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第20話 聖女さまの荷物持ち

受付の机に、朝の光が落ちていた。


第五号さんが座っていた椅子は、空いたままだ。


僕はその脇に立って、右手を張っていた。端は、ずっと奥の、いちばん大きな机まで伸びている。


張ったまま歩いたぶんだけ、端はこの長さで読まれている。奥へ戻って縮めれば、緩みと同じに読まれる。だから、ここで張っている。


何度か夜が来て、明けた。水は、ミナが置いていった革袋の残りを、左手で少しずつ飲んだ。


『解呪師 一名』。


第五号さんの最後の言葉だけは、何度夜を越えても消えなかった。八十年前の、最初の日に、一度だけあの椅子に座った誰か。


「ルカさん」


首の内側で、ヨナさんが言った。


「くるまが、きます。……うまが、なんども、いなないて、います」


「便ですか」


「べんの、おとでは、ありません。ひとの、こえが、おおきいです」


搬入口の外で、車輪が止まった。


「ちょっと。受付は? 誰もいないじゃない」


女の声だった。高くて、よく通る。


「おい、ドグ。箱、傾いてんぞ」


こっちの声は、知っていた。


入ってきたのは、白い法衣の娘だった。裾に金の縫い取り。手には、何も持っていない。


その後ろで、大きな男が行李を三つ背負っていた。膝が、一歩ごとに笑っている。


「……ガロンさん」


ガロンが顔を上げて、僕を見て、口を開けて、閉じた。


ドグが箱の綱を引いて入ってきた。セラが、娘に日傘を差しかけている。


「知り合い?」


「……前の、荷物持ちだ」


「ふうん。あんたたちを潰したっていう」


娘は、僕を上から下まで見た。


「アリシアよ。キルスの聖女」


「お名前だけ、伺っていました。来週から入る方だと」


「入らなかったわよ。入る前に潰れたもの」


アリシアは、ガロンの背中の行李を顎で指した。


「だから今は、あたしが雇ってるの。一日、銅貨五枚で」


セラが、日傘の柄を握りしめた。何も言わなかった。


僕は、アリシアの首を見た。


太い。グレイドさんより、ヴァレン様より、ずっと太い一本。


《聖女の位》。


その一本は、天窓へ登っていなかった。途中で裂けて、十九本は搬入口の箱の中へ。残りは数えきれないほど、床を這って、壁の向こうへ潜っている。


「その箱の中は」


「荷よ。キルスの無籍が十九人」


アリシアは、受付の机を指で叩いた。


「届け出た功は、一人ぶんずつ位になるの。教会の決まりよ。あたしが聖女って呼ばれるようになったのも、届け出のおかげ」


「……以前から」


「ずっとよ。でも、あんたのおかげで、最近は山ほどいるわ」


ガロンが行李を下ろして、膝をさすりながら、ぼそりと言った。


「印璽が砕けてから、キルスの半分は籍がねえ。雇い主は記録を残せねえし、店はパンを売れねえ」


「……はい」


「領主の娘が館の蔵を開けて、飯を配ってる。ヴァレンとかいう文官が、頭下げて回ってる。それでも足りねえ」


ガロンは、箱のほうを見なかった。


「教会は、届け出一人につき銀貨三枚だ。聖女さまが、いちばん稼いだ」


「片づけてあげたのよ」


アリシアが笑った。


「放っといたって、どうせ食べられないんだから。器になれば、座ってはいられるでしょ」


「座らされている人を、見たことはありますか」


「ないわよ。見る必要ある?」


彼女は、首を傾げた。


「あたしは、知ってて選んだの。何が悪いの」


ドグに頼んで、閂を抜いてもらった。


箱の中の十九人は、並んでいなかった。膝を抱えている人。隣と肩を寄せ合っている人。


印璽の日に首を押さえてしゃがみ込んだ、仕立て屋の少年がいた。井戸端で見た顔もあった。


いちばん手前の中年の男が、僕を見上げた。


広場で、砕けた刻印の砂をじっと見ていた人だ。


「……あんた、広場の」


「はい」


「取れたのは、よかったんだ」


男は、自分の首に触れた。


「取れたせいで、ここにいる」


「はい。僕のせいです」


言い訳をする言葉は、どこにもなかった。


     ◆


「で、あんたが至急送致の器なんでしょ」


アリシアが、受付の机に腰をかけた。


「継所で、荷車の娘に聞いたわ。受付は閉まってるけど、奥に最上の器がいる。連れていけば、報奨はこの箱の十倍だって」


ガロンが、低く笑った。


