↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『黒犬が運んできたのは、不幸ではなく恋でした』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/52

第7話 学校では知らない顔



 火曜日の昼休み、県立青葉高校の二年三組では、暖房の効いた教室に弁当の匂いと生徒たちの話し声が混ざっていた。


 窓際の席には冬の淡い日差しが差し込み、グラウンドでは昼休みになった途端に外へ飛び出した男子生徒たちがサッカーボールを追いかけている。ひよりは自分の机を千夏の机へ寄せ、弁当箱の卵焼きを箸でつまみながら、朝から何度目か分からない時計への視線を向けた。


「……」


「ひより」


「ん?」


「時計、何か面白い?」


「別に?」


「今日だけでもう何回見たと思う?」


「そんな見てないよ」


「見てるよ」


 千夏が呆れたように言う。


 ひよりは卵焼きを口へ入れ、何でもない顔を作った。


「普通に時間確認してるだけ」


「十二時三十七分です」


「見れば分かる」


「十二時三十八分になったら教えてあげようか?」


「いらない」


「十二時四十分は?」


「いらないってば」


 ひよりが眉を寄せると、千夏は楽しそうに笑った。


 机の横には、学校へ来る途中で買った小さな紙袋が掛けてある。


 中身は犬用のクッキーだった。


 昨日、真樹へ確認した通り、犬用として売られているものを選んだ。念のため原材料も確認し、大袋ではなく一番小さなものにした。


 ノアにあげるためだ。


 それ以上でも、それ以下でもない。


「そういえば」


 千夏の視線が机の横へ落ちる。


「朝買ってたやつ、ノアのおやつ?」


「うん」


「見せて」


「いいよ」


 ひよりが紙袋から小さなパッケージを取り出すと、千夏はそれを受け取った。


「犬用ビスケット……」


「昨日、北条君に聞いたの。市販の犬用なら大丈夫だって」


「ふーん」


「何?」


「いや?」


「その顔やめて」


「どの顔?」


「何か言いたそうな顔」


 千夏はパッケージを返した。


「だって、ちゃんと買ったんだなと思って」


「約束したから」


「ノアと?」


「……北条君に、今度持ってくるって言った」


「北条君とじゃん」


「ノアにあげる約束だから!」


「はいはい」


「その返事嫌い」


「昨日も言われた?」


「……」


 ひよりの箸が止まる。


 千夏の目が細くなった。


「言われたんだ」


「何で分かるの!?」


「分かりやすすぎるから」


 ひよりは唇を尖らせた。


 真樹と千夏。


 二人はまだ会ったことすらない。


 それなのに、妙なところが似ている気がする。


(もし会ったら、絶対私が疲れる気がする)


