第8話 待ち合わせじゃない、はずなのに
水曜日の朝。
天野ひよりが教室へ入ったとき、藤崎千夏はすでに自分の席に座っていた。
窓際から差し込む冬の朝日はまだ弱く、暖房が効き始めたばかりの教室には、外から持ち込まれた冷たい空気が残っている。登校してきた生徒たちはマフラーを外したり、友人と話したりしながら、それぞれ一日の準備を始めていた。
「おはよ」
「おはよう、ひより」
千夏へ挨拶を返し、自分の席へ鞄を置く。
そのまま椅子を引こうとしたところで、千夏がじっとこちらを見ていることに気づいた。
「……何?」
「別に?」
「朝からそれやめて」
「何も言ってないじゃん」
「顔が言ってる」
「昨日、北条君にも同じこと言われなかった?」
「言われてない」
「へえ」
「だから、その『へえ』もやめて」
朝から疲れる。
ひよりが眉を寄せながら椅子へ座ると、千夏は楽しそうに身体ごとこちらへ向けた。
「昨日、何時まで一緒にいたの?」
「一緒って……ノアと?」
「北条君もいたでしょ」
「いたけど」
「じゃあ一緒じゃん」
「その言い方だと何か変なの」
「変に受け取ってるのはひよりでしょ?」
「……」
反論できない。
ひよりは教科書を机の中へ入れながら、話を終わらせようとした。
しかし千夏は終わらせてくれない。
「で?」
「何」
「何時まで?」
「そんな遅くないよ。暗くなる前には別れたし」
「今日も会うの?」
教科書を持っていた手が一瞬止まった。
「……たぶん」
「たぶん?」
「昨日、帰る前に聞いたら、今日も来るって言ってたから」
「ひよりから聞いたの?」
「そうだけど」
「へえ」
「千夏」
「はい」
「その顔、本当にやめて」
「だってさ」
千夏は机へ頬杖をつく。
「最初は偶然会ったんだよね?」
「うん」
「その次も偶然」
「うん」
「でも今は、明日も来る? って確認してる」
「……」
「もう偶然じゃなくない?」
言われて、ひよりは口を閉じた。
確かにそうだ。
最初は偶然だった。
迷子になっていたノアと出会い、真樹と知り合った。
その次もたまたま。
けれど月曜日は、お互い同じくらいの時間に公園へ行くと分かっていた。
火曜日も。
そして今日も。
「でも、待ち合わせじゃないよ」
「そうなの?」
「時間ぴったり決めてるわけじゃないし、連絡先も知らないし」
「連絡先知らないんだ」
「うん」
「毎日会ってるのに?」
「毎日って言っても、まだ何日かだけだよ」
「ふーん」
千夏はそこで一度黙った。
ひよりは少し警戒しながら横目で見る。
「……何?」
「いや」
「絶対何かある」
「ひよりが楽しそうだなって思っただけ」
「ノアに会えるからね」
「うん」
今回は千夏もからかわなかった。
その代わり、ひよりの表情をじっと見る。
「あと北条君と話すのも楽しいんでしょ?」
「……まあ」
少し迷ったあと、ひよりは頷いた。
「楽しいよ」
言ってみると、思っていたより簡単だった。
真樹と話すのは楽しい。
口は悪い。
すぐに「別に」と言う。
少し捻くれている。
それでも、ひよりが何か言えばきちんと返してくるし、何だかんだで話を聞いてくれる。
バレンタインにチョコレートを渡せなかったことを話したときも、笑わなかった。
「友達になれたのかな」
ぽつりと口から出た。
「北条君と?」
「うん」
「本人に聞けば?」
「昨日聞いた」
「聞いたの!?」
千夏が身を乗り出した。
「声大きい!」
「何て!?」
「ちょっと!」
周囲の何人かがこちらを見る。
ひよりは慌てて千夏の口を手で塞いだ。
「学校で騒がないで!」
「むぐ」
「分かった?」
千夏が頷く。
ひよりはゆっくり手を離した。
「それで?」
今度は小声だった。
「何て言われたの?」
「……『嫌ならこんな何回も話してない』って」
「それで?」
「『少なくとも嫌いではない』って」
「……」
千夏が真顔になる。
