第11話 その糸は、持ち主にお返しします
質店を出ると、橋の南詰に人が立っていた。
灰色の外套ではなかった。
旅装の女だ。埃っぽい外套に、丈夫そうな靴。荷を背負っている。どこの街道にもいる、行商のような格好だった。
「ルカさん」
「はい」
「あの人、どこから来たんでしょう」
「僕たちの通った道からです」
女が、丁寧に頭を下げた。
「回収人、第二号です」
橋の板が、鳴っていた。
僕は、彼女の首を見た。
糸が、ある。
首、肩、両手首、腰、膝。十本や二十本ではない。外套の下から溢れるほど。
第一号さんのときと、正反対だった。
「持ってるんですね」
「ええ。たくさん」
彼女は微笑んだ。愛想のいい、商人の笑い方だった。
「一号は、自分で自分を閉じておりました。端を作らせないために。……愚かです。閉じたものは、一か所結ばれたら終わりですから」
「よく知ってますね」
「報告書を読みました。二日前に」
彼女が、指を一本、立てた。
「わたしは、何も持ちません。全部、お借りしております」
袖口から、糸が走った。
首に一本。手首に二本。
僕は指を弾いた。
ぱち。
首の糸が、砂になる。
同時に、橋のたもとで悲鳴が上がった。
「――針が!」
ネルだった。
布を取り落として、自分の手を見つめている。さっき戻ったばかりの《針目》が、また消えていた。
指が、凍りついた。
「一本目は、ネルさま。針目」
第二号さんが、帳面でも読むように言った。
「二本目は、荷運びのかた。三本目は、そちらの少年の母ごさま。窯火です」
「……あなた、それ」
「お借りしております。この町の配給から、今朝、人さまの首を通したまま。ネルさまの針目は、細く割って、何本かに」
彼女は、両手を広げた。
「ほどいてくださって構いません。ほどいたぶんだけ、この町から落ちます」
風が、川面を撫でた。
僕は、自分の手首を見た。二本。もう通っている。
解ける。指を弾けばいい。
弾けば、誰かの明日が落ちる。
「ルカさん」
ミナが、僕の背中に手を当てた。震えていた。
「大丈夫です」
僕は、右手を上げた。
伸びてきた四本目の先端を、指でつまむ。
宿場の裏でやったことだ。ほどけないなら、結ぶ。相手の輪に結び返して、端を作る。
――端は、できた。
つ、と。
「作りましたね」
第二号さんは、動じなかった。
「では、引いてごらんなさい」
僕は、できた端をたどった。
彼女の中を通り、橋を越え、町の路地へ下りて、小さな家の竈へ。
その前に、女が一人しゃがんでいる。
石を投げた少年が、その背中にしがみついていた。
引けば、ほどける。
ほどけば、あの竈の火が、二度と上がらない。
「一号と同じ手は、二度使えません」
第二号さんが、静かに言った。
「あなたの力は、端を要ります。わたしは端しか持っていない。全部、誰かの端です」
五本目が、肩に通った。
六本目が、膝に。
「跪け、とは申しません。わたしも命令を持っておりませんので」
彼女は、荷を下ろした。
「ただ、連れて帰ります」
膝が、板を打った。
視界が傾く。橋の下で、水が鳴っている。
(解けない)
三階の広間で、同じことを思った。
解ける。解けるのに、解いてはいけない。
あのときは、返す声が一本あった。
今度は。
「ネルさん!」
ミナの声だった。
「針目! 橋の北の、仕立てのネルさん!」
「――え」
「荷運びのかた、マルグ! 少年の母ごさまは、ヤナさん、橋の南の三軒目!」
ミナが、指を折っていた。
さっき、質店の土間で、一人ずつ名前を聞いていた手つきのまま。
「帰る先です、ルカさん! 全部、聞いてあります!」
息が、止まった。
――そうか。
解かなくて、いい。
カッセルは、糸を切っていなかった。
根元だけを、別の場所へ移していた。
「……結び替え」
僕は、自分の手首に通った一本をつまんだ。
解かない。
端を、動かす。
彼女の手元から抜いて、僕の指を通し、そこから――ネルさんの、指先へ。
つ、と。
「……!」