「ありゃ嘘だぞ、聖女さま」


「何ですって」


「あの娘、キルスの酒場の子だ。あいつの口から『はい』しか聞いたことがねえ。その子が、目ぇ見て嘘ついてた」


ガロンは、僕を見た。


「伝言だ。『荷物持ちの上手な人が、奥にいます』だとよ」


胸の奥が、少しだけ熱くなった。


受付のない本院で、この箱はたぶん、よその支所へ回されていた。ミナは、それを僕の前へ向けたのだ。


僕が、ここから動けないのを知っていたから。


「アリシアさん。届け出の功は、届け出られた人の首に結ばれてます。持ち主は、あなたじゃない」


僕は、箱の中を振り返った。


「先に、言います」


十九人が、こちらを見た。


「この糸を解くと、届け出がなかったことになります。送致の札も外れます」


「でも、籍は戻りません。キルスへ帰っても、明日のパンは、やっぱり買えません」


「それと、ほどけた十九人ぶんの功には、行き場がありません。僕の持っている端に、寄ってきます。アリシアさんの位は、そのぶん細くなります」


右手の端が、先回りするみたいに軋んだ。


「その上で、聞きます。解いていいですか」


広場の男が、最初に答えた。


「パンは、自分で稼ぐ。……あの酒場の娘が、広場でそう言ってたろ」


十九人ぶん、聞いた。


アリシアが、机から飛び降りた。


「ちょっと、あたしに聞きなさいよ! あたしの位よ!」


「あなたの首の糸には、触りません」


言ってから、付け足した。


「触らずに済む場所を、選んだだけです」


聞かなかったのは、聞けばいやと言うに決まっているからだ。西の関の机と、同じだった。


左手を上げた。


ぱち。


十九本が、箱の中で砂になった。


アリシアの首の一本が、目に見えて細くなった。法衣の金の縫い取りから、光が半分抜けた。


「……え」


彼女は、自分の手の甲を見た。机の角で擦った、赤い筋があった。


指を当てる。


赤い筋は、のろのろと、半分だけ薄れて、止まった。


「なんで。遅い、こんなの、あたしの治癒じゃない」


「あなたの治癒です。壁の向こうのぶんが、まだ残ってるだけで」


アリシアの顔から、色が引いていった。


「……最初から。来週から入るって言ってた頃から、あたしの治癒、これだったの」


同時に、ガロンが呻いて膝をついた。


「……ああ。これだ」


彼は自分の膝を叩いて、笑った。


「毎朝、聖女さまに治してもらってたんだ。日当から、治療代を引かれてな」


「戻しなさいよ!」


アリシアが、僕の胸倉を掴んだ。


「お金なら払う! 報奨も全部あげるから!」


「無駄だ、聖女さま」


ガロンが、床に座ったまま言った。


「そいつは戻さねえ。……俺も同じこと言ったんだ。キルスの酒場の床でな」


セラが、日傘をたたんだ。


「Aランク目前、だったっけ」


ドグが吹き出しかけて、やめた。


右手の端が、ずしりと重くなった。


二人ぶんの上に、十九人ぶんの功が積まれていく。


首の後ろで、閉じていたほうの目が、半分まで押し開けられた。


「……大丈夫です。先に、言ってあったので」


アリシアは、僕の胸倉から手を離して、机の列の、終わりの見えないほうを見た。


「受付もいない。位も削られた。……じゃあ、ここは誰が決めてるのよ」


「誰も」


答えてから、しまったと思った。


「いちばん奥の机の椅子は、空いてます」


「……空いてる」


アリシアが、歩き出した。


「待ってください。座らないでください」


追えなかった。奥へ戻れば、端が緩む。


あの椅子は、たぶん僕の形をしている。そんな気がした。


白い法衣が、机のあいだを遠ざかっていく。頁をめくっていた第六号さんが、その背中を見送って、また次の頁をめくった。


「決める人がいないなら」


ずっと奥から、声だけが届いた。


「あたしが、決めてあげる」


首の内側で、ヨナさんが息を呑んだ。


「ルカさん。ペンの、おとが、ぜんぶ、とまりました」


僕は、奥を見た。


いちばん太い糸が、たわんで、それから向きを変えた。天窓へではない。搬入口のほうへ。東へ。


「キルスの領主の娘。蔵を開けて、あたしの届け出を減らしてくれた子よ」


最初の日のあと、二度と誰も座らなかった椅子の上で、八十年ぶりの一行が書かれはじめた。

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