第19話 伺いに来ました。お約束でしたので
夜が、明けかけていた。机の列は、そのあいだも書き続けていた。
僕は、右手を張ったまま立っていた。端を握った指が、もう自分の指という感じがしない。一人ぶんが、背中に溜まっていく。
「ルカさん」
首の内側で、ヨナさんが言った。
「おとが、ちかいです」
「便ですか」
「はい。……ひがしから、きます。くるまが、いちだいと、うまが、にとう」
ミナが、搬入口のほうから戻ってきた。
「出口、見てきました。正面です。わたしは通れます」
「帳面の上で、着いてますからね」
彼女は、僕の右手を見た。
「ルカさんは、そこから動けないんですよね」
「張っていないと、欠損に戻ります」
「……何歩なら」
「分かりません。試してません」
ミナは、髪を耳にかけた。
「わたし、言いましたよね。出るとき、荷を一つ持って出ますって」
「はい」
「その一つは、ルカさんのつもりでした」
「知ってます」
「変えます」
彼女は、搬入口へ続く扉を指した。
「連れて帰る相手、あっちにいますよね」
◆
歩いてみた。
三歩目で、端が鳴った。ぴん、と、糸ではなく骨のほうが鳴った気がした。
「ルカさん、無理です!」
「いえ。……張ったまま、行けます」
三十を数えたあたりで、扉に手が届いた。
背中で、頁をめくる音が、まだ続いていた。第六号さんは、顔を上げなかった。
第五号さんは、同じ場所にいた。帳面を開き、まっすぐ座っている。
「おはようございます」
「伺いに来ました。お約束でしたので」
彼の手が、止まった。判を、そっと置いた。
「……ずいぶん、お早い」
「急ぎの用でして」
「伺います」
「受け入れないでください」
第五号さんは、帳面から顔を上げた。
「……もう一度、お願いいたします」
「今朝、東から便が着きます。器が十二と、代理が一」
「存じております。控も、用意してあります」
「その十二人のうちの一人は、キルスの領主の娘さんの、母親です」
僕は、搬入口のほうを見た。
「アデルさんの、お母さんです。リゼさんといいます」
「代理の方は、ベルナール様です。返した声で、この机に嘘をついてくれていた人です」
「……それで、帳尻が合わなくなったのですね」
「はい。露見したから、閉鎖です」
「東の便は、二つ出ております。一つは、閉鎖の回送。もう一つは、そのあとに出た欠損補充の一名ぶんです」
止めません、と僕は西の関で言った。その便は、今も東へ走っている。
「では、いよいよわたしの欄です。受入は、わたしの欄ですので」
「だから、伺いに来ました」
机の脚に結ばれた一本を、もう一度読む。
《この者、受入のため、動くべからず》
「受け入れなければ、その便は着いていないことになります。着いていない荷は、荷解きをされません」
「されません」
「それだけでいいんです。十二人は、器になりません」
「なりません。……ただし」
第五号さんは、自分の首に手をやった。
「わたしは、受け入れる者です。断り方を、存じません」
僕は、少しだけ笑ってしまった。
「僕の知り合いに、同じことを言った人がいます」
「……」
「怒り方を存じません、と。今ごろ、井戸端で練習していると思います」
搬入口の外で、蹄の音がした。まだ遠いが、近づいていた。
「代償を、言います」
「あなたの糸を解くと、八十年ぶんの受入が全部あなたに戻ります。数えたものも、写したものも。……耐えられません」
「はい」
「もう一つ。受入がいなくなれば、この管区は、今日から誰も受け取れません。欠けたぶんは、積まれます」
「積まれれば」
「配給が細ります。どこかの街の、どなたかの明日が」
「それと、あなたが一人、器から抜けます。そのぶんも、積まれます」
「……はい」
僕は、右手の端を握り直した。
「そのぶんは、僕が持ちます。持てるだけ」
「持てなくなったら、そこから先は、落ちます。僕には、止められません」
第五号さんは、長いこと判を見て、それから、初めて裏返した。
「解呪師さま」
「はい」
「わたしは、この机で数えたものの名を、ひとつも存じません」
「……はい」
「数えるのに、名は要らぬと書いてございました」
「わたしは、あとで、怒ってよろしいのでしょうか」