 そんな未来を想像してしまい、ひよりは小さく息を吐いた。


「天野、藤崎」


 横から声をかけられる。


 顔を上げると、海斗がパンと紙パックの飲み物を持って立っていた。


「そこ座っていい?」


「いいよ」


 千夏が答える。


 海斗は近くの空いている椅子を引き寄せ、二人の机の横へ座った。


「何の話?」


「ひよりの新しいお友達」


「千夏!」


「友達?」


 海斗がパンの袋を開けながら首を傾げる。


「誰?」


「犬」


 ひよりが即答した。


「犬?」


「そう。黒くて大きい犬。ノアっていうの」


「へえ。天野んち、犬飼い始めた?」


「違うよ。帰り道で会った子」


「迷子だったんだよね」


 千夏が補足する。


「バレンタインの日にひよりが見つけて、飼い主も見つかって、それから何回か会ってるんだって」


「それでおやつ?」


「うん」


 ひよりは机の横の紙袋を軽く持ち上げた。


「今日あげようと思って」


「犬好きなんだな」


「好きだよ。家では飼ってないけど」


「俺んちも無理なんだよな。母親が動物苦手で」


「そうなんだ」


「写真ある?」


「写真?」


 ひよりはそこで止まった。


「……ない」


「何回も会ってるのに?」


「そういえば撮ってない」


 考えたこともなかった。


 ノアと会うと、撫でたり話しかけたりすることに夢中になってしまう。


「今日撮らせてもらおうかな」


「いいじゃん。今度見せて」


「うん」


「飼い主さんにも聞かないとね」


 千夏が何気なく言った。


「そうだね」


 ひよりが頷く。


 海斗はパンを一口食べてから、ふと首を傾げた。


「飼い主も毎回いるの?」


「うん」


「へえ」


「同い年だよ」


「男?」


「うん」


 海斗の問いに、ひよりは特に意識せず答えた。


 千夏だけが、海斗の顔をちらりと見る。


 しかし海斗は「ふーん」と返しただけで、それ以上は何も聞かなかった。


 今の彼にとっては、友人が最近知り合った犬とその飼い主という程度の話なのだろう。


「じゃあ今日写真撮ったら見せて」


「ちゃんと北条君に聞いてからね」


「北条?」


「あ」


 ひよりは自分で名前を出したことに気づく。


「飼い主の人」


「北条っていうんだ」


「北条真樹君」


「同じ学校?」


「違うよ。桜陵」


「え、桜陵?」


 海斗が目を丸くした。


 周囲で昼食を食べていた近くの女子も、聞こえたらしく一瞬こちらへ視線を向けた。


「やっぱりそんな反応するんだ」


「そりゃするだろ。あそこ、すげえ学校じゃん」


「私は名前くらいしか知らなかった」


「天野、そういうの疎そうだもんな」


「悪かったね」


「悪いとは言ってないって」


 海斗が笑う。


「でも桜陵のやつとどこで知り合うんだよ」


「だからノア」


「ああ、犬か」


「本当にそれだけだよ」


「別に疑ってないけど?」


「……」


 また先回りしてしまった。


 千夏が口元を押さえている。


「笑わないで」


「まだ笑ってない」


「顔が笑ってる」


「ひよりが勝手に必死になるから」


「もう!」


 昼休みの教室で、三人の笑い声が周囲のざわめきへ溶けていった。


 その後も話題はテストや週末の予定へ移り、真樹の話が続くことはなかった。


 けれど、昼休みが終わる直前。


 ひよりはもう一度だけ、机の横の紙袋を確認した。


 ちゃんとある。


(忘れたら笑われそうだもんね)


 頭に浮かんだ真樹の顔へ、ひよりは心の中で少しだけ舌を出した。


     ◇ ◇ ◇


 同じころ。


 私立桜陵学園のカフェテリアでは、青葉高校とはまるで違う空気が流れていた。


 高い天井から下がる照明、広く取られた窓、落ち着いた色合いで統一されたテーブルと椅子。制服姿の生徒たちが思い思いに昼食を取っているが、騒がしさは抑えられ、食堂というよりホテルのラウンジに近い雰囲気さえある。


 真樹は窓際の席で昼食を取っていた。


 向かいには蓮がいる。


「なあ」


「何」


「今日も行くの?」


「どこに」


「散歩」


 真樹はスープへ向けていた視線を上げた。


「行くけど」


「何時?」


「昨日と同じくらい」


「ふーん」


「何だよ」


「別に?」


 その返し方に、真樹の眉間へ皺が寄る。


「その言い方、最近ムカつくな」


「最近?」


「……何でもない」


 昨日、ひよりにも似たような言い方をされた気がする。


 蓮は気づいていないらしく、サンドイッチへ手を伸ばした。


「天野さんも来るの?」


「知らない」


「昨日、約束したんじゃないの?」


「約束ってほどじゃない」


「またそれ?」


「昨日あいつが次いつ会えるか聞いてきたから、今日も同じ時間って言っただけ」


 蓮の手が止まった。


「天野さんから聞いたの?」


「ああ」


「へえ」


「……何」


「いや、向こうも会いたいんだなと思って」


「ノアにな」


「真樹には?」


「知らねえよ」


「聞けば?」


「何で聞くんだよ」


「気にならない?」


「ならない」


 真樹は水を飲む。


 蓮はそれ以上追及しなかった。


 しかし、向かいに座る親友を観察しながら、内心では少しだけ面白がっていた。


 真樹は元々、必要以上に他人へ自分の予定を話さない。


 放課後どこへ行く。


 何時ごろ何をする。


 そういったことを、親しい友人以外へわざわざ知らせるタイプではない。


 それなのに、知り合って数日の女子とは「同じ時間に散歩する」という話をしている。


 しかも、それを不自然だと思っていない。


(まあ、本人に言ったら絶対否定するだろうけど)


