第6話 月曜日が少しだけ待ち遠しい
土曜日の朝、天野ひよりは自室のベッドで目を覚ましたあと、枕元のスマートフォンへ手を伸ばした。
時刻は八時十二分。学校のある日なら慌てて支度をしている時間だが、今日は休みなので急ぐ必要はない。暖かな布団から出る理由を見つけられず、ひよりは横向きになったまま画面を眺めた。
通知はいくつか届いている。
クラスのグループ。
学校からの連絡。
そして千夏から、昨夜遅くに送られてきたメッセージ。
『月曜日、例の黒犬に会うんだっけ?』
「……なんで覚えてるの」
眠気の残る声で呟きながら、ひよりは返信欄を開いた。
『会うっていうか、たぶん会えるだけ』
送信すると、休日の朝だというのに数秒で既読がついた。
「起きてるんだ……」
『同じ時間に散歩するって言われたんでしょ?』
『ノアが私に会いたがるからね』
『はいはい、ノアがね』
『何その言い方』
『別にー』
絶対に何か含んでいる。
ひよりは眉を寄せたまま、布団の中で返信を打った。
『北条君とは何もないから』
『私まだ北条君の話してないけど』
「……あ」
送ってから気づいた。
取り消したい。
しかし、すでに既読になっている。
『ひよりさん?』
『おやすみ』
『逃げるな』
『二度寝します』
『待て』
スマートフォンを伏せた。
そのまま枕へ顔を埋める。
「もう……」
頬が少し熱い。
(本当に何もないのに)
北条真樹とは、まだ知り合って数日しか経っていない。
最初に会ったのはバレンタインの日。
それから何度か偶然会って、少し話しただけだ。
確かに月曜日は、同じくらいの時間に公園付近を通ると互いに言った。
でも、それはノアがひよりに会いたがっているからである。
(私もノアに会いたいし)
それだけ。
そう結論づけたところで、ひよりはもう一度目を閉じた。
ところが眠れない。
しばらく布団の中でもぞもぞしたあと、諦めて身体を起こした。カーテンを開けると、休日らしい静かな住宅街へ柔らかな冬の日差しが落ちている。
今日は土曜日。
明日は日曜日。
その次が月曜日。
「……二日か」
無意識に呟いてから、ひよりは固まった。
(私、今数えた?)
何を。
月曜日までの日数を。
「違うから」
誰もいない部屋で否定する。
「学校があるから確認しただけ」
苦しい。
自分でも分かるくらい苦しい言い訳だった。
◇ ◇ ◇
「ひよりー。起きてる?」
部屋の外から声がした。
「起きてるよ」
「入るね」
返事を待っていたのかいなかったのか、美月が扉を開ける。
部屋着姿の姉は片手にマグカップを持っていた。
「おはよう」
「おはよ。何?」
「別に。起きてるかなと思って」
「それだけ?」
「それだけ」
美月はそう答えながら、当然のように部屋へ入ってきた。
ひよりは疑いの目を向ける。
「何、その顔」
「お姉ちゃんが本当に用事なく私の部屋に来るかなって」
「来るでしょ。妹の部屋なんだから」
「普通は勝手に来ないと思う」
「ノックした」
「返事とほぼ同時に開けたよね?」
「気のせい」
美月は平然と答え、机の横に置かれた椅子へ腰を下ろした。
視線が机の上へ向かう。
そこには、まだ白いリボンの箱が置かれていた。
「それ、まだ食べてないの?」
「……うん」
「傷むよ」
「クッキーだからまだ大丈夫」
「そういう問題?」
ひよりも分かっている。
いつまでも置いておくものではない。
渡せなかったものを眺め続けたところで、時間が戻るわけでもない。
「今日食べる」
「一人で?」
「家族にもあげる」
「悠一には?」
「……一個」
「少な」
「だって絶対うるさいもん。『本当は誰に渡すつもりだったんだ』とか聞くから」
「聞くだろうね」
「お姉ちゃんもでしょ」
「私は聞かない」
美月がマグカップへ口をつける。
「ひよりが話したくなったら聞くだけ」
「……昨日まで結構聞いてたよね?」
「記憶にないなぁ」
「便利だね、その記憶」
ひよりが呆れると、美月は小さく笑った。
しばらく穏やかな沈黙が流れる。
窓の外から、近所を走る車の音が聞こえた。
「ねえ、ひより」
「ん?」
「最近、何かあった?」