「何?」
「北条君って、面倒くさそう」
「でしょ?」
「そこは即答なんだ」
「だって普通に友達って言えばいいのに」
「でも、ひよりは嬉しかった?」
「……」
ひよりは答えに詰まる。
昨日、あの言葉を聞いたとき。
確かに嬉しかった。
「少し」
「そっか」
「何、その顔」
「何でもない」
千夏は笑う。
今度の笑い方には、からかう色がなかった。
ひよりは少し不思議に思ったが、ちょうど担任が教室へ入ってきたため、それ以上聞くことはできなかった。
◇ ◇ ◇
午前の授業が終わり、昼休みになった。
いつものように千夏と机を寄せて弁当を広げていると、橘海斗が近くへやってきた。
「今日もここいい?」
「いいよ」
ひよりが答える。
海斗は空いている椅子を持ってきて、二人の横へ座った。
「昨日の犬、写真撮った?」
「撮ったよ」
「見せて」
「あ、そうだった」
ひよりはスマートフォンを取り出した。
昨日真樹に撮ってもらった写真を開く。
「これ」
「でかっ」
海斗が目を丸くした。
「思ってたより倍くらいでかい」
「でしょ? でもすっごく優しいよ」
「天野、めちゃくちゃ笑ってんな」
「え?」
海斗に言われて、ひよりは画面を見る。
ノアの首へ腕を回して笑っている自分。
「……まあ、ノアかわいいから」
「いい写真じゃん」
「北条君が撮ったんだよ」
何気なく答えた。
海斗は「ああ、飼い主」と頷く。
「そいつは写ってないの?」
「ないよ」
「見てみたかったのに」
「何で?」
「桜陵の金持ちってどんな感じなのかなって」
「普通だよ」
ひよりは即答した。
それから少し考える。
「……いや、普通ではないかも」
「どっちだよ」
「性格はちょっと変」
「ひどいな」
「でも、学校とか家のことはあんまり話さないから」
「じゃあ本当に金持ちかも分かんないじゃん」
「迎えの車がすごかったし、大人の人に『真樹様』って呼ばれてた」
「様?」
海斗が眉を上げる。
「何それ。漫画みたいだな」
「私も思った」
ひよりが笑う。
千夏は二人の会話を聞きながら弁当を食べていたが、ふと口を開いた。
「ひより、北条君が何者なのか聞かないの?」
「何者って?」
「家のこととか」
「うーん……」
ひよりは箸を止めた。
「本人が話したくなったら話すんじゃない?」
「気にならない?」
「ちょっとは気になるよ。でも、会ったばっかりなのに家のこと根掘り葉掘り聞くのも変じゃない?」
「まあね」
「それに北条君、そういうの嫌いそう」
「何となく分かるの?」
「何となく」
答えながら、ひより自身も少し不思議に思う。
真樹が自分の家について話したがらないと、本人から明確に言われたわけではない。
けれど、あの黒い車が迎えに来たとき。
運転手らしい男性から「真樹様」と呼ばれたとき。
真樹はそれを誇る様子も、説明する様子もなかった。
桜陵の話をしても同じだった。
だから、無理に聞く必要はないと思う。
「天野って、そういうところ変に気を遣うよな」
海斗が言った。
「変って何」
「悪い意味じゃないって」
「じゃあどういう意味?」
「相手が言いたくなさそうなら、聞かない感じ」
「普通じゃない?」
「そうでもないだろ」
海斗は紙パックのジュースを飲む。
「俺なら気になったら聞くかも」
「橘君は聞きそう」
「どういう意味だよ」
「そのまま」
三人で笑う。
そのとき、教室の入口から男子生徒が顔を覗かせた。
「天野いる?」
聞き覚えのある声。
ひよりが顔を上げる。
「あ」
佐伯颯太だった。
「佐伯君」
「ちょっといい?」
「うん」
ひよりは箸を置き、席を立った。
千夏が黙ってその背中を見る。
海斗も何気なく視線を向けた。
教室の入口まで行くと、颯太がスマートフォンを手にしていた。
「昨日言ってた文化祭の写真なんだけど」
「あ、うん」
「俺、天野の連絡先知らなかった」
「……あ」
