第5話 会えなかった次の日は
金曜日の朝。
「ひより、今日なんか機嫌よくない?」
「そう?」
教室へ向かう廊下で藤崎千夏にそう言われ、天野ひよりは自分の頬へ触れた。
いつもと同じつもりだった。
朝は眠かったし、家を出る直前には悠一から「今日は何時に帰る?」と聞かれて「分かんない」と答えたら、「分からないって何時だ」と意味の分からない追及をされた。
それを美月に助けてもらったと思ったら、今度は姉から「最近ちょっと帰り遅くない?」と聞かれた。
結局、二人まとめて「うざい」と言い残して家を出たのだから、特別気分のいい朝だったわけではない。
「普通だけど」
「本当に?」
「本当に」
「ふーん」
千夏が横から顔を覗き込んでくる。
「近いよ」
「昨日、楽しかった?」
「クレープ?」
「うん」
「千夏も一緒にいたじゃん」
「そうでした」
「何なの?」
「確認」
「何の?」
「ひよりが私とのデートをちゃんと楽しんでくれたかどうか」
「デートって言わないで」
「ひどい!」
千夏が大げさに胸を押さえる。
「私はあんなに楽しかったのに……!」
「はいはい、楽しかったです」
「心がこもってない」
「楽しかったってば」
昨日は駅前のクレープ店へ行った。
千夏は期間限定のいちごチョコ。ひよりはキャラメルバナナ。
結局お互いのものを一口ずつ交換して、どちらがおいしいかでくだらない言い争いをした。
そのあと雑貨店へ寄り、文房具を見て、本屋にも寄った。
楽しかった。
いつも通りの放課後だった。
ただ。
帰宅してから一度だけ考えた。
(ノア、昨日もあの公園に来たのかな)
それだけ。
本当にそれだけだった。
ノアに会いたかったから。
北条真樹のことは――。
「ひより?」
「え?」
「ぼーっとしてる」
「してないよ」
「してた」
「ちょっと考え事」
「何の?」
「今日の授業」
「嘘」
「なんで即答なの」
「ひよりが朝から授業のこと考えるわけない」
「失礼すぎない!?」
二人で言い合いながら教室へ入る。
「おはよー」
千夏がいつもの調子で声をかけると、すでに登校していた何人かが「おはよう」と返してくる。
ひよりも笑顔で挨拶した。
「天野、おはよ」
「あ、海斗。おはよう」
橘海斗が自分の席から片手を上げる。
「今日、一限体育だぞ」
「知ってるよ」
「昨日、体操着忘れそうって言ってなかった?」
「ちゃんと持ってきましたー」
ひよりは鞄の横から体操着袋を見せた。
「珍しい」
「私を何だと思ってるの?」
「忘れ物多い人」
「そんな多くないから!」
「先週、英語の教科書忘れて俺に見せてもらってたじゃん」
「あれは一回だけ」
「その前は?」
「……」
「ほら」
「海斗、朝からうるさい」
「はいはい」
海斗が笑う。
こういうやり取りもいつも通りだった。
千夏は二人を見ながら、自分の席へ向かおうとして――途中でひよりの机へ戻ってきた。
「ひより」
「なに?」
「今日、一緒に帰れる?」
「帰れるよ」
「寄り道は?」
「昨日したでしょ」
「じゃあ普通に帰ろ」
「いいよ」
答える。
千夏は満足そうに頷いた。
そして。
「途中まで」
「……え?」
「途中まで一緒に帰ろ」
「なんで言い直したの?」
「なんとなく?」
「何、その顔」
「別に?」
にやにやしている。
(絶対何か考えてる)
ひよりには分かる。
でも、何を考えているのかまでは分からない。
「変な千夏」
「失礼な」
始業を知らせる予鈴が鳴り、二人はそれぞれの席へ戻った。
◇ ◇ ◇
放課後。
「じゃ、ここで」
千夏が足を止めた。
「え?」
ひよりも立ち止まる。
二人がいるのは駅へ向かう道と住宅街へ向かう道が分かれる交差点だった。
「一緒に帰るんじゃなかったの?」
「途中までって言ったじゃん」
「いや、そうだけど」
「私、駅寄るから」
「昨日も行ったじゃん」
「今日は用事あるの」
「何の?」
「乙女の秘密」
「絶対ろくでもない」
「失礼な!」
千夏が笑う。
