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第1話 線を測られる L.A.

第1話 線を測られる L.A.


LAXの入国ゲートは、静かな海みたいに揺れていた。波のかわりに人の列がゆっくり押し寄せ、戻っていく。列といっても、もう列ではない。マーカーの手前で足を止め、顔を上げ、ひかりの枠に入る。0.4秒。青い点が灯る。次の人。誰も立ち止まらない。係官の「次、どうぞ」が消えて、光がすべてを言い終える。


到着ロビーの柱には、街の利用規約が短い標語の皮を着て貼られている。「みんなで、速く、遠くへ。」その下に小さなQRがある。読み取ると、英語の長い約款がつづいて、受諾ボタンの向こうに、市民スコアと納税額に紐づく“特典”が静かに並ぶ。受諾を押すと、スマホが一瞬だけ震えて、街の一部になる。


ロボタクのアプリを開く。行き先を入れる前に「ウェスト・ハリウッド推奨」と出た。学習済みの宿。僕がまだ口を開く前に、街のほうから案内が差し出される。親切だ。けれど、親切が先回りすると、自由は少しだけ後ずさる。


車体が滑るように寄ってくる。無人。ドアの縁に消毒の甘い匂い。乗り込むと、静音のタイヤがターミナルの床の白線をなぞる。高速へ入るランプで、路面の色が分かれた。青、黄、赤。案内は明快だ。青は「プレミアムレーン」。黄は一般。赤は混雑。青い路面は空いている。黄は詰まり、赤は止まる。どの色を走れるかは、過去一年の納税総額と、今月の予納状況で決まる。運転席は空席のまま、車は青を選ぶ。僕の端末に「一時的特例:訪問者優先処理」と薄い文字が出て、すぐ消えた。


フリーウェイの境目は、遠目にもわかる。青は清潔な音でタイヤを鳴らし、黄はざらついて、赤はざらざらの上に砂が増えたような感触になる。路面のメンテナンス密度も、警備ドローンの巡回頻度も違う。標識はどれも笑っている。笑顔のピクトグラムは平等だが、笑う速度は平等ではない。


車窓の外、ボードウォークが見える。1990年代にスケートボードを借りた場所。今は電動の歩道が音もなく海沿いを動いて、規約に同意した市民は端末をかざすとその上に立てる。同意していない人は、板の上に乗れない。歩くことは誰でもできるが、速く歩くことは“特典”になった。


街は見事に効率的だった。公園の芝は自律走行の芝刈り機が一定の間隔で往復し、ゴミ箱は満杯のサインを上げる前にドローンがやってくる。信号は人の流れをセンサーで読み取り、渡る人が増えれば青が伸びる。渋滞情報は、単なる情報ではなく、課税スコアに応じて別の現実を提示する。青い現実は速く、赤い現実は遅い。


最初の降車地はサンタモニカの安宿だ。ロボタクが停車する端末の表示に「近隣のカフェ5%オフ(本日、納税スコア上位者限定)」と出る。誰のための“近隣”かを、街は色で分けて見せるのに長けている。


チェックインだけ済ませて、外に出る。海は確かにある。潮の匂い。ボードウォークの木の軋み。午後の風は少し埃っぽく、鼻にオゾンの薄い膜。道の片側に、UBIの受給者向けの配給ブースが列をつくっていた。列は静かだ。端末をかざすと栄養価の計算されたパックが出てくる。咀嚼の回数まで指導してくれそうな、親切な未来。列の向かい側には、青いリストバンドを光らせた人々が、ガラスのカフェに吸い込まれていく。キャッシュレスの音が軽く、リズムが速い。


「Hey」


背後から声がした。振り向くと、クリーナーのスプレーを持った若い男が立っている。ロボタクの駐停車ゾーンに置かれた作業カート。薄いグレーの作業着の胸に「Noah」と刺繍がある。


「窓、拭いてもいい?」


「君の車じゃないよ?」


「知ってる。僕の仕事は、彼らの仕事が終わる前に、彼らの仕事を終わらせること」


言い回しが少し詩的だ。彼は肩をすくめて笑い、ロボタクの窓を手早く拭いていく。すれ違う車のセンサーが、彼のベストの反射板を読み取って、速度を落とす。最小限のやさしさで、最大限の速さを守る。


「倉庫で働いてた。去年、ほとんどのラインが自動化されて、いまはこれ。UBIで生きられるけど、誰とも話さないまま一日が終わるのは、なかなか疲れる」


「僕は税理士だ。日本でね」


「Tax guy?」ノアが少し目を細める。「父の確定申告、ずっとAGIに任せてる。でも最近、彼、よくわからない控除の案内を受け取ってさ。一回、人に見てもらいたい」


彼はポケットからスマホを取り出して、写真を見せる。PDFの請求書。AIの提案書。数字はきれいに揃い、根拠のリンクが並ぶ。僕は画面を拡大して、項目の順番を目で追う。


「正式な業務にはできない。国も違うし、ここでやってしまうのは線を越えすぎる。でも、見るだけなら」


ノアは頷いた。海風がふたりの間を通り過ぎる。僕は気になった一行を指で示す。所得区分の自動判定に、彼の父の今季の副収入が反映されていない。AGIの分類は厳密で、だからこそ実生活の曖昧さから乖離するときがある。何項目かの並び替えで税負担が変わる余地があった。


