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第3話 値切りの線 ホーチミン

朝の湿り気は、まだ寝癖みたいに街の髪に残っていた。宿の階段を降りると、外はすでに音で満ちている。バイクの群れが曲がり角ごとに小さく渦をつくって、熱い空気に溝を彫る。路面の黒い斑点は昨日の雨の名残りで、太陽に舐められて銀色に乾いていく途中だ。プラ椅子はやわらかく、座ると少し沈んで、膝が低くなる。むき出しの蛍光灯が昼なのに点いていて、影を淡い二重にする。


宿の掲示板に紙が一枚、マグネットで留めてあった。「AIガジェット配布センター 見学ご希望の方はフロントまで」。手書きの丸文字。昨夜、空港で見た看板が頭をよぎる。フロントの女性スタッフ、リンに声をかけると、「今日の午後、行けます」と言った。リンは英語が達者で、笑うと目尻のしわが一度に増える。


配布センターは市場の外れにある公民館の二階だった。階段に古い扇風機が二台あって、片方は回転が遅い。廊下には腰の曲がった人たちが列をつくって、番号札を手にしている。壁にはビニールの横断幕。「音声で、会計。目でも、耳でも、安心。」ベトナム語と英語。机の上には小さな黒い端末が並び、手のひらの線を読むセンサーと、スピーカーの穴が見える。係員の若者がゆっくりした声で説明し、視線を上げて相手の顔を一度確かめてから、次の文に進む。


「オフラインでも使えます。音声で“フォー二つ”と言えば、単価と合計が表示されて、相手の言語にも同時に出ます。釣銭はコインの枚数が少なくなるように自動で案を出します。日報は夜に口頭で言えば自動でまとまります」


机の端に、牛骨の匂いが微かに残っていた。ここに来る前に誰かがフォーを食べていたのだろう。窓の外からはバイクの連なりが見える。細い路地から太い通りへ、魚群みたいに密度を変えては流れていく。


リンが小声で言う。「この人、フォーの名人。四十年だって」視線の先に、ズオンがいた。白い髭。腕に薄い火傷の痕。胸ポケットに小さなメモ帳を挟んで、順番を待っている。呼ばれると、彼は椅子に座って、掌をセンサーにそっと置いた。係員が手順を示す。ズオンの耳は少し遠いらしく、説明は声量を上げずに、しかし同じ文を二度言うことで伝えていた。


最初の設定を終えると、いきなり実地だ。係員がリンに目で合図を送る。


「彼の屋台に行って、試しますか?」


屋台は斜め向かいの路地の角にあった。鍋の湯気が屋根のトタンに触れて、小さく水滴になる。昼前の時間で、客はまだまばらだ。ズオンは慣れた手つきで麺を湯に泳がせ、端末に向かってはっきりと言う。


「フォー一つ」


端末の小さな画面に数字が現れる。言語は二つ、ベトナム語と英語。端末が店側に「合計」と言い、客側には「Pay」の丸いボタンが出る。僕は試しに端末に顔を向けて、日本語表示の切り替えを探す。画面の右上で言語を選ぶと、僕にもきちんと「お支払い」が現れた。現金を出す暇もなく、僕のスマホが振動して「近接支払いに切り替えますか」と訊いてくる。機械が先に知っている。


「現金で払っていいですか」と僕が言うと、ズオンはうなずいて、端末にゆっくりと話しかける。

「現金で、三万ドン」


画面に釣銭の最適案が出る。紙幣一枚と、硬貨なし。ズオンはレジの引き出しを開けて、紙幣を出し、釣銭の代わりにライムをひと切れ多く入れた。端末はそれを何も言わない。魚醤とライムの湯気が顔に触れて、目が少し痛む。スープは澄んでいて、口に入れてから熱さを知る。


「楽になったか」とリンが訊く。ズオンは少し考えて、笑って首をかしげた。

「楽になった。……でも、話が短い」


昨夜の飛行機で聞いた言葉が、熱い湯気の隙間から滑ってきた気がした。彼は続けた。


「値切りは面倒だった。でも面倒の中の、遊びみたいなものがあったんだよ。いつも来る子は、わざと高い札を出すから、“お釣り、ないよ”ってからかって。それで、“じゃあ、今日は麺を多くしてよ”って返す。今はボタン一つで、終わる」


端末の画面には、小さく「チップ 0/5/10%」の表示があって、見ているだけで会話が終わる気配がする。会話の形をしたボタン。ボタンの形をした会話。


午後、配布センターの係員が屋台街を一軒ずつ回り、端末の使い方の最終確認をしていく。ズオンは端末を首から提げたり、台の上に置いたり、最後は鍋の吊り下げ金具に引っかけてみたりして、いちばん湯気の来ない位置を探した。湯気が画面を曇らせると、指の滑りが悪くなる。薄い布で拭くと、指紋の油が虹色にひろがる。