それから、ひよりの肩を軽く叩いた。
「じゃあね」
「うん。また月曜日」
「……会えるといいね」
「え?」
「ノア」
ひよりが固まる。
千夏はにやっと笑った。
「昨日会えなかったんでしょ?」
「なんで分かるの?」
「だって会ってたら朝から話すと思ったから」
「……」
確かに。
一昨日ノアと再会したことは、昨日の朝に千夏へ話していた。
もし昨日も会っていたら、たぶん話していただろう。
「別に、毎日会おうとしてるわけじゃないよ」
「分かってるよ」
「本当に?」
「うん」
千夏は笑った。
「ひよりが犬に会いたがってるだけなのはね」
「……その言い方、なんか引っかかる」
「気のせいです」
「千夏」
「じゃーね!」
「あ、逃げた!」
千夏は手を振りながら駅方面へ走っていく。
「もう……」
ひよりは呆れながら見送った。
一人になる。
交差点の右側。
住宅街へ続く道。
その先に、あの公園がある。
「……帰ろ」
歩き出した。
別に急いでいない。
いつも通り。
そう思っているのに、公園が近づくにつれて少しずつ胸が落ち着かなくなってくる。
(今日もいなかったらどうしよう)
どうもしない。
ただ家へ帰るだけだ。
そもそも約束していない。
連絡先も知らない。
ノアの散歩時間だって知らない。
会えるほうが偶然なのだ。
(……でも)
昨日は会えなかった。
だから今日は。
「会えたらいいな」
小さく声に出した。
言ってから少し恥ずかしくなり、周囲を見る。
幸い誰も聞いていなかった。
公園が見えてくる。
ひよりは無意識に視線を向けた。
「……」
誰もいない。
心が少し沈む。
「まだ早いのかな」
スマートフォンで時刻を確認する。
いつもより十分ほど早い。
千夏とまっすぐ帰ってきたからだ。
(ちょっとだけ待つ?)
考える。
でも、それはさすがに待ち伏せみたいではないだろうか。
ノアならまだしも、真樹にそう思われたら恥ずかしい。
「帰ろ」
自分に言い聞かせる。
公園の前を通り過ぎる。
一歩。
二歩。
三歩。
「……」
足が止まった。
振り返る。
やっぱり誰もいない。
(何やってるんだろ、私)
自分でもおかしくなり、苦笑する。
そのときだった。
「ワン!」
遠くから声が聞こえた。
「!」
ひよりが顔を上げる。
道路の向こう。
黒い大きな身体が見えた。
「ノア!」
嬉しくなって、ひよりは手を振った。
ノアもこちらに気づいたらしい。
尻尾が大きく揺れる。
そして、その後ろ。
黒いコートを着た真樹が歩いていた。
目が合う。
「……」
「……」
なぜか二人とも、一瞬足を止めた。
先に動いたのはノアだった。
真樹が持っているリードを引っ張るようにして、ひよりへ近づいてくる。
「ノア!」
ひよりも駆け寄った。
「会えた!」
しゃがむと、ノアが身体ごと寄ってくる。
「わっ、ちょっと!」
大きな身体に押され、ひよりがよろけた。
すぐに踏ん張る。
「もう、ノア。元気すぎ」
笑いながら首元を撫でる。
ノアの尻尾は止まらない。
「昨日会えなかったね」
その言葉に。
真樹の足が一瞬止まった。
「……」
ひよりは気づかない。
「私、駅前行ってたの。千夏とクレープ食べてたんだ」
「……そう」
真樹が答える。
声はいつも通りだった。
けれど。
(やっぱり来てなかったのか)
昨日。
自分はこの公園まで来た。
少しだけ待った。
ひよりは来なかった。
別に約束していたわけではない。
だから当然だ。
それなのに。
「北条君?」
「何」
「昨日もここ来た?」
「……」
一瞬。
本当に一瞬だけ返事が遅れた。
「散歩でな」
「そっか」
ひよりは嬉しそうにノアを見る。
「じゃあノア、昨日も私のこと探してくれたの?」
ノアの尻尾が揺れる。
「かわいい!」
ひよりが抱きつく。
「ごめんね、昨日いなくて」
「……」
真樹は黙って見ている。
(俺もいたんだけど)
そんな考えが浮かんだ。
そしてすぐに、自分で眉を寄せる。
(だから何だよ)
ノアに会いたいのだ。
