第9話 来ないなんて、聞いてない
木曜日の朝、天野ひよりはいつもより少し慌ただしく家を出た。
原因は寝坊ではない。目覚まし時計が鳴った時間にはきちんと起きたし、制服へ着替えるところまでは順調だった。ただ、朝食を食べている途中で兄の悠一が「最近帰ってくる時間が少し遅くないか」と言い出し、そこから面倒なやり取りが始まってしまったのだ。
「遅くないってば。暗くなる前には帰ってるでしょ?」
「前より十分とか十五分とか遅い日あるだろ」
「細かい!」
「細かくない。冬は暗くなるの早いんだからな」
「高校生だよ、私」
「高校生でも妹は妹だ」
「意味分かんない」
食卓を挟んで言い合う二人を、父の浩介は新聞越しにちらちらと見ていた。母の由美は味噌汁を飲みながら特に止める様子もなく、美月に至ってはスマートフォンを眺めながら完全に他人事の顔をしている。
「お姉ちゃんからも何か言ってよ」
「悠一がうるさいのはいつものことでしょ」
「ほら!」
「ただし」
美月がスマートフォンから顔を上げる。
「最近ちょっと帰りが遅いのは私も気づいてる」
「……」
「ほら!」
「お兄ちゃんは黙って!」
味方だと思った姉まで敵側に回った。
ひよりが頬を膨らませると、美月は小さく笑った。
「別に怒ってないよ。何してるのかなって思っただけ」
「前に話したでしょ。ノア」
「ああ、黒い大きな犬」
「そう」
「毎日会ってるの?」
「毎日っていうか……」
ひよりは言葉に詰まった。
結果的には、かなり頻繁に会っている。
迷子だったノアと出会ってからまだそれほど日数は経っていないのに、放課後の公園で真樹とノアに会うことが、すでに日常の一部になりつつあった。
「最近は、まあ……会うこと多いかな」
「飼い主も?」
悠一がすぐに割り込む。
「いるよ。散歩なんだから」
「男だよな?」
「前にも聞いたでしょ」
「同い年だったよな?」
「そうだけど」
「どこの学校?」
「……」
ひよりは箸を置いた。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「朝から尋問しないで」
「尋問じゃない。確認だ」
「同じ!」
「ひより」
由美が静かに名前を呼ぶ。
ひよりが母を見ると、由美は悠一を顎で示した。
「相手すると遅刻するわよ」
「あっ!」
時計を見る。
「もうこんな時間!?」
「だから言ったでしょう」
「お兄ちゃんのせい!」
「何で俺!?」
ひよりは残っていた味噌汁を急いで飲み、席を立った。
「ごちそうさま!」
「ひより、走るなよ」
浩介が新聞を下ろす。
「分かってる!」
「あと暗くなる前に――」
「帰ってくる!」
悠一の言葉を先回りして答え、鞄を掴んで玄関へ向かう。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
家族の声を背中で聞きながら、ひよりは玄関を飛び出した。
冷たい空気が頬へ触れる。
「寒っ……!」
マフラーへ顎を埋め、駅とは反対方向にある学校へ向かって歩き始める。
少し速足。
それでも、頭の片隅には朝の会話が残っていた。
(毎日、か)
悠一に言われるまで、あまり意識していなかった。
放課後になれば帰る。
いつもの道を歩く。
公園へ寄る。
ノアがいる。
真樹がいる。
それだけ。
約束しているわけではない。
少なくとも、昨日まではそう思っていた。
けれど昨日は、自分から「明日も来る?」と聞いた。
真樹は「来る」と答えた。
(……それって、約束なのかな)
ひよりは歩きながら首を傾げた。
「いや、違うでしょ」
小さく呟く。
待ち合わせ時間を決めたわけでもない。
連絡先だって知らない。
ただ、お互いそこへ行くことを知っているだけ。
(でも、北条君は来るんだよね)
そう考えると、なぜか少しだけ足取りが軽くなった。
◇ ◇ ◇
「ひより、おはよ」
「おはよう、千夏」
教室へ入ると、千夏はすでに席にいた。
ひよりが鞄を置いていると、千夏がすぐに気づく。
「今日ちょっと遅かったね」
「お兄ちゃん」
「ああ」
それだけで通じた。