夕方が近づくにつれて、屋台の前の椅子が埋まり、周囲の音がひとつに溶けていく。端末の音声は騒音の中でもきちんと働いて、注文を拾い、合計を言い、釣銭の案を出す。ズオンは口数がさらに少なくなって、動作だけが速くなる。客も口数が減る。手のひらから手のひらへ、器が温度を移動していく間だけ、関係が生まれ、そして消える。


「ねえ」とリンが袖を引いた。「夕方だけ、値切りの時間を戻してみない?」

ズオンは首をかしげた。「端末を止めるのか」


「止めなくていい。音量を下げて、あなたが先に口で言えばいい。“今日は何が食べたい?”って」

ズオンは少し笑った。笑いは、案内の文よりも速く伝わる。彼は端末の設定画面を開いて、音量のバーを半分まで下げた。店先の電球が一つ、ふっと灯る。


値切りの時間は、自然に始まった。学校帰りの三人組が来て、ひとりが端末の「最適価格」をちらりと見てから、顔を上げた。


「おじさん、今日は腹が減ってる。麺、多めで、値段は普通」

「普通ってなんだ」

「昨日と同じ」

「昨日は昨日だ」

「じゃあ、ライムを二つ」


ズオンは鍋をかき混ぜながら、肩だけで笑った。「いいだろう。二つだ」

端末は黙っている。画面の「チップ」は光を失い、机の端の古い鉛筆が、かわりに存在感を増す。ズオンは小さなメモ帳を取り出して、今日の「普通」をその場で書いた。数字より少し大きい字で。「普通」というのは、誰かと共有された昨日の重みのことだ。


値切りは、完全には戻らない。時間はかかるし、売上は少し減る。でも、会話は増えた。隣の卓で食べていた中年の男が、「この端末、雨の日はどうする」と訊いた。ズオンは「ビニールをかける」と答え、ビニール袋の口を結ぶ仕草をして見せる。男は頷いて、スープを啜った。端末はその間、何も言わない。


その夜、屋台の片付けの手伝いを少しだけした。丼を重ねる音、金属の擦れる音、濡れた布の冷たさ。ズオンは端末を外して、胸ポケットのメモ帳を指で叩いた。


「これも残す。機械が壊れたら、手に戻る。手が忘れないように」

「今日は、売上は?」


リンが訊く。ズオンは肩を回して、「まあまあだ」と言った。笑い方は、仕込みのときより柔らかかった。


屋台街を離れると、夜風が少し冷たくて、汗が一気に肌に戻ってきた。バイクの尾灯が赤い糸を引く。雨は降らないが、空気のどこかに水が隠れている。角の果物屋でライムを二つ買って、宿に戻る。手の中のライムは軽いが、二つでちょうどよい重さになった。あの女性の言葉がまた浮かぶ。重さは時間の別名。会話の長さは、関係の重さ。


部屋に戻ると、机の上の端末が明日の予定をまた提案してくる。「配布センター・上級者講座:伝票管理/帳簿連動」。画面を閉じ、旅日記のノートを開いた。今日は、何を書けばいいのかすぐには決まらない。ペン先が紙の上で一度迷子になって、やがて落ち着く。音は小さいが、確かに聞こえる。


——

夜半、窓の外の音が少しだけやわらぐ。市場の灯りが順に消え、代わりに犬の足音が通り過ぎる。遠くで誰かが笑い、誰かが咳をする。扇風機の風が途切れがちに回って、部屋の中の紙を一枚だけ揺らす。眠りに落ちる直前、端末の小さなLEDが、消えては点いた。呼吸のように。ああ、と思う。機械が息をする街で、人が息を継ぐ場所を、今日少しだけ見つけた。


——

麗子のメモ:共同ドキュメントへのコメント

[行12「会計が速くなり」について]

速さが“正しさ”と同義に見える瞬間がある。でも、速さが“十分な会話”を奪うと、とたんに不安になる。

[行27「話が短い」について]

この一行、章の心臓。提案:夕方に“値切りの時間”を戻す実験、継続観察。売上と会話量の相関を数字で書かなくていい。読者の耳で測らせたい。

[行41「普通」について]

“普通”の定義がその場で生まれ直すの、すごく好き。私の仕事にもある。今日、クライアントの「普通」を一緒に書き直した。単価は変えないで、説明を変えた。

P.S. ライム二つ、写真で送って。匂いまで届く気がする。


——

手記の呼応

1994/1/12 ホーチミン・晴れ・フォー25,000ドン

値切りはうまくいかなかった。でもおばさんがライムを多めにくれた。ポケットの小銭が重い。歩くと、音がする。どれも、悪くない音だった。


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