ひよりは顔を上げた。
「何かって?」
「そのまま」
「……別に」
「そう」
美月は追及しない。
それが逆に気になった。
「なんで?」
「ちょっと雰囲気変わったから」
「私が?」
「うん」
「どこが?」
「それはまだ分かんない」
「何それ」
「だから聞いたの」
美月は笑っている。
けれど、その目は妹をよく見ていた。
美月からすれば、大きな変化ではなかった。
ひよりは元々よく笑う。
家でも学校でも、明るく振る舞うことが多い。
けれど妹を長く見てきた美月には、その笑顔にも種類があることが分かる。
相手に心配させないための笑顔。
場を悪くしないための笑顔。
本当に楽しいときの笑顔。
ここ数日のひよりには、三つ目が少し増えている気がした。
バレンタインにクッキーを持ち帰った夜は、明らかに落ち込んでいた。
なのに、その翌日から妙に機嫌のいい時間がある。
「好きな人と何かあった?」
「ない!」
返事が早かった。
「……そう」
「本当にないよ。佐伯君とは何も」
そこまで言って、ひよりは口を閉じた。
美月の眉がわずかに動く。
「私、佐伯君って言った?」
「……」
「好きな人、としか言ってないけど」
「お姉ちゃん!」
「なるほど。佐伯君ね」
「忘れて!」
「無理」
「もう!」
ひよりは枕を掴んで姉へ投げた。
美月は片手で受け止める。
「危ないなぁ」
「誰のせい!」
「でも、佐伯君とは何もないんだ?」
「……ない」
今度の返事は小さかった。
美月はそれ以上笑わなかった。
「そっか」
柔らかな声だった。
ひよりは膝を抱える。
「渡せなかっただけ」
「うん」
「別に振られたわけでもないし」
「うん」
「だから……次はちゃんとしたいなって思ってる」
美月は少しだけ目を細めた。
「いいんじゃない?」
「笑わない?」
「笑う理由ないでしょ」
真樹にも同じことを言われた。
『なんで笑うんだよ』
その声が自然に思い出される。
ひよりは自分でも気づかないうちに、ほんの少し笑った。
美月はそれを見逃さなかった。
「……ひより?」
「え?」
「今、何考えた?」
「何も!」
「嘘」
「本当に何も!」
美月の目が細くなる。
「佐伯君のこと考えて、その顔になった?」
「……」
答えられなかった。
正直に言えば違う。
今思い浮かべていたのは真樹だった。
けれど、なぜそれを姉に言う必要があるのだろう。
「お姉ちゃん、朝ご飯まだでしょ」
「話逸らしたね」
「お腹空いた!」
「はいはい」
美月は立ち上がった。
扉の前まで行ってから、振り返る。
「ひより」
「なに?」
「何かあったら言ってね」
「……うん」
「悠一には言わなくていいから」
「そこは同意する」
「聞こえてるぞ!」
廊下から声が飛んできた。
姉妹は顔を見合わせる。
「盗み聞き?」
「してない! 今通っただけだ!」
「怪しい」
「美月まで疑うな!」
朝から騒がしい。
それでも、ひよりは笑った。
◇ ◇ ◇
同じ土曜日。
北条家の敷地内では、ノアが芝生の上をゆっくり歩いていた。
広い庭の端には冬でも葉を落とさない常緑樹が並び、手入れされた植え込みの向こうには大きな屋敷が建っている。住宅街の中にありながら、塀の内側だけは外の喧騒から切り離されたように静かだった。
真樹はテラスの椅子へ座り、膝の上のタブレットを眺めていた。
学校から出された課題である。
進んでいない。
文章を読んではいる。
意味も理解している。
それなのに、しばらくすると意識が別のところへ向かってしまう。
「……」
真樹はタブレットを伏せた。
庭ではノアが何かの匂いを嗅いでいる。
「ノア」
呼ぶと、顔を上げた。
「こっち」
ノアがゆっくり近づいてくる。
真樹の横へ来ると、そのまま身体を伏せた。
「……お前、月曜もあっち行くのか?」
ノアの耳が動く。
「天野のいるほう」
今度は顔を上げた。
「分かりやすいな、お前」
頭を撫でる。
ノアは気持ちよさそうに目を細めた。
月曜日。
自分から言った。
『多分、同じくらいの時間に散歩する』
思い返すと妙なことを言った気がする。
散歩の時間など、わざわざ伝える必要はなかった。