「また?」
「最近帰りが遅いって」
「十分くらいでしょ?」
「そう!」
ひよりは椅子へ座る。
「しかもノアの話したら、飼い主どこの学校とか聞き始めて」
「北条君がいるって知ってるんだ」
「最初の日から知ってるよ。男の人だったって言ったから」
「名前も?」
「……名前は言ってない」
「何で?」
「絶対面倒くさいから」
「賢明」
「でしょ?」
千夏が笑う。
「でもそのうちバレるんじゃない?」
「何で」
「毎日会ってるなら」
「毎日って言わないでよ」
「違うの?」
「……」
ひよりは黙った。
千夏が勝ち誇ったように笑う。
「ほら」
「たまたま続いてるだけ」
「今日も?」
「……今日も」
「明日も?」
「知らない」
「今日聞く?」
「何でそうなるの」
「昨日聞いたんでしょ?」
「それは……」
ひよりは言葉を探した。
なぜ昨日、明日も来るのか聞いたのだろう。
ノアに会いたかったから。
それは間違いない。
でも。
(北条君が来ないで、ノアだけ来るわけないし)
だから、ノアに会いたいということは真樹にも会うということだ。
当たり前なのに、改めて考えると妙な感じがする。
「ひより?」
「何?」
「難しい顔してる」
「してないよ」
「してる」
千夏がひよりの頬を指でつついた。
「何考えてたの?」
「別に」
「あ、北条君が移った」
「違う!」
ひよりがその指を払いのける。
「もう、朝からやめてよ」
「はいはい」
「その返事も嫌い」
「注文多いなぁ」
千夏は笑いながら前を向いた。
ちょうど担任が教室へ入ってくる。
ひよりも教科書を出した。
けれど授業が始まる直前。
ふと昨日の夜、颯太とメッセージを交わしたことを思い出した。
文化祭の写真。
短いやり取り。
それだけでも嬉しかった。
(今日は学校で会えるかな)
胸が少し高鳴る。
その気持ちは、ちゃんと恋だった。
ずっと好きだった人に近づけた嬉しさ。
ひより自身にも分かる。
だからこそ。
放課後に真樹とノアへ会うことを楽しみにしている気持ちについては、まだわざわざ名前をつける必要などなかった。
◇ ◇ ◇
二時間目と三時間目の間の休み時間。
ひよりが次の授業の準備をしていると、机の横へ人影が止まった。
「天野」
「ん?」
顔を上げる。
海斗だった。
「数学の課題やった?」
「やったよ」
「問五分かった?」
「分かったけど」
「見せて」
「写すのはダメ」
「答え合わせ」
「本当に?」
「本当本当」
信用できない。
ひよりが疑いの目を向けると、海斗は両手を合わせた。
「頼む」
「……自分のノート持ってきて」
「神」
「そういうのいいから」
海斗が自分の机からノートを持ってくる。
ひよりは自分のノートを開き、問五を指差した。
「ここ。最初にこの式使うの」
「あー、そっちか」
「橘君、どこで詰まったの?」
「最初から」
「それ答え合わせじゃないじゃん!」
「声でかいって」
「誰のせい!」
近くにいた生徒が笑う。
海斗も悪びれず笑っていた。
「じゃあ教えて」
「先生に聞けば?」
「天野のほうが聞きやすい」
「私、数学そんな得意じゃないよ」
「俺よりできる」
「比較対象が低い」
「ひどくない?」
言いながらも、ひよりはノートを海斗のほうへ向けた。
「ここを先に変形して――」
説明を始める。
途中で千夏も会話へ加わり、三人で問題を確認した。
ひよりにとっては、ごく普通の学校生活だった。
海斗は同じクラスの友人。
千夏は親友。
教室では誰かが笑い、廊下から別のクラスの声が聞こえ、次の授業を知らせる予鈴が鳴る。
公園にいるときとは違う自分の世界。
その中へ真樹はいない。
ひよりはまだ、そのことを特別だとは感じていなかった。
◇ ◇ ◇
昼休み。
今日は颯太が教室へ来ることはなかった。
ひよりは少し残念に思いながらも、昨夜メッセージを交わせたことを思い出すだけで十分だった。
「顔が緩んでる」
千夏に指摘され、慌てて頬を押さえる。
「緩んでない」
「佐伯君?」
「……何で分かるの」
「分かるよ」
「そんな顔に出る?」
「私にはね」