「ここ、来季に向けて申請の方法を変えたほうがいい。父上の事情を一行、付けて」


「一行?」


「AGIに、事情を渡す“人間の一行”。“家族の介護のため、今年はこの働き方になった”とかね。数字の横に物語があると、計算は別の顔をする」


ノアは短く笑った。「ありがとう。払うよ」


「いらない。ここでは、線は引かない」


彼は少し考えてから、「じゃあ、父が撮った街の写真、送るよ」と言った。「古いフィルムのやつ。僕はこれ、好きで」


別れ際、彼は作業カートを押して走り去った。走るというより、路面の色に合わせて滑るような速さだった。


歩いて西へ向かう。海沿いの風は変わらないが、ブロックごとに空気の質が違っていく。プライベート・パークの芝生に入るには、リストバンドが要る。つけていない人は、境界のベンチに座る。ベンチは境界のために置かれているみたいだ。金属の冷たさが、短い居心地の期限を告げる。


ウェスト・ハリウッドの手前、青いガラスのカフェに入る。壁に、寄付額とプロジェクトの進捗が可視化されている。AIが市のNPOへ配賦するマッチングの仕組み。店内のWi-Fiは速く、椅子は柔らかく、音楽は小さく、注文は会話なしで終わる。テーブルの向こう側で、淡いベージュのスーツの女性がノートPCを閉じる。年齢は三十代の後半くらい。手首のデバイスが細い青を一度点滅させる。納税スコアの更新かもしれない。彼女は小さく肩をほぐし、目が合うと微笑み、そしてこちらに身を傾けた。


「観光?」


「ええ。久しぶりの」


「この街は速いから、時差が倍になるよ」


冗談めかした言い方だった。彼女は自分のカップを指で叩いて、氷の音を出した。「私はMaya。起業してる。SaaS。効率は命。効率がなければ、この規模は回らない」


「効率は、気持ちいいですね」


「正直に言うと、気持ちいいだけじゃない。正しい。資源は限られてる。最適に配れば、誰かが得をし、誰も極端に損をしない。UBIはそのための地盤。みんな最低限は守られて、上で走りたい人は彼らの速度で走る。悪くない世界だと思わない?」


「悪くないと思います。たぶん」


「“たぶん”?」


「“たぶん”の中に、何人かの顔が浮かぶんです。今日、窓を拭いていた若い人の、手の匂いとか。数字にしにくいもの」


Mayaは一拍おいて、肩をすくめた。「でもね、数字にしにくいものを救うのも、結局は数字の余裕だよ。余裕を作るには、速く走る人が必要。私はその側よ」


正直だった。正直さは、ときどき残酷さと同じ形をしている。彼女は席を立つ前に、名刺を差し出した。QRの上に活字の“線”が光る。「困ったら連絡して。いい弁護士も税理士も、こっちには山ほどいる」


店を出ると、海風がまた匂いを運んできた。グリルの焦げた油、日焼け止め、犬の毛。境界のベンチでは、ホームレスではないが家がない人が、端末の前で静かに画面を見ている。UBIの次回支給日と、今夜のベッドの空き情報。それを見ている指はよく手入れされていて、爪の縁がきれいだった。貧しさは、汚れの形だけでは現れない。


夕方、ボードウォークを歩く。木の軋みが、昔より軽い。電動歩道の端を歩くと、速度の違いが体の側面に沿っていく。青い路面はまだ空いている。黄は少し詰まり、赤はほとんど動かない。空のドローンは、赤の上空に長く留まり、青の上空を早足で過ぎる。監視の優先順位も、維持される速度も、色ごとに違う。


日が落ちると、いくつかの通りは私設の光に切り替わる。ビルの壁面に設置された照明が、特定のアプリ会員に照度を上げる。僕は少し暗い道を選んだ。暗いというだけで、歩幅が変わる。明るさは、歩幅の税金みたいなものだ。


夜、安宿の共同キッチンで、ノアのメッセージが届いた。父の確定申告書の写真。古い紙の色。角の折れ目。手書きの訂正。画面の匂いがするはずはないのに、紙の粉の匂いがした気がした。短い通話に切り替えると、ノアの父の声は穏やかだった。声にはたしかな生活の重みが乗る。僕は画面越しに注意事項を一つだけ伝えて、「ここでは、仕事にはしない。話だけ」と線を引く。線を引いたぶん、言葉が柔らかくなった。


部屋に戻る。窓の外、青い路面の上を車が黙って流れる。ふと、もう一度Mayaの言葉を思い出す。正しい。速い。十分。街はたしかにそう設計されている。だからこそ、そこから零れる音が、やけに耳に残る。


シャワーの蒸気が鏡を曇らせる。鏡のなかの背中は、朝より少しまっすぐだ。役に立たなければここにいられない、という感覚が、今日は少しだけ遠い。ノアに一行の言葉を渡したとき、それは薄まった。


ベッド脇の小さな机に、旅日記のノートを置く。薄い表紙は、軽い。表紙の内側に、自分で引いた細い鉛筆の線がある。昔の僕が地図の端に引いた線。地図は更新され続けるが、鉛筆の線は消えずに残っている。新しいページに、今日の日付だけ書いて、閉じた。


——


麗子のメモ:長文メール


件名:ABテスト、また勝ちすぎた ノアという子、きっとお父さんの線を見てほしかったんだと思う。数字じゃなくて、顔を。今日、私は提案書を一枚短くした。説明より余白のほうが、線が見える気がして。ところで、納税スコア別のレーンの写真、送って。色が気になる。青って、落ち着く色だよね。落ち着く色で、急がせるの、少し皮肉だ。


——


手記の呼応


1992/9/5 L.A.・晴れ グレイハウンド$18 座席の隣のおじさんが、僕の地図に線を引いた。「ここは行くな」「ここは絶対行け」。油で黒くなった指で。線は曲がっていたけれど、線があると安心した。安宿の共用シャワーは冷たかった。スケートボードの貸出は、身分証が要るって言われて、学生証を見せた。写真の中の僕は、眉が太い。


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