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首輪の長さ

「さて」

 朝の珈琲を飲み終わった叶湖が、私室へ何かをとりに行き、直ぐに戻ってきた。

 食器を洗いながら、黒依がカウンター越しにその様子を伺う。

「洗ったら、こっちへいらっしゃい」

「はい」

 間もなく、布巾で手を拭きながら黒依がやってくる。

 3人掛けのソファの左端に叶湖が座り、そのさらに左、ソファの肘置きの部分を背もたれにして、黒依が床にすわる。黒依の身体が動く度、腕や髪が叶湖の足を掠めるのだが、黒依はその位置が定位置になってしまったのだ。犬っぽいので、それもいいか、と叶湖も思っている。





 叶湖がローテーブルの上に広げていたのは、叶湖の住むマンションを中心とした、半径5キロほどの地図だった。

 叶湖が、マンションを中心とした新円をフリーハンドで描いている。ざっと縮尺を考えると、半径が2キロといったところだろう。更に、その4分の1ほどの円を2つ、少しだけ重なるようにして、大きな円の内側に描く。





「この地図が、ウチから半径5キロ圏内。大きな丸が2キロ、小さな丸が500メートルです。1つはこのマンション、もう1つはアカズノ間を中心にしています。この小さな円に含まれる範囲で、私に知られず行動することは、まず不可能と考えてください。監視カメラは一切の死角がないようにしていますし、場所によっては……この家や、店に辿りつくために、絶対避けられない場所の全てですが、そこにはマイクをとりつけています」

 黒依は地図を眺めながらこくり、と1つ頷く。

「ちなみに、どうやって設置して、動力をどうしているかは……聞かない方がいいですね」

「そうですね、私の領分なので」





 1つ頷いた叶湖我言葉を続ける。

「次に大きな円。これが、私が常に網を監視しているカメラの範囲です。黒依も、実際に歩いてみればよく分かるでしょうが、監視カメラに死角はありますが、その死角だけを渡り歩いて移動することは不可能です。また、一定以上の動きが監視カメラに映った場合……つまり、私が顔認証をしかけている対象が映ったり、急激な人口密度を増加を確認したり、夜間に通常とは異なる明度を確認したり、ということですが、そういった場合には、私にアラームが入るようになっています。先日、アナタが行方不明になっている時も使いました。そして、この地図に映る範囲が、私が日常的に情報網を巡らせることができる限界ですね。それ以外は、何らかの目的がなければ、調べません」

「なるほど」

 また、こくりと頷く黒依の頭に手を乗せる。そんな叶湖を振り返って、黒依がまっすぐに見つめてきた。その瞳に笑いかける。





「あなたが1人で勝手に出歩けるのは、この小さな円の範囲内です。いいですね?」





 それは、ハタから見れば、ただ距離の長いだけの首輪をつけられたような状況だろう。そも、その範囲内であれば、全てを把握できると聞かされたあとなのだから。しかも、その範囲から外に出たところで、カメラの死角だけを歩くことはできず、カメラに顔認証をしかけることが可能だとも言われたのである。

 それはつまり、叶湖が黒依の全てを監視する、ということであった。





「はい、分かりました」

 それでも、黒依は微笑んで叶湖の身体に擦り寄る。

「聞きわけのいい子で助かります」

 叶湖はそんな黒依の頭を撫でる。





「私が許可をするなら、大きな円の範囲までは1人で出歩いても構いません。が、その外は、例えこの地図に映っている範囲であっても、私、またはカメラ……は、目立ちますので、発信機と盗聴器と一緒に外出してください」

「分かりました」

「アカズノ間は当然小さな円の範囲内なので、許可なく行って構いません。たとえば、私が仕事にかかりきりになって、暇なときは、あそこの客にでも遊んでもらいなさい」

 その言葉に、それまで叶湖に対して素直に頷いていた黒依の表情が少し曇った。





「それでも、僕はアナタの傍にいたいのですが……」

「店が何日も開かないと、店の客を相手に商売をしている空也あたりから、やんわりとクレームが入るのですよ。今までは切り捨てていましたが、アナタがいるんですから、任せてもいいでしょう? そういう恩は、売れる時に売っておくものです」

「そういうことなら……分かりました」

 また、素直に頷き返した黒依に、叶湖は満足げに頷く。





「僕からも、1つお聞きしていいですか?」

「はい」

「空也さんは、面と向かって商品を売買することがありますよね。叶湖さんは、インターネット上の空間以外で、仕事をすることはありますか?」

「ない……とは言えません」

 そう返事をしながら、叶湖がふ、と軽く息をつく。





「これは、私も当てはまりますが、インターネットの急速な普及によって情報を集めやすくなった人間からしてみれば、逆に、そういった物を介して、秘密にしたい情報をやりとりしたくないものです。この部屋の鍵がオートロックや、電子キーでないのはそのためですね。まぁ、エントランスとエレベータにはスマートキーを採用していますが」

「……エントランス? それだけじゃなくて、エレベータも、ですか?」





「あれ、言ってませんでしたか? このマンション建てたの、私です。様々な条件を満たす部屋を探すより、場所だけ探して建てた方が楽ですから。……言うならば、オーナーですね。はした金のやりとりと住人トラブルに煩わされるのが嫌だったで、私を除く全ての住人からの家賃収入と引き換えに、管理人は別の人間に任せています。この広さで1LDKなんて間取りはこの部屋だけで、他の部屋は世帯向けの間取りをしていますよ」

