口の外で、僕はそう思った。
「……放して、ください」
僕の口が言った。
「うるせえ」
ガロンは、放さなかった。
「生まれつきの強さで戦えって言ったのは、お前だろ」
目を閉じたまま、僕は考えた。
右手は、押さえてもらえた。でも、ずっとは続かない。ペンは書き続ける。手順の二が書かれ、三が書かれれば、次は左手か、足だ。
止めるなら、手順のほうだ。
目を開けた。右手が跳ねかけて、ガロンが押さえ込む。
僕は、自分の指先ではなく、アリシアの首の糸を読んだ。
《この席に着く者、決するまで、立つべからず》
着く者。
どこにも、解呪師とは書いていない。
「アリシアさん」
「……な、なによ」
「その椅子、解呪師の席じゃありません」
僕は、帳面の一行を目で示した。
『着席者 解呪師に非ず』
「机は、あなたが解呪師じゃないと書きました。だから交替だと。でも、椅子の糸には、誰でも座れると書いてあります。決めるのは、座っている人です」
「……だから、何」
「言ったとおりに書く机だと、さっき、あなたが教えてくれました」
アリシアの目が、帳面へ落ちた。
「このままだと、僕がそこに座らされます。あなたは解かれて、立てなくなって、床に下ろされます」
「……」
「交替させたくないなら、そう決めてください」
言ってから、正直に付け足した。
「先に言います。決めたら、それはあなたの一行です。糸の上では、決めれば立てます。ただ、交替を断ったぶん、この席の重さが全部あなたに積まれます。たぶん、自分の足では立てなくなります」
アリシアは、ほんの一瞬だけ、僕を睨んだ。
それから、肘掛けを握り直して、笑った。
「降りるもんですか」
さっきと、同じ台詞だった。
「交替なんて、させないわよ。ここはあたしの席。誰にも渡さない」
ペンが、傾いた。
『交替 不可 着席者 拒む』
右腕から、すっと力が抜けた。
ガロンが、つんのめりかけて、踏みとどまった。
「……お、おい。止まったのか」
「止まりました」
口が、遅れなかった。
アリシアが、椅子の上で荒い息をしていた。首から生えた糸が、また何本か、床へ伸びていく。自分で決めたぶんだけ、深く座らされていく。
「……助けたんじゃないわよ」
「はい。知ってます」
「あんたに、渡したくないだけ」
「はい。それで、十分です」
誰も座らなかった椅子だ。座り続けたいと言う人がいるなら、机は、それを書くしかない。
僕は、右の手のひらを握って、開いた。僕の手だった。
「ガロンさん。ありがとうございます」
「礼なら、あの子に言え」
ガロンは、それでも僕の腕を放さなかった。
伝言の続きを、律儀に守っているのだと分かった。
帳面の上で、ペンが、もう一度だけ傾いた。
アリシアは、何も言っていない。
『交替 延期』
その下に、ゆっくりと。
『口より 習う』
喉が、ひとりでに鳴った。
「ご挨拶が、遅れました」
僕の声だった。
帳面のどこにも、書かれていない言葉だった。
それは、もう、書かれたものを読んでいるのではなかった。