そうだった。
去年同じクラスだったころ、クラスのグループでは繋がっていたが、個別に連絡先を交換したことはない。
「送ってもらうなら交換していい?」
「もちろん」
胸が跳ねた。
「じゃあ」
二人でスマートフォンを出す。
連絡先を交換するだけ。
それだけなのに、ひよりの指先が少し緊張した。
「できた」
「俺も」
颯太が画面を確認する。
「あとで写真送ってくれればいいから」
「うん。帰ったら探すね」
「急がなくていいよ」
「分かった」
「ありがとな」
颯太が笑う。
「じゃあ」
「うん」
自分の教室へ戻っていく颯太を見送り、ひよりはしばらくその場に立っていた。
(連絡先……交換した)
胸の奥がじんわり熱くなる。
偶然ではある。
文化祭の写真を送るため。
それでも嬉しい。
席へ戻ると、千夏が何とも言えない顔で待っていた。
「何?」
「よかったね」
「……うん」
ひよりは隠しきれずに笑った。
「連絡先交換した」
「聞こえてた」
「今日帰ったら写真探す」
「うん」
「ちゃんと残ってるかな」
「私も持ってるから、なかったら送るよ」
「本当? ありがとう!」
嬉しそうなひよりを見て、千夏も笑う。
少なくとも今は、ひよりが颯太を好きなのだと分かっている。
だからこそ、友人として応援したい気持ちは本物だった。
ただ。
昨日見せてもらった、ノアと一緒に写るひよりの写真。
あの笑顔もまた、千夏がよく知る「本当に楽しいときのひより」の顔だった。
(……まあ、今は何も言わなくていいか)
ひより自身がまだ何も感じていないのなら、外から勝手に名前をつける必要はない。
「天野」
海斗が声をかける。
「ん?」
「顔に出すぎ」
「え?」
「めちゃくちゃ嬉しそう」
「……そんなに?」
「うん」
「恥ずかしい……」
ひよりは両手で頬を隠した。
千夏が笑う。
昼休みの教室に、いつもの明るい空気が戻っていった。
◇ ◇ ◇
同じころ、私立桜陵学園。
昼休みのカフェテリアで、真樹は蓮と向かい合って座っていた。
「今日も行くんだ?」
食事を始めて数分もしないうちに蓮が言った。
真樹は視線を上げない。
「何が」
「散歩」
「行く」
「昨日も行ったよね」
「ああ」
「天野さんいた?」
「いた」
「今日も?」
「多分」
「へえ」
「……」
真樹はフォークを置いた。
「何」
「何が?」
「その顔」
「どの顔?」
「面白がってる顔」
「面白いから」
「何が」
「毎日会ってるじゃん」
「ノアの散歩だって何回言えば分かるんだよ」
「ノアの散歩なのは分かってるよ」
蓮は笑いながら答える。
「ただ、その散歩コースを毎日同じ時間にしてるのは誰かなって」
「ノア」
「へえ」
「殴るぞ」
「怖いな」
蓮はまったく怖がっていない。
真樹はため息をつき、再び食事へ戻った。
昨日のことを思い出す。
ひよりがノアへおやつを持ってきた。
写真を撮った。
藤崎千夏という親友の写真を見た。
橘海斗という同じクラスの男子の名前を聞いた。
そして。
佐伯颯太。
『好き』
ひよりがそう言った相手。
「……」
「真樹?」
「何」
「今、すげえ嫌そうな顔したけど」
「してない」
「した」
「お前の顔見てたから」
「ひど」
蓮は笑う。
真樹は水を飲んだ。
(別に、佐伯がどうとかじゃない)
昨日から何度もそう考えている。
ひよりが誰を好きでも、自分には関係がない。
当然だ。
知り合って数日しか経っていない。
なのに、あの名前だけが妙に頭へ残る。
「そういえば真樹」
「何」
「今日、玲奈が――」
「真樹?」
蓮が言い終える前に、別方向から声がした。
二人が顔を向ける。
一ノ瀬玲奈が立っていた。
今日も長い黒髪を綺麗に整え、制服を乱れなく着ている。手には薄いファイルを持っていた。
「ちょうどよかった」
「何」
「昨日送った資料、見た?」
「見た」
「確認事項のところは?」
「家にも回した」