ひよりは最初からそう言っている。
自分はついで。
むしろ、ノアの飼い主だから一緒にいるだけだ。
それで当然だろう。
「北条君」
「何」
「今日、なんか機嫌悪い?」
「別に」
「本当に?」
「普通」
「また便利な答え使ってる」
「うるさい」
ひよりが笑う。
「やっぱりいつも通りだ」
「何が」
「北条君」
「……」
それだけで、先ほどまで胸の奥にあった妙な引っかかりが少し薄れた。
真樹は自分でも気づかない程度に息を吐いた。
「お前」
「ん?」
「昨日のクレープ、うまかった?」
「え?」
唐突な質問に、ひよりが目を丸くする。
「うん。美味しかったよ」
「そう」
「なんで?」
「別に」
「もしかして甘いもの好き?」
「普通」
「また普通!」
「嫌いじゃない」
「へえ」
ひよりが少し意外そうに真樹を見る。
「北条君、甘いもの食べるんだ」
「俺を何だと思ってんだ」
「ブラックコーヒーしか飲まなそう」
「偏見ひどくないか?」
「だって似合うよ」
「褒めてないだろ」
「ちょっと褒めてる」
「ちょっとかよ」
「じゃあ七割」
「前より増えたな」
以前似たようなやり取りをしたことを二人とも覚えていた。
ひよりが笑う。
真樹もほんの少しだけ口元を緩めた。
それを見たひよりが目を見開く。
「あ」
「何」
「今、笑った」
「笑ってない」
「笑ったよ!」
「気のせい」
「いや、絶対笑った!」
「証拠は?」
「そればっかり!」
ノアが二人の間で尻尾を振る。
公園の前を通り過ぎる人が、少しだけこちらを見る。
大きな黒犬と、その横で言い合っている高校生二人。
傍から見れば、ずいぶん親しそうに見えたかもしれない。
けれど当人たちには、そんな自覚はまだなかった。
◇ ◇ ◇
「そういえば」
ひよりはノアを撫でながら顔を上げた。
「北条君の学校ってどこ?」
「今さら?」
「だって聞いてなかったし」
「聞く必要もなかっただろ」
「まあ、そうだけど」
ひよりは真樹の制服を見る。
ブレザーの胸元には校章がついている。
見覚えがあるような、ないような。
「桜陵」
「……桜陵?」
「ああ」
「私立桜陵学園?」
「他にあるのか?」
「えっ」
ひよりの目が丸くなった。
「ええっ!?」
「声でかい」
「だ、だって桜陵って、あの桜陵!?」
「どの桜陵だよ」
「お金持ちがいっぱい行くところ!」
「……その認識どうなんだ」
「違うの?」
「間違ってはないけど」
ひよりは改めて真樹を見る。
確かに。
言われてみれば、着ている制服からしてどこか上品だ。
昨日迎えに来た車も明らかに高そうだった。
そして何より。
『真樹様』
あの男性がそう呼んでいた。
「……あ」
今さら色々と繋がった。
「何」
「昨日、迎えに来た人……北条君のこと『真樹様』って呼んでた」
「そうだったな」
「そうだったな、じゃないよ!」
「何が」
「北条君って……」
ひよりは少し言葉に詰まった。
どう聞けばいいのだろう。
「お金持ち?」
結局、とんでもなく直接的な質問になった。
「……」
真樹が黙る。
「あ、ごめん!」
ひよりは慌てた。
「今のなし! 失礼だった!」
「別に」
「でも」
「俺が稼いでるわけじゃないし」
「え?」
「親の金だろ」
真樹は淡々と言う。
「俺自身はただの高校生」
「……」
「だから別に」
ひよりは少し意外に思った。
もっと「そうだけど?」とでも言うのかと思っていた。
「北条君って、やっぱり変」
「お前に言われたくない」
「私は普通です」
「自分で言う奴は信用できない」
「ひどい」
ひよりが頬を膨らませる。
でも。
ほんの少しだけ、真樹が遠くなったような気がした。
桜陵学園。
自分の通う県立高校とはまるで違う世界。
通っている生徒の家柄も、生活も、きっと全然違う。
(北条君も、そうなんだ)
当たり前のことなのに。
これまで真樹のことをほとんど何も知らなかったのだから。
それでも、少しだけ胸の奥に距離を感じた。
その変化を、真樹は見逃さなかった。