千夏は卵焼きを口へ入れる。
「昨日メッセージしたんでしょ?」
「うん」
「どれくらい?」
「そんな長くないよ。写真送って、ちょっと去年の文化祭の話して」
「楽しかった?」
「……うん」
ひよりは照れながら頷く。
「すごく」
「そっか」
千夏も笑った。
「よかったじゃん」
「うん」
素直に嬉しい。
バレンタインには何もできなかった。
でも、少しずつでも話せるようになればいい。
「今度こそ頑張りたいな」
「焦らなくていいんじゃない?」
「うん。分かってる」
「またチョコみたいに一人で追い込まないでよ」
「……はい」
「困ったら相談して」
「ありがとう」
ひよりが笑うと、千夏も笑い返した。
そのとき。
「あれ、天野」
横から海斗が声をかける。
「今日、放課後図書室行かない?」
「図書室?」
「数学。さっきの続き教えてほしい」
「ええ……」
「頼む!」
両手を合わせられる。
ひよりは少し困った。
放課後。
図書室。
数学。
それ自体は別に構わない。
ただ。
「今日じゃないとダメ?」
「ん?」
「明日とか」
「明日でもいいけど」
「じゃあ明日でいい?」
「いいよ」
海斗はあっさり頷いた。
「今日何かある?」
「……」
一瞬だけ迷う。
「ちょっと」
「そっか。じゃあ明日な」
「うん」
海斗はそれ以上聞かなかった。
千夏だけが黙ってひよりを見る。
「何」
「別に?」
「……絶対何か言いたいでしょ」
「言ってないよ」
「顔が言ってる」
「ひより、今日北条君に同じこと言ってみたら?」
「何でそこで北条君出てくるの!」
千夏が笑う。
ひよりは頬を膨らませながら弁当に視線を落とした。
(別に、北条君との約束を優先したわけじゃないし)
約束。
その言葉を自分で思い浮かべて、少し止まる。
(……約束なのかな)
昨日、明日も来ると聞いた。
なら。
やっぱり少しくらいは約束なのかもしれない。
◇ ◇ ◇
一方。
私立桜陵学園では、真樹が珍しく昼休みの途中でスマートフォンを確認していた。
「誰かから連絡待ち?」
向かいに座る蓮が尋ねる。
「別に」
「じゃあ何でさっきからスマホ見てるの?」
「時間」
「壁に時計あるけど」
「……」
真樹はスマートフォンを伏せた。
「うるさい」
「俺、何も言ってないじゃん」
「顔がうるさい」
「それ天野さんに言われた?」
「は?」
「最近お前、言い回しがちょっと増えた気がするから」
「気のせい」
「ふーん」
蓮が笑う。
真樹は無視した。
スマートフォンを見たのは、本当に時間を確認しただけだ。
誰かから連絡が来るわけではない。
そもそも。
ひよりの連絡先を知らない。
「……」
またそこへ思考が行く。
昨日、自分で気づいてしまった。
佐伯はひよりの連絡先を知っている。
自分は知らない。
(だから何だ)
公園で会うだけなら必要ない。
今日も来ると言ってある。
それで十分だ。
「真樹」
「何」
「今日、俺も散歩行っていい?」
「は?」
思わず顔を上げた。
蓮が笑っている。
「ノアに会いたい」
「嘘つけ」
「何で?」
「お前、うち来れば会えるだろ」
「じゃあ天野さんに会いたい」
「……何で」
「気になるから」
「何が」
「真樹が毎日会いに行ってる子」
「会いに行ってない」
「じゃあ毎日偶然?」
「散歩してたらいるだけ」
「同じ時間に?」
「……」
「しかも昨日は今日も来るって言ったんだろ?」
「何で知ってんだよ」
「顔」
「分かるわけないだろ」
「適当に言った」
「……お前ら本当にそれ好きだな」
「お前ら?」
蓮がすぐに反応する。
真樹は舌打ちしそうになった。
「何でもない」
「天野さん?」
「違う」
「へえ」
「うるさい」
蓮は楽しそうだ。
「で、行っていい?」
「ダメ」
「即答?」
「ノアの散歩にお前が来る理由ないだろ」
「昔一緒に行ったことあるじゃん」
「玲奈と同じこと言うな」
「玲奈も言ったの?」
「昨日な」
「じゃあ三人で行く?」
「絶対嫌だ」
今度はさらに早かった。
蓮が一瞬黙る。
それから、肩を震わせた。
「……何笑ってんだよ」