 蓮は笑いそうになるのを堪えた。


 恋だと決めつけるには早すぎる。


 実際、真樹自身も天野ひよりという少女について、まだほとんど知らないはずだ。


 ただ。


 知らない女子のことを何度も話題にする真樹というものを、蓮はこれまでほとんど見たことがなかった。


「何笑ってんだよ」


「笑ってない」


「笑ってる」


「気のせい」


「お前、最近そればっかりだな」


「真樹も『別に』ばっかりじゃん」


「うるさい」


 蓮が笑う。


 そのとき。


「真樹」


 横から女子生徒の声がした。


 真樹が顔を上げる。


 長い黒髪を整えた少女が立っていた。


 桜陵学園の制服を品よく着こなし、立ち姿にも育ちのよさが滲んでいる。周囲の生徒の何人かが、彼女へちらりと視線を向けた。


 一ノ瀬玲奈だった。


「何」


「今日、放課後時間ある?」


「ない」


「即答ね」


 玲奈は慣れているのか、不快そうにはしなかった。


「生徒会の資料について確認したかったんだけど」


「それなら今聞く」


「ここで?」


「五分くらいなら」


 玲奈は少し考え、真樹の隣の空いている椅子へ腰を下ろした。


「じゃあ簡単に。来月の交流会、北条家側の確認がまだ取れてない部分があるの」


「それ俺に聞くこと?」


「学校側からあなたにも確認してほしいって言われたの。詳細はあとで送るから見ておいて」


「分かった」


「お願いね」


 用件はそれだけだった。


 玲奈は立ち上がりかけて、ふと真樹を見る。


「ところで」


「まだ何かある?」


「最近、放課後すぐ帰ることが多いわね」


 真樹の目がわずかに細くなる。


「だから?」


「珍しいと思っただけ」


「ノアの散歩」


「ああ、ノア」


 玲奈の表情が柔らかくなる。


 彼女は昔からノアを知っている。


「元気?」


「元気」


「しばらく会ってないわね。今度顔を見に行ってもいい?」


「好きにすれば」


「相変わらずね」


 玲奈は苦笑した。


「じゃあ、資料送っておくから」


「ああ」


「蓮もまたね」


「また」


 蓮が軽く手を上げる。


 玲奈は友人たちのいるテーブルへ戻っていった。


 真樹は何事もなかったように食事を再開する。


「一ノ瀬、相変わらずお前のことよく見てるよな」


 蓮が言う。


「昔からだろ」


「まあね」


「何」


「別に」


「だからその言い方やめろって」


 蓮は笑った。


 真樹にとって玲奈は、幼いころから知っている相手だ。


 家同士の付き合いもある。


 自分が北条家の人間だと知ったうえで、それ以前から接してきた数少ない人間でもある。


 だからこそ、玲奈と話すことに緊張も警戒もない。


 それはひよりといるときの感覚とは違っていた。


 けれど真樹自身は、そんな比較をする理由すらまだ持っていなかった。


     ◇ ◇ ◇


 午後の授業が終わった。


 青葉高校の昇降口で靴を履き替えながら、ひよりはスマートフォンの時刻を見る。


「ひより」


「ん?」


 千夏が隣でローファーを履いている。


「今日、途中まで一緒に帰る?」


「あ……」


 ひよりが一瞬だけ言葉に詰まった。


 千夏はそれだけで察したらしい。


「黒犬?」


「……うん」


「そっか」


「ごめん」


「何で謝るの?」


「だって、いつも一緒に帰ること多いし」


「毎日絶対一緒って決めてるわけじゃないでしょ」


「そうだけど」


 千夏は靴を履き終えると、立ち上がった。


「行ってきなよ」


「いいの?」


「いいよ」


「……ありがと」


「ただし」


「何?」


「写真」


 千夏が人差し指を立てる。


「ノアの写真撮れたら送って」


「分かった」


「あと北条君も――」


「撮らないから!」


「まだ何も言ってないのに」


「絶対言おうとした!」


 千夏が笑う。


 ひよりは頬を膨らませた。


「じゃあまた明日」


「うん。またね」


 千夏と別れ、ひよりは校門を出た。


 ただし、今日はそのまま公園へ向かわない。


 昨日母と見たスーパーへ寄る。


 ペット用品の売り場で改めて商品を見比べ、小さな犬用クッキーを買った。


 レジ袋を鞄へ入れる。


(これでよし)


