第14話 あとで、怒ってください
峠を下りきったところに、水場だけの集落があった。
岩のあいだに井戸がひとつ。屋根の低い家が、十軒ほど。
「ルカさん、少し休みましょう」
「はい。……水を、一杯だけ」
首の後ろが重かった。ヨナさんの重さとは別の重さが、そこに乗っている。
坂の途中ですれ違った荷売りの糸が、ほんの少しだけ、僕のほうへ傾いた。
(……寄ってくる)
配られる側の糸は、配る側に近づくと、そうなる。
井戸端で、老婆が桶を引き上げていた。
「すみません。水を、いただいても」
ミナが頭を下げる。
「おお、どうぞ。遠くから来なすったね」
「はい。二人で」
老婆は、ミナだけを見ていた。
僕はすぐ隣に立っている。そちらへは、一度も目が向かない。
「……二人?」
「はい。連れが」
老婆は僕のいるあたりを見て、それから何も見なかった顔で桶を担いだ。
ミナの指が、僕の袖をつかんだ。
「ルカさん。あの人、わたしにしか喋りませんでした」
僕は、集落を見回した。
二十二人。全員の首から、糸が出ている。
出て、上へ登って――途中で、終わっていた。
切れてはいない。ほどけてもいない。
ただ、その先が、どこへも届いていなかった。
首の内側で、ヨナさんが言った。
「ルカさん」
「はい」
「ここ、なにかが、とおる、おとが、しません」
◆
宿と呼ぶには小さい家で、主人がミナに寝床を貸すと言った。
言ってから、急に手を止めた。
「……あんた、どこの使いだって?」
「モルス家です。通行証があります」
ミナが首すじを傾けた。
僕は、そこを見た。
糸は、ある。あるのに、文字が消えていた。びっしり書かれていたはずの一文が、端から白くなっていく。
「読めねえな」
主人は戸を閉めた。
「悪いが、読めねえもんは泊められん」
「ルカさん。わたし、また何も持ってない人になりました」
「……はい」
井戸端に、人が座っていた。
さっきまで、いなかった。
旅装でも、外套でもない。ただの、どこにでもいる中年の男だった。
僕は、その首を見た。
糸が一本もない――のではなかった。
そこだけ、何も映らない。
人の形をした、空白が座っていた。
「回収人、第四号です」
男が言った。
「第三号さんから、伺いましたか」
「伺いません。わたしは、伺わないので」
膝の上に、帳面が一冊。
彼は、ページをめくった。
書いてあった文字が、めくるそばから消えていく。
「あなたは、視ないんですね」
「視ません。探しません」
第四号さんは、次のページに指をかけた。
「消します」
「この世は、人を見ておりません」
彼は、井戸の縁を指した。
「札を見ます。門も、宿も、パン屋も。ならば、札を白くすればよい」
「その人は、どこにもいなくなりますね」
「はい。殺しません。誰も探さなくなるだけです」
「ここの人たちは」
「先に消しました。消せと、書いてありましたので」
「……なぜ」
「あなたが、ここで水を貰えないようにするためです。ついでに、そちらの娘のぶんも消しました」
ミナが、自分の首に手をやった。
「わたしのも、同じことをされたんですか」
僕は、二つを見比べた。
村の糸は、根元も文字も残っている。消えたのは、行き先だけだ。
ミナの糸は、逆だった。糸はそのままで、書いてあった文のほうが、白い。
「……逆です」
「どっちが、まずいですか」
「行き先なら、結び直せます」
僕は、言いたくないほうを言った。
「文は、書けません。僕は、読むだけなので」
手を上げた。
上げて、下ろした。
解く場所がない。
彼には糸がない。消された糸には、向こう側がない。結び直しても、また白くされる。
視えているのに、手が出ない。二度目だった。
「わたしの帳面に、宛先のない番号が一つ残っております。……あなたのところで、止まっておりますね」
第四号さんが、帳面をめくった。
首の後ろが、ちりりと痛んだ。
「ヨナさんです」
「番号しか存じません。もともと、消してよいものです」
「ルカさん。わたしは、いいです」
「よくないです」
輪を開けば、彼女を外へ出せる。出したら、そこで白くされる。
開けない。閉じたままでは、届かない。
