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『黒犬が運んできたのは、不幸ではなく恋でした』  作者: 伊佐波瑞樹


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第6話 月曜日が少しだけ待ち遠しい



 土曜日の朝、天野ひよりは自室のベッドで目を覚ましたあと、枕元のスマートフォンへ手を伸ばした。


 時刻は八時十二分。学校のある日なら慌てて支度をしている時間だが、今日は休みなので急ぐ必要はない。暖かな布団から出る理由を見つけられず、ひよりは横向きになったまま画面を眺めた。


 通知はいくつか届いている。


 クラスのグループ。


 学校からの連絡。


 そして千夏から、昨夜遅くに送られてきたメッセージ。


『月曜日、例の黒犬に会うんだっけ?』


「……なんで覚えてるの」


 眠気の残る声で呟きながら、ひよりは返信欄を開いた。


『会うっていうか、たぶん会えるだけ』


 送信すると、休日の朝だというのに数秒で既読がついた。


「起きてるんだ……」


『同じ時間に散歩するって言われたんでしょ?』


『ノアが私に会いたがるからね』


『はいはい、ノアがね』


『何その言い方』


『別にー』


 絶対に何か含んでいる。


 ひよりは眉を寄せたまま、布団の中で返信を打った。


『北条君とは何もないから』


『私まだ北条君の話してないけど』


「……あ」


 送ってから気づいた。


 取り消したい。


 しかし、すでに既読になっている。


『ひよりさん?』


『おやすみ』


『逃げるな』


『二度寝します』


『待て』


 スマートフォンを伏せた。


 そのまま枕へ顔を埋める。


「もう……」


 頬が少し熱い。


(本当に何もないのに)


 北条真樹とは、まだ知り合って数日しか経っていない。


 最初に会ったのはバレンタインの日。


 それから何度か偶然会って、少し話しただけだ。


 確かに月曜日は、同じくらいの時間に公園付近を通ると互いに言った。


 でも、それはノアがひよりに会いたがっているからである。


(私もノアに会いたいし)


 それだけ。


 そう結論づけたところで、ひよりはもう一度目を閉じた。


 ところが眠れない。


 しばらく布団の中でもぞもぞしたあと、諦めて身体を起こした。カーテンを開けると、休日らしい静かな住宅街へ柔らかな冬の日差しが落ちている。


 今日は土曜日。


 明日は日曜日。


 その次が月曜日。


「……二日か」


 無意識に呟いてから、ひよりは固まった。


(私、今数えた?)


