第13話 はじめまして。視えているんですね
峠の頂に、石が積んであった。
旅人が一つずつ置いていく類の塚だ。その横に、さっきの商人風の男が座っていた。
下っていったはずの人が、僕たちより先に、上にいた。
「ルカさん」
「はい。下がらなくていいです」
「下がりません」
男が杖を膝に立てて、丁寧に頭を下げた。
「回収人、第三号です」
風が、岩のあいだを鳴らしていった。
「二号から伺っています。橋の上で、三十二本」
「三十一本です」
「三十二本ですよ」
男は、僕の首のあたりを見た。
正確には、襟の下を。
「一本は、まだお持ちだ」
僕は、自分の指先を見ないように気をつけた。
試すなら、今だ。
右手を、何気なく上げる。男の肩のあたりに垂れている、細い糸のほうへ。
「そこは、よしましょう」
指が、止まった。
「……」
「そこは宿場の井戸に繋いであります。抜くと、水が濁ります」
男は杖を持ち替えただけだった。こちらを見てもいない。
僕の指が、どの糸へ伸びかけたのかを、言い当てた。
「――はじめまして」
僕は、上げた手をそのまま下ろした。
「視えているんですね」
「ええ」
「同じものが」
「同じかどうかは、分かりません。わたしは、あなたのようには解けませんので」
男は立ち上がった。
「できるのは、結ぶことだけです」
第一号さんは端がなかった。第二号さんは人質しか持っていなかった。
この人は、そのどちらでもない。ただ、見ている。
僕がガロンたちの前でも、グレイドの前でも、監察官の前でも、一度も奪われたことのなかったもの。
こちらの手元が、相手に見えていないという、それだけのこと。
「失礼します」
男の杖が、動いた。
袖口から糸が走る。速くはない。第二号さんのほうがずっと速かった。
ただ、狙いが正確だった。
首でも、手首でもない。
襟の下。閉じた二つの目の、その上。
輪になった僕の糸の、ちょうど一番細いところへ。
つ、と。
「――っ」
首の後ろが、跳ねた。
輪に、端ができた。
「ルカさん!」
ミナの声が遠かった。
足が、動いていた。
僕の意思ではない。西へ、峠の下りのほうへ、片足ずつ、勝手に前へ出ていく。
領主館の広間で膝が折れた時と、同じだった。
違うのは、あの時は命令だったことだ。
今度のこれは、命令ですらない。
ただ、引かれている。
「跪けとは申しません」
第三号さんが、僕の横に並んで歩き出した。
「わたしも命令を持っておりませんので。ただ、糸の先を、西へ繋ぎ直しました」
「……釣りですね」
「はい。お上手な言い方です」
僕は右手を上げた。結ばれた点に指をかけて、読んだ。
読んで、指が止まった。
第三号さんが、僕の糸に結んだ一本。その根元は、彼の袖口ではなかった。
いったん僕の輪の中へ入って、輪の内側をぐるりと回って、ヨナさんの首の、その向こうへ。
「解けば」
第三号さんが言った。
「輪の中の方が、先に落ちます」
首の内側で、ヨナさんが小さく息を吸った。
「ルカさん」
「言わないでください」
「といて、ください」
「言わないでくださいと、言いました」
足が、もう十歩進んでいた。
ミナが走ってきて、僕の腕を掴んだ。掴んで、引いた。引けていない。
「どうして、こんなに正確に結べるんですか」
僕は、歩きながら聞いた。
「視えているからです」
「第二号さんも、読んでました。報告書を」
「読むのと、視るのは、違います」
第三号さんは、少し寂しそうに言った。
「わたしは、生まれてから一度も、人の顔を先に見たことがありません。糸が先に見えるので」
――そこだ。
僕は、彼の顔を見た。
正面から、まっすぐに。
そして、彼の目のあたりを見た。
(……ある)
両の目尻から、細い糸が二本。こめかみを回って、峠の向こう――西へ、まっすぐ伸びている。
細いのに、さっきから一度も揺れていない。ずっと引かれている糸の、張り方だった。
「第三号さん」
「はい」
「あなたのその目、洗礼でもらったものですか」
第三号さんの足が、初めて止まった。
「……いいえ」
「では、いつからです」
「物心が、つく前です。わたしは、本院で育ちました」
「なるほど」
