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第12話 その名前を、伺ってもいいですか

「――聞こえますか」


耳ではなかった。


首の後ろ。結んだばかりの糸の根元のあたりで、言葉がそのまま鳴っていた。


「ルカさん?」


ミナが僕の顔を覗き込んだ。


「顔、真っ白のままです」


「……聞こえました。声です。首の内側から」


ミナの手が止まった。それから、川のほうを見て、もう一度僕を見た。


「三十二本目の」


「はい。たぶん、糸の向こうの方です」


橋の板の上に座り直して、僕は目を閉じた。


「聞こえています。ゆっくり、どうぞ」


しばらく、何もなかった。


やがて、息の音がした。人ひとりぶんの、浅い息だった。


「……ここは、くらいです」


「はい」


「ずっと、かぞえて、いました」


「何をですか」


「わかりません。……かぞえろと、書いてあったので」


僕は、自分の膝を見ていた。


声が、少しだけ整ってきた。長く喋らなかった人が、口を思い出していく速さだった。


「ねがいが、ひとつ、あります」


「どうぞ」


「きって、ください」


川が鳴っていた。


「そのいとは、わたしに、つながっています。あなたが、それを、もっているかぎり、あなたは、こちらに、つれてこられます」


「知ってます」


「なら」


「切ると、あなたが落ちます」


答えてから、僕は糸の中身をもう一度読んだ。


その人の首から出ている糸は、一本きりだった。本院から降りてくるはずの太い束が、どこにもない。とっくに外されている。


かわりに、細い一本だけが、西からテルムを回って、僕の首まで届いていた。


つまり、今この人に配られているものは、全部この一本を通っている。


「あなたの帳面には、もう欠損と書かれてます」


「……はい」


「僕がこれを解いたら、あなたは今夜のうちに死にます」


「はい」


「知ってて、言ったんですね」


「はい」


僕は、長く息を吐いた。


「ミナさん。行きましょう。西へ」


「今からですか。顔が」


「顔はあとで治します」


僕は立ち上がって、背負い袋を担ぎ直した。


「この方、僕を心配してくださってます。座り込んでる場合じゃないので」


街道を二日進んだ。麦のかわりに岩が増えて、空から降る糸は、西へ行くほど細くなった。


夜、焚き火の前で、僕は自分の首の後ろに指を当てていた。


「ルカさん」


「はい」


「さっき、変なこと言いました」


「変なこと」


ミナが、火の向こうから、じっとこちらを見ていた。


「《キルス支所 解呪師一名 器適 最上 至急 送致》」


心臓が、一度、大きく鳴った。


「……僕が、それを言いましたか」


「はい。薪を折りながら」


「声は」


「ルカさんの声でした」


彼女は、言いにくそうに付け足した。


「でも、口が、あとからでした」


ベルナールと同じだ。


喉から出た音を、口があとから追いかけて形にする。


僕は、自分の首の後ろを探った。


糸は一本。そこから中へ入って、閉じた二つの目の刻印に届いている。


刻印は、受け口だ。糸は外から来て、そこで終わっている。終わりの向こうは、僕の中身だ。


「……端がない」


「え」


「解くには端が要るんです。つまむ場所が」


僕は指を上げて、下ろした。


「外から来る糸なら、つまめます。でもこれは、もう入ってしまってる。入ったあとのものは、糸じゃない。ただの、書かれた文です」


「消せないんですか」


「消せません。僕にできるのは、結ばれているものを返すことだけなので」


火が、ぱちりと爆ぜた。


「書き込んでるのは、本院ですね」


首の内側で、声が答えた。


「はい。……わたしを、とおして」


「あなたのせいじゃないです」


「わたしは、みちです。ずっと、みちでした。だから、きってくださいと、もうしました」


僕は火を見ていた。


それから、思い出した。


《すでに何か結ばれてる人間には、別の太い糸を通せない。先客がいるので》


領主館の奥の、窓のない部屋で、僕がアデルに説明した言葉だ。


器が要るのは、空だからだ。


空でなければ、通らない。


「……そうか」


「ルカさん?」


「ミナさん。宿場の裏の、回収人のこと、覚えてますか」


「回収人の、第一号さん」


「あの人は、自分の糸を自分の中で閉じてました。端がないから、誰も解けない」