 何を。


 月曜日までの日数を。


「違うから」


 誰もいない部屋で否定する。


「学校があるから確認しただけ」


 苦しい。


 自分でも分かるくらい苦しい言い訳だった。


     ◇ ◇ ◇


「ひよりー。起きてる?」


 部屋の外から声がした。


「起きてるよ」


「入るね」


 返事を待っていたのかいなかったのか、美月が扉を開ける。


 部屋着姿の姉は片手にマグカップを持っていた。


「おはよう」


「おはよ。何?」


「別に。起きてるかなと思って」


「それだけ?」


「それだけ」


 美月はそう答えながら、当然のように部屋へ入ってきた。


 ひよりは疑いの目を向ける。


「何、その顔」


「お姉ちゃんが本当に用事なく私の部屋に来るかなって」


「来るでしょ。妹の部屋なんだから」


「普通は勝手に来ないと思う」


「ノックした」


「返事とほぼ同時に開けたよね?」


「気のせい」


 美月は平然と答え、机の横に置かれた椅子へ腰を下ろした。


 視線が机の上へ向かう。


 そこには、まだ白いリボンの箱が置かれていた。


「それ、まだ食べてないの?」


「……うん」


「傷むよ」


「クッキーだからまだ大丈夫」


「そういう問題?」


 ひよりも分かっている。


 いつまでも置いておくものではない。


 渡せなかったものを眺め続けたところで、時間が戻るわけでもない。


「今日食べる」


「一人で?」


「家族にもあげる」


「悠一には?」


「……一個」


「少な」


「だって絶対うるさいもん。『本当は誰に渡すつもりだったんだ』とか聞くから」


「聞くだろうね」


「お姉ちゃんもでしょ」


「私は聞かない」


 美月がマグカップへ口をつける。


「ひよりが話したくなったら聞くだけ」


「……昨日まで結構聞いてたよね?」


「記憶にないなぁ」


「便利だね、その記憶」


 ひよりが呆れると、美月は小さく笑った。


 しばらく穏やかな沈黙が流れる。


 窓の外から、近所を走る車の音が聞こえた。


「ねえ、ひより」


「ん?」


「最近、何かあった?」


 ひよりは顔を上げた。


「何かって?」


「そのまま」


「……別に」


「そう」


 美月は追及しない。


 それが逆に気になった。


「なんで?」


「ちょっと雰囲気変わったから」


「私が?」


「うん」


「どこが?」


「それはまだ分かんない」


「何それ」


「だから聞いたの」


 美月は笑っている。


 けれど、その目は妹をよく見ていた。


 美月からすれば、大きな変化ではなかった。


 ひよりは元々よく笑う。


 家でも学校でも、明るく振る舞うことが多い。


 けれど妹を長く見てきた美月には、その笑顔にも種類があることが分かる。


 相手に心配させないための笑顔。


 場を悪くしないための笑顔。


 本当に楽しいときの笑顔。


 ここ数日のひよりには、三つ目が少し増えている気がした。


 バレンタインにクッキーを持ち帰った夜は、明らかに落ち込んでいた。


 なのに、その翌日から妙に機嫌のいい時間がある。


「好きな人と何かあった?」


「ない!」


 返事が早かった。


「……そう」


「本当にないよ。佐伯君とは何も」


 そこまで言って、ひよりは口を閉じた。


 美月の眉がわずかに動く。


「私、佐伯君って言った?」


「……」


「好きな人、としか言ってないけど」


「お姉ちゃん!」


「なるほど。佐伯君ね」


「忘れて!」


「無理」


「もう!」


 ひよりは枕を掴んで姉へ投げた。


 美月は片手で受け止める。


「危ないなぁ」


「誰のせい!」


「でも、佐伯君とは何もないんだ?」


「……ない」


 今度の返事は小さかった。


 美月はそれ以上笑わなかった。


「そっか」


 柔らかな声だった。


 ひよりは膝を抱える。


「渡せなかっただけ」


「うん」


「別に振られたわけでもないし」


「うん」


「だから……次はちゃんとしたいなって思ってる」


 美月は少しだけ目を細めた。


「いいんじゃない?」


「笑わない?」


「笑う理由ないでしょ」


 真樹にも同じことを言われた。


『なんで笑うんだよ』


 その声が自然に思い出される。


 ひよりは自分でも気づかないうちに、ほんの少し笑った。


 美月はそれを見逃さなかった。


「……ひより?」


「え?」


「今、何考えた?」


「何も!」


「嘘」


「本当に何も!」


 美月の目が細くなる。


「佐伯君のこと考えて、その顔になった?」


「……」


 答えられなかった。


 正直に言えば違う。


 今思い浮かべていたのは真樹だった。


 けれど、なぜそれを姉に言う必要があるのだろう。


「お姉ちゃん、朝ご飯まだでしょ」


「話逸らしたね」


「お腹空いた!」


「はいはい」


 美月は立ち上がった。


 扉の前まで行ってから、振り返る。


「ひより」


「なに?」


「何かあったら言ってね」


「……うん」


「悠一には言わなくていいから」


「そこは同意する」


「聞こえてるぞ!」


 廊下から声が飛んできた。


 姉妹は顔を見合わせる。


「盗み聞き?」


「してない! 今通っただけだ!」


「怪しい」


「美月まで疑うな!」


 朝から騒がしい。


 それでも、ひよりは笑った。


     ◇ ◇ ◇


 同じ土曜日。


 北条家の敷地内では、ノアが芝生の上をゆっくり歩いていた。


 広い庭の端には冬でも葉を落とさない常緑樹が並び、手入れされた植え込みの向こうには大きな屋敷が建っている。住宅街の中にありながら、塀の内側だけは外の喧騒から切り離されたように静かだった。


 真樹はテラスの椅子へ座り、膝の上のタブレットを眺めていた。


 学校から出された課題である。


 進んでいない。


 文章を読んではいる。


 意味も理解している。


 それなのに、しばらくすると意識が別のところへ向かってしまう。


「……」


 真樹はタブレットを伏せた。


 庭ではノアが何かの匂いを嗅いでいる。


「ノア」


 呼ぶと、顔を上げた。


「こっち」


 ノアがゆっくり近づいてくる。


 真樹の横へ来ると、そのまま身体を伏せた。


「……お前、月曜もあっち行くのか?」


 ノアの耳が動く。


「天野のいるほう」


 今度は顔を上げた。


「分かりやすいな、お前」


 頭を撫でる。


 ノアは気持ちよさそうに目を細めた。


 月曜日。


 自分から言った。


『多分、同じくらいの時間に散歩する』


 思い返すと妙なことを言った気がする。


 散歩の時間など、わざわざ伝える必要はなかった。


(ノアが会いたがってるからだろ)


