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第2話 線が透明になる L.A.→ホーチミン

LAXの出発ロビーは、朝の海みたいに白かった。天井のライトが均一に呼吸して、影の輪郭まで平らにする。出発便のボードに小さな矢印が灯るたび、僕の端末が震え、旅程がひとつ先へ送られる。通知は短く、ためらいがない。「最適接続便に変更しました」。座席指定は通路側から窓側へ。窓の外を見たいのは本当だが、決めたのは僕ではない。


搭乗口の前で立ち止まる。人の列は溶けて、光の枠に吸い込まれていく。ボーディングブリッジを進むと、冷たい金属の匂いがして、機内の柔らかな空気に切り替わる。ビニールの新しい匂い。ぬめりのある肘掛け。窓の縁のゴムが少し剥がれて黒く見える。


指定された座席には、すでに人が座っていた。髪をまとめた若い女性。背もたれからイヤホンのコードがのぞいている。


「ここ、Aの席ですよね」と声をかけると、彼女はイヤホンを外して、首をすくめた。


「ごめんなさい。通路側に替えてもらえませんか。長いフライトだから、立ちやすいほうがいいの」


声は柔らかい。どこか懐かしいイントネーション。僕はうなずいて、自分の搭乗券を見る。端末はまだ窓側を示している。席の交換を承認するかと画面が訊く。「はい」を押すと、白いチェックが静かに現れて、すぐ消えた。


離陸前の案内が終わり、ベルトの音が一斉に鳴る。窓の外、滑走路の誘導灯が細い虹のようにつながっている。エンジン音が細く伸びて、身体の奥の金属を撫でるみたいに震えた。


彼女はイヤホンをケースにしまい、僕のほうを見た。


「通訳、オフにしてもいいですか。たぶん、なくても通じるから」


「ええ。オフで」


「私、ベトナム系のアメリカ人。ホーチミンに帰るの、ひさしぶり。名前は……名乗らないでおこうかな。今日は“誰でもない日”にしたいから」


微笑んで、機内食のメニューを指さす。「この“ベトナム風”は、だいたい違う味だよ。飛行機はどの国でも空の味になる」


僕は笑って、頷く。トレイが配られる。プラスチックの蓋の曇り。パンの小袋の乾いた手触り。熱いスープの縁に舌を少し近づけ、湯気だけを吸い込む。彼女は指で空気を撫でるようにして、話し始めた。


「仕送り、今はAIが一番レートがいい瞬間に勝手に送ってくれるの。手数料の安いルートを選んで、着金の証拠も自動で家族の端末に入る。たしかに便利。お金は早く届くし、減らない」


窓の外で雲が折りたたまれて、光の皺が何本も走る。彼女は少しだけ手を握って、開いた。


「でもね、昔、お母さんが現金を持って窓口で送ってた頃、国際電話で“届いたよ”って泣きながら言ってた。封筒の厚みとか、カウンターの冷たさとか、番号を呼ばれるまでの長い時間とか、そういう重みを、いっしょに送ってた気がするの。今は通知音が一回鳴って、終わり。早いのに、軽い。なんだか、話が短いの」


話が短い。言葉が胸に残る。彼女は笑って、窓の外を見た。


「屋台の値切りも、アプリが“最適価格”を出してくる。便利だけど、値段のあいだにあった会話が消えて、ちょっと寒い。ホーチミン、たぶんあなたの記憶よりも静かで、速いよ」


機体が低い雲に入る。ぷつぷつと雨粒が窓を叩いて、すぐ乾く。彼女は紙コップの水を口に含み、続きを探すみたいに一度黙った。


「私はAIを使うよ。嫌いじゃない。でも、たまにオフにする。こうやって。オフの時間って、重さの代わりになるのかも」


彼女の英語も日本語も、角がなく、耳の中で長く転がる。客室乗務員が通り、食器が集められていく。通路側の僕に、彼女は小さく会釈する。言葉が要らない場面に、言葉がある。そういう種類の会話だった。


機内の灯りが落ちる。窓の外は、黒に少しだけ塩を散らしたような星。エアコンの風が足首に触れる。ブランケットの静電気。眠りは浅く、頭の奥に空洞ができる。そこに、さっきの「話が短い」という言葉が何度も入って、形を変える。