「早いわね」
「後回しにすると面倒だから」
「あなたらしい」
玲奈が微笑む。
蓮が自分の隣の空いている椅子を軽く引いた。
「座る?」
「少しだけ」
玲奈が腰を下ろす。
「交流会の件、北条家から回答が来たら教えて。学校側が今週中にまとめたいそうだから」
「分かった」
「それだけ」
「じゃあ何で座ったんだよ」
「少しくらいいいでしょう?」
「好きにすれば」
真樹は食事を続ける。
玲奈はそんな態度にも慣れている。
幼いころから何度も見てきた。
「そういえば、ノアは元気?」
「ああ」
「この前も聞いたな、それ」
蓮が言う。
「だって最近会ってないもの」
「元気すぎるくらい」
「散歩好きなのは昔から変わらないわね」
玲奈の表情が柔らかくなる。
「小さいころ、一度リードを引っ張られて転びそうになったの覚えてる?」
「いつの話だよ」
「小学生のころ」
「覚えてない」
「私は覚えてるわ。あなた、私じゃなくてノアに『急に走るな』って怒ってたもの」
「そりゃノアが走ったならノアに言うだろ」
「転びそうになったのは私なのに?」
「転んでないだろ」
「そういうところ、本当に変わらないわね」
玲奈が苦笑する。
蓮は二人のやり取りを眺めながら、何も言わない。
玲奈と真樹には長い時間がある。
幼いころから互いを知っているからこその距離だ。
それは最近現れたひよりとはまったく違う。
「今度、ノアに会いに行ってもいい?」
玲奈が尋ねる。
「前も言ってただろ」
「具体的にいつならいいの?」
「家に連絡すればいい」
「あなたはいないの?」
「日による」
「最近、放課後は散歩なんでしょう?」
「まあ」
「なら、その時間でもいいわよ」
「何でわざわざ散歩についてくるんだよ」
「昔は一緒に行ったでしょう?」
「いつの話だよ」
「だから小学生のころ」
「昔すぎる」
真樹が呆れる。
玲奈は笑っていた。
「じゃあまた連絡するわ」
「ああ」
席を立ち、友人たちのところへ戻っていく。
その背中を見送った蓮が、真樹を見る。
「玲奈が散歩についてきたらどうすんの?」
「別に」
「天野さんもいるかもよ」
真樹の手が止まる。
蓮は見逃さなかった。
「……何」
「いや?」
「その顔やめろ」
「どの顔?」
「今の」
「何もしてないけど」
「してる」
真樹は眉を寄せる。
玲奈とひより。
二人が会う。
それ自体は何もおかしくない。
玲奈は昔からの知り合い。
ひよりは最近知り合った相手。
ただそれだけだ。
(……別に会っても問題ないだろ)
そう思う。
なのに、なぜかその光景を想像すると少し面倒な気がした。
「まあ、いいけど」
真樹は食事を再開した。
蓮は笑いを堪えながら、それ以上は何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
放課後。
「じゃあ、ひより。また明日」
「うん。またね」
昇降口を出たところで千夏と別れ、ひよりは一人で帰路についた。
今日は寄り道をする必要がない。
ノアへのおやつは昨日買ったものがまだ残っている。
歩きながらスマートフォンを確認すると、颯太との連絡先が増えていることに改めて気づいた。
「……ふふ」
少し嬉しい。
帰ったら文化祭の写真を探そう。
見つからなければ千夏に送ってもらえばいい。
(佐伯君とメッセージするんだ)
そう考えるだけで緊張する。
どんな文章で送ろう。
『写真あったよ』
普通すぎる。
いや、普通でいい。
写真を送るだけなのだから。
「……何考えてるんだろ、私」
一人で笑う。
そのまま住宅街へ入った。
いつもの角が近づく。
公園まではあと少し。
そして。
「……」
ひよりは足を止めた。
(私、今日も普通にここ来てる)
昨日までは、ノアにおやつを渡すという理由があった。
今日はもう渡したあとだ。
それでも何も考えず、いつもの道を歩いてきた。