 理由はそれで説明できる。


 実際、ノアはひよりを気に入っている。


 それなら会わせてやるくらい構わない。


「俺は別に関係ないし」


 声に出したところで、


「何が関係ないんだ?」


 背後から声がした。


 真樹は振り返る。


「……なんでいるんだよ」


「ひどくない?」


 神崎蓮がテラスへ続く扉の前に立っていた。


 休日らしいラフな服装で、片手をポケットへ入れている。


「連絡しただろ」


「見てない」


「既読ついてたけど?」


「……忘れた」


「便利だな」


 蓮は勝手知ったる様子でテラスへ出てくると、真樹の向かいへ腰を下ろした。


 北条家へ来るのは初めてではない。


 ノアも警戒せず、蓮を一度見ただけで再び顎を前脚へ乗せた。


「課題?」


「ああ」


「終わった?」


「まだ」


「珍しいな。お前、こういうのさっさと終わらせるだろ」


「やる気出ない」


「へえ」


 蓮が面白そうに真樹を見る。


「何」


「いや、珍しいこと続くなと思って」


「何が」


「最近のお前」


「意味分かんねえ」


「俺は結構分かるけど」


「帰れ」


「来たばっかりなんだけど」


 蓮が笑う。


 真樹は相手にするのをやめ、タブレットへ手を伸ばした。


「それで?」


「何」


「さっき何が関係ないって言ってた?」


「聞き間違い」


「俺、耳いいんだよね」


「知らない」


「ノアに話しかけてたよな?」


「普通だろ」


「まあ、お前は昔からノアにはよく喋るけど」


 蓮はノアを見る。


「もしかして、天野さん?」


 真樹の手が止まった。


 ほんのわずかな変化だったが、蓮は気づいた。


「当たり?」


「違う」


「じゃあ何で止まった?」


「お前がうざいから」


「それはいつもだろ」


「自覚あるなら黙れ」


 蓮は楽しそうだった。


「また会ったの?」


「……会った」


「何回?」


「何回でもいいだろ」


「数えられないくらい?」


「数日しか経ってねえよ」


「ちゃんと数えてるじゃん」


「……」


 真樹は黙った。


(こいつ、マジで面倒くさい)