(ノアが会いたがってるからだろ)
理由はそれで説明できる。
実際、ノアはひよりを気に入っている。
それなら会わせてやるくらい構わない。
「俺は別に関係ないし」
声に出したところで、
「何が関係ないんだ?」
背後から声がした。
真樹は振り返る。
「……なんでいるんだよ」
「ひどくない?」
神崎蓮がテラスへ続く扉の前に立っていた。
休日らしいラフな服装で、片手をポケットへ入れている。
「連絡しただろ」
「見てない」
「既読ついてたけど?」
「……忘れた」
「便利だな」
蓮は勝手知ったる様子でテラスへ出てくると、真樹の向かいへ腰を下ろした。
北条家へ来るのは初めてではない。
ノアも警戒せず、蓮を一度見ただけで再び顎を前脚へ乗せた。
「課題?」
「ああ」
「終わった?」
「まだ」
「珍しいな。お前、こういうのさっさと終わらせるだろ」
「やる気出ない」
「へえ」
蓮が面白そうに真樹を見る。
「何」
「いや、珍しいこと続くなと思って」
「何が」
「最近のお前」
「意味分かんねえ」
「俺は結構分かるけど」
「帰れ」
「来たばっかりなんだけど」
蓮が笑う。
真樹は相手にするのをやめ、タブレットへ手を伸ばした。
「それで?」
「何」
「さっき何が関係ないって言ってた?」
「聞き間違い」
「俺、耳いいんだよね」
「知らない」
「ノアに話しかけてたよな?」
「普通だろ」
「まあ、お前は昔からノアにはよく喋るけど」
蓮はノアを見る。
「もしかして、天野さん?」
真樹の手が止まった。
ほんのわずかな変化だったが、蓮は気づいた。
「当たり?」
「違う」
「じゃあ何で止まった?」
「お前がうざいから」
「それはいつもだろ」
「自覚あるなら黙れ」
蓮は楽しそうだった。
「また会ったの?」
「……会った」
「何回?」
「何回でもいいだろ」
「数えられないくらい?」
「数日しか経ってねえよ」
「ちゃんと数えてるじゃん」
「……」
真樹は黙った。
(こいつ、マジで面倒くさい)
蓮は昔からこうだ。
真樹が隠そうとするほど面白がる。
「で、どんな子?」
「前も聞いただろ」
「普通って言ってた」
「じゃあそれでいいだろ」
「でもノアがそこまで懐くんだろ?」
蓮がノアへ視線を向ける。
「珍しいじゃん」
「まあな」
「お前も何回も会ってる」
「ノアが行きたがるから」
「へえ」
「何だよ」
「いや?」
蓮が口元を緩める。
真樹は嫌な予感がした。
「月曜も会うの?」
「……」
「その沈黙、分かりやすいな」
「会うって決まってるわけじゃない」
「でも?」
「同じくらいの時間に散歩するって言っただけ」
「誰が?」
「俺が」
「天野さんに?」
「……ああ」
蓮は数秒黙った。
そして、ゆっくり笑った。
「それ、約束じゃん」
「違う」
「何が違うんだよ」
「散歩の時間を言っただけ」
「相手も来るの?」
「多分」
「じゃあ約束だろ」
「ノアのためだ」
「はいはい」
「その返事やめろ」
「だって面白いんだもん」
「何が」
「真樹が自分から女の子に『この時間にここにいる』って教えてるの」
「……」
言われてみれば。
確かに、これまでならしなかった。
そもそも必要がない。
真樹は人と会うなら日時と場所を決めるし、用がなければ会わない。
曖昧に「この辺にいる」と伝えるようなことはほとんどない。
「だからノアが――」
「分かった分かった。ノアな」
「絶対分かってないだろ」
「分かってるよ。全部ノアのため」
蓮は笑っている。
真樹は眉間を押さえた。
「……帰れ」
「だから来たばっかだって」
その会話を聞いていたノアが身体を起こし、真樹の膝へ鼻先を押しつけた。
「何」
尻尾が揺れる。
「お前まで何だよ」
ノアは何も答えない。
蓮が吹き出した。
「ノアも楽しみにしてるんじゃない?」
「……そうだろうな」
「お前は?」
「別に」
「即答」
「何か問題ある?」
「ないない」
蓮は両手を上げた。
しかし、その顔には明らかに「面白いものを見つけた」と書いてある。
真樹はそれ以上相手にしなかった。
ただ、タブレットへ視線を戻しても、さっきまで以上に課題の文章が頭へ入ってこなかった。
