第17話 僕は、まだ着いていないことにします
窓のない箱の中は、藁の匂いがした。
藁に、人の重みでへこんだ跡が三つ。宿場の裏で開けた馬車と、同じ形だった。
「ルカさん。……ここ、人が乗ってましたね」
「三人です」
ミナは、へこみのひとつに手を置いて、しばらく動かなかった。
箱が揺れた。西へ、ゆっくりと。
僕は襟をゆるめて、指で触れた。閉じた二つの目。その片方が、開いている。
峠で開いたときは、熱を持っただけだった。今は、西を向くたび、そちらへ引かれる。
「ヨナさん。気持ち悪くないですか」
「……しずかです」
首の内側で、彼女は少し笑った。相変わらず下手だった。
「きょうは、いつもより、ちかくで、かぞえて、います」
◆
本院に、門はなかった。
塀も、堀もない。近づく者を止める仕掛けが、どこにもない。
あるのは、ひたすら横に長い、屋根の低い建物だった。
その端に、荷を入れるための大きな口が開いている。
「搬入口です。正面が受付で、荷はこっち。数えられてから入るそうです」
ミナが、御者台から戻ってきて言った。
僕は、彼女の首を見た。白くなった一本と、支所の台帳から結んだ欠番の席の一本。
「君は、帳面の上では、もうここに届いてます。正面から入れます」
「ルカさんは」
「荷で入ります」
僕は襟を戻した。
「刻印が進んでます。今の僕は、読めば器です。器は、荷の口から入るものなので」
「それ、都合がいいんですか。悪いんですか」
「両方です。入れます。かわりに、入った先で荷解きをされます」
箱が、止まった。外で、誰かが番号を読み上げていた。
搬入口の中は、思ったより明るかった。
天窓から、糸が降りている。何百本も。
降りて、奥へ流れて、一つの台の上で止まっていた。
机だった。
背の低い、なんの飾りもない、木の机。
その向こうに、男が一人座っていた。
紙の束を左に置き、右に判を置き、手元の帳面を開いている。
顔を上げた。
「回収人、第五号です」
僕は、その首を見た。
糸が一本だけ出ていて、それが、机の脚に結ばれていた。
「……あなた、机に結ばれてますね」
「はい。この席から、動けません」
「出てこないのは、そのせいですか」
「出る必要が、ございませんので」
第五号さんは、判の位置を少し直した。
「一号から四号までは、外に出す者です。……四人とも、片づきませんでしたが」
「すみません」
「謝られる筋合いが、わたしにはございません」
彼は、帳面をめくった。
「わたしは、受け入れる者です。来た荷を、数えて、控に写す。この仕掛けが始まった日から、それだけを」
僕は、机の脚へ伸びた一本を読んだ。
《この者、受入のため、動くべからず》
「……あなたも、器ですね」
「いちばん古い器です」
彼は、少しだけ顔を上げた。
「あなたが、いちばん新しい器です。ようこそ」
台の上に、荷札が置かれた。
僕の襟から垂れた一本が、いつのまにか、その荷札に結ばれている。
結んだのは、この人じゃない。机のほうだ。荷札が置かれれば、そうなると書いてある。
「解呪師、一名。本日着」
第五号さんが読み上げた。
「受入は三つです。数える。輪を開く。控に写す」
「わたしの控では、あなたは一名で届いております。……荷が、一名ぶん重うございますね」
首の後ろが、ちりりと痛んだ。
「ヨナさんです」
「番号しか存じません。控に写されたものは、帳面の中で生きます。……それは、消えるということです」
一歩、下がろうとした。下がれない。
荷は、動かないものだ。荷札が、そう書いている。
開いた片目の奥が、机のほうへ引かれていた。
「いいです。わたしは」
ヨナさんの声が、細かった。
「よくないです」
「あなたは、ここまで、きました」
「まだ着いてません」
言ってから、自分の口が止まった。
――着いて、ない。
僕は、荷札を見た。
『解呪師 一名 本日着』
「第五号さん」
「はい」
「この机は、書いてある通りにしか動けませんね」
「そのように、できております」
「では、着いていない荷は、受け入れられますか」
彼の手が、初めて止まった。
「……受け入れられません」
「ありがとうございます」
搬入口の外に、若い御者が立っていた。継所で釣瓶を落とした人だ。