 蓮は昔からこうだ。


 真樹が隠そうとするほど面白がる。


「で、どんな子?」


「前も聞いただろ」


「普通って言ってた」


「じゃあそれでいいだろ」


「でもノアがそこまで懐くんだろ?」


 蓮がノアへ視線を向ける。


「珍しいじゃん」


「まあな」


「お前も何回も会ってる」


「ノアが行きたがるから」


「へえ」


「何だよ」


「いや?」


 蓮が口元を緩める。


 真樹は嫌な予感がした。


「月曜も会うの?」


「……」


「その沈黙、分かりやすいな」


「会うって決まってるわけじゃない」


「でも?」


「同じくらいの時間に散歩するって言っただけ」


「誰が?」


「俺が」


「天野さんに?」


「……ああ」


 蓮は数秒黙った。


 そして、ゆっくり笑った。


「それ、約束じゃん」


「違う」


「何が違うんだよ」


「散歩の時間を言っただけ」


「相手も来るの?」


「多分」


「じゃあ約束だろ」


「ノアのためだ」


「はいはい」


「その返事やめろ」


「だって面白いんだもん」


「何が」


「真樹が自分から女の子に『この時間にここにいる』って教えてるの」


「……」


 言われてみれば。


 確かに、これまでならしなかった。


 そもそも必要がない。


 真樹は人と会うなら日時と場所を決めるし、用がなければ会わない。


 曖昧に「この辺にいる」と伝えるようなことはほとんどない。


「だからノアが――」


「分かった分かった。ノアな」


「絶対分かってないだろ」


「分かってるよ。全部ノアのため」


 蓮は笑っている。


 真樹は眉間を押さえた。


「……帰れ」


「だから来たばっかだって」


 その会話を聞いていたノアが身体を起こし、真樹の膝へ鼻先を押しつけた。


「何」


 尻尾が揺れる。


「お前まで何だよ」


 ノアは何も答えない。


 蓮が吹き出した。


「ノアも楽しみにしてるんじゃない?」


「……そうだろうな」


「お前は?」


「別に」


「即答」


「何か問題ある?」


「ないない」


 蓮は両手を上げた。


 しかし、その顔には明らかに「面白いものを見つけた」と書いてある。


 真樹はそれ以上相手にしなかった。


 ただ、タブレットへ視線を戻しても、さっきまで以上に課題の文章が頭へ入ってこなかった。


     ◇ ◇ ◇


 日曜日。


 ひよりは午前中から母と買い物へ出かけた。


 近所のスーパーマーケットで一週間分の食材を買い、帰りにドラッグストアへ寄る。特別な予定のない、ごく普通の休日だった。


「ひより、牛乳取ってくれる?」


「はーい」


 冷蔵棚から二本取り、カートへ入れる。


「あと卵」


「どれ?」


「いつもの」


「これ?」


「そう」


 由美が買い物メモを確認している横で、ひよりはカートを押した。


 日曜の昼前ということもあり、店内には家族連れが多い。小さな子供が菓子売り場へ走っていき、母親に呼び戻されている。


 ひよりは何となくその光景を見ていた。


 そのとき、ペット用品のコーナーが視界へ入った。


「……」


 足が止まる。


 犬用のおやつが並んでいる。


 ジャーキー。


 クッキー。


 小さなボーロ。


(ノア、何好きなんだろ)


 自然に思った。


「ひより?」


「え?」


 少し先へ進んでいた由美が振り返っている。


「どうしたの?」


「何でもない」


 ひよりは慌ててカートを押した。


 けれど数歩進んで、また振り返る。


「……お母さん」


「なに?」


「犬のおやつって、勝手にあげないほうがいいよね?」


「犬?」


「うん」


 由美は少し考える。


「飼い主さんに聞いてからのほうがいいんじゃない? アレルギーとか、食事制限があるかもしれないし」


「だよね」


「この前の迷子の子?」


「うん。ノア」


「また会ったの?」


「何回か」


「そうなの」


 由美が柔らかく笑う。


「ずいぶん気に入ったのね」


「かわいいんだよ。本当に大きいんだけど、すごく優しくて」


「飼い主さんとも会うの?」


「……うん」


 ひよりはカートの取っ手を握り直した。


「同い年くらいの男の子」


「そう」


 母の反応はそれだけだった。


 悠一ならここから質問が十個くらい飛んでくる。


 美月なら表情を読みながら、遠回しに色々聞いてくる。


 母は何も聞かない。


「……聞かないの?」


「何を?」


「その人のこと」


「ひよりが話したいなら聞くけど」


「……」


 美月と似たことを言う。


 やっぱり親子なのだろう。


「北条君っていうの」


 ひよりは自分から話し始めた。


「真樹君?」


「うん。北条真樹君」


 口にしてから、少し違和感があった。


 普段は「北条君」としか呼ばないからだ。


「私立の桜陵に通ってるんだって」


「桜陵?」


 由美が少し驚く。


「有名な学校ね」


「やっぱりお母さんも知ってる?」


「名前くらいはね」


「なんか、すごいお金持ちらしいよ」


「らしい?」


「本人が全然話さないから、詳しくは知らない」


 由美は娘の横顔を見た。


 ひよりは北条という名字の意味を知らないらしい。


 由美自身も北条家について詳しいわけではない。ただ、新聞やニュースで北条の名を見聞きした記憶はある。


 とはいえ、同じ名字だからといって、その少年がその家の人間だとは限らない。


 確証のないことを娘へ言う必要もないだろう。


「どんな子なの?」


「感じ悪い」


 即答だった。


 由美が笑う。


「そんな子と何回も話してるの?」


「でも、優しいところもあるんだよ」


「へえ」


「ノアのことすごく大事にしてるし、子供にもちゃんと優しいし。言い方がちょっと悪いだけで……あとすぐ『面倒くさい』とか言うけど」


 話しながら、ひよりの表情がころころ変わる。


 由美は黙って聞いていた。


「それでね、この前私がチョコ渡せなかったって話したら、笑わなかったの」


「その子に話したの?」


「うん。なんか流れで」


「そう」


「『事情知らないのに情けないとか決められないだろ』って」


「……優しい子ね」


「でしょ?」


 ひよりが嬉しそうに言ってから、少し止まった。


「……いや、私が褒めるのも変だけど」


「どうして?」


「まだそんなに知らないし」


「これから知るんじゃない?」


「え?」


 由美は棚から調味料を一つ取り、カートへ入れた。


「何度か会って話すなら、少しずつ分かるでしょ」


「……まあ、そうだけど」


 ひよりは少し考える。


 月曜日。


 また会う予定だ。


 ノアに。


 そして、真樹にも。


「お母さん」


「なに?」


「犬のおやつ、やっぱり買わない」


「そう?」


「北条君に何食べていいか聞いてからにする」


「それがいいわね」


 ひよりは頷いた。


(明日聞いてみよう)