胸の奥が、詰まった。
「はい。どうぞ、怒ってください。時間なら、あります」
「……では」
第五号さんは、首すじをこちらへ傾けた。
「解いてください」
「解いていいですか」
「はい」
ぱち。
音は、それだけだった。
糸が、机の脚から砂になって落ちた。
第五号さんは、動かなかった。
一拍。
それから、机のほうが鳴った。脚が床を掻き、第五号さんの身体が、後ろへ持っていかれる。
右手は、使えなかった。僕は左手だけを伸ばして、その襟を掴んだ。
支えきれなかった。二人とも、床に落ちた。
「――ぐ、」
背中が跳ねた。肩が、腕が、指が、順番に震えていく。
「第五号さん」
「かぞえ、ました」
手が、床から浮かなかった。
「いま、いちどに、ぜんぶ」
「はい」
「……おおすぎます」
「はい。一人ずつ、思い出してください。急がなくていいので」
蹄の音が、止まった。
搬入口の外に、黒塗りの箱が一台。御者が降りてくる。
「受付。着きました。器十二、代理一」
誰も、答えなかった。
「……おい。受付」
第五号さんは、床に頰をつけたまま、目だけをそちらへ向けた。
「本日は、……受け入れません」
「は?」
御者が、送り状をめくって、めくって、めくって――やめた。
「そんな欄、ねえぞ」
「ございません。わたしが、初めてです」
「じゃあ、こいつら、どこへ持って帰りゃいい。キルスは閉鎖だぞ」
答えたのは、床のほうだった。
「控に、写しておりません」
「……あ?」
「写していない荷は、わたしの欄では、ございません」
第五号さんの指が、ほんの少しだけ、箱のほうへ動いた。
「開けて、よろしい」
御者は、長いこと立っていた。それから、閂に手をかけた。
扉が、開いた。藁の匂いがした。
十二人が、壁を背にして、ただ並んで座っていた。どの首にも、太い縄は繋がっていない。
いちばん奥に、もう一人。痩せた人が、膝を抱えていた。ベルナール様だった。
ミナが、箱に上がった。膝をついて、いちばん手前の人の肩に手を置く。
「お名前を、伺っても」
返事は、すぐには来なかった。もう一度、同じ高さで聞いた。
「お名前を、伺っても」
「……サシャ」
「サシャさん」
ミナは、指を一本折った。
「次の方」
一人ずつ、名前が出てきた。出てこない人には、出てくるまで待った。
十二人目で、痩せた女が顔を上げた。金の髪と、上を向いた鼻。僕は一度だけ見たことがある。
「リゼ、です」
「リゼさん」
ミナは、指を折りきった手を、そのまま胸に当てた。
「アデルさまが、お待ちです」
女の唇が、震えた。声にはならなかった。
「帰る先が要るので」
「十二人ぶん、聞きました」
◆
御者が、荷車を一台、箱から外してくれた。
ミナが、第五号さんの腕を肩に回して、引きずるようにその上へ乗せた。
腰から下が、ついてこない。自分の足を、思い出していなかった。
「重いですか」
「思っていたより、楽に持ち上がりました」
「この人、ずっと座っていただけなので」
「……はい」
「東へ行きます。十二人と、ベルナールさまと、この方と」
「キルスは、閉鎖ですよ」
「閉鎖でも、アデルさまはいます」
彼女は僕を見た。
「ルカさんは」
「ここで、持ってます」
ミナは何か言いかけて、やめた。かわりに、僕の右手を両手で強く握った。
「重いですか」
「二人ぶんです。ヨナさんの席のと、第五号さんのと」
「二人ぶんなら、持てますね」
麦畑で彼女が言った言葉が、少し形を変えて、また返ってきた。
荷車が、搬入口の光の中へ出ていく。
その上で、第五号さんが、顔だけをこちらへ回した。
「解呪師さま。……おつたえ、しそびれ、ました」
声が、もう続かなくなっていた。
「はい」
「おくの、いちばん、おおきな、つくえの、せきですが」
首の後ろが、ちりりと痛んだ。
「八十年、どなたも座っておりません。……いちばん、さいしょの、ひに、いちど、だけ」
「受け入れたんですね」
「はい」
瞼が、落ちかけた。ミナが荷車を止めて、その肩を揺すった。
思い出すのに、ずいぶん長くかかった。
「にふだに、こう……かいて、ございました」
朝の光が、搬入口いっぱいに差していた。
「『解呪師 一名』」