「いや、真樹がそこまで嫌がると思わなくて」
「面倒だからだよ」
「何が?」
「全部」
「天野さんに俺と玲奈会わせるのが?」
「そういう意味じゃねえ」
「じゃあどういう意味?」
「知らない」
真樹は本気で面倒になり、食事へ戻った。
蓮はしばらく笑っていたが、それ以上は追及しなかった。
ただ、長い付き合いだから分かる。
真樹は今、自分でも理解できていない。
天野ひよりという少女が、自分の生活の中へ少しずつ入り始めていることを。
恋かどうか。
そんなものは蓮にもまだ分からない。
けれど、少なくとも。
これまで真樹が、知り合ったばかりの誰かについてここまで話題にしたことはほとんどなかった。
(面白いことになってきたな)
蓮は心の中だけで笑った。
◇ ◇ ◇
放課後。
六時間目が終わり、教室の空気が一気に緩む。
ひよりは帰り支度をしながら、窓の外を見た。
「……あれ?」
空が暗い。
時間的な暗さではない。
雲が厚くなっている。
「雨降りそう」
千夏も窓を見る。
「朝の天気予報、夜からじゃなかった?」
「そうだったと思うけど」
「ひより傘ある?」
「折り畳みなら」
「私ない」
「駅までなら入る?」
「お願いしようかな」
そう言った直後。
教室の窓へ、小さな水滴が当たった。
一つ。
二つ。
すぐに数が増える。
「降ってきた」
「最悪」
教室のあちこちから同じような声が上がった。
傘を持っていない生徒たちが天気予報を確認し始める。
ひよりもスマートフォンを取り出した。
雨雲が予想より早く来たらしい。
しかも、一時間ほどは少し強くなる。
「……」
公園。
真樹。
ノア。
最初に浮かんだ。
(今日、散歩どうするんだろ)
雨なら来ないかもしれない。
大型犬とはいえ、わざわざ雨の中を散歩する必要があるのか、ひよりには分からない。
「ひより?」
「ん?」
「どうしたの」
「いや……」
ひよりは窓の外を見る。
雨脚は少しずつ強くなっている。
「ノア、今日散歩するのかなって」
「ああ」
千夏も理解した。
「北条君に聞けば?」
「連絡先知らない」
「……そうだった」
二人で黙る。
こういうとき。
連絡手段がない。
「じゃあ今日は会えないかもね」
千夏が言った。
「……うん」
ひよりは窓を見た。
雨粒がガラスを伝っていく。
会えない。
その可能性を考えた瞬間。
胸の中に、小さな残念さが広がった。
ノアに会えない。
もちろんそれが大きい。
でも。
(北条君にも……)
そこまで考えて、ひよりは少しだけ目を伏せた。
「ひより?」
「何でもない」
鞄を持つ。
「千夏、駅まで行こ」
「公園寄らないの?」
「雨だよ?」
「折り畳みあるんでしょ?」
「あるけど……」
ひよりは迷った。
真樹が来るかどうか分からない。
連絡もできない。
行っても誰もいない可能性が高い。
「……」
「行きたいなら行けば?」
千夏が言う。
「でも千夏、傘ないでしょ」
「私は学校で少し待つよ。弱くなってから帰る」
「でも」
「ひより」
千夏が少し笑う。
「私のこと気にして行かなかったら、あとで『行けばよかった』って思わない?」
「……」
否定できなかった。
「別に北条君に会いたいからって言ってるんじゃないよ」
「分かってる」
「ノアが雨の中にいたら気になるでしょ?」
「……うん」
「じゃあ見てくればいいじゃん」
ひよりは少し迷い、頷いた。
「ごめん」
「だから謝らないでって」
「明日は絶対一緒に帰る」
「橘君に数学教えるんじゃなかった?」
「あ」
「忘れてたでしょ」
「……忘れてた」
千夏が吹き出す。
「ひより、最近放課後忙しいね」
「何か言い方が嫌」
「気のせい気のせい」
ひよりは折り畳み傘を取り出した。
「じゃあ行ってくる」
「うん。また明日」
「千夏も気をつけてね」
「はーい」
教室を出ていくひよりの背中を見送り、千夏は窓際へ移動した。
雨の向こう。
校門へ向かうひよりの傘が見える。
「……連絡先、知らないんだもんね」
小さく呟く。
それでも行く。
まだ恋ではないのだろう。
少なくとも、ひよりの中では。
千夏はそれを無理に変えるつもりはなかった。