 また一つ、月曜日に話すことができた。


     ◇ ◇ ◇


 月曜日。


 いつもなら少し憂鬱な週の始まりだった。


 けれど、この日のひよりは目覚ましが鳴るより五分早く目を覚ました。


「……」


 枕元の時計を見る。


 まだ起きる必要はない。


 目を閉じる。


 もう一度眠ろうとする。


 眠れない。


「……なんで」


 布団の中で眉を寄せる。


(別に今日、何かあるわけじゃないのに)


 学校がある。


 授業がある。


 放課後、いつもの道を帰る。


 そこでノアに会えるかもしれない。


 真樹にも。


「……ノアにね」


 小さく付け加える。


 自分でも妙な言い訳をしている気がした。


 それでも恋愛とは結びつかない。


 ひよりの中には、まだはっきりと颯太への気持ちがある。


 真樹と会いたいと思う気持ちは、それとは違う。


 友達。


 まだ友達と言っていいのかも分からないけれど、少なくとも話していて楽しい相手。


 そのくらいだ。


     ◇ ◇ ◇


 学校へ着くと、千夏がひよりの顔を見るなり笑った。


「おはよう」


「……何」


「まだ何も言ってないけど」


「顔が言ってる」


「今日は早いね」


「普通だよ」


「いつもより十分早い」


「たまたま」


「ふーん」


「何?」


「別に?」


 千夏がひよりの腕へ絡みつく。


「月曜日だね」


「そうだね」


「放課後楽しみ?」


「……普通」


「北条君みたいになってるよ」


「えっ」


 思わず反応してしまった。


 千夏が吹き出す。


「やっぱり気にしてるじゃん」


「違うって!」


「犬に会うだけなんでしょ?」


「そうだよ!」


「じゃあ何で北条君って言った瞬間そんな反応するの」


「千夏が変なこと言うから!」


 声が少し大きくなり、近くにいたクラスメイトがこちらを見る。


 ひよりは慌てて声を落とした。


「もう、学校で変なこと言わないで」


「はいはい」


 千夏は笑いながら腕を離した。


 そこへ海斗がやってくる。


「朝から何の話?」


「ひよりが――」


「何でもない!」


 ひよりが千夏の口を塞ぐ。


「むぐっ」


「……何してんの、お前ら」


「何でもないから!」


 海斗は怪訝そうな顔をしたものの、それ以上は聞かなかった。


「まあいいけど。天野、今日の現代文の課題やった?」


「……」


 ひよりの動きが止まる。


「その顔、やってないな」


「忘れてた……」


「月曜から何してんだよ」


「うそ、提出今日だっけ?」


「今日」


「千夏!」


「私も忘れた」


「仲間!」


「喜ぶなよ」


 海斗が呆れた。


 結局、朝のホームルームまでの時間は課題を仕上げることで消えた。


 いつも通りの学校生活。


 授業を受け、昼休みには千夏と弁当を食べる。


 そして午後。


 廊下を歩いていたひよりは、前方から来る颯太に気づいた。


「あ」


 胸が少し緊張する。


 颯太も気づいた。


「天野」


「佐伯君」


「今、移動教室?」


「うん。化学室」


「俺もそっち」


 自然な流れで並んで歩く。


 ひよりの胸が少し速くなる。


 やっぱり好きなのだと思う。


 隣を歩くだけで意識する。


「そういえばさ」


 颯太が言う。


「天野、去年の文化祭の写真持ってたよな?」


「え? うん」


「クラスのやつ」


「あると思うよ」


「今度送ってくれない? この前話してたら見たくなって」


「いいよ」


「ありがと」


 颯太が笑う。


 ひよりも笑った。


「探しておくね」


「頼む」


 化学室の近くで別れる。


「じゃあ」


「うん。またね」


 颯太が自分のクラスの友人のほうへ向かっていく。


 ひよりはその背中を見送った。


 胸の奥が温かい。


(やっぱり、ちゃんと伝えたいな)


 今度こそ。


 いつか。


 バレンタインのように逃げないで。


 その気持ちは変わっていない。


「ひより」


「わっ」


 後ろから千夏に肩を叩かれた。


「びっくりした!」


「佐伯と何話してたの?」


「去年の文化祭の写真送ってって」


「それだけ?」


「それだけ」


「ふーん」


「今度は何、その顔」


「別に。嬉しそうだなと思って」


「……うん」


 ひよりは素直に頷いた。


「嬉しかった」


 千夏は一瞬だけ目を細めた。


 ひよりの恋心は、まだ確かに颯太へ向いている。


 それを一番よく知っているのは千夏だった。


「そっか」


「うん」


「じゃ、化学室行こ」


 千夏はそれ以上何も言わず、ひよりの背中を押した。


     ◇ ◇ ◇


 放課後。


 校門を出たひよりは、いつもより少しだけ歩く速度が速かった。


 自分でも気づいている。


(早く着きすぎたら恥ずかしい)