◇ ◇ ◇
日曜日。
ひよりは午前中から母と買い物へ出かけた。
近所のスーパーマーケットで一週間分の食材を買い、帰りにドラッグストアへ寄る。特別な予定のない、ごく普通の休日だった。
「ひより、牛乳取ってくれる?」
「はーい」
冷蔵棚から二本取り、カートへ入れる。
「あと卵」
「どれ?」
「いつもの」
「これ?」
「そう」
由美が買い物メモを確認している横で、ひよりはカートを押した。
日曜の昼前ということもあり、店内には家族連れが多い。小さな子供が菓子売り場へ走っていき、母親に呼び戻されている。
ひよりは何となくその光景を見ていた。
そのとき、ペット用品のコーナーが視界へ入った。
「……」
足が止まる。
犬用のおやつが並んでいる。
ジャーキー。
クッキー。
小さなボーロ。
(ノア、何好きなんだろ)
自然に思った。
「ひより?」
「え?」
少し先へ進んでいた由美が振り返っている。
「どうしたの?」
「何でもない」
ひよりは慌ててカートを押した。
けれど数歩進んで、また振り返る。
「……お母さん」
「なに?」
「犬のおやつって、勝手にあげないほうがいいよね?」
「犬?」
「うん」
由美は少し考える。
「飼い主さんに聞いてからのほうがいいんじゃない? アレルギーとか、食事制限があるかもしれないし」
「だよね」
「この前の迷子の子?」
「うん。ノア」
「また会ったの?」
「何回か」
「そうなの」
由美が柔らかく笑う。
「ずいぶん気に入ったのね」
「かわいいんだよ。本当に大きいんだけど、すごく優しくて」
「飼い主さんとも会うの?」
「……うん」
ひよりはカートの取っ手を握り直した。
「同い年くらいの男の子」
「そう」
母の反応はそれだけだった。
悠一ならここから質問が十個くらい飛んでくる。
美月なら表情を読みながら、遠回しに色々聞いてくる。
母は何も聞かない。
「……聞かないの?」
「何を?」
「その人のこと」
「ひよりが話したいなら聞くけど」
「……」
美月と似たことを言う。
やっぱり親子なのだろう。
「北条君っていうの」
ひよりは自分から話し始めた。
「真樹君?」
「うん。北条真樹君」
口にしてから、少し違和感があった。
普段は「北条君」としか呼ばないからだ。
「私立の桜陵に通ってるんだって」
「桜陵?」
由美が少し驚く。
「有名な学校ね」
「やっぱりお母さんも知ってる?」
「名前くらいはね」
「なんか、すごいお金持ちらしいよ」
「らしい?」
「本人が全然話さないから、詳しくは知らない」
由美は娘の横顔を見た。
ひよりは北条という名字の意味を知らないらしい。
由美自身も北条家について詳しいわけではない。ただ、新聞やニュースで北条の名を見聞きした記憶はある。
とはいえ、同じ名字だからといって、その少年がその家の人間だとは限らない。
確証のないことを娘へ言う必要もないだろう。
「どんな子なの?」
「感じ悪い」
即答だった。
由美が笑う。
「そんな子と何回も話してるの?」
「でも、優しいところもあるんだよ」
「へえ」
「ノアのことすごく大事にしてるし、子供にもちゃんと優しいし。言い方がちょっと悪いだけで……あとすぐ『面倒くさい』とか言うけど」
話しながら、ひよりの表情がころころ変わる。
由美は黙って聞いていた。
「それでね、この前私がチョコ渡せなかったって話したら、笑わなかったの」
「その子に話したの?」
「うん。なんか流れで」
「そう」
「『事情知らないのに情けないとか決められないだろ』って」
「……優しい子ね」
「でしょ?」
ひよりが嬉しそうに言ってから、少し止まった。
「……いや、私が褒めるのも変だけど」
「どうして?」
「まだそんなに知らないし」
「これから知るんじゃない?」
「え?」
由美は棚から調味料を一つ取り、カートへ入れた。
「何度か会って話すなら、少しずつ分かるでしょ」
「……まあ、そうだけど」
ひよりは少し考える。
月曜日。
また会う予定だ。
ノアに。
そして、真樹にも。
「お母さん」
「なに?」
「犬のおやつ、やっぱり買わない」
「そう?」