「まあ、頑張れ」
誰に向けたのか自分でも曖昧な言葉を残し、千夏は雨が弱くなるのを待つため自分の席へ戻った。
◇ ◇ ◇
同じ雨は、桜陵学園にも降っていた。
「真樹」
蓮が窓の外を見る。
「散歩無理じゃない?」
「……」
真樹も雨を見ていた。
予報より早い。
しかも思ったより強い。
「ノア、雨嫌いじゃないけど」
「行くの?」
「この降り方なら少し待つ」
「へえ」
「何」
「いや」
蓮は笑いを堪える。
「天野さん、公園行くかなって」
真樹が黙った。
考えていなかったわけではない。
むしろ、雨が降り始めて最初に思った。
ひよりはどうする。
昨日、自分は「来る」と答えた。
でも雨が降るなんて知らなかった。
「行かないだろ」
「そう?」
「普通、雨なら帰る」
「でもお前が来るって言ったんでしょ?」
「……」
「待ってたりして」
胸の奥がざわつく。
「ない」
「言い切れる?」
「……」
言い切れない。
ひよりなら。
ノアに会えると思って、公園へ行くかもしれない。
(いや、さすがにこの雨なら帰るだろ)
そう思う。
けれど。
「帰る」
真樹が立ち上がった。
「え?」
「車来てる」
「散歩は?」
「雨弱くなったら行く」
「家帰ってから?」
「ああ」
「公園?」
「……」
真樹は鞄を持った。
「ノア次第」
「便利だな、ノア」
「何が」
「何でもない」
蓮が手を振る。
「じゃあまた明日」
「ああ」
真樹は教室を出た。
歩く速度が、いつもより少し速いことには気づかないふりをした。
◇ ◇ ◇
雨の中。
ひよりは公園へ着いた。
「……いない」
予想はしていた。
それでも実際に誰もいない公園を見ると、思っていた以上に寂しく感じる。
遊具もベンチも濡れている。
普段なら子どもたちの声が聞こえる時間だが、今日は誰もいない。
傘を打つ雨音だけが響いていた。
「そりゃそうだよね」
ノアを雨の中へ連れ出す必要はない。
真樹だって濡れる。
来ないのが普通だ。
「……帰ろ」
ひよりは踵を返した。
けれど。
一歩。
二歩。
公園の出口まで行ったところで止まる。
(もし、あとから来たら)
そんな考えが浮かんだ。
昨日。
『来る』
真樹はそう言った。
「……五分だけ」
誰に言うでもなく呟く。
公園の屋根付き休憩所へ移動した。
傘を閉じる。
雨水を軽く払う。
ベンチは屋根のおかげで濡れていなかった。
座る。
スマートフォンを見る。
「五分」
本当に五分だけ。
来なければ帰る。
連絡先も知らない相手を、雨の中で長く待つ理由なんてない。
一分。
二分。
雨音。
三分。
「……何してるんだろ、私」
少し笑ってしまう。
四分。
五分。
「よし」
立ち上がる。
「帰ろ」
傘を開こうとした。
そのとき。
公園の外を、大きな黒い車が通り過ぎた。
「……?」
見覚えがある。
初めて真樹と会った日に迎えに来た車。
「え」
車は少し先で止まった。
後部座席のドアが開く。
制服姿の真樹が降りてきた。
「北条君!?」
真樹がこちらを見る。
目が合う。
「……天野?」
真樹は一瞬、本気で驚いた顔をした。
それからすぐ、眉を寄せる。
「何してんの、お前」
「それ私の台詞!」
ひよりが屋根の下から出ようとする。
「出るな!」
「え?」
「濡れるだろ」
真樹が走ってくる。
手には傘。
公園の屋根まで来ると、真樹は濡れた肩を軽く払った。
「何でいるんだよ」
「北条君が来るって言ったから」
ひよりは即答した。
真樹が止まる。
「……」
「何?」
「いや」
真樹は視線を逸らした。
「雨だぞ」
「分かってるよ」
「普通帰るだろ」
「北条君だって来たじゃん」
「俺は……」
言葉に詰まる。
ノアはいない。
散歩でもない。
「ノアは?」
ひよりが気づく。
「家」
「……じゃあ何で北条君だけ来たの?」
「……」
答えられない。
雨が弱くなったらノアを連れて散歩する。
その前に。
ひよりがいるかどうか。
確認したかった。
ただ、それをそのまま言うのは何か違う気がした。
「通り道」
「車で?」
「……」
「ここ、北条君の家への通り道なの?」