 外へ出ると、思っていたより時間が経っていた。


「あれ……」


 スマートフォンを見る。


 いつも公園へ着く時間より、十分ほど遅くなりそうだった。


「やば」


 足が自然に速くなる。


 しかし、すぐに自分へ言い聞かせる。


(別に約束の時間を決めたわけじゃないんだから)


 急ぐ必要はない。


 そう思う。


 それでも歩調は戻らなかった。


     ◇ ◇ ◇


「……遅い」


 真樹は公園のベンチへ座りながら、スマートフォンを見た。


 昨日ひよりが来た時間を、すでに十分ほど過ぎている。


 足元にはノアがいる。


「何」


 ノアが見上げる。


「俺を見るな」


 尻尾が一度動く。


「別に待ってないからな」


 ノアは何も言わない。


「……お前が待ってるだけだから」


 当然、返事はない。


 真樹はスマートフォンをポケットへしまった。


(買い物するとか言ってたか?)


 昨日の会話を思い出す。


 ノアのおやつ。


 買ってくると言っていた。


 なら、店へ寄っている可能性はある。


(……何で俺がそこまで考えてんだ)


 眉を寄せる。


 そもそも来るとは限らない。


 学校で何かあるかもしれないし、友人と帰るかもしれない。


 昨日だって、「明日」と言っただけだ。


 絶対に来るという約束ではない。


「帰るか」


 立ち上がる。


 ノアは動かない。


「ノア」


 呼ぶ。


 それでもノアは公園の入口を見ている。


「……」


 真樹は息を吐いた。


「あと五分な」


 再びベンチへ座る。


(俺、何やってんだろ)


 本気でそう思う。


 ノアのため。


 そう説明すれば一応は筋が通る。


 しかし、自分も公園の入口へ何度も目を向けていることには気づいていた。


 風が吹く。


 枝だけになった木々が小さく揺れた。


 そして。


「北条君!」


 声がした。


 真樹が顔を上げる。


 公園の入口に、制服姿のひよりが立っていた。


 少し息を弾ませている。


 ノアが勢いよく立ち上がった。


「ノア!」


 ひよりが笑う。


 ノアが駆け寄ろうとするのに合わせ、真樹も立ち上がった。


「遅い」


 口から出た。


 ひよりが目を丸くする。


「え?」


「……」


 言ってから気づいた。


(何言ってんだ、俺)


「待ってたの?」


「待ってない」


「今、遅いって言ったよね?」


「ノアが」


「ノアが?」


「待ってた」


 ひよりの視線がノアへ落ちる。


「ごめんね、ノア」


 しゃがみ込み、ノアの首へ腕を回す。


「おやつ買ってたら遅くなっちゃった」


 ノアがひよりの頬へ鼻先を寄せる。


「ふふっ、くすぐったい」


 真樹はその様子を見ながら、わずかに肩の力が抜けていくのを感じた。


 来た。


 ただそれだけなのに。


 さっきまであった妙な苛立ちが消えている。


(……ノアが落ち着いたからだろ)


