第4話 線をまたぐ ホーチミン→プノンペン(陸路)
朝、ライムが二つ、ポケットの内側で当たって小さく鳴った。宿の玄関を出ると、もう空気は起きている。バスステーションへ向かう路地の湿気は濃く、昨日の屋台の匂いがまだ石畳に残っている。靴底がそれを薄く伸ばして、細い線ができる。
長距離バスの発着場は、色の多いひさしに守られていた。紙とビニールとスチール。チケット売り場の窓口に、仮設の端末が置かれていて、出発時刻と価格がLEDで流れる。端末は“相乗りで40%オフ”と小さく囁き、翻訳の輪郭で僕の耳をくすぐった。画面を閉じる。今日は自分の速度で行く、と決めたからだ。
バスは車齢の高い白。シートの布は薄く、肘掛けのビニールがところどころ鈍く光っている。隣の席の若い男は、出発してすぐに眠った。彼のポケットにも、小さな硬いものの形が浮いている。何かの鍵か、折られた貨幣か。窓の外、街が川になって後ろへ流れ、やがて田の緑が粒の連なりになった。
境目は、見える。舗装が細かく割れて、穴の縁だけが濃い。橋が近づき、遠くから拡声器の声が針金みたいに細く届く。バーベットの検問所だった。
降車。空は白く、影が短い。建物の庇の下に、人の列が二本できている。ひとつは「通常審査」、もうひとつは「Visitor Trust Add-on」。英語とベトナム語で書かれた縦長の看板。Add-on。付け足す信用。列の先頭で、端末が青い音を鳴らし続けていた。センターの若者が配っていた端末と、同じ系統の声がここでは大きい。ズオンの屋台で下げた音量が、ここでは最大になっている。
手をポケットに入れる。ライムの丸さは、温度で少し柔らかい。検疫の黄色い看板を見つける。「生鮮果実・動植物の持込み禁止」。順番が来るまでの間に、手のひらの中の重さが理由を失っていく。検査官が透明な箱を指さす。僕はライムを二つ、そっと置いた。箱の底に既にあるいくつもの果物に混じって、緑が二つ増える。金属の蓋が落ち着いた音で閉まった。重さは、ここで終わる。
「Add-onは、1日12ドル。7日で35」と前の男性が言われている。支払いはカードかモバイル。彼のカードが一度弾かれて、係官は黙って横の列を指さした。「現金窓口」。係官の指は何度もこの動きをしたのだろう。筋ができている。
僕の番が来た。パスポートを出すと、端末に自動でページが現れ、画面の右下に薄い文字が点く。「外国人スコア:低」。続いて、支払い画面。7日を選ぶ。カードをかざす。音がしない。画面の緑の輪が半分まで回って、止まった。背中に並ぶ人の呼気がふくらみ、しぼむ。係官がもう一度かざせと目で言い、僕は従う。今度は赤い小さな×が出て、「別の方法を」と英語が短く立ち上がる。
「ミスター、レートが悪い。こっちのアプリでやると、すぐ」
横から、男の声が入った。日焼けした頬。笑うと頬骨の影が動く。トゥクトゥクの運転手のベスト。胸の名札に「Sokha」。彼は自分の端末を取り出し、僕の端末のQRを一瞬だけ読み取る。僕の画面に小さな通知が跳ねた。「地域信用からの一時肩代わり:24時間以内に精算」。OKのボタンは青い。押さなければ進まない。押すと、さっきの緑の輪が一気に回り、端末が明るい音で一度だけ鳴った。
「これで通れる。帰りに払って。レシート、あとで送る」
彼は軽く肩をすくめ、手のひらを上にして見せた。何も持っていない手の動き。係官が僕のパスポートを返し、ゲートの先を顎で指す。僕は礼を言い、Sokhaの笑い皺が動くのを見た。彼の笑いは、重さを減らすのではなく、重さの居場所を変える種類のものだ。
金属のゲートをくぐる。足元に低い段差が続き、足裏に段差の点が順に押されていく。橋の上、風が一方向から強く吹く。ここを渡る間だけ、方向について考えなくて済む。振り返ると、検問所のスピーカーがまだ大きく、機械の声が途切れずに何かを宣告している。前を向くと、風の音だけになる。二つの音量の差が、鼓膜に残ったまま消えない。
カンボジア側の建物は、色が少し褪せている。壁のペンキの剥がれ方が違い、窓の格子の間隔が広い。入国のスタンプが紙の上で小さく震え、その震えが僕の指に伝わる。ここでも端末は「追加の保険」を勧めてくる。画面を閉じる。Sokhaが外で待っていた。彼は両手を広げて、空の色を示すみたいに笑う。