(帰り道なんだから普通だよね)
元々通る道だ。
だから何もおかしくない。
ただ。
公園へ近づくにつれて、自然と中を確認しようとしている自分には気づいていた。
「……ノアいるかな」
結局、口に出した。
角を曲がる。
公園が見える。
最初に見えたのは黒い大きな身体だった。
「あ」
ノア。
その横に真樹がいる。
ひよりの顔が自然に明るくなった。
「ノア!」
呼ぶと、ノアがすぐこちらを向く。
尻尾が大きく揺れた。
真樹も振り返る。
「天野」
「北条君」
ひよりは小走りで近づいた。
「今日は待った?」
「別に」
「その答え信用できないんだけど」
「何で」
「昨日十五分待ってたから」
「待ってない」
「まだ言う?」
「ノアがここから動かなかっただけ」
「はいはい」
「その返事やめろ」
「北条君も『別に』やめたらね」
「無理」
「じゃあ私も無理」
ひよりは笑いながらノアの前へしゃがんだ。
「ノア、こんにちは」
ノアが鼻先を近づける。
「今日は昨日の残りあるよ」
鞄からおやつの袋を取り出す。
その瞬間、ノアの視線が袋へ向いた。
「分かるの?」
「匂いで分かるだろ」
「すごいね」
「犬だからな」
「北条君、夢がない」
「何の夢だよ」
「ノアが私のおみやげ覚えてたとか」
「昨日食ったんだから覚えてるだろ」
「じゃあやっぱり覚えてるんじゃん」
「……面倒くさ」
「出た」
ひよりは楽しそうに笑った。
「今日は何個?」
「二個」
「昨日と同じ?」
「ああ」
「じゃあノア、待ってね」
袋を開ける。
真樹はその姿を眺めた。
昨日と同じ。
公園。
ノア。
ひより。
ただそれだけなのに、妙に落ち着く。
学校で玲奈や蓮と話していた時間とは違う。
どちらがいいとか悪いとかではない。
ただ、ここでは北条家の話も、学校の話もほとんど出ない。
ひよりは自分が誰なのかを詳しく知らない。
それなのに、知ろうと無理に踏み込んでもこない。
「北条君?」
「何」
「ぼーっとしてる」
「してない」
「してたよ」
「お前が遅いだけ」
「まだ一個目なのに?」
「ノア待ってるぞ」
「あ、ごめん」
ひよりが慌てて一枚目を差し出す。
ノアが丁寧に口へ入れる。
「おいしい?」
尻尾が揺れる。
「かわいい……」
「毎回それ言うな」
「だって毎回かわいいから」
「見慣れないの?」
「北条君は見慣れてるの?」
「まあ」
「じゃあノアがかわいくないと思う?」
「思うわけないだろ」
返事が早かった。
ひよりが笑う。
「やっぱり大好きなんだね」
「……家族だからな」
真樹はノアを見る。
ひよりはその横顔を見た。
最初に会った日も。
迷子になっていたノアを見つけた瞬間、真樹は自分への説明より先にノアの身体を確認した。
怪我がないと分かったとき、本当に安心した顔をしていた。
「いいなぁ」
「何が」
「私も犬飼いたい」
「飼えば」
「簡単に言わないでよ。家族みんなで決めることだし」
「まあな」
「お兄ちゃんは絶対甘やかしそう」
「お前の兄貴、そんな感じなの?」
「すごいよ」
ひよりは苦笑する。
「私とお姉ちゃんのことになると、本当にうるさい」
「前も言ってたな」
「覚えてるんだ」
「聞いたからな」
「北条君って、意外と人の話覚えてるよね」
「意外は余計」
「だって興味なさそうな顔してるから」
「実際どうでもいい話も多い」
「ひどい」
「でも聞いてる」
「……うん」
ひよりは少し笑った。
「そうだね」
その笑い方がいつもより柔らかく見えて、真樹は一瞬だけ視線を逸らした。
「何」
「何でもない」
「またそれ」
「今のは別にって言ってないだろ」
「似たようなものでしょ」
二人の間で、ノアが二枚目のおやつを待っている。
「あ、ごめんノア」
ひよりが慌ててもう一枚取り出した。
◇ ◇ ◇
「そういえば」
二枚目を食べ終えたノアの頭を撫でながら、ひよりが口を開いた。