「北条君に何食べていいか聞いてからにする」
「それがいいわね」
ひよりは頷いた。
(明日聞いてみよう)
また一つ、月曜日に話すことができた。
◇ ◇ ◇
月曜日。
いつもなら少し憂鬱な週の始まりだった。
けれど、この日のひよりは目覚ましが鳴るより五分早く目を覚ました。
「……」
枕元の時計を見る。
まだ起きる必要はない。
目を閉じる。
もう一度眠ろうとする。
眠れない。
「……なんで」
布団の中で眉を寄せる。
(別に今日、何かあるわけじゃないのに)
学校がある。
授業がある。
放課後、いつもの道を帰る。
そこでノアに会えるかもしれない。
真樹にも。
「……ノアにね」
小さく付け加える。
自分でも妙な言い訳をしている気がした。
それでも恋愛とは結びつかない。
ひよりの中には、まだはっきりと颯太への気持ちがある。
真樹と会いたいと思う気持ちは、それとは違う。
友達。
まだ友達と言っていいのかも分からないけれど、少なくとも話していて楽しい相手。
そのくらいだ。
◇ ◇ ◇
学校へ着くと、千夏がひよりの顔を見るなり笑った。
「おはよう」
「……何」
「まだ何も言ってないけど」
「顔が言ってる」
「今日は早いね」
「普通だよ」
「いつもより十分早い」
「たまたま」
「ふーん」
「何?」
「別に?」
千夏がひよりの腕へ絡みつく。
「月曜日だね」
「そうだね」
「放課後楽しみ?」
「……普通」
「北条君みたいになってるよ」
「えっ」
思わず反応してしまった。
千夏が吹き出す。
「やっぱり気にしてるじゃん」
「違うって!」
「犬に会うだけなんでしょ?」
「そうだよ!」
「じゃあ何で北条君って言った瞬間そんな反応するの」
「千夏が変なこと言うから!」
声が少し大きくなり、近くにいたクラスメイトがこちらを見る。
ひよりは慌てて声を落とした。
「もう、学校で変なこと言わないで」
「はいはい」
千夏は笑いながら腕を離した。
そこへ海斗がやってくる。
「朝から何の話?」
「ひよりが――」
「何でもない!」
ひよりが千夏の口を塞ぐ。
「むぐっ」
「……何してんの、お前ら」
「何でもないから!」
海斗は怪訝そうな顔をしたものの、それ以上は聞かなかった。
「まあいいけど。天野、今日の現代文の課題やった?」
「……」
ひよりの動きが止まる。
「その顔、やってないな」
「忘れてた……」
「月曜から何してんだよ」
「うそ、提出今日だっけ?」
「今日」
「千夏!」
「私も忘れた」
「仲間!」
「喜ぶなよ」
海斗が呆れた。
結局、朝のホームルームまでの時間は課題を仕上げることで消えた。
いつも通りの学校生活。
授業を受け、昼休みには千夏と弁当を食べる。
そして午後。
廊下を歩いていたひよりは、前方から来る颯太に気づいた。
「あ」
胸が少し緊張する。
颯太も気づいた。
「天野」
「佐伯君」
「今、移動教室?」
「うん。化学室」
「俺もそっち」
自然な流れで並んで歩く。
ひよりの胸が少し速くなる。
やっぱり好きなのだと思う。
隣を歩くだけで意識する。
「そういえばさ」
颯太が言う。
「天野、去年の文化祭の写真持ってたよな?」
「え? うん」
「クラスのやつ」
「あると思うよ」
「今度送ってくれない? この前話してたら見たくなって」
「いいよ」
「ありがと」
颯太が笑う。
ひよりも笑った。
「探しておくね」
「頼む」
化学室の近くで別れる。
「じゃあ」
「うん。またね」
颯太が自分のクラスの友人のほうへ向かっていく。
ひよりはその背中を見送った。
胸の奥が温かい。
(やっぱり、ちゃんと伝えたいな)
今度こそ。
いつか。
バレンタインのように逃げないで。
その気持ちは変わっていない。
「ひより」
「わっ」
後ろから千夏に肩を叩かれた。
「びっくりした!」
「佐伯と何話してたの?」
「去年の文化祭の写真送ってって」
「それだけ?」
「それだけ」
「ふーん」
「今度は何、その顔」
「別に。嬉しそうだなと思って」
「……うん」
ひよりは素直に頷いた。
「嬉しかった」
千夏は一瞬だけ目を細めた。
ひよりの恋心は、まだ確かに颯太へ向いている。
