おかえりなさい
「叶湖さん」
「っ、はぁっ、はぁっ」
叶湖の出現に驚く黒依の前で、未だ叶湖の息が整わない。
「このバカ犬! どうして何の連絡も寄越さないんですか!」
「す、すみません。連絡手段がなくて……。でも、この格好じゃ、人目につきますから、夜になるのを待って、帰ろうと思ってたんです」
真っ赤に濡れた姿で黒依が困ったような顔を浮かべる。ざ、と叶湖が上から下まで見る限り、その赤は付いてから時間が経ったもので、固くこべりついているだけだというのが分かった。とりあえず、現在に至るまで流血が止まらないような怪我はしていないことが分かり、内心で息をつく。
「どこかの監視カメラに映れば、私には察知できます! それを、なんで全部避けるんですか! 分かるでしょう、それくらい! っ、うぅぅぅ」
途端、涙をこぼし始めた叶湖に、黒依は目を見開いた。
「ど、どうしたんですか、そんなに心配させましたか、僕」
「違います! 自意識過剰もほどほどにしなさい。私、アナタの所為で走ったんです! 見てたでしょう! 普段、運動しないのに。もう、胸とか、足とか、全部痛いです!」
「す、すみません。こんな格好じゃ、支えることもできなくて」
幸い、叶湖が感じた痛みは然程でもなかったようで、改めて息を整えて、溜息をつく。
「怪我は?」
「かすり傷程度です。流血はありません」
「そうですか。……着替えるか、日がしっかり暮れるまで待つか、どうします?」
昼ならば、叶湖の持つディスプレイで人目を避けたルートが選べるが、薄闇に包まれた今の時間帯ではそれも難しい。それよりは、日が暮れ落ちるのを待つ方が早い気もした。
「僕は待っていてもいいんですけど、こんな血まみれの男、嫌じゃありません?」
「私もよくなりますよ? 血まみれ」
「……」
黒依の冗談交じりの問いかけに、冗談のような真実で返事が返り、さすがの黒依も沈黙せざるを得なかった。そういえば、そうだろう。相手は猟奇殺人犯なのだから。
「着替えます」
「最初からそう言いなさい。では、脱いで」
「え、アナタの前で?」
当然のようにさら、っと言った叶湖に黒依が目を見開く。
「今さらですか? 私、既に上から下まで、前から後ろまで、見てますけど」
「それは、そうなんですけど……」
「……あ、もしかして、殺人にエクスタシー感じます? だったら、見ない方がいいでしょうか。さすがにヌいてあげる時間がありません」
「違います。脱ぎます。……ちなみに、それ、アナタのことですか」
「うるさいです」
「とりあえず、下着は履いてていいですよ。脱いだら、膝をついてください」
そう言った叶湖が取り出したのは二リットル入りのペットボトル2本。
「え」
「少し寒いですけど、我慢してくださいね」
そんな断りが黒依の耳に入るか否か。叶湖はペットボトルの水を、黒依に対してぶちまけた。
どぼどぼと、水が黒依についた赤を洗い流していく。
服以外についた返り血は、すでに自分で洗い流していたのだろう。僅かに服の内側まで染みとおった赤色だけを流し落としていくのを見て、叶湖が誰にともなく呟く。
「私のために、人を殺させましたね」
「何を、言っているんですか。これは、もともと僕が撒いた種で、僕のためです」
「違います。だって、アナタはもう私のものですから。アナタの言動は、全て私の指揮下にあるのと同じこと。……私に責任があるのと同じこと」
叶湖の呟きに黒依が叶湖を見上げる。それは、どこか苦悩を浮かべていた。いつもの笑顔とは違う表情に、僅かに黒依が驚いた顔をする。
「私のために、人を殺させたのですから、私も何か、お返しをしなくてはいけませんね。調教の基本は、飴と鞭、ですから」
「お返し、って……」
「私も……今後はアナタを苛めることで満足しておくことにします」
「え?」
黒依は何度か叶湖の言葉をかみ砕いて、やがて、目を見開く。叶湖のその言葉はつまり、彼女が猟奇殺人をやめる、ということであった。その分の彼女の嗜虐心が自分に向くかもしれないと分かってはいても、それが叶湖なりの優しさだと分かる。
どんな彼女でも好きだといいつつ、それでも、罪のない人を殺せるか、という問いに答えることができなかった自分に、彼女が歩み寄ったのだと。それが分かって、幸福感すら感じる。
「タオルです。こっちが着替え。……また空也に廃品回収を頼まなければ……」
ぼやいた叶湖が、空になったペットボトルと、黒依が脱いだ後の服とを、カバンの中へしまう間に、黒依は着替えを終えていた。
その頃には、闇に染まった空に、月がぽっかりと浮かんでいる。
「……待っているのと一緒でしたね」
「でも、この姿なら、叶湖さんが足や胸を痛めていたら抱えられますから」
そう言って微笑んだ黒依に、叶湖は溜息をついて、手にとったタオルを黒依の頭にかぶせる。
「え、ちょ!?」
「髪くらい拭きなさい。ホントに犬になる気ですか」
「わわっ」
わしゃわしゃと、タオルを被せたまま、おおざっぱに黒依の髪を拭いていた叶湖の動きがはた、と止まった。
「叶湖さん?」
黒依が怪訝な声を上げると同時、自分の身体が柔らかなもので拘束された。
目の前にはタオルの白色しか映っていないが、何をされたのかは、分かる。
「どうしたんですか、」
「……言い忘れてただけです。……おかえりなさい」
「……ただいま、戻りました。叶湖さん」
そう言って、自分の居場所を確認するように、黒依も目の前の彼女に腕を回した。
出会い篇、完結です。お付き合いありがとうございました。
閑話を挟んだ後は、叶湖と黒衣が想いあうまでのお話になります。