 そういうことにした。


「北条君」


「何」


「ごめんね」


「何が」


「待たせたなら」


「待ってないって言ってるだろ」


「でも十五分くらい前からいたんじゃない?」


「……」


 ひよりの目が細くなる。


「当たり?」


「何で十五分」


「適当」


「……」


「本当に当たりなんだ」


 ひよりが笑い出す。


「北条君、分かりやすい」


「うるさい」


「ごめんごめん」


「笑いながら言うな」


 ひよりは楽しそうに笑いながら鞄を開けた。


「ほら、これ」


 取り出したのは、小さな犬用クッキーの袋だった。


「ちゃんと買ってきた」


「本当に買ったんだな」


「言ったでしょ?」


「別に疑ってない」


「さっき忘れるかもみたいなこと言ってたくせに」


「昨日だろ、それ」


「覚えてるんじゃん」


「……」


 真樹が黙る。


 ひよりはまた笑った。


「ノア、食べる?」


 袋を開けようとして、手を止める。


 真樹を見る。


「一個ならいい?」


「ああ」


「よし」


 小さな骨の形をしたクッキーを一枚取り出す。


 ノアはすでに匂いに気づいていた。


「待ってね」


 ひよりが手のひらへクッキーを載せる。


「どうすればいい?」


「そのままやっていい」


「手ごと食べない?」


「食べない」


「本当?」


「ノアを何だと思ってんだよ」


「ごめん」


 ひよりは恐る恐る手を差し出した。


 ノアが大きな顔を近づける。


「わ、近い近い……!」


 けれどノアは、ひよりの手を傷つけないように静かにクッキーだけを口へ入れた。


「……食べた」


「そりゃ食うだろ」


「かわいい!」


 ひよりの顔が一気に明るくなる。


「ノア、おいしい?」


 ノアが尻尾を振る。


「もう一個あげていい?」


「今日は二個まで」


「分かった」


 もう一枚。


 今度は怖がらずに差し出す。


 ノアが食べる。


 ひよりは満足そうだった。


「よかった」


「そんな嬉しい?」


「嬉しいよ」


「ただ食っただけだろ」


「北条君は毎日見てるからそう思うの」


 ひよりがノアの頭を撫でる。


「私は初めて自分で買ったおやつ食べてもらったんだから」


「……そういうもん?」


「そういうものです」


 妙に得意げだ。


 真樹は呆れながらも、少し笑った。


 ひよりがそれに気づく。


「あ」


「何」


「今笑った」


「笑ってない」


「笑ったよ」


「気のせい」


「絶対笑った」


「しつこい」


「北条君、ちゃんと笑えるんだね」


「喧嘩売ってんのか?」


「違うって!」


 また言い合いになる。


 その真ん中で、ノアだけが満足そうに二人を見ていた。


     ◇ ◇ ◇


「そうだ、写真」


 しばらくして、ひよりが思い出したようにスマートフォンを取り出した。


「写真?」


「ノアの写真撮ってもいい?」


「何で俺に聞くんだよ」


「飼い主だから」


「ノアが嫌がらなきゃ好きにすれば」


「やった」


 ひよりはノアから少し離れ、カメラを向けた。


「ノア、こっち」


 ノアはひよりを見る。


「かわいい……!」


「でかい声出すな」


「だってかわいいんだもん」


 何枚か撮る。


 座っている姿。


 横顔。


 真樹の足元へ寄っている姿。


 そのうち一枚に、真樹の脚が写り込んだ。


「あ、北条君入った」


「消せ」


「顔じゃないよ」


「なら別にいい」


「どっちなの」


 ひよりは笑いながら写真を確認する。


「千夏に送ろ」


「千夏?」


「親友。藤崎千夏」


 真樹は初めて聞く名前だった。


「今日、写真撮ったら見せてって言われたの」


「へえ」


「中学からずっと一緒なんだ」


「同じ学校?」


「うん。同じクラス」


 ひよりは写真を送る。


 すぐに既読がついた。


『かわいい!!!』


「早っ」


「何」


「千夏。もう見た」


 返信が続く。


『想像よりでかい』


『ひよりと並んでる写真ないの?』


「私と?」


 ひよりは少し考えた。


「北条君」


「何」


「ノアと私、一緒に撮ってくれない?」


「俺が?」


「うん」


「何で」


「自撮りだとノア全部入らないから」


「……面倒くさ」


「出た」


「何」


「北条君の『面倒くさ』」


「実際面倒だから」


「お願いします」


 ひよりは両手を合わせた。


 真樹は数秒黙り、手を出す。


「貸して」


「やった」


 ひよりがスマートフォンを渡す。


 真樹はカメラを起動した。


「どこ押すの」


「普通に下の丸」


「それくらい分かる」


「じゃあ聞かないでよ」


「確認しただけ」


 ひよりはノアの隣へしゃがみ、首元へ腕を回した。


「こんな感じ?」


「近すぎ」


「え?」


「ノアが画面から切れてる」


「じゃあ私が離れる?」


「そのままでいい。俺が下がる」


 真樹が数歩後ろへ下がる。


 画面の中にひよりとノアが収まった。


 ひよりはノアへ頬を寄せ、自然に笑っている。


 学校で誰かへ向けて作るような笑顔ではない。


 真樹はその事情を知らない。


