第21話 いいえ、わたしが結びます
奥から、アリシアの声が、切れ切れに届いていた。
「……キルス支所。……現地で、充当。……領主の娘」
受付からでも、糸は視えた。
最奥の机から出たいちばん太い一本が、天窓へは登らず、床を這って、搬入口を抜けて、東へ伸びていく。
伸びきったら、便になる。
机の列の途中で、第六号さんが、その頁に指をかけた。遠くで、紙のめくれる音がした。
僕は、端を握り直した。
奥へ戻れば、緩む。緩めば欠損に戻って、どこかの誰かへ補充便が出る。
ここに立っていれば、アデルへ便が出る。
「ルカさん」
ヨナさんが言った。
「かるい、あしおとが、します。ひとり。はしって、います」
搬入口の光の中に、ミナが立っていた。
息が切れていた。靴が、泥だらけだった。
「戻りました」
「……東は」
「継所のおじいさんに、荷車ごと頼みました。十二人と、第五号さんと、ベルナールさまと」
彼女は、受付の藁の上で待っている十九人と、その脇に座り込んだガロンたちを見て、それから僕を見た。
「嘘をついた相手を、ルカさん一人に押しつけるのは、いやだったので」
「助かりました。本当に」
僕は、手短に話した。アリシアが座ったこと。一行目が、キルスへ伸びていること。
「僕が、端を離します。欠損に戻って、どこかへ補充便が出ます。でも、奥へ行けます」
「どこかって、誰ですか」
「分かりません」
ミナは、髪を耳にかけなかった。
「いやです。その端、わたしが持ちます」
すぐには、答えられなかった。
先に言うのが、僕の決まりだった。言いたくないほうから。
「四つ言います。一つ目。持ったら、代わりが来るまで、ここから動けません」
「はい」
「二つ目。君は帳面の上では器です。端を持てば、本当に読まれます。本院に、居場所が知れます」
「はい」
「三つ目。二人ぶんと、さっきの十九人ぶんの功が、ずっと君を通ります。下ろせません」
「……はい」
「四つ目。たぶん、君の首にも、僕と同じ印が出ます」
ミナは、自分の首すじに一度だけ触れた。
それから、少しだけ笑った。
「麦畑で、一本だけなら持てますねって、言いましたよね」
「言ったのは、君です」
「じゃあ、わたしが言ったんです。今度も、持てます」
「……結んでいいですか」
「いいえ」
ミナは、右手を差し出した。
「わたしが、結びます」
彼女には、糸が視えない。
でも、結び目の形は、僕の指が知っている。
僕は左手を、ミナの指に重ねた。重ねたまま、握った端を、彼女の右の手首へ回す。
「輪を作って。そう。くぐらせて」
ミナの指が、僕の指の下で、ゆっくり動いた。
見えないものを、見えないまま。
――つ、と。
音がしたのは、重ねた指の下、彼女の指からだった。
端の重さが、僕の右手から抜けていった。
かわりに、ミナの膝が落ちかけて、踏みとどまった。
「……重い、ですね」
「すみません」
「謝らないでください。わたしが決めたので」
僕が払うはずだったものを、この人に払わせた。そのことは、たぶん帳面のどこにも書かれない。
床のガロンが、顎で奥をしゃくった。
「行け。この子の荷は、俺が見ててやる。番くらいは、できる」
◆
机のあいだを、走った。
頭の上を、東へ向かう糸が追い越していく。
途中で、第六号さんの脇を抜けた。
「あと、何枚ですか」
「その一行が便になるまで、三枚です」
彼は、次の頁に指をかけたまま答えた。
「わたしは、めくるだけです。……ですが、速くめくれとは、書いてございません」
指が、いつもより、ほんの少しだけ遅かった。
最奥の椅子に、アリシアが座っていた。
首に、机から一本、糸が結ばれている。
《この席に着く者、決するまで、立つべからず》
「あら。来たの」
アリシアは、肘掛けに頰杖をついていた。
「見てよ。あたしが言ったとおりに、書くのよ、これ」
帳面に、一行。
『東方 キルス支所 現地充当 一 領主の娘』
第六号さんが見せた送り状を、思い出した。『欠損補充 一 現地にて充当』。あそこには、名が入っていなかった。
アリシアが入れたのは、その空欄だ。
「決めたのは、あなたですね」
「そうよ。見れば分かるでしょ」
僕は、東へ伸びる糸の根元に、指をかけた。
「この一行の行き先を、変えます。聞きません」
自分の声が硬いのが、分かった。
「聞かずにやるのは、初めてじゃありません。グレイドさんの糸も、ヴァレン様の印璽も、僕は聞かずに解きました。今日のこれも、僕の都合です」
「代償は、先に言います。この一行は、決めた人に結ばれます。あなたが、現地の充当になります。器として、その椅子に」
「……は?」
「それと、この糸は僕を通ります。通したぶん、僕の刻印が進みます」
僕は、糸の先をキルスから外して、僕の指を通して、椅子の上の首へ。
つ、と。
ペンが、ひとりでに傾いた。
『領主の娘』の四文字に、横線が一本引かれた。その脇に、書き足された。
『着席者』
「――っ、あ」
アリシアの背が、椅子に押しつけられた。
首から、肩から、手首から、細い糸が生えていく。床へ。机の列へ。壁の向こうへ。
領主館の三階で、ベルナール様が座らされていた姿と、同じだった。
「重い、なにこれ、重い……!」
「キルスで、あの人が背負うはずだったぶんです」
「……あたしが、決めたのに」
「はい。だから、あなたに結びました」
僕は、指を上げた。
「解きますか。解けば、あなたが決めた一行も、座っていた時間も、全部あなたに戻ります。たぶん、立てなくなります。でも、ここからは出られます」
アリシアは、肘掛けを白くなるほど握りしめた。
露台で手すりを握っていたアデルと、同じ握り方だった。違うのは、この人が自分で握っていることだけだ。
「……いやよ。ここ、一番上なんでしょ。降りるもんですか」
「そうですか」
聞いたからには、それが答えだ。
椅子から東へ、細い一本だけが残っていた。行き先を失った一行の、尻尾だ。東の便は、名のないまま、まだこれに引かれて走っている。
持ち主のいない糸だった。聞く相手は、どこにもいない。
「この一本を解くと、便は誰も連れずに戻ります。ただ、この便で埋まるはずだった穴は、埋まらないままです。ミナさんの持っている端は、軽くなりません。どこかの街の、誰かの明日も、細いままです」
ぱち。
尻尾が、砂になった。
どこかで、誰かの皿が一枚、軽くなる。それも、僕が決めたことだ。
首の後ろが、灼けた。
通した一行ぶんが、最後の一押しになった。
半分まで押し開けられていたほうの目が、内側から、開ききった。
両方。
両目が開けば、受け口は輪の外を向く。閉じた輪は、もう何も守っていなかった。
壁の向こうから、九千を超える息が、いっぺんに聞こえた。
「ルカさん」
ヨナさんの声が、遠かった。
「かく、おとが、ぜんぶ、ルカさんの、ほうへ、よって、きます」
アリシアの帳面に、ペンが、また一行を足していた。
アリシアは、何も言っていない。
『着席者 解呪師に非ず』
その下に、もう一行。
『解呪師 一名 所在確認 交替要』
僕の喉が、勝手に鳴った。
「……こうたい、よう」
声は、僕の声だった。
口が、あとからだった。
開いた両目の奥で、誰かが、僕の口の使い方を覚えはじめていた。