「細かいな」
「怪しい」
ひよりが目を細める。
「もしかして」
真樹の肩がわずかに強張る。
「私が来てるか見に来た?」
「違う」
「早っ」
「違う」
「二回言った」
「違うから」
ひよりはしばらく真樹を見る。
それから。
「……そっか」
笑った。
「何」
「何でもない」
「その顔やめろ」
「どの顔?」
「今の」
「北条君も言うようになったね、それ」
「お前のせいだろ」
雨音の中。
二人は笑った。
ノアはいない。
初めてだった。
二人の間に、ノアがいない。
いつもなら大きな黒い身体が真ん中にいて、会話が止まればノアを撫でればいい。
今日は違う。
ひよりはそれに気づき、少しだけ落ち着かなくなった。
「……ノアいないと変な感じ」
「ああ」
真樹も同じことを思っていた。
「北条君だけいる」
「悪いかよ」
「悪いとは言ってない」
「じゃあ何」
「不思議」
「俺も」
「え?」
「お前が本当にいると思わなかった」
「……」
ひよりは少しだけ頬を膨らませる。
「じゃあ何で来たの」
「だから通り道」
「まだ言う?」
「うるさい」
真樹はベンチへ座った。
ひよりも少し間を空けて隣へ座る。
屋根へ雨が当たる音。
道路を走る車の音。
濡れた土の匂い。
いつもの公園なのに、今日は別の場所のようだった。
「北条君」
「何」
「連絡先、交換する?」
真樹がひよりを見る。
ひより自身も、口にしてから少し驚いた。
「いや、ほら」
慌てて続ける。
「今日みたいなとき困るでしょ?」
「……」
「雨とか、学校の用事とかで来られない日もあるだろうし」
「……ああ」
「毎回こうやって来て確認するのも変だし」
「お前、今日待ってたの?」
「五分だけ!」
「待ってたんじゃん」
「北条君だって確認しに来たんでしょ!」
「通り道」
「もうそれ無理あるよ!」
真樹の口元が少し緩む。
「笑わないで」
「笑ってない」
「笑ってる!」
ひよりも結局笑ってしまった。
少しして。
真樹がポケットからスマートフォンを取り出す。
「貸して」
「え?」
「交換するんだろ」
「あ……うん」
ひよりもスマートフォンを出した。
画面を操作する。
ほんの数十秒。
それだけで。
これまで知らなかった連絡先が、一つ増えた。
『北条真樹』
ひよりの画面に名前が表示される。
真樹の画面には。
『天野ひより』
「……できた」
「ああ」
ひよりは画面を見る。
昨日は颯太の連絡先が増えた。
今日は真樹。
意味は全然違う。
颯太は好きな人。
真樹は――。
(友達)
今なら、そう呼んでもいい気がした。
「北条君」
「何」
「これで友達っぽくなったね」
「連絡先だけで?」
「だって友達って連絡先知ってること多いでしょ」
「藤崎も?」
「もちろん」
「橘も?」
「知ってるよ」
「佐伯も」
「昨日交換したって言ったじゃん」
「……そうだったな」
真樹の表情が少しだけ険しくなる。
ひよりは気づかなかった。
「でも北条君とは今日」
「そうだな」
「何か変な感じ」
「何が」
「今まで毎日会ってたのに、連絡する方法なかったんだなって」
「別に必要なかっただろ」
「今日必要だったじゃん」
「……まあ」
ひよりが笑う。
「じゃあ今度から、来られない日は連絡しよう」
「毎日会う前提?」
「……あ」
二人とも止まった。
ひよりが先に視線を逸らす。
「いや、そういう意味じゃなくて」
「分かってる」
「ノアの散歩で」
「ああ」
「北条君が来るなら」
「ああ」
「私も帰り道だし」
「……」
「何か言ってよ!」
「全部お前が言っただろ」
「恥ずかしくなってきた!」
ひよりは両手で顔を覆う。
真樹は笑った。
「だから笑わないで!」
「悪い」
「絶対悪いと思ってない!」
雨の公園に、ひよりの声が響く。
いつものようにノアはいない。
それでも。
二人だけでも会話は続いた。
◇ ◇ ◇
しばらくすると、雨脚が少し弱くなった。
「そろそろ帰る?」
ひよりが外を見る。
「ああ」
「北条君、車?」
「そこに待たせてる」
「待たせてるの!?」
「何で驚くんだよ」