 ただ、画面越しに見えた笑顔が、いつも自分へ言い返してくるときとも少し違って見えた。


「北条君?」


「……何」


「撮らないの?」


「ああ」


 慌てて画面を押す。


 一枚。


「もう一枚」


「何で」


「今、ノアが横向いた」


「注文多いな」


「お願い」


 もう一度。


 今度はノアもひよりを見る。


「撮った」


「見せて」


 ひよりが駆け寄ってくる。


 二人で画面を覗く。


 肩が触れそうなくらい近くなった。


 真樹がわずかに身体を引く。


 ひよりは気づいていない。


「わ、いいじゃん!」


「普通だろ」


「北条君、写真上手だね」


「押しただけ」


「これ千夏に送ろ」


「好きにすれば」


 ひよりはすぐに送信する。


 返信は数秒だった。


『かわいい』


『ノアが』


『私も褒めて』


『ひよりもかわいいかわいい』


「雑!」


 ひよりが笑う。


 その画面が真樹からも少し見えた。


「仲いいんだな」


「うん。大好き」


「即答だな」


「親友だもん」


 ひよりは当然のように言う。


「千夏も私のこと大好きだよ」


「自分で言う?」


「本人が言うから」


「変なやつ」


「北条君に言われたくない」


「俺は普通」


「それはない」


 真樹が何か言い返そうとしたところで、ひよりのスマートフォンが再び震えた。


 千夏から写真が届いた。


 教室で撮ったらしい。


 千夏がひよりの机へ後ろから抱きつき、二人でカメラへ笑っている写真だった。


 今日の昼休み、別の女子が撮ったものらしい。


『こっちも保存しとけ』


 ひよりが笑う。


「何それ」


「千夏。今日の写真」


 何気なく真樹にも画面を見せる。


「ほら、この子」


「……」


 真樹は画面を見る。


 ひよりへ後ろから抱きついている少女。


 距離が近い。


「近くない?」


「何が?」


「そいつ」


「千夏?」


「ああ」


「いつもこんな感じだよ」


「……へえ」


 真樹は何となく面白くない。


 理由は分からない。


 相手は女子だ。


 しかも親友だと言っている。


 何を気にする必要もない。


(いや、何も気にしてないけど)


「北条君?」


「何」


「何か顔怖い」


「元から」


「自分で言うんだ」


「別に」


「またそれ」


 ひよりは気にせずスマートフォンをしまった。


 真樹もそれ以上考えるのをやめた。


 ただ。


 藤崎千夏。


 その名前だけは、妙に頭へ残った。


     ◇ ◇ ◇


「北条君って、学校だとどんな感じなの?」


 ベンチへ並んで座ったあと、ひよりが唐突に尋ねた。


「どういう意味」


「そのまま」


「今と同じ」


「絶対嘘」


「何で」


「友達いる?」


「いる」


「本当に?」


「お前、俺を何だと思ってんの?」


「ちょっと感じ悪くて、口が悪くて、すぐ面倒くさいって言う人」


「帰るぞ、ノア」


「待って待って!」


 ひよりが笑いながら真樹の制服の袖を軽く掴んだ。


 真樹の動きが止まる。


 ひよりは気づかず続ける。


「冗談だって」


「半分くらい本気だろ」


「……三割?」


「増えたな」


「減ったよ!」


 ひよりが手を離す。


 真樹は自分の袖を一度だけ見た。


 掴まれていた時間はほんの数秒。


 それなのに、そこへ妙に意識が残る。


(……何だよ)


「で、友達いるんだ?」


「いるって言っただろ」


「どんな人?」


「うるさい」


「北条君が言うくらい?」


「かなり」


「仲いいんだね」


「まあ」


「名前は?」


「神崎蓮」


「神崎君」


 ひよりが口にする。


 それだけのことなのに、真樹は妙な感覚を覚えた。


 自分の世界にいる人間の名前を、ひよりが初めて知った。


「北条君の友達なら、やっぱり桜陵なんだよね?」


「ああ」


「すごそう」


「普通だよ」


「桜陵の普通は信用できない」


「何だそれ」


「だって学校がすごいもん」


「学校で人間決まるわけじゃないだろ」


 真樹が何気なく返した。


 ひよりは少し目を瞬いた。


「……うん」


「何」


「北条君がそれ言うんだなって」


「どういう意味」


「何となく」


 ひよりは前を向いた。


 真樹は桜陵に通っている。


 大きな黒い車が迎えに来る。


 大人から「真樹様」と呼ばれていた。


 きっと、自分とは違う世界にいる。


 でも。


『学校で人間決まるわけじゃないだろ』


 真樹自身がそう言うなら、ひよりも必要以上に桜陵という名前を気にしなくていいのかもしれない。


「私はね、千夏以外だと橘君とかとよく話すよ」


「橘?」


「橘海斗君。同じクラス」


「男?」


「うん」


 真樹はひよりを見る。


「仲いいの?」


「普通に友達だよ」


「へえ」


「何?」


「別に」


「今日何回目?」


「数えてない」


「絶対多いよ」


 ひよりは笑っている。


 真樹は前を向いた。


 橘海斗。


 知らない男。


 ひよりと同じクラス。


 毎日同じ教室にいる。


(……だから何だよ)