「プノンペン? それとも国境の街まで?」
「プノンペンまで」
「OK。大きい道は工事中。小さい道で、早く行く。小さい道は、話が多い」
「話?」
「動物、子ども、穴」
トゥクトゥクに乗ると、彼は片手でハンドルを取り、もう片方で僕の荷物をロープで結んだ。結び目が早い。ロープの線が荷物の角に斜めに食い込む。走り出すと、風が顔に来る。ベトナム側より乾燥して、土の粒が舌の先に当たる。小さい道は文字通りに小さく、穴が多い。Sokhaは穴の縁を避けたり、わざと跨いだりしながら、体重移動だけで乗り切る。
「さっきの“肩代わり”、ありがとう」
「いい。あなた、戻す。みんな、たまにやる。スコア、借りたり貸したり。雨のときの傘みたい。濡れる人が少ない」
「あなたのスコアは下がらない?」
「ちょっとだけ下がる。でも、すぐ戻る。僕、走るから」
彼は笑って、片手で太ももを叩いた。叩いたところの布が薄い音を出した。笑いは軽い。軽さの底に、硬いものがある。
やがて、舗装が新しくなり、建物が密になっていく。道端に氷の塊が置かれ、白い湯気が立つ。看板の文字が変わる。交差点で一度止まったとき、Sokhaがタバコを取り出して、火をつけずに匂いだけ吸った。
「父、戦争で地雷。足、一本ない。でも、笑う。笑いは安い。だから、いい」
言い方はまるで天気の話だ。暑いね、の代わりに地雷の話。僕はうなずくことしかできない。何か言うべき言葉が口の中で形にならず、舌だけが乾く。Sokhaは気にしない。交差点の信号を横目に、再び走り出す。
途中、休憩で小さな露店に寄る。冷たい水を二本。Sokhaは自分の分に、小さなライムを一切れ絞った。僕はポケットを探る癖で手を入れて、何も触れない空気を掴む。その空気は軽く、指の腹に何も残さない。
「ライム?」
Sokhaが僕の手つきを見て言う。僕は笑って、首を横に振った。
「さっき、置いてきた」
「国境は、重いものを軽くする。軽いものを重くもする」
彼は水を一口飲んで、口の端を拭いた。目は笑って、額の皺は動かない。軽さと重さの配分が、彼の中ではもう決まっているみたいだった。
午後、プノンペンに入る。川が広く、風がまっすぐに吹く。川沿いの旗は金糸で縁取られ、薄くはためく。Sokhaは橋を渡る前に一度だけ停まり、後ろを見た。
「ここからは、あなたのスコア、僕のじゃない。大丈夫」
「ありがとう。さっきの“貸し”は、明日、返す」
「いい。返さなくても、雨の日に別の誰かが僕に貸す」
彼はそう言って、肩を回した。肩甲骨の下で、何かが小さく音を立てる。トゥクトゥクのエンジンがそれに答えたみたいに、低く唸る。
宿の前で降りる。代金を払うと、SokhaはレシートのQRを軽く叩いて送ってくれた。画面の下に、あの「一時肩代わり」の小さな記録がまだ点いている。砂粒が靴の中に入ったみたいな違和感。歩くたび、足のどこかでジャリと鳴る。
部屋に荷物を置き、窓を開ける。川風が机の紙を一枚持ち上げ、また戻した。端末の通知が二つ鳴り、ひとつは翻訳の更新、もうひとつは「身元スコア:有効」。有効。言葉は正しく、体のどこかで冷たい。ベッドの縁に腰を下ろして、靴を脱ぐ。靴の中の砂を指でつまんで、ゴミ箱に落とす。小さく当たる音。数は少ないのに、はっきり聞こえる。
机に旅日記を置く。ページを開いて、しばらく何も書かずに眺めた。けれど、指は数字の場所を避けて、別のところに止まる。ペン先をそこに置く。紙が一度だけ、呼吸した。
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麗子のメモ:未送信下書き②
件名:なし
「越境って、怖い?」って訊こうとして、やめた。あなたの端末の通知音が、少し大きかった気がして。音量の話、今度ゆっくりしよう。私は今日、作業のBGMを消してみた。静かにすると、手の音が聞こえるね。——保存 2027/3/23 21:08(未送信)
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手記の呼応
1994/1/20 バーベット国境・くもり
係官が書類をじっくり見た。五分、待った。通れた。それだけなのに、全身に汗。橋の上は風が強くて、帽子を押さえた。足元に段差。段差のぶんだけ、越えた気がした。