それを一番よく知っているのは千夏だった。
「そっか」
「うん」
「じゃ、化学室行こ」
千夏はそれ以上何も言わず、ひよりの背中を押した。
◇ ◇ ◇
放課後。
校門を出たひよりは、いつもより少しだけ歩く速度が速かった。
自分でも気づいている。
(早く着きすぎたら恥ずかしい)
そう思って速度を落とす。
数十秒後。
(遅れたらどうしよう)
また速くなる。
「……何やってるんだろ」
一人で苦笑する。
約束といっても、きっちり時間を決めたわけではない。
「同じくらいの時間」。
それだけだ。
遅刻も何もない。
住宅街へ入る。
公園が近づく。
胸が少し落ち着かない。
(ノア、いるかな)
角を曲がる。
公園が見えた。
そして。
「……あ」
いた。
ベンチの近くに、大きな黒い犬。
そのリードを持つ少年。
真樹はスマートフォンを見ていた。
ノアのほうが先にひよりへ気づく。
立ち上がり、尻尾を大きく振った。
「ノア!」
ひよりが呼ぶ。
その声で真樹も顔を上げた。
目が合う。
ほんの少しだけ。
真樹の表情が緩んだように見えた。
「……天野」
「北条君」
ひよりは歩み寄る。
「待った?」
「別に」
「いつ来たの?」
「今」
即答だった。
ひよりがスマートフォンを見る。
「私、いつもよりちょっと早いんだけど」
「……」
「北条君」
「何」
「待ってた?」
「待ってない」
「本当に?」
「ノアが早く来たがっただけ」
真樹は平然と答える。
その足元で、ノアがひよりへ身体を寄せる。
「ノア、そうなの?」
ひよりがしゃがむ。
ノアは嬉しそうに尻尾を振るだけだった。
「ふふっ。会いたかったよ」
首元を撫でる。
真樹はその様子を見ながら、ポケットへスマートフォンをしまった。
実際には十五分ほど前からいた。
もちろん、ひよりに言うつもりはない。
(ノアが早く出たがったのは本当だし)
ただし、公園まで来てから「まだか」と何度も時間を確認していたのは真樹のほうだった。
「そうだ」
ひよりが顔を上げる。
「北条君、聞きたいことあるんだけど」
「何」
「ノアって、何のおやつなら食べていい?」
「おやつ?」
「うん。昨日お母さんと買い物してたら犬のおやつ見つけて」
「……」
「勝手にあげるのはダメだと思って、買わなかったんだけど」
真樹は少しだけ驚いた。
「ノアに買おうとしたの?」
「うん」
「なんで」
「友達だから」
迷いのない答えだった。
ひよりはノアの頬を撫でる。
「会うなら何かあげたいなって。でもアレルギーとかあったら困るでしょ?」
「……ない」
「アレルギー?」
「ああ。食べちゃいけないものは普通にあるけど、市販の犬用なら大体平気」
「本当?」
「ただ、あんまり多くはやるな」
「分かった」
ひよりが嬉しそうに頷く。
「じゃあ今度買ってくる」
「別に買わなくていいぞ」
「なんで?」
「家にあるから」
「それは北条君からもらうやつでしょ」
「……」
「私は私でノアにあげたいの」
真樹は返事に困った。
ノアがひよりを好きになる理由が、少し分かった気がした。
ひよりはノアを「北条真樹の犬」としてではなく、一頭の相手として見ている。
迷子になっていたときもそうだった。
何か見返りがあるわけでもないのに、一緒にいてくれた。
「……好きにすれば」
「うん。そうする」
「聞いた意味ないだろ」
「食べていいか確認したから意味あるよ」
ひよりが笑う。
そのとき、公園の入口から小学生くらいの女の子が母親と一緒に入ってきた。
以前ノアを撫でたことがある子だったらしく、ノアを見ると表情を明るくした。
「あ、ノアだ!」
女の子が近づいてくる。
真樹が軽く手を上げる。
「走るとびっくりするから、ゆっくり」
「あ、ごめんなさい」
女の子は素直に歩調を落とした。
母親も少し離れた場所から「ちゃんと聞いてから触るのよ」と声をかける。
「触っていい?」
「いいよ」
真樹が答える。
女の子がノアの頭を撫で始める。
そして、ひよりを見る。
「お姉ちゃんもまたいる」
「覚えてたの?」
「うん」
女の子が笑う。
ひよりも笑い返した。
「こんにちは」
