第16話 出てこないなら、こちらから伺います
西の関を抜けて、二日。
街道は、まっすぐだった。まっすぐすぎて、途中で嫌になるくらいだ。
「ルカさん。畑があります」
「はい」
「人が、いませんね」
麦は実っていた。刈る者が、いないだけだった。
僕は、その上を見た。
何も降っていない。
キルスなら空が黒く見えるはずの高さに、ただの空があった。
「一本もありません。関を出てから、ずっとです」
「本院に近いのに、ですか」
「近いから、だと思います」
灯りの真下が、いちばん暗い。あれと同じ理屈だ。
日が傾くころ、道の脇に屋根が並んでいるのが見えた。
厩と、井戸と、低い家が四つ。
看板も、立て札もない。かわりに、柱に番号が彫ってあった。
「継所です」
近づいてきた老人が言った。
「便の馬を替える場所だ。旅籠じゃない。……が、水はやる」
「助かります。ミナと申します」
ミナが頭を下げて、それから、いつもの調子で聞いた。
「お名前を、伺っても」
老人は、一度まばたきをした。
「番号しか、ないよ」
「……はい」
「ここにいるのは、十六人。全員そうだ。数える側だからな。数える者が数えられていないわけがない」
西の関の書記と、同じ台詞だった。
言い方だけが、ずいぶん疲れていた。
厩の裏に、黒塗りの箱が一台停まっていた。
窓がない。御者台の横に、閉じた二つの目。
「今夜、本院へ戻る便だ」
老人が、顎でしゃくった。
「あんたら、乗せはせんよ。荷しか積まん」
◆
異変が起きたのは、そのすぐあとだった。
井戸で、若い御者が釣瓶を落とした。
上がってきた桶の水が、濁っていた。
「……おい、どうなってる」
竈の火が、同時に落ちた。
厩で馬が鳴いた。蹄を痛めたのではない。急に自分の脚が重くなった顔をしていた。
僕だけが、その理由を見ていた。
糸が、上がっていく。
井戸から、竈から、馬の脚から、十六人の首から。ほどけたのでも、切れたのでもない。根元を掴んで、上へ引き上げられていた。
「ルカさん」
「はい。……全部、引き上げられてます」
「誰にですか」
「誰も来ていません」
厩から出てきた老人が、一枚の紙を持っていた。
墨が、まだ新しい。
「さっき、鳥で届いた」
『西方街道 当分の間 閉鎖。管内割当は本院へ回送とする』
それだけだった。
罵声もない。兵も来ない。
回収人は、第一号さんから第四号さんまで、みんな僕の前に立った。
ここは、誰も立たない。
「第五号さんは、本院から出ないそうです」
僕は紙を返した。
「出ないかわりに、こうするんですね。僕のまわりを、空にする」
十六人が、黙って僕を見ていた。
責める目ではなかった。それが、いちばんこたえた。
「あんたのせいじゃない」
老人が言った。
「先月は南の道でやった。人がいなくなるまで、水を濁らせる。それだけだ」
「……ここも、消えますか」
「消えんよ。番号があるからな。読まれたまま、干上がるだけだ」
首の内側で、ヨナさんが小さく息を吸った。
「ルカさん」
「はい」
「おとが、とまりました」
「音」
「かぞえていた、おとです。ずっと、さっきまで、していたのに」
僕は厩の柱を見た。
そこに、麻紐で縛った束が掛かっていた。
束といっても、荷ではない。
十六人ぶんと、井戸と、竈と、馬の脚ぶんの糸が、一つにまとめて縛ってある。
荷札が下がっていた。
《回送中につき 宛先 無》
「……なるほど」
「ルカさん?」
「まだ、本院に着いてません」
僕は束に顔を近づけた。
「引き上げて、今夜の便で運ぶ予定なんです。だから今は、柱に掛かってる。宛先は無いと書いてあるので、今この糸は、誰のものでもありません」
「解けるんですか」
「解きます。解くのは、糸じゃなくて、この一枚です」
ミナが、荷札を見た。彼女には、ただの紙にしか見えていない。
「『無』を、抜きます」
「……それだけで」
「糸は、最後に結ばれていた場所を覚えてます。宛先が消えれば、勝手に戻ります。迷子の荷が出ないように、本院が自分でそう決めたので」
言ってから、僕は背すじを伸ばした。
先に言うのが、僕の決まりだ。