 そう思って速度を落とす。


 数十秒後。


(遅れたらどうしよう)


 また速くなる。


「……何やってるんだろ」


 一人で苦笑する。


 約束といっても、きっちり時間を決めたわけではない。


「同じくらいの時間」。


 それだけだ。


 遅刻も何もない。


 住宅街へ入る。


 公園が近づく。


 胸が少し落ち着かない。


(ノア、いるかな)


 角を曲がる。


 公園が見えた。


 そして。


「……あ」


 いた。


 ベンチの近くに、大きな黒い犬。


 そのリードを持つ少年。


 真樹はスマートフォンを見ていた。


 ノアのほうが先にひよりへ気づく。


 立ち上がり、尻尾を大きく振った。


「ノア!」


 ひよりが呼ぶ。


 その声で真樹も顔を上げた。


 目が合う。


 ほんの少しだけ。


 真樹の表情が緩んだように見えた。


「……天野」


「北条君」


 ひよりは歩み寄る。


「待った?」


「別に」


「いつ来たの?」


「今」


 即答だった。


 ひよりがスマートフォンを見る。


「私、いつもよりちょっと早いんだけど」


「……」


「北条君」


「何」


「待ってた?」


「待ってない」


「本当に?」


「ノアが早く来たがっただけ」


 真樹は平然と答える。


 その足元で、ノアがひよりへ身体を寄せる。


「ノア、そうなの?」


 ひよりがしゃがむ。


 ノアは嬉しそうに尻尾を振るだけだった。


「ふふっ。会いたかったよ」


 首元を撫でる。


 真樹はその様子を見ながら、ポケットへスマートフォンをしまった。


 実際には十五分ほど前からいた。


 もちろん、ひよりに言うつもりはない。


(ノアが早く出たがったのは本当だし)