「こんにちは」
その母親も近づき、真樹とひよりへ軽く会釈した。
「この前もありがとうございました。娘が帰ってからずっとノア君の話をしていて」
「いえ」
真樹が短く答える。
「お二人、よくここにいらっしゃるんですね」
「え」
ひよりと真樹の声がわずかに重なった。
母親は気にせず続ける。
「ノア君も、お姉ちゃんがいると嬉しそう」
「そ、そうなんです」
ひよりはノアを見る。
「私もノアが好きで」
「素敵ですね」
母親は微笑んだ。
その視線が一瞬だけ、ひよりと真樹の間を往復する。
「仲がいいんですね」
「えっ」
「……」
ひよりは固まった。
真樹も黙る。
母親は二人の反応に気づかず、娘へ「そろそろ行くよ」と声をかけた。
「ノア、ばいばい!」
女の子が手を振る。
ひよりも反射的に手を振り返した。
「ばいばい」
親子が公園の奥へ歩いていく。
残された二人の間に、少し妙な沈黙が落ちた。
「……」
「……」
先に口を開いたのはひよりだった。
「仲いいって」
「言ってたな」
「私たちが?」
「他に誰がいるんだよ」
「……」
ひよりは困った。
仲がいい。
そう言われると、どうなのだろう。
まだ知り合って数日。
でも何度も会っている。
話せば言い合いになる。
それでも嫌ではない。
「北条君」
「何」
「私たちって、友達?」
真樹がひよりを見る。
「……急に何」
「いや、ちょっと気になって」
「知らない」
「そういうときまでそれ?」
「じゃあお前はどう思ってんの」
「私?」
今度はひよりが困る番だった。
ノアなら迷わず友達と言える。
真樹は。
「……知り合い?」
「じゃあそれでいいだろ」
「でも、何回も話してるし」
「だから?」
「友達に近い知り合い?」
「細かいな」
「気になるじゃん」
「俺は別に」
「北条君、友達少なそう」
「喧嘩売ってんの?」
「だって!」
ひよりが笑う。
「すぐ『知らない』とか『別に』って言うし」
「実際、どうでもいいから」
「ひどい!」
「でも」
真樹はそこで一度言葉を止めた。
ひよりがこちらを見ている。
「……嫌なら、こんな何回も話してない」
「え?」
「だから」
真樹は視線を逸らす。
「少なくとも、嫌いではない」
ひよりは目を瞬いた。
真樹らしい言い方だった。
友達だとは言わない。
仲がいいとも言わない。
でも、嫌いではない。
「……そっか」
なぜだろう。
少し嬉しかった。
「私も」
「何が」
「北条君のこと、嫌いじゃないよ」
「……」
「最初は感じ悪いと思ったけど」
「最後の一言で全部台無しだろ」
「今はそんなに思ってない」
「そんなに?」
「ちょっとだけ」
「まだ思ってんじゃねえか」
ひよりが声を上げて笑った。
真樹も呆れたように息を吐きながら、ほんの少しだけ口元を緩める。
その間で、ノアだけが最初から分かっていたような顔をしていた。
◇ ◇ ◇
公園を出るころには、夕方の空が薄い橙色へ染まっていた。
冷たい風が住宅街を抜け、ひよりはマフラーを少し上げる。
「じゃあ、帰るね」
「ああ」
「ノア、またね」
ひよりが頭を撫でる。
ノアは名残惜しそうに鼻先を手へ押しつけた。
「次はおやつ持ってくるから」
「忘れても別にいいからな」
「忘れません」
「どうだか」
「失礼な」
ひよりは立ち上がる。
「北条君も、またね」
「ああ」
一歩進んでから、ひよりは止まった。
「……あのさ」
「何」
「次って、いつ?」
聞いてしまった。
口にした直後、少し恥ずかしくなる。
「いや、ノアにおやつ持ってくるから!」
慌てて理由を付け足す。
「いつ会えるか分からないと困るし」
「……」
「何?」
「別に」
真樹は少しだけ考えた。
「明日も同じくらい」
「明日?」
「ああ」
「分かった」
ひよりの顔が明るくなる。
「じゃあ明日」
「……ああ」
「今度こそ帰るね」
ひよりが手を振り、歩き出す。
真樹はその背中を見送った。
昨日までなら。
次に会えるかどうかは偶然だった。
今日は月曜日に会うと分かっていた。
そして今は、明日も会うと分かっている。
(……これ、毎日会う流れになってないか?)