「先に、代償を言います」
「……はい」
「この一文字を抜くと、この便は荷を降ろしていないことになります。到着記録が、消えます」
「俺は」
「帳面の上で、途中でいなくなった御者になります」
御者は、天窓を見上げた。
彼には糸は視えない。それでも、しばらく見上げていた。
「継所のみんなは」
「呼ばれる件も含めて、継所を出たときのままです。増えも減りもしません」
「……はい」
「回送が戻った件は、今ごろ鳥が出ています。それは、僕には止められません」
「じゃあ、いいです」
「もう一つあります。僕自身のぶんです」
僕は、机の上の判を見た。
「着いていない荷は、受け取られません。受け取られていないものには、出す手続きもありません。僕は、ここから出る記録を持てなくなります」
ミナが、入り口に立っていた。正面から入って、奥を回ってきたらしい。
「それ、出られないってことですか」
「たぶん、そうです」
「たぶん」
「……はい。分かりません」
ミナは、髪を耳にかけた。それから、はっきりと言った。
「わたしは、正面から入りました。帳面の上で、着いてます」
「はい」
「じゃあ、わたしが出るとき、荷を一つ持って出ます」
「ミナさん」
「聞くのは得意なので、出口も聞いてあります」
僕は、少しだけ笑ってしまった。
「ヨナさん。聞いていいですか」
「はい」
「まだ着いていないことにします。いいですか」
首の内側で、息が一度、深く吸われた。
「わたしは、ずっと、ついたことに、なって、いました」
「はい」
「いちども、つかずに、いてみたいです」
僕は、荷札に指をかけた。
『本日着』の、最後の一字だけ。
ぱち。
音は、それだけだった。
紙の上で、墨が一文字ぶん、砂になって落ちた。
『解呪師 一名 本日』
足が、動いた。
引かれていた片目の熱が、すう、と引いていく。机が、僕から手を離した。
第五号さんが、判を持ち上げた。そのまま、下ろせずにいた。
「……押す欄が、ございません」
「はい」
「あなたは着いておりません。では、ここにもおりません」
「そうなりますね」
僕は、机の横を歩いて抜けた。
第五号さんは追ってこなかった。追えないのだ。首が、机に結ばれている。
すれ違いざま、足を止めた。
「第五号さん。あなたの糸、解けます」
彼は、判を置いた。
「代償を、伺っても」
「八十年ぶんの受入が、全部あなたに戻ります。数えたものも、写したものも。……たぶん、耐えられません」
「では、けっこうです」
「はい」
「ですが、いつか、伺いに来てください」
彼は、帳面を閉じて、顔を上げた。
帳面を閉じて人を見るのは、たぶん、八十年ぶりなのだろう。
机の向こうの扉を、ミナが押し開けた。
部屋は、終わりが見えなかった。
机が並んでいる。同じ高さの、飾りのない木の机が、両側に、ずっと奥まで。
その一つ一つに帳面が開かれていて、そこから糸が出ていた。
帳面から出た糸は、いったん壁の向こうへ潜っていた。あの奥と、その先の窓のない部屋に、九千四百十一人が座っている。
そこを抜けたぶんだけが、天窓から出て、外の梁で折り返して、管区じゅうへ落ちていく。
机は、誰に何を通すかを決めているだけだ。
「……ぜんぶ、机です」
僕は、立ち尽くした。
「塔も、玉座も、女神像も、ありません」
ミナが、いちばん手前の帳面を覗き込んだ。
「ルカさん。誰も座ってません」
「はい」
「一人も、です」
いちばん奥に、ほかより少し大きな机があった。いちばん太い糸が、そこから出ていた。
椅子が、一つ。
空いていた。
その机の上で、帳面が開いていた。
羽根ペンが、ひとりでに立ち上がって、一行を書き足した。
『西方管区 器総数 九千四百十一』
そして、その下に、もう一行。
『欠損 一 補充要』
ペンが、置かれた。
持つ手は、どこにもなかった。
欠損が一。それはヨナさんの席のことで、僕のことは、どこにも書かれていない。書かれていないものは、補充もされない。
「……誰が、書いてるんですか」
ミナが言った。
遠くで、第五号さんの声が答えた。
机の並びを渡って、ひどく小さく届いた。
「どなたも」
「八十年、どなたも、座っておりません」