 ただし、公園まで来てから「まだか」と何度も時間を確認していたのは真樹のほうだった。


「そうだ」


 ひよりが顔を上げる。


「北条君、聞きたいことあるんだけど」


「何」


「ノアって、何のおやつなら食べていい?」


「おやつ?」


「うん。昨日お母さんと買い物してたら犬のおやつ見つけて」


「……」


「勝手にあげるのはダメだと思って、買わなかったんだけど」


 真樹は少しだけ驚いた。


「ノアに買おうとしたの?」


「うん」


「なんで」


「友達だから」


 迷いのない答えだった。


 ひよりはノアの頬を撫でる。


「会うなら何かあげたいなって。でもアレルギーとかあったら困るでしょ?」


「……ない」


「アレルギー?」


「ああ。食べちゃいけないものは普通にあるけど、市販の犬用なら大体平気」


「本当?」


「ただ、あんまり多くはやるな」


「分かった」


 ひよりが嬉しそうに頷く。


「じゃあ今度買ってくる」


「別に買わなくていいぞ」


「なんで?」


「家にあるから」


「それは北条君からもらうやつでしょ」


「……」


「私は私でノアにあげたいの」


 真樹は返事に困った。


 ノアがひよりを好きになる理由が、少し分かった気がした。


 ひよりはノアを「北条真樹の犬」としてではなく、一頭の相手として見ている。


 迷子になっていたときもそうだった。


 何か見返りがあるわけでもないのに、一緒にいてくれた。


「……好きにすれば」


「うん。そうする」


「聞いた意味ないだろ」


「食べていいか確認したから意味あるよ」


 ひよりが笑う。


 そのとき、公園の入口から小学生くらいの女の子が母親と一緒に入ってきた。


 以前ノアを撫でたことがある子だったらしく、ノアを見ると表情を明るくした。


「あ、ノアだ!」


 女の子が近づいてくる。


 真樹が軽く手を上げる。


「走るとびっくりするから、ゆっくり」


「あ、ごめんなさい」


 女の子は素直に歩調を落とした。


 母親も少し離れた場所から「ちゃんと聞いてから触るのよ」と声をかける。


「触っていい?」


「いいよ」


 真樹が答える。


 女の子がノアの頭を撫で始める。


 そして、ひよりを見る。


「お姉ちゃんもまたいる」


「覚えてたの?」


「うん」


 女の子が笑う。


 ひよりも笑い返した。


「こんにちは」


「こんにちは」


 その母親も近づき、真樹とひよりへ軽く会釈した。


「この前もありがとうございました。娘が帰ってからずっとノア君の話をしていて」


「いえ」


 真樹が短く答える。


「お二人、よくここにいらっしゃるんですね」


「え」


 ひよりと真樹の声がわずかに重なった。


 母親は気にせず続ける。


「ノア君も、お姉ちゃんがいると嬉しそう」


「そ、そうなんです」


 ひよりはノアを見る。


「私もノアが好きで」


「素敵ですね」


 母親は微笑んだ。


 その視線が一瞬だけ、ひよりと真樹の間を往復する。


「仲がいいんですね」


「えっ」


「……」


 ひよりは固まった。


 真樹も黙る。


 母親は二人の反応に気づかず、娘へ「そろそろ行くよ」と声をかけた。


「ノア、ばいばい!」


 女の子が手を振る。


 ひよりも反射的に手を振り返した。


「ばいばい」


 親子が公園の奥へ歩いていく。


 残された二人の間に、少し妙な沈黙が落ちた。


「……」


「……」


 先に口を開いたのはひよりだった。


「仲いいって」


「言ってたな」


「私たちが?」


「他に誰がいるんだよ」


「……」


 ひよりは困った。


 仲がいい。


 そう言われると、どうなのだろう。


 まだ知り合って数日。


 でも何度も会っている。


 話せば言い合いになる。


 それでも嫌ではない。


「北条君」


「何」


「私たちって、友達?」


 真樹がひよりを見る。


「……急に何」


「いや、ちょっと気になって」


「知らない」


「そういうときまでそれ?」


「じゃあお前はどう思ってんの」


「私?」


 今度はひよりが困る番だった。


 ノアなら迷わず友達と言える。


 真樹は。


「……知り合い?」


「じゃあそれでいいだろ」


「でも、何回も話してるし」


「だから?」


「友達に近い知り合い?」


「細かいな」


「気になるじゃん」


「俺は別に」


「北条君、友達少なそう」


「喧嘩売ってんの?」


「だって!」


 ひよりが笑う。


「すぐ『知らない』とか『別に』って言うし」


「実際、どうでもいいから」


「ひどい!」


「でも」


 真樹はそこで一度言葉を止めた。


 ひよりがこちらを見ている。


「……嫌なら、こんな何回も話してない」


「え?」


「だから」


 真樹は視線を逸らす。


「少なくとも、嫌いではない」


 ひよりは目を瞬いた。


 真樹らしい言い方だった。


 友達だとは言わない。


 仲がいいとも言わない。


 でも、嫌いではない。


「……そっか」


 なぜだろう。


 少し嬉しかった。


「私も」


「何が」


「北条君のこと、嫌いじゃないよ」


「……」


「最初は感じ悪いと思ったけど」


「最後の一言で全部台無しだろ」


「今はそんなに思ってない」


「そんなに?」


「ちょっとだけ」


「まだ思ってんじゃねえか」


 ひよりが声を上げて笑った。


 真樹も呆れたように息を吐きながら、ほんの少しだけ口元を緩める。


 その間で、ノアだけが最初から分かっていたような顔をしていた。


     ◇ ◇ ◇


 公園を出るころには、夕方の空が薄い橙色へ染まっていた。


 冷たい風が住宅街を抜け、ひよりはマフラーを少し上げる。


「じゃあ、帰るね」


「ああ」


「ノア、またね」


 ひよりが頭を撫でる。


 ノアは名残惜しそうに鼻先を手へ押しつけた。


「次はおやつ持ってくるから」


「忘れても別にいいからな」


「忘れません」


「どうだか」


「失礼な」


 ひよりは立ち上がる。


「北条君も、またね」


「ああ」


 一歩進んでから、ひよりは止まった。


「……あのさ」


「何」


「次って、いつ?」


 聞いてしまった。


 口にした直後、少し恥ずかしくなる。


「いや、ノアにおやつ持ってくるから!」


 慌てて理由を付け足す。


「いつ会えるか分からないと困るし」


「……」


「何?」


「別に」


 真樹は少しだけ考えた。


「明日も同じくらい」


「明日?」


「ああ」


「分かった」


 ひよりの顔が明るくなる。


「じゃあ明日」


「……ああ」


「今度こそ帰るね」


 ひよりが手を振り、歩き出す。


 真樹はその背中を見送った。


 昨日までなら。


 次に会えるかどうかは偶然だった。


 今日は月曜日に会うと分かっていた。


 そして今は、明日も会うと分かっている。


(……これ、毎日会う流れになってないか?)