気づいた。
けれど。
嫌ではなかった。
むしろ、明日の放課後に予定ができたことへ、少しだけ安心している自分がいる。
「……」
真樹は眉を寄せた。
「ノア」
呼ぶ。
ノアが見上げる。
「明日も来るぞ」
尻尾が揺れる。
「お前のおやつ持ってくるらしいから」
さらに尻尾が揺れた。
「よかったな」
真樹はノアの頭を撫でた。
そして歩き始める。
ひよりが帰っていった方向を、もう一度見ることはしなかった。
見なくても。
明日、また会えると分かっていたから。
◇ ◇ ◇
その夜。
「お母さん」
夕食後、ひよりはキッチンで食器を片づけている由美へ声をかけた。
「なに?」
「昨日見てた犬のおやつ、明日買って帰っていい?」
「飼い主さんに聞けたの?」
「うん。市販の犬用なら大体大丈夫だって。でもあげすぎはダメ」
「じゃあ少ない袋にしたら?」
「そうする」
ひよりは満足して頷いた。
その様子をダイニングテーブルから美月が見ていた。
「犬のおやつ?」
「ノアの」
「この前の?」
「うん」
「また会ったんだ」
「今日もね」
美月が箸を置く。
「今日も?」
「……」
ひよりはしまったという顔をした。
リビングでテレビを見ていた悠一の頭が動く。
「今日もって何だ?」
「何でもない!」
「ひより?」
「お兄ちゃんはテレビ見てて!」
「犬の飼い主って男だったよな?」
「だから何!」
「何歳だ?」
「知らない!」
「前も同じこと言ってなかったか?」
「もう!」
ひよりは逃げるようにキッチンを出た。
階段へ向かう。
「ひより!」
「ついてきたら本気で嫌いになる!」
悠一の足が止まる。
「……それは困る」
「本当に止まった」
美月の呆れた声が聞こえた。
ひよりは二階へ上がり、自室の扉を閉めた。
「まったく……」
ベッドへ腰を下ろす。
スマートフォンを取り出す。
明日は学校が終わったら、犬用のおやつを買う。
それから公園へ行く。
ノアに会う。
真樹にも会う。
「……」
今日、公園で交わした会話を思い出した。
『少なくとも、嫌いではない』
あの言葉。
「何、それ」
改めて考えると、かなり変な言い方だ。
普通なら「友達でいいんじゃない」とでも言えばいい。
でも、真樹らしい気もする。
(私も嫌いじゃない)
それどころか。
話すのは楽しい。
ノアがいなくても、少しくらいなら話していたいと思える程度には。
そこまで考えて、ひよりは白いリボンの箱へ目を向けた。
昨日、ようやく開けた。
家族で少しずつ食べ、残りはあと数枚だけになっている。
佐伯颯太へ渡すはずだったクッキー。
今日、学校で颯太と話したときは嬉しかった。
隣を歩いて胸が高鳴った。
その気持ちは本物だ。
(私は佐伯君が好き)
そこは変わっていない。
だから、真樹と会うのが楽しみなのは別の感情なのだろう。
新しくできた友達。
まだそう呼んでいいか分からないけれど。
「友達に近い知り合い……かな」
自分で言って、少し笑った。
スマートフォンが震える。
千夏からだった。
『黒犬には会えましたか?』
ひよりは少し考え、返信する。
『会えたよ』
すぐに返ってくる。
『飼い主にも?』
『いたよ』
『楽しかった?』
指が止まる。
嘘をつく理由もない。
『うん』
送信。
『そっか』
それだけだった。
からかわれると思っていたので、少し意外だった。
『何?』
『何もないよ』
『怪しい』
『ひよりが楽しそうならいいの』
「……何それ」
ひよりは笑った。
『ありがと』
『でも親友一号は私です』
『一号って何』
『永久欠番』
『意味分かんない』
千夏らしい。
ひよりはベッドへ横になる。
明日は火曜日。
いつもなら、ただの平日。
それなのに今は、放課後に小さな楽しみがある。
まだ恋ではない。
少なくとも、ひよりはそう思っている。
ただ、学校へ行って、授業を受けて、家へ帰る。
そんな変わらない毎日の途中に、黒い大きな犬と、少し感じの悪い少年が待つ時間ができた。
それだけで。
明日がほんの少し、待ち遠しかった。