橋のたもとで、ネルが小さく叫んだ。
針が、布に吸い込まれていた。
第二号さんの笑みが、初めて薄れた。
「何を、なさいました」
「持ち主に、お返ししました」
僕は、次の一本をつまんだ。
つ、と。
「マルグさんへ」
つ、と。
「ヤナさんへ。橋の南の三軒目」
一本ごとに、熱が通った。
糸は、まっすぐ渡るわけじゃない。いったん僕の中を通る。
町ひとつぶんの配給が、僕の指を、腕を、喉を、順番に抜けていく。
(重い)
膝が震える。荷物持ちだけは上手いと言われ続けた身体が、初めて音を上げかけていた。
「おやめなさい」
第二号さんの声が、少し変わっていた。
「通した糸は、通した器に跡を残します。ご存じないでしょう」
「知りません」
つ、と。
「十三本目」
「聞いてください。あなたは今、自分から器をやっています」
「はい」
つ、と。
「それでも、ほどくよりは、安いので」
ミナの声が、名前を読み上げ続けていた。
一本ごとに、橋のたもとで小さな声が上がる。
灯りが点くように、一つずつ。
「三十一本目」
「ルカさん、あと一本です」
僕は、最後の一本をつまんだ。
端を、たどった。
――帰る先が、なかった。
町ではない。誰の指にも、竈にも、首にも、繋がっていない。
糸の向こうは、ずっと西だった。窓のない部屋の、目を閉じた誰かだ。
そこに書かれていたのは、名前ではなく、番号だった。
「……この方は」
「本院の器です」
第二号さんが言った。
「名は、預かっております。返す先は、ございません」
僕は、その一本を、自分の首の後ろへ回した。
つ、と。
「預かっておきます」
第二号さんは、何も持たない手で、しばらく立っていた。
袖口から、もう糸は出てこなかった。
やがて彼女は、荷を背負い直して、深く頭を下げた。
「けっこうです。任は、解かれました」
「……怒らないんですね」
「わたしは一号ほど、自分を持っておりません」
それから、彼女は僕の首のあたりを見た。
はっきりと、そこを見た。
「おめでとうございます」
「……え」
「通しましたので、記録されました。本院は、あなたを器として受け取りました」
ミナが、僕の首の後ろを覗き込んで、息を呑んだ。
「ルカさん、これ」
「……何かありますか」
「印が。……閉じた、目です」
指先で触れた。
皮膚の下に、彫られたものがあった。ベルナールの首と、あの十二人の首と、同じ意匠。
第二号さんは、もう橋の中ほどまで歩いていた。
振り返らずに、声だけを寄越した。
「第三号には、同じ手は通じません」
「でしょうね」
「三号は、あなたと同じものを視ます」
外套が、川風に鳴った。
「では、失礼いたします。西で、お待ちしております」
橋のたもとで、ネルが泣きながら針を動かしていた。
少年が母親の手を引いて走ってきて、僕の前で立ち止まって、何も言えずに頭を下げた。
ミナが、僕の袖を掴んだ。
「ルカさん、座ってください。顔が真っ白です」
「はい。……すみません、少しだけ」
橋の板に腰を下ろした。
川が鳴っていた。荷馬車がまた動き出していた。
町の空に、細い糸が戻っていた。多くはない。細いままだ。
それでも、まっすぐに降っていた。
「三十二本でしたね」
「三十一本、お返しできました」
僕は、自分の首の後ろに手を当てた。
一本だけ、そこにある。
名前のない、番号だけの誰かに繋がった糸が。
「ミナさん」
「はい」
「名前、聞いておいてくれて、助かりました」
「聞くのは得意なので」
彼女は笑って、それから真面目な顔で言った。
「その一本、いつ解きますか」
「解きません」
「……どうして」
「解いたら、向こうの方の明日が落ちます」
僕は立ち上がって、西を見た。
「それに、繋がってるということは――こっちからも、たどれます」
日が、川の上に落ちかけていた。
首の後ろが、熱を持ちはじめていた。
熱ではなかった。
――聞こえますか。
知らない声が、僕の首の内側から、そう言った。