「……何」
「え?」
「急に静かになった」
「そんなことないよ」
「あるだろ」
「……」
ひよりは迷う。
でも、真樹は答えを待っている。
「ちょっとびっくりしただけ」
「学校が?」
「うん」
「それだけ?」
「それだけ」
ひよりは笑った。
いつものように。
「北条君、なんかすごい人だったんだなって」
その瞬間。
真樹の表情がわずかに変わった。
「……別にすごくない」
「でも桜陵って――」
「学校がどこでも俺は俺だろ」
「……」
少し強い声だった。
ひよりは目を瞬く。
真樹自身も言ったあとで気づいたのか、視線を逸らした。
「悪い」
「ううん」
「ただ……」
言葉が止まる。
真樹はこういう瞬間が嫌いだった。
学校。
家。
北条という名字。
それを知った途端に相手の態度が変わることがある。
急に距離を取る人間。
逆に、不自然なほど近づいてくる人間。
どちらも見てきた。
だから。
(こいつも変わるのか)
そう思った。
まだ数回会っただけの相手なのに。
変わったところで何も困らないはずなのに。
それでも少しだけ、嫌だった。
「……北条君」
「何」
「ごめんね」
「なんでお前が謝るんだよ」
「なんとなく」
「意味分かんねえ」
「でも」
ひよりは真樹を見る。
「学校がどこでも北条君は北条君、なんでしょ?」
「……まあ」
「じゃあ、別にいいや」
「は?」
「だって私、桜陵の北条君と話してたわけじゃないし」
ひよりは笑った。
「ノアの飼い主の、ちょっと感じ悪い北条君と話してただけだから」
「……」
「何?」
「最後の一言いらないだろ」
「大事なところだよ?」
「どこが」
ひよりが笑う。
真樹は呆れた顔をした。
けれど。
胸の奥にあった硬いものが、ほんの少しだけほどけた。
「じゃあ、天野は?」
「え?」
「学校」
「ああ。県立青葉高校」
「青葉」
「知ってる?」
「名前くらい」
「普通の学校だよ」
「そう」
「学力も普通。私はその中でも普通」
「普通ばっかだな」
「北条君に言われたくない!」
ひよりが笑う。
真樹も今度は否定しきれない程度に口元を緩めた。
◇ ◇ ◇
「そろそろ帰ろうかな」
しばらく話しているうちに、日が傾いてきた。
ひよりはスマートフォンで時刻を確認する。
「今日、お兄ちゃん早く帰ってくるって言ってたし」
「そんなにうるさいのか」
「すごいよ」
「どれくらい」
「私が男の人と一緒に帰ってきたら、たぶん玄関で事情聴取が始まる」
「……面倒くさ」
「でしょ?」
「お前が言うのはいいのかよ」
「家族だからいいの」
「理不尽だな」
「そういうものなの」
ひよりはノアの頭を撫でる。
「じゃあね、ノア」
ノアが鼻先をひよりの手へ押しつける。
「また会おうね」
それから真樹を見る。
「北条君も」
「……ああ」
「またね」
ひよりが歩き出そうとした。
そのとき。
「天野」
「ん?」
振り返る。
真樹は一瞬だけ迷った。
呼び止めたものの、特に用事があるわけではない。
「……」
「どうしたの?」
「いや」
「?」
「月曜」
「月曜?」
真樹はノアを見る。
「多分、同じくらいの時間に散歩する」
言ってから。
(何言ってんだ、俺)
自分で思った。
ひよりも少し驚いている。
「それって……」
「ノアが」
真樹はすぐに付け加えた。
「こいつがお前に会いたがるから」
「……」
「別に俺はどっちでもいい」
「……ふふっ」
「何」
「なんでもない」
ひよりが笑う。
「分かった」
「ああ」
「じゃあ私も、たぶん同じくらいにここ通る」
「……そう」
「ノアに会いたいから」
「……」
真樹が黙る。
ひよりは楽しそうに笑った。
「じゃあ、月曜日ね」
「ああ」
手を振る。
今度こそひよりは歩き出した。
角を曲がるまで、真樹はその背中を見ていた。
そして。
「……ノアに、か」
小さく呟く。
別にいい。
当然だ。
最初から二人を繋いでいるのはノアなのだから。
(俺だって、ノアのために言っただけだし)