「借り物ですよ、それ」
峠の風が、二人のあいだを抜けた。
「あなたは、視えるから結べる。結べるから、回収人でいられる。……その前提が、あなたのものじゃない」
「……」
「貸してるのは、本院です。そしてこの二本、返す方向に張ってあります」
僕は、西を指した。
「あなたが視たものは、視た端から、向こうへ流れてる。あなたは目を貸してもらってるんじゃない。目にされてるんです」
第三号さんは、答えなかった。
答えないことが、答えだった。
「今も、視られてますね。僕が、こうしていることも」
「……はい」
「では、先にそちらを片づけます」
僕は手を伸ばした。
足は、まだ勝手に西へ歩いている。二歩ぶんだけ、身体をひねった。
目尻の糸の、根元。
そこを、ぱち、とやったら。
「やめてください」
第三号さんが、初めて声を荒らげた。
「それは、本院の器に通してあります。解けば、その者が――」
「知ってます」
僕は指を下ろした。
「だから、解きません」
つまんだ。
解かずに、端を、そっと引き抜く。
第二号さんの三十二本でやったことと、同じ手つきだ。
根元を、西から外す。
そして、行き先を――
つ、と。
彼自身の、目の裏へ。
「……え」
第三号さんが、よろめいた。
杖を落として、両手で自分の顔を押さえた。
「持ち主に、お返ししました」
僕は言った。
「もともと、あなたが使っていたぶんです。流れる先だけ、変えました」
「視えますか」
「……視え、ます」
「本院からは」
彼は、ゆっくりと西を向いて、動かなくなった。
「……向こうが、いません」
「はい。向こうの目が、たった今、なくなりました」
僕は、自分の首の後ろに手を回した。
ここからが本番だった。
第三号さんが結んだ端は、まだ僕を引いている。引いているのは、西の誰かだ。
その誰かは、さっきまで第三号さんの目でこちらを見ていた。今は、見ていない。
見えない相手をどこへ引けばいいのか分からないまま、それでも手繰り続けている。
だから、まだ張っている。
――張っているなら、たどれる。
「ヨナさん」
「はい」
「少しだけ、揺れます」
僕は、第三号さんの結んだ端をつまんだ。
輪から抜く。抜いて、ヨナさんの首の手前をよけて、僕の指を通して、西へ伸びている引き綱のほうへ。
つ、と。
音は、それだけだった。
西からの引きが、西へ結ばれた。
一拍あって、糸が、ぴん、と鳴った。
自分を引いた糸だった。
峠の向こうで、何かが、大きくたわんだ。
足が、止まった。
僕は、石塚の横にへたり込んだ。
「ルカさん!」
ミナが膝をついて、僕の襟を覗き込んだ。
「大丈夫、ですか」
「はい。……たぶん」
首の後ろは、輪に戻っていた。
ヨナさんの息も、ちゃんとそこにあった。
第三号さんが、僕たちの前に立っていた。
顔を上げて、こちらを見ている。
「解呪師さま」
「はい」
「あなたは、今、何をなさいましたか」
「返しただけです。二回」
「……そうではなく」
彼は、自分の手のひらを見た。それから、ミナを見て、僕を見た。
「わたしは今、はじめて、糸より先に人の顔を見ました」
僕は、立てなかったので、座ったまま頭を下げた。
「すみません。勝手にやりました」
「いいえ」
第三号さんは杖を拾って、峠の下りのほうへ向き直った。
「報告は、できません。目がありませんので」
「怒られますよ」
「はい。……たぶん、四号が参ります」
彼は少しのあいだ、西を見ていた。
「ひとつだけ、申し上げます」
「どうぞ」
「四号は、目を要りません」
風が鳴った。
「本院は、わたしを通してあなたを見ておりました。見えなくなった相手を、あそこは探しません。――消します」
そう言って、第三号さんは歩き出した。
下りきったあたりで、一度だけ立ち止まって、空を見上げていた。
誰にも覗かれていない空を、たぶん初めて見たんだと思う。
「ルカさん」
ミナが、僕の襟をまだ持っていた。
「さっきから、聞いていいですか」
「どうぞ」
「その印、二つとも閉じてましたよね」
「……はい」
首の内側で、ヨナさんが、そっと言った。
「ルカさん」
「はい」
「かたほう、ひらきました」