「代償を、三つ言います」
十六人が、井戸のまわりに集まってきた。
「一つ目。今夜の便が、空で本院へ着きます。回送が着かなかった責任は、この継所に来ます」
老人の顔は、動かなかった。
「二つ目。あなたがたは番号を持っています。消されません。かわりに、欠損として本院に呼ばれます」
「呼ばれたら、どうなる」
「窓のない部屋に、座らされます。僕が見たのは十二人の部屋でした。本院には、もっとあると思います」
誰かが、唾を飲んだ。
「三つ目。戻るのは今日だけです。来月また回送が出れば、同じことが起きます」
僕は指を上げた。
「その上で、聞きます」
十六人を、順番に見た。
「解いていいですか」
井戸が、ぎい、と鳴った。
先に答えたのは、釣瓶を落とした若い御者だった。
「……俺、今日まで、馬が速いのは俺の手綱だと思ってました」
「はい」
「違ったんですよね」
「はい」
「じゃあ、返してもらいましょう。半分は、俺のぶんだ」
テルムの質店で、同じことを言った人がいた。名前はマルグといった。
老人が、深く息を吐いた。
「わしは、四十年ここで馬を替えた。呼ばれるなら呼ばれる。……どうせ、干上がる」
「はい」
「はい」が、井戸端を埋めていった。
ミナが指を折って、数えていた。数えながら、一人ずつ番号を聞いていた。
「帰る先が要るので」
そう言って、彼女は最後の一人にも同じことを聞いた。
僕は荷札の端に、指をかけた。
キルスの北門でやったのと、同じ手つきだった。あのときも、ほどく必要すらなかった。
一文字を、抜くだけでいい。
ぱち。
音は、それだけだった。
麻紐が、ひとりでにゆるんだ。
束が、ほどけた。
糸が、柱から滑り落ちて――上ではなく、下へ散った。
井戸へ。竈へ。厩へ。十六人の首へ。
一本ずつ、ぱらぱらと、雨が屋根に落ちるみたいに。
「……水が」
若い御者が、桶を覗き込んでいた。
底が、見えていた。
竈で火が上がって、馬が一度、機嫌よく鳴いた。
歓声は、上がらなかった。
かわりに、老人が井戸の縁に腰を下ろして、長いこと動かなかった。
「戻ったな」
「はい」
「四十年で、初めてだ。上から降りてきたんじゃなく、戻ってきたのは」
首の内側で、ヨナさんが言った。
「ルカさん」
「はい」
「おとが、また、はじまりました」
「数える音ですか」
「はい。……でも」
彼女は、言葉を探していた。
「うえから、では、ありません」
「……上から、じゃない」
「よこから、します。みみと、おなじ、たかさです」
僕は、顔を上げた。
西の地平。
関の外で見たときは、雲よりずっと高いところから、太い糸が一本垂れていた。
今、近くで見ると。
糸は、たしかに高いところにあった。ただ、そこで終わっていなかった。
てっぺんで、折り返している。
梁だ。滑車だ。何でもいい。とにかくそこで向きを変えて、糸はまた下へ降りていた。
降りた先は、地面すれすれの、屋根の低い建物だった。
長い。ひたすら横に長い。塔でも、城でも、聖堂でもない。
「ルカさん、何が視えてますか」
「……折り返してます」
僕は、自分の声が乾いているのに気づいた。
「天から垂れてるんじゃない。いったん上へ上げて、下ろしてるだけです」
「どうして、そんな」
「そのほうが、ありがたく見えるからだと思います」
八十年、誰も上を見なかった。見た者は、高すぎて諦めた。
「ミナさん。あれ、高くありません」
「はい」
「机の高さです」
そのとき、厩のほうから、老人が走ってきた。
走れるとは思っていなかった。
手に、また一枚の紙。
「鳥が、もう一度来た」
僕は受け取って、読んだ。
たった二行だった。
『解呪師 一名 本日着』
『受付にて お待ちしております』
ミナが、僕の袖を掴んだ。
「……待ってるって、書いてあります?」
「はい」
出てこない。追ってもこない。
かわりに、椅子を出して待っている。
僕は紙を畳んで、懐に入れた。
「ミナさん。今夜の便、空で出るんですよね」
「はい」
彼女は、もう分かっていた顔をしていた。
「空なら、荷を積めますね」