 気づいた。


 けれど。


 嫌ではなかった。


 むしろ、明日の放課後に予定ができたことへ、少しだけ安心している自分がいる。


「……」


 真樹は眉を寄せた。


「ノア」


 呼ぶ。


 ノアが見上げる。


「明日も来るぞ」


 尻尾が揺れる。


「お前のおやつ持ってくるらしいから」


 さらに尻尾が揺れた。


「よかったな」


 真樹はノアの頭を撫でた。


 そして歩き始める。


 ひよりが帰っていった方向を、もう一度見ることはしなかった。


 見なくても。


 明日、また会えると分かっていたから。


     ◇ ◇ ◇


 その夜。


「お母さん」


 夕食後、ひよりはキッチンで食器を片づけている由美へ声をかけた。


「なに?」


「昨日見てた犬のおやつ、明日買って帰っていい?」


「飼い主さんに聞けたの?」


「うん。市販の犬用なら大体大丈夫だって。でもあげすぎはダメ」


「じゃあ少ない袋にしたら?」


「そうする」


 ひよりは満足して頷いた。


 その様子をダイニングテーブルから美月が見ていた。


「犬のおやつ?」


「ノアの」


「この前の?」


「うん」


「また会ったんだ」


「今日もね」


 美月が箸を置く。


「今日も?」


「……」


 ひよりはしまったという顔をした。


 リビングでテレビを見ていた悠一の頭が動く。


「今日もって何だ?」


「何でもない!」


「ひより?」


「お兄ちゃんはテレビ見てて!」


「犬の飼い主って男だったよな?」


「だから何!」


「何歳だ?」


「知らない!」


「前も同じこと言ってなかったか?」


「もう!」


 ひよりは逃げるようにキッチンを出た。


 階段へ向かう。


「ひより!」


「ついてきたら本気で嫌いになる!」


 悠一の足が止まる。


「……それは困る」


「本当に止まった」


 美月の呆れた声が聞こえた。


 ひよりは二階へ上がり、自室の扉を閉めた。


「まったく……」


 ベッドへ腰を下ろす。


 スマートフォンを取り出す。


 明日は学校が終わったら、犬用のおやつを買う。


 それから公園へ行く。


 ノアに会う。


 真樹にも会う。


「……」


 今日、公園で交わした会話を思い出した。


『少なくとも、嫌いではない』


 あの言葉。


「何、それ」


 改めて考えると、かなり変な言い方だ。


 普通なら「友達でいいんじゃない」とでも言えばいい。


 でも、真樹らしい気もする。


(私も嫌いじゃない)


 それどころか。


 話すのは楽しい。


 ノアがいなくても、少しくらいなら話していたいと思える程度には。


 そこまで考えて、ひよりは白いリボンの箱へ目を向けた。


 昨日、ようやく開けた。


 家族で少しずつ食べ、残りはあと数枚だけになっている。


 佐伯颯太へ渡すはずだったクッキー。


 今日、学校で颯太と話したときは嬉しかった。


 隣を歩いて胸が高鳴った。


 その気持ちは本物だ。


(私は佐伯君が好き)


 そこは変わっていない。


 だから、真樹と会うのが楽しみなのは別の感情なのだろう。


 新しくできた友達。


 まだそう呼んでいいか分からないけれど。


「友達に近い知り合い……かな」


 自分で言って、少し笑った。


 スマートフォンが震える。


 千夏からだった。


『黒犬には会えましたか?』


 ひよりは少し考え、返信する。


『会えたよ』


 すぐに返ってくる。


『飼い主にも?』


『いたよ』


『楽しかった?』


 指が止まる。


 嘘をつく理由もない。


『うん』


 送信。


『そっか』


 それだけだった。


 からかわれると思っていたので、少し意外だった。


『何?』


『何もないよ』


『怪しい』


『ひよりが楽しそうならいいの』


「……何それ」


 ひよりは笑った。


『ありがと』


『でも親友一号は私です』


『一号って何』


『永久欠番』


『意味分かんない』


 千夏らしい。


 ひよりはベッドへ横になる。


 明日は火曜日。


 いつもなら、ただの平日。


 それなのに今は、放課後に小さな楽しみがある。


 まだ恋ではない。


 少なくとも、ひよりはそう思っている。


 ただ、学校へ行って、授業を受けて、家へ帰る。


 そんな変わらない毎日の途中に、黒い大きな犬と、少し感じの悪い少年が待つ時間ができた。


 それだけで。


 明日がほんの少し、待ち遠しかった。

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