 本当に、だから何なのだ。


 友人がいるのは当たり前だ。


 男子の友人だっているだろう。


 何もおかしくない。


「あと佐伯君」


 ひよりが続けた。


 真樹の思考が止まる。


「……佐伯?」


「うん。去年同じクラスだった人」


 ひよりの声が少しだけ変わった。


 真樹はそれに気づく。


「今は別のクラスなんだけど、今日ちょっと話したの」


「ふーん」


「去年の文化祭の写真送ってほしいって」


「へえ」


「……北条君、急に反応薄くない?」


「元からこんなもんだろ」


「まあ、そうだけど」


 ひよりは気にせず続ける。


「佐伯君がね――」


「そいつ?」


「え?」


 真樹がひよりを見る。


「チョコ渡せなかった相手」


 ひよりの目が大きくなる。


「……何で分かったの?」


「分かりやすいから」


「そんなに?」


「ああ」


「嘘……」


 ひよりは両手で頬を押さえた。


「私、顔に出てた?」


「声」


「声!?」


「そいつの名前出したときだけちょっと違った」


「……恥ずかしい」


 ひよりがマフラーへ顔を埋める。


 真樹は横目で見る。


 佐伯。


 名前が分かった。


 知りたいと思っていたわけではない。


 なのに、分かった瞬間から妙に頭に残る。


「好きなんだ?」


「……」


 ひよりはしばらく答えなかった。


 冬の風が二人の間を通り抜ける。


 ノアが足元で伏せている。


「うん」


 やがて、ひよりが小さく答えた。


「好き」


 真樹の胸の奥へ、何かが引っかかった。


 以前聞いたときより、はっきりしている。


 好きな人がいる。


 それだけではない。


 名前がある。


 佐伯という、自分の知らない男。


「……そっか」


 真樹はそれだけ答えた。


 声は普段と変わらなかった。


 ひよりも気づかない。


「今日ちょっと話せて嬉しかった」


「へえ」


「今度こそ、ちゃんと気持ち伝えたいんだ」


「……」


「すぐじゃないよ? まだ勇気ないし」


 ひよりは困ったように笑う。


「でも、いつまでも逃げてたら何も変わらないから」


「そう」


「北条君?」


「何」


「今日、やっぱり変」


「変じゃない」


「さっきから『へえ』と『そう』ばっかり」


「お前の恋愛話に俺が何言えばいいんだよ」


「それは……そうだけど」


「応援でもすればいい?」


 口にした瞬間。


 真樹自身が、その言葉に妙な苛立ちを感じた。


(……何で俺が苛ついてんだ)


 ひよりは少し考えたあと、笑った。


「別にいいよ」


「何が」


「無理に応援しなくて」


「……」


「北条君、そういうの苦手そうだし」


「まあな」


「ただ聞いてくれれば、それでいい」


 ひよりはそう言ってノアの頭を撫でた。


「学校の友達には、ちょっと恥ずかしくて全部言えないこともあるから」


「藤崎にも?」


「千夏は大体知ってる」


「じゃあそいつに話せばいいだろ」


「北条君、千夏に厳しくない?」


「知らない」


「会ったこともないのに」


「写真で見ただけ」


「……もしかして、抱きついてたの気にしてる?」


「何で俺が気にするんだよ」


「だよね」


 あっさり納得された。


 なぜか、それも少し面白くなかった。


(何なんだよ、今日)