「だってずっと?」
「そうだけど」
「運転手さんに悪くない?」
「仕事だから」
「それでも」
ひよりは公園の外に停まる黒い車を見る。
運転席には、初めて会った日に見た男性がいる。
「ちゃんと謝ってね」
「何で俺が怒られてんの」
「待たせたから」
「俺の家の人間だぞ」
「それとこれとは別」
「……」
真樹はひよりを見る。
「何」
「お前、本当に俺が誰か気にしないんだな」
「え?」
「いや」
真樹は立ち上がった。
「何でもない」
「またそれ」
「帰るぞ」
「はいはい」
二人で屋根の外へ出る。
それぞれ傘を開いた。
「じゃあね、北条君」
「ああ」
「ノアによろしく」
「分かった」
「あと」
「何」
ひよりはスマートフォンを軽く掲げる。
「今日はもう、来たかどうか心配しなくていいね」
「……そうだな」
「またね」
「ああ。また」
ひよりが歩き出す。
真樹は車へ向かう。
数歩進んで。
スマートフォンが震えた。
真樹が画面を見る。
『天野ひより』
初めて表示される名前。
メッセージは一つ。
『今日はノアに会えなかったから、明日は連れてきてね!』
真樹は数秒見つめた。
それから返信する。
『ノア次第』
すぐに返ってくる。
『絶対北条君次第でしょ』
「……」
真樹の口元が少し緩んだ。
さらに。
『風邪ひかないようにね』
短い一文。
真樹は足を止めた。
雨の向こう。
ひよりの姿はもう角を曲がって見えない。
「……お前もだろ」
声に出してから、画面へ入力する。
『お前もな』
送信。
それだけ。
それだけなのに。
ポケットへスマートフォンをしまったあとも、胸の奥に妙な温かさが残っていた。
◇ ◇ ◇
車へ戻ると、運転席の男性がバックミラー越しに真樹を見た。
「お待ちしておりました、真樹様」
「悪い、相沢」
男性――北条家の運転手を務める相沢直人が、一瞬だけ目を瞬いた。
真樹が自分から待たせたことを謝るのは珍しくない。
ただ。
「いえ。問題ございません」
相沢はそれ以上触れなかった。
真樹が後部座席へ乗る。
「屋敷へ戻って」
「かしこまりました」
車が静かに動き出す。
相沢は前を向いたまま、先ほど公園の屋根の下で真樹と話していた少女を思い出した。
以前、ノアを保護してくれた少女。
天野ひより。
名前は、あの日真樹が口にしたことで知っている。
雨の中。
ノアはいない。
それでも真樹はわざわざ車を止めさせ、公園へ向かった。
相沢は長く北条家に仕えている。
だからこそ、少し珍しいとは思った。
しかし、それを口にするほど野暮ではない。
後部座席から、小さくスマートフォンの通知音がした。
相沢は何も言わず車を走らせた。
◇ ◇ ◇
ひよりが家へ向かっている途中。
スマートフォンが震えた。
傘を持ち替え、画面を見る。
『北条真樹』
『お前もな』
「……ふふ」
思わず笑う。
たった四文字。
真樹らしい。
もう一度返信しようか迷った。
でも、これ以上何を送ればいいのか分からない。
「また明日でいいか」
スマートフォンを鞄へ戻す。
明日。
自然にそう思った。
明日も会う。
雨なら連絡できる。
学校の用事があっても連絡できる。
今日までとは、ほんの少しだけ違う。
その変化がなぜか嬉しかった。
けれど。
ひよりの中で真樹はまだ、恋をする相手ではない。
帰宅すれば、昨夜颯太から届いたメッセージをもう一度見てしまうだろう。
学校で颯太と話せれば嬉しい。
いつかきちんと気持ちを伝えたいと思っている。
その想いは変わっていない。
ただ。
好きな人とは別の場所に。
放課後になると会いたくなる友達が、一人増えた。
そして真樹にとっても。
雨が降っただけで、来ているかどうか確認したくなる相手ができた。
二人ともまだ、その変化を大げさには考えていない。
連絡先を交換した理由だって、説明しようと思えばいくらでもできる。
雨の日に困るから。
予定が変わったときに困るから。
ノアの散歩のため。
それで十分だった。
今は、まだ。
ただ一つ確かなのは。
偶然から始まった放課後は、もう偶然だけでは続いていなかった。