「……そういえば、全然他の住人に会いませんね……。叶湖さんも、血まみれで帰ってくることがあったといいますし」





「カメラを使えば、人の目くらいはいくらでも避けられますけどね。私たちが使っているエントランスとエレベータは、他の住人が使うものとは別ですよ。先もいいましたが、この部屋の鍵のタグがスマートキーとして機能していて、他の住人には反応しません。まぁ、非常階段まで別に作るのは面倒だったので、そちらは、この階に繋がる場所に、厳重に施錠されたドアを置いたにすぎませんが。このマンションの住人は、私が特別な信用調査をしているので、そういった違和感程度、見て見ぬふりをする人間ばかりです」

「……住人ごと普通じゃないマンションなんですね……。つまり、僕らが出入りする場所の裏側に、メインエントランスがあるんですね。そういえば、外周を周ったことがありませんでした。だから、最上階にお住まいなんですか」

 どこか、呆れたような、諦めたような声が黒依から漏れる。





「厳重に厳重を重ねた結果のセキュリティ対策だと言ってください。……エントランスについては、そうですね、アナタは私と一緒か、飛び出していくように部屋を出てばかりでしたから。外周を周ればすぐ分かるでしょう。ちなみに、真向かいと真下の部屋は空き室ですよ。管理人に手入れだけはさせているので、すぐにでも住めますが。住みます?」

「住まわせる気もないのに言わないでください。アナタと一緒がいいです」

「よろしい」

 叶湖がそういって微笑みかけながら、あ、と呟いた。





「本題を忘れるところでした。……まぁ、そういうわけで、大事な情報を電子で送られるのを嫌がるクライアントが少なからずいるんです。そういう人間のほとんどは、紙媒体で郵送すれば片がつくんですが、中には直接やりとりしたがる人間もいます」

「え、」

 黒依がその言葉に目を見開いて眉を寄せる。





「と、いっても、私は絶対に自分の情報は売らないので、顔を突き合わすわけじゃありません。場所を指定して、その場に隠しおいたり、コインロッカーに入れてみたり」

「そんな不完全な方法、郵送より嫌がられるんじゃないですか? それに、近くで待ち伏せされたら、アナタが置いていったこと、分かっちゃうんじゃ……」

「そういうまともな感性をしている人間であれば、郵送を指定しますよ。なぜか、いるんですよね、身代金の受け渡しみたいなことをしたがる人間。まぁ、少なくても、私が監視できない場所を指定したりはしません。クライアントの顔などは、調べればすぐ分かりますので、その人間と秘密のやりとりができそうな人間をひっくるめて、全員に顔認証をかけています。もちろん、その分の手間は加算です」

 叶湖の言葉に、それでも黒依は納得していない様子だ。





「顔認証できる範囲ってことは、このマンションからそう離れていない距離、ということですか? それって、アナタの行動範囲がバレるんじゃ……」

「えぇ、バレているでしょうね」

「そんな……!」

「でも、その行動範囲から私を特定しようという人間は多くありません。なにしろ、私は向こうの情報を全て握っていますからね。向こうからすれば、情報という人質をとられているのと一緒です」

「多くない……?」

 なんともなしに軽く言葉を発する叶湖だが、黒依が不穏な言葉を聞き咎めた。





「えぇ、多くない。まぁ、過去には、ごく数人のおバカさんもいた、ということです」

 黒依の問い返しに叶湖はニッコリと頷く。その過去を思い出したのか、僅かにその笑顔に深さが増す。叶湖の機嫌が悪くなり始めた合図である。

「そんな……!」

「まぁ、そういうおバカさんには、この世から退場していただきましたが」

 黒依が悲壮な顔で見上げるのを、叶湖のきらきらしい笑顔が笑みかける。





「は……?」

「ある者は社会的地位を抹殺して破滅させた上で自殺に追い込みましたし、ある者は偶然、敵対組織の鉛玉に沈むことになりました。またある者は偶然、巷で流行りの猟奇殺人の被害者になりましたし、死体の行方ごと闇に葬られました人間もいましたね」

「ご自分で始末されたこともあるんですか」

「まぁ、相手は選びますけれど」

 そんな叶湖の表情に黒依ははぁ、と深い溜息をつく。





「僕を、手段の1つに加えてください」

「ん?」

「アナタの情報網を甘く見るつもりはありませんが、アナタが仕事で外に出る時は、僕も連れて行ってください。顔認証の及ばない、例えば、その辺りの浮浪者に金でも握らせて、アナタの情報を得ようとする人間もいるでしょう。僕なら、そういう気配や視線にも敏感です。……もしそれでも、アナタに迫ろうという人間がいれば、僕が始末します」

「……」

 黒依の言葉にきょとん、と首をかしげる。





「前半は、まぁいいです。別に、私としては散歩のつもりなので。私の領分は私が調べものを終えた段階で終了しています。その後のアナタの介入は邪魔ではありません。……後半ですが、アナタ、罪のない人を殺すの嫌だったんじゃ?」

「叶湖さんから僕を奪おうとする人は叶湖さんの敵なので、罪人ですよね?」

「……そうですか。まぁ、私の楽しみを奪わない範囲でなら許可します。直接始末するような状況になればアナタに任せますが、情報操作で消せる小物なら、私がやります」

「分かりました」

 黒依の言葉に口の端だけで笑った叶湖を見て、黒依は安心した顔を浮かべる。叶湖の機嫌が上昇したことが分かったからだ。





「では、そんな頑張り屋さんなペットのために、料理でもしてあげましょうかね。今日のお昼、何たべたいです?」

「なんでも大好きです」

「……そうですか」

 黒依のわくわくとした顔を背に、叶湖は冷蔵庫の中身を確認すべく席を立った。



叶湖の独占欲と、黒依の依存心。

歪んだ感情が大好きです。

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