 真樹は自分でも分からない。


 藤崎千夏。


 橘海斗。


 そして佐伯。


 今日だけで、ひよりの学校側の人間を三人知った。


 昨日までは、ひよりは公園へ来る「天野ひより」でしかなかった。


 けれど当然、彼女には自分の知らない生活がある。


 学校があり、親友がいて、男子の友人がいて。


 好きな男もいる。


 当たり前だ。


 そんな当たり前のことが、なぜか少しだけ気に障った。


     ◇ ◇ ◇


 日が傾き始める。


「そろそろ帰らないと」


 ひよりが立ち上がった。


「今日ちょっと遅くなったし」


「ああ」


「ノア、またね」


 ノアを撫でる。


「クッキー、残りはまた今度ね」


 ノアは袋のあるひよりの鞄を見ている。


「ダメ。北条君が二個までって言ったから」


「ちゃんと守るんだな」


「当たり前でしょ」


 ひよりは立ち上がった。


「じゃあね、北条君」


「ああ」


 数歩進む。


 ひよりが振り返る。


「明日は?」


 真樹の胸が一瞬だけ動いた。


「……来るけど」


「そっか」


 ひよりが笑う。


「じゃあ、明日もノアに会えるね」


「ああ」


「またね」


 今度こそ歩き出す。


 真樹はその背中を見送った。


 足元でノアが座っている。


「……」


 しばらくしてから、真樹は呟いた。


「佐伯、か」


 ノアが顔を上げた。


「何」


 じっと見てくる。


「別に何でもない」


 ノアはまだ見ている。


「名前分かっただけだろ」


 返事はない。


「……お前、何か言いたそうだな」


 尻尾が一度、地面を叩いた。


「知らねえよ」


 真樹は歩き出す。


 数歩進んだところで、ふと思う。


 明日も来るのかと聞いたのは、ひよりだった。


 その事実だけで、胸の奥にあった小さな苛立ちが少し薄くなる。


(ノアに会いたいだけだろ)


 分かっている。


 ひよりはそう言った。


 それでも。


「……明日も、か」


 声にすると、思っていたより悪くなかった。


     ◇ ◇ ◇


 その夜。


 ひよりのスマートフォンへ、千夏からメッセージが届いた。


『ノアの写真ありがと』


『かわいかったでしょ?』


『かわいかった』


『で』


 嫌な予感がする。


『北条君に私の写真見せた?』


「……」


 ひよりはベッドの上で身体を起こした。


『なんで分かったの?』


『何となく』


『見せたけど』


『反応は?』


『千夏、尋問してる?』


『親友としての確認です』


『距離近くない?って言ってた』


 送信した。


 数秒。


『へえ』


 それだけ返ってきた。


「何、その反応」


『何?』


『別に?』


「……」


 ひよりはスマートフォンを睨んだ。


『二人ともそれ言うのやめて』


『二人?』


『北条君もすぐ別にって言う』


『へええええ』


『何』


『何でもないよ』


 絶対に何でもなくない。


 ひよりはため息をついた。


 そのあと、今日撮ってもらったノアとの写真を開く。


 自分でも驚くくらい楽しそうに笑っていた。


「……いい写真」


 真樹が撮った。


 そう思うと、今日の会話も一緒に蘇る。


 神崎蓮という真樹の友達。


 桜陵学園での真樹。


 自分の知らない場所で、真樹はどんなふうに過ごしているのだろう。


(学校でもあんな感じなのかな)


 少し気になる。


 それだけだ。


 ひよりは写真を閉じた。


 一方で、真樹もまた自室で机に向かいながら、昼間よりも集中できずにいた。


 頭に浮かぶ名前は三つ。


 藤崎千夏。


 橘海斗。


 佐伯颯太。


「……」


 ペンを置く。


(別に、俺には関係ないだろ)


 天野ひよりが学校で誰と仲がいいか。


 誰を好きなのか。


 そんなことは真樹には関係ない。


 ただ、公園でノアを撫でて、くだらない話をして、言い合っているだけの相手だ。


 なのに。


 佐伯という名前だけが、妙に消えない。


『好き』


 ひよりがそう答えたときの声まで思い出す。


「……面倒くさ」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 机の横で伏せていたノアが顔を上げる。


「お前じゃない」


 ノアは首を傾げる。


「寝てろ」


 真樹は再びペンを持った。


 けれど数分後。


 気づけばノートの同じ行を、三度読み直していた。


 まだ嫉妬だとは思わない。


 ひよりを好きだとも思っていない。


 ただ、自分の知らない学校で、自分の知らない相手に笑っているひよりを想像すると、なぜか少しだけ落ち着かなかった。


 そして翌日もまた会う。


 その予定だけは。


 今までより、少しだけ待ち遠しくなっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。