「今日ね、佐伯君と連絡先交換した」
真樹の表情は変わらなかった。
ただ、ノアのリードを持つ指にわずかに力が入った。
「……へえ」
「文化祭の写真送るためなんだけど」
「昨日言ってたやつ?」
「うん」
「よかったな」
声は平坦だった。
ひよりは顔を上げる。
「北条君?」
「何」
「今日も反応薄い」
「だから何を期待してんだよ」
「別に期待してないけど」
「じゃあいいだろ」
「……何か機嫌悪い?」
「悪くない」
「本当に?」
「ああ」
ひよりはじっと真樹を見る。
真樹も視線を返した。
「何」
「いや……」
ひよりは首を傾げる。
「何か昨日も佐伯君の話したら、ちょっと変だったから」
「気のせい」
「そうかな」
「そう」
真樹は即答した。
(何でこいつ、こういうところだけ妙に見るんだよ)
自分でも理由が分からないのだから、説明できるはずがない。
佐伯と連絡先を交換した。
それが何だ。
写真を送るためなら普通だ。
ひよりが嬉しそうなのも、好きな相手なのだから当然。
全部分かっている。
なのに。
(……よかったな、って何だよ)
自分で言った言葉に、自分で苛立つ。
「北条君」
「何」
「もしかして恋愛話嫌い?」
「……は?」
「だって佐伯君の話すると毎回面倒そうだから」
真樹は一瞬黙った。
それなら説明がつく。
「まあ、好きではない」
「やっぱり」
ひよりは納得したように頷いた。
真樹もそれで話を終わらせようとした。
けれど、ひよりは少し考えてから続ける。
「じゃあ、あんまり話さないほうがいい?」
「……」
その問いには、なぜかすぐ答えられなかった。
聞きたくない。
佐伯の話を聞くと妙に落ち着かない。
だったら「話すな」と言えばいい。
なのに。
ひよりが学校で何をしているのか。
佐伯とどんな話をしたのか。
知らなくなるのも、なぜか嫌だった。
(……意味分かんねえ)
「別に話せば」
「いいの?」
「聞くだけなら」
「無理しなくていいよ?」
「してない」
「ならいいけど」
ひよりが笑う。
「北条君って、何だかんだ聞いてくれるよね」
「勝手にお前が話してるだけだろ」
「それでも途中で帰らないじゃん」
「ノアがいるから」
「またノアのせいにする」
「実際そうだろ」
「はいはい」
「それやめろって」
また同じやり取り。
ひよりは笑った。
真樹も呆れた顔をしながら、それ以上否定しなかった。
◇ ◇ ◇
「北条君は?」
「何が」
「好きな人」
「いない」
あまりにも早い返答だった。
ひよりは目を丸くする。
「即答」
「いないからな」
「今まで付き合ったことは?」
「ない」
「えっ」
「何だよ」
「意外」
「何が」
「モテそうなのに」
「……」
真樹の眉がわずかに動く。
「何、その顔」
「いや」
ひよりは自分が言った言葉を思い返し、少し恥ずかしくなった。
「普通に、顔かっこいいし」
「……」
「何?」
「お前、そういうの普通に言うんだな」
「え?」
言われて初めて気づく。
ひよりの頬が一気に熱くなった。
「ち、違う!」
「何が」
「そういう意味じゃなくて!」
「どういう意味だよ」
「一般的に!」
「一般的に?」
「客観的に見て!」
「同じだろ」
「違うの!」
ひよりは両手を振った。
「北条君が好きとかじゃないから!」
「分かってる」
「なら笑わないで!」
「笑ってない」
「笑ってる!」
真樹の口元が確かに少し上がっている。
「天野、顔赤い」
「誰のせい!」
「お前が勝手に言ったんだろ」
「もう!」
ひよりはノアの背中へ顔を隠すように抱きついた。
「ノア、北条君がいじめる」
「お前が自爆しただけだろ」
ノアはひよりへ身体を寄せる。
その様子を見た真樹の笑みが少し消えた。
「……ノア」
呼ぶ。
ノアはひよりから離れない。
「お前は誰の味方だよ」
ひよりが顔を上げる。
「私の味方みたいですね」
「前も聞いたな、それ」
