プロローグ 線を引く 東京・2027年3月
プロローグ 線を引く 東京・2027年3月
朝いちばんの事務所は、機械が先に起きている。壁の大型モニターに、AGIダッシュボードの数字が滑るように並んだ。今月の申告処理完了率 98.3%。未完了 1.7%。監査要注意 27。電子申告ライン 正常。説明責任ログ 更新済み。早い、正確、そして静かだ。かつては朝の電話とプリンターの音が、ここでは時刻を刻んでいた。今は、数字が時刻を示す。
残りの1.7%は、人間の仕事だ。相続の裏にある家族の事情、分社のあとに残る社員の顔色、節税よりも平穏を選びたいという言い回し。AGIは根拠条文にリンクを貼り、過去の類似事例を引き出してくれる。僕はそこに、名のない一行を足す。「この方は、息子さんが春から独立します」。それだけで、計算は別の顔になる。
「隼人さん、少しいいかな」
社長の深沢がドアから顔を出した。会議室ではなく、社長室へ。窓際の観葉植物が新しくなっている。春の前触れのように、明るい緑。
「パートナー昇格を、正式に打診したい。隼人さんの顧客維持率は、人間にしか出せない数字です」
空気に、短い間が落ちる。
「ありがたいお話です。少し、考えさせてください」
深沢はうなずく。「急がなくていい。線は、よく見て引くものだから」
部屋を出ると、デスクに電話の着信表示が残っていた。十年以上の付き合いがある桐原社長からだ。折り返すと、息子さんの声が受話器の向こうにいた。新しい起業の相談だという。
「顧問って、やっぱり人にお願いしたほうがいいですか? AGIのプランで十分って言われていて」
ハンズフリーにした机上の端末で、AGIの比較表が勝手に展開する。機能、価格、サポート時間。確かに足りるのかもしれない。けれど、声には迷いがあった。数字の欄外に、まだ名前のない要素がある。その名前を、僕はまだ知らない。旅に持って行く問いが、一つ増えた。
「少し時間をください。明日、考えを整理してご連絡します」
通話を切る。保留の一言が、胸の中に小さな余白をつくった。
夕方、仕事を終えたデスクの引き出しに鍵をかけて、コートを羽織る。廊下の自動消灯に促されるように外へ出ると、三月の空気はまだ硬い。改札のゲートは顔認証で一度も僕を待たせない。プラットフォームに立っていると、広告スクリーンのABテストが数値を更新する。勝ちすぎた広告は、まばゆいのに、どこか気持ちの置き場がない。線が見えにくいのだろう。
帰宅後、押し入れを開けた。段ボール箱の角が少し軟らかくなっていて、テープの端が黄ばんでいる。上に積んだ古い書類をどけると、青い表紙のノートが現れた。1990年代の旅日記。蓋を開ける指先に、インクの乾いた匂いがまとわりつく。ページをめくると、紙のざらつきが掌に伝わる。書かれている文字は、確かに僕の字だ。けれど、僕ではない誰かの体温が残っているような、遠さがあった。理由は書いていない。「行きたいから行く」と、ただそれだけが、線のように記されている。
キッチンから、食洗機の低い唸りと湯気が流れてくる。リビングの隣で麗子がPCに向かっている。イヤホン越しの声は穏やかで、しかし指先は速い。会議が終わったのか、キーの音がふっと止まり、湯気のリズムに重なる。
「広告のAB、また勝ちすぎちゃってさ。怖がられたから、一行、説明の物語を足したよ。人は線が見えないと、不安になるんだよね」
僕は頷くだけで、旅日記のページに目を落とす。紙には、書かれていない場所の方が多かった。紙の余白という空気が、目に見える気がした。
夕食のあと、彼女は何も聞かない。ただ湯のみを置く。緑茶の湯気が、紙の匂いに混じる。ペン先でインクが滲んだところに、光が走る。時計は22時を過ぎて、窓の外で遠くの電車が一本、音を残して消えた。
「行っておいでよ」
翌朝、歯ブラシをくわえたままの僕に、彼女は笑って言った。突然のことばに、思わず手が止まる。
「……今?」
「今じゃなくてもいい。でも、今が一番、線が見えるかもしれない」
戸惑いを見抜かれたようで、言葉を失う。彼女は少しだけ視線を落としてから、続けた。
「私も怖いよ。だから行って」
怖いという言葉は、優しさの形をしていた。僕はうなずく。会社の休暇申請画面を開く。期間の欄に、四週間の線を引いて、送信前に指を止める。指先の上で、世界がうっすらと震える。送信ボタンを押す音は、拍子抜けするほど小さい。
洗面台に戻ると、鏡の中の背中が少しだけ丸い。昨夜の自分のように。
出発の準備は、簡単だった。パスポート。古い手帳。クレジットカード。旅日記のノートは、鞄のいちばん薄いポケットに入れた。薄い線に、薄いノートを。
玄関先で靴を履くとき、麗子が視線を落として靴紐の結び目を見ていた。
「緩いね。ほどけたら、結び直せばいいだけだけど」
「うん。線も、引き直せる」
ドアを閉める音が、朝の空気に吸い込まれていく。エレベーターの鏡に、出発前の顔が小さく映る。線を引く顔だと思った。あるいは、まだ引けていない顔だ。
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麗子のメモ:未送信の下書き
件名:なし あなたが旅日記を読んでいるとき、私はあなたの背中の線を見ていた。少し曲がっていた。それが今日の答えかもしれない。 ——送信されなかった、2027/3/14 23:47
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手記の呼応
1993/3/10 東京・くもり バイト代¥45,000 来月、アメリカに行く。理由は、うまく言えない。