内側にいる人を守りながら、内側へ手が出せない。
(詰んでる)
――いや。
僕は、第四号さんの首を見た。
糸はない。
けれど、襟が風でずれた一瞬、皮膚が見えた。
彫ってある。
閉じた、二つの目。
「あなた、器ですね」
第四号さんの指が、止まった。
「でした」
「消されたんですね」
「はい。いちばん初めに」
「刻印は、残ってます」
「消せませんので」
僕は、一歩近づいた。
「僕も、そう教わりました。入ったものは、もう糸じゃない。消せない」
言いながら、自分の首の後ろに触れた。
「消せないということは、まだ受け口だということです」
「……何を」
「あなた、空っぽのままなんですよ。ずっと」
「ミナさん」
「はい」
「名前を」
「聞いてあります。二十二人ぶん」
彼女はもう、指を折りはじめていた。
「井戸のおばあさん、サナさん。宿のご主人、ドラさん――」
「全員に、先に伝えてください。この人が生きているあいだだけ、読まれる、と。それから、ひとつだけ聞いてください」
僕は、垂れた糸の一本に手を伸ばした。
「結んでいいですか、と」
◆
ぱち、ではなかった。
つ、と。
一本目。老婆の糸を引き寄せて、僕の指を通して、第四号さんの首の刻印へ。
「――ぁ」
第四号さんが、初めて声を漏らした。
「二本目」
つ、と。
「やめなさい」
「三本目」
つ、と。
糸は、まっすぐ渡らない。いったん僕を抜ける。
二十二人ぶんの暮らしが、僕の腕と喉を順番に通っていく。
橋の上で三十一本を返した日と、同じ重さだった。
違うのは、今度は返していないことだ。
「これは、返却じゃありません」
僕は、正直に言った。
「積んでます。あなたに」
「わたしは、器ではありません」
「空いてました」
つ、と。
「おやめなさい。わたしは、いつ消えるか分からない者です」
手は止めなかった。
「だから、これは僕の落ち度です。この人たちは、これからあなたが生きているあいだだけ、読まれます」
ミナが、名前を読み上げ続けている。
一本ごとに、家の中で小さな声が上がった。
読めなかった人が、読まれる人に戻っていく。
「二十二本目」
つ、と。
音は、それだけだった。
第四号さんが、膝をついた。
帳面が、砂の上に落ちた。
彼は自分の首に手をやって、それから、白いページに手をかけた。
かけて、止めた。
「……消せません」
「消せます。あなたを消せば」
僕は、息を整えながら言った。
「二十二人が、一緒に落ちます」
第四号さんは、長いこと動かなかった。
やがて、低く笑った。
「わたしは、誰にも探されない者でした」
「はい」
「今は、二十二人に探されます」
「……厄介なものを、くださった」
僕は、膝をついたまま頭を下げた。
「聞きませんでした」
「聞かずにやったのは、あなたが初めてじゃありません。キルスでも、街道でも。……ぜんぶ、僕の都合でした」
「あとで、怒ってください」
「……怒り方を、存じません」
「覚えてください。時間なら、あります」
日が傾いてから、彼は井戸の縁に座り直した。
もう、どこへも行けない身体だった。
「ひとつ、申し上げます」
「どうぞ」
「西の関へは、札のない者を連れていかぬことです。届け出られます」
僕はミナを見た。
首の糸は、白いままだ。
「さっき言った通りです。すみません、これは戻せません」
ミナは自分の首に触れて、それから、けろりと言った。
「じゃあ、歩きます」
「関があります」
「聞くのは得意なので」
桶を担いだ老婆が、井戸のほうへ下りてきた。
僕の前で足を止めて、まじまじと顔を見る。
「あんた……いたのかい」
「はい。さっきから」
「飲んでいきな。うちのは、冷たいよ」
第四号さんが、ふと顔を上げた。
「五号は、来ませんよ」
「なぜです」
「本院から出ませんので」
風が、岩を鳴らしていった。
僕たちは西へ歩き出した。
首の後ろが、じん、と熱い。開いた片目の奥で、何かが一度だけ動いた気がした。
「ルカさん」
ヨナさんが言った。
「はい」
「かぞえていた、おとが、きこえます」
「……どこからですか」
「にしから、です」