「だって本当だもん」
「調子乗るな」
最初に会った日と似たやり取り。
けれど、あのときとは少しだけ違う。
ひよりはもう真樹の名前を知っている。
真樹もひよりの名前を知っている。
明日また会えるかもしれないことを、互いに期待する程度には時間を重ねた。
まだ、それだけだった。
◇ ◇ ◇
そのころ。
公園の入口近くを通りかかった女子中学生二人が、ベンチの近くにいるひよりと真樹をちらりと見た。
「ねえ、あの犬かわいくない?」
「大きいね」
「二人で散歩してるのかな」
「カップル?」
小さな声だった。
ひよりたちには届いていない。
二人の少女はそのまま歩き去っていった。
もし聞こえていれば、ひよりは全力で否定しただろう。
真樹も即座に否定したはずだ。
実際、二人は恋人でもなければ、互いを恋愛対象として意識しているわけでもない。
ただ、傍から見れば。
同じ時間に同じ公園で会い、大きな黒犬を間に挟んで笑い合っている二人は、もう偶然会っただけの他人には見えなくなり始めていた。
◇ ◇ ◇
「そろそろ帰る」
空が橙色へ変わり始めたころ、ひよりがスマートフォンを確認した。
「今日、帰ったら写真探さないと」
「佐伯に送るやつ?」
「うん」
真樹はまた胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。
今度は表情に出さない。
「あっ」
ひよりが何か思い出したように声を上げる。
「どうした」
「ノアのおやつ、明日でなくなるかも」
「毎日持ってこなくていいぞ」
「でもノア楽しみにするかも」
「お前に会うだけで十分だろ」
「……え?」
ひよりが止まる。
真樹も、自分が何を言ったのか一瞬遅れて理解した。
「いや」
言い直す。
「ノア、お前見るだけで喜んでるだろ」
「あ……そっちね」
「他に何があるんだよ」
「何でもない」
ひよりは少しだけ笑った。
なぜか一瞬、妙な言い方に聞こえただけだ。
「じゃあ明日はおやつなしでもいい?」
「いい」
「ノア、ごめんね」
ノアの頭を撫でる。
「その代わりいっぱい撫でるから」
「それならこいつは喜ぶだろ」
「北条君も?」
「何で俺が」
「いや、何となく」
「意味分かんねえ」
「冗談だよ」
ひよりは笑いながら立ち上がった。
「じゃあ帰るね」
「ああ」
「またね、ノア」
ノアへ手を振る。
そして。
「またね、北条君」
「ああ」
ひよりが歩き出す。
数歩。
十歩。
そこで、ふと止まった。
振り返る。
真樹はまだそこにいた。
「北条君!」
「何」
「明日も来る?」
また聞いた。
真樹は少しだけ目を細める。
「来る」
「同じくらい?」
「ああ」
「分かった!」
ひよりが笑う。
「じゃあ、また明日!」
手を振り、今度こそ歩いていった。
真樹はしばらくその後ろ姿を見ていた。
「……」
足元のノアが見上げる。
「何」
ノアの尻尾が揺れる。
「お前も来たいだろ」
また揺れる。
「なら仕方ないな」
真樹はリードを軽く引いた。
「帰るぞ」
歩き始める。
明日も同じ時間。
明日も同じ場所。
いつの間にか、それが当たり前になりつつある。
連絡先すら知らない。
正式に待ち合わせをしているわけでもない。
それなのに、明日の放課後になればひよりが来ると思っている。
(……来なかったら)
そこまで考え、真樹は眉を寄せた。
(何考えてんだ)
来なければ来ないだけだ。
学校の用事があるかもしれない。
友人と帰るかもしれない。
佐伯と――。
「……」
思考を止める。
「ノア」
少し前を歩く黒犬が振り返る。
「明日、早く来たがるなよ」
ノアは尻尾を振った。
「聞いてないだろ、お前」
真樹は小さく息を吐いた。
◇ ◇ ◇
家へ帰ったひよりは、自室のクローゼットの下から去年の文化祭でもらった冊子や写真をまとめて入れてある箱を引っ張り出した。
「あったはずなんだけどなぁ」