目が覚めると、窓の外に海岸線が出たり隠れたりしている。細い蛇行。河口がいくつも光って、街の輪郭が灰色の朝に浮かぶ。到着前のアナウンスが流れ、端末に入国のQRが自動発行された。僕の同意の前に、街は僕の受け入れを決めている。すべてが滑らかで、どこにも段差がない。


着陸。ブレーキの押し返す力が胸に入って、すぐ抜ける。機体がゲートに寄せられていく間、彼女はイヤホンをケースから出して、ためらって、またしまった。


「着いたら、たぶん、AIをオンにする。でも、たぶんね」


笑って、前を向く。僕も笑って、うなずく。名前は最後まで出てこない。代わりに、彼女が窓の外を見ながら言った一言が、僕のポケットの形をかえる。


「重さって、時間の別名かもしれないね」



タンソンニャット空港の到着ロビーに降りる。湿った空気が、腕の毛に小さく触れる。蛍光灯の白が少しだけ青くて、壁のポスターがそこだけ夏の色だ。「AIガジェット配布センター」とベトナム語と英語で書かれた看板。列は短いが、説明は長い。係員の手元で新しい端末が光り、音声での通訳とオフラインの辞書機能、支払いの一括管理、健康データとの連携が、丁寧に順番に語られていく。


カートの金属音。床に光る古い水の跡。匂いは、魚醤と、拭き取りのアルコール。僕は配布センターの列を横目に通り過ぎ、タクシーの案内板の前で立ち止まる。端末が自動で「おすすめの支払い方法」を表示したが、画面を一度閉じて、外に出た。屋外の濃い湿気が顔に乗る。声をかけてくる運転手の口元が笑って、目は忙しい。


空港を出る車の列の上で、ドローンが低く羽音を立てる。空の高さが、L.A.より低い。雲の背中が近い。タクシーの窓ガラスの内側に、うっすら手のひらの跡。透明な線はたくさんある。どれも、指でなぞれば消えそうだが、消えない。


ホテルに着くころ、あの女性の言葉がまた浮かぶ。話が短い。街の速度は、会話の長さまで測るのか。部屋の鍵を受け取り、エレベーターに乗る。階数表示が上へ走る。途中で一度だけ止まり、誰も乗ってこない。開いて、閉じる。短い開閉。短い呼吸。


部屋に荷物を置いて、窓を開ける。外のバイクの群れが、ひとつの生き物みたいにうねる。クラクションは昔より少なく、代わりにインジケーターの点滅が増えた。匂いは同じで、音が違う。


ポケットから旅日記を出す。薄い表紙。今日の日付のページに指を置いて、まだ書かない。机の上にペンを置く。インクの玉が、ペン先で小さく呼吸する。



機内と空港のあいだにこぼれた粒を並べる。窓の外で雲の影が自分の影に重なった瞬間。紙コップの水が機体の振動で縁からほんの少し跳ねた音。通路を通る食事カートの車輪の、疲れた金属の声。搭乗口から出る前に、誰かが振り返って手を振った対象不明の手。すべては短く、すぐに次のものに重ねられる。それでも、短いものの中にも重さはある。


——


夜、屋台の方角から香りが上がってくる。ライムの酸っぱさと、油の甘さと、魚醤の芯。まだ何も食べていないのに、口の中が忙しい。エレベーターの前で、別の階の表示が点滅して、また消える。短い点滅。短い会話。明日の予定を端末が提案する。「朝、配布センター見学ツアー:参加しますか」。通知を一度だけ見て、閉じる。参加するかは、明日の自分が決める。



麗子のメモ:音声メモ文字起こし


[00:12] 今どのへん? 雲の上って、音がないのに耳が鳴るよね。

[00:31] 今日、見積に「待つための手間賃」という行を入れてみた。即時納品じゃないプラン。クライアント、最初は首をかしげたけど、理由を話したら笑った。待つことにも、価格がある。

[00:42] 為替最適化の話、前から思ってた。最適の代わりに失った“重さ”のこと。重さって、覚悟の影みたいなものかも。

[01:05] 明日、あなたの朝に合わせてコーヒー淹れるね。写真、送って。空の色、見たい。



手記の呼応


1993/1/12 乗継・バンコク・雨

乗継を間違えて、四時間の空白。ベンチの前を、同じ制服の人が何度も通る。屋根の継ぎ目から、雨の線が一本だけ落ちて、床にまるい水たまり。何もしないで、それを見ていた。飛行機は遅れて、でも僕は遅れていない気がした。


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