僕は立ち上がった。


「僕の首には、今、端が一本あります。外から差さってる端が」


「……それを」


「閉じます」


ミナが、息を呑んだ。


「待ってください。第二号さんが言ってました。閉じたものは、一か所結ばれたら終わりだって」


「はい。でも、開いたままだと、今夜も書かれます」


僕は火の向こうの彼女を見た。


「閉じれば、書けません。受け口が、輪の内側に入るので。先客がいる場所には、誰も通せない」


「先客って」


「この方です」


ミナは、しばらく黙っていた。


それから、髪を耳にかけた。聞く姿勢だった。


「ルカさん、ひとつ確かめます」


「はい」


「閉じたら、その方はどうなりますか」


「僕から配られます。今まで本院が流していたぶんを、僕が」


「重いですか」


「たぶん、ずっと重いです。下ろせないので」


「……はい」


ミナは、それ以上は聞かなかった。


僕は、首の後ろに手を回した。


「聞こえますか」


「はい」


「あなたの糸を、僕の中で輪にします。切りません。あなたと僕を、閉じた一本にします」


「それは」


「本院から、あなたが見えなくなります。僕も見えなくなります」


僕は、そこで一度止めた。


言わずに済ませたくなって、言った。


「そのかわり、僕がどこかで倒れたら、あなたも一緒です」


「……はい」


「まだ、はいと言わないでください。先に全部言います」


火が揺れていた。


「僕は、西へ行きます。あなたを欠損と書いた人たちのところへ、わざわざ近づきに行きます」


「はい」


「あなたは、いちばん危ない場所へ、一緒に運ばれます。それでもいいですか」


長い沈黙があった。


首の内側で、息が一度、深く吸われた。


「わたしは、かぞえていました」


「はい」


「なんのかずか、わからないまま、ずっと。……きょう、はじめて、きかれました」


声が、震えていた。


「いいですか、と。わたしに、きいたのは、あなたが、はじめてです」


「答えを、どうぞ」


「――はい」


僕は、首の後ろの糸をつまんだ。


引き寄せて、刻印の手前で折り返して、自分の襟の内側へ回して、もう一方の端へ。


ぱち、ではない。


つ、と。


糸を通す、それだけの音がした。


首の後ろが、すう、と冷たくなった。


それから、あたたかくなった。


音が、消えた。


ずっと鳴っていたのに、消えてから初めて気づく種類の音だった。西から降りてきて、僕の中で文字になっていたもの。


静かになった輪の中で、声だけが、はっきりと聞こえた。


「……あたまの、なかが、しずかです」


「今まで、うるさかったんですね」


「はい。ずっと、ずっと」


それから、その人は、小さく息を吸った。


「あの」


「はい」


「なまえを、おもいだしました」


僕は、火から目を上げた。


「ヨナ、といいます」


「……ヨナさん」


「はい」


たった二文字だった。


けれど、その二文字が言えるようになるのに、この人は何年かかったのか、僕には見当もつかなかった。


「ミナさん」


「はい」


「ヨナさんです」


ミナは一度まばたきをして、それから、焚き火の向こうから丁寧に頭を下げた。


「ミナです。荷物を半分持っています」


首の内側で、ヨナさんが笑った。


笑い方が、下手だった。


翌朝、街道は岩のあいだを登っていた。


峠に向かう道だ。すれ違う人が減って、そのかわり、轍が深くなった。


首の後ろは、重かった。歩くたび、人ひとりぶんの重さが、背中とは別の場所に乗っている。下ろせない荷物だった。


「ルカさん、大丈夫ですか」


「荷物持ちだけは上手いので」


「それ、三回目です」


坂の途中で、旅の男とすれ違った。


商人風の男だった。杖をついて、こちらを見もせずに下りていく。


すれ違って、三歩。


僕は、足を止めた。


(……見た)


見られたのではない。


あの人は、僕の顔を見なかった。


見たのは、襟の下だ。


布の下に隠れた、閉じた二つの目の刻印。そこを、通りすがりに、ちらりと確かめていった。


首の内側で、ヨナさんが言った。


「ルカさん」


「はい」


「いま、のひと」


「はい」


「あのひとが、とおったとき、おとが、ひとつ、ぬけました」


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