ベッドの上へ写真を広げる。
クラス全員で撮ったもの。
千夏と二人で撮ったもの。
模擬店の前。
教室。
校庭。
「あ、これだ」
探していた写真を見つけた。
去年のクラスメイトが大勢写っている。
その中には颯太もいる。
ひよりは写真をスマートフォンで撮影し、少しだけ画面を見つめた。
(送るだけ、送るだけ)
変に緊張する必要はない。
連絡先を開く。
佐伯颯太。
名前が表示されているだけで胸が落ち着かない。
文章を入力する。
『今日言ってた文化祭の写真、見つかったよ!』
写真を添付。
送信。
「……送った」
ベッドへ倒れ込む。
数分もしないうちに通知が鳴った。
『ありがとう! 懐かしいな笑』
「……!」
身体を起こす。
『ね! 私も久しぶりに見た』
送る。
また返信。
『天野、去年とあんま変わってないな』
「えっ」
ひよりは写真を見る。
去年の自分。
今の自分。
(どういう意味だろ)
悪い意味ではないと思う。
『佐伯君もそんな変わってないよ笑』
送信。
しばらく簡単なやり取りが続いた。
長くはない。
文化祭の話。
去年のクラスの話。
それだけ。
でも嬉しかった。
会話が終わったあとも、ひよりは画面をしばらく眺めていた。
「……頑張ろ」
小さく呟く。
いつか。
今度こそ。
ちゃんと気持ちを伝えたい。
その思いは変わらない。
スマートフォンを枕元へ置く。
すると今度は、机の上に置いたノアのおやつが目に入った。
残りは少ない。
明日は持っていかなくてもいいと真樹は言った。
『お前に会うだけで十分だろ』
一瞬だけ、あの言葉を思い出す。
すぐに言い直された。
ノアが、という意味。
「……分かってるし」
ひよりは枕へ顔を押しつけた。
(何で思い出したんだろ)
深い意味などない。
真樹にもない。
自分にもない。
それでも。
颯太から届いたメッセージが嬉しかった夜に。
明日また真樹とノアに会えることも、同じように少し楽しみにしている自分がいた。
◇ ◇ ◇
同じころ。
北条家では、真樹が自室の机へ向かっていた。
学校の課題はほとんど終わっている。
あとは提出前に確認するだけ。
普段ならすぐに済ませる。
けれど、今日は妙に集中できない。
「……」
ペンを置く。
椅子の背へ身体を預けた。
視線の先には、床で横になっているノア。
「お前さ」
ノアが顔を上げる。
「天野のこと好きすぎない?」
尻尾が床を叩く。
「即答かよ」
真樹は呆れる。
「毎日会って飽きないの?」
また尻尾。
「……そう」
真樹は天井を見る。
自分も毎日会っている。
飽きるどころか。
明日も来ると聞いて、少し安心した。
(何で)
分からない。
まだ知り合ったばかりだ。
ひよりには好きな相手がいる。
佐伯颯太。
今日、連絡先まで交換した。
「……」
胸の奥がまたざらつく。
「別にいいだろ」
誰に言うでもなく呟いた。
ノアが見ている。
「何」
尻尾が揺れる。
「天野が誰と連絡先交換しようが関係ない」
ノアは何も答えない。
「俺とあいつ、連絡先すら知らないし」
言ってから。
真樹は止まった。
「……」
なぜ今、それを比較した。
佐伯は知っている。
自分は知らない。
だから何だ。
「……面倒くさ」
額を押さえる。
原因が分からない自分自身が一番面倒だった。
ノアが立ち上がり、真樹の膝へ鼻先を押しつける。
「何だよ」
頭を撫でる。
ノアは満足そうに目を細めた。
「明日も行くから」
口にすると、ノアの尻尾が大きく揺れた。
「お前のためだからな」
もちろん返事はない。
それでも真樹は、もう一度ノアの頭を撫でた。
明日も同じ時間。
同じ公園。
待ち合わせではない。
少なくとも、二人ともそう思っている。
けれど。
互いに「明日も来る?」と確かめるようになった時点で、それはもう偶然だけでは説明できない時間へ、ほんの少しずつ変わり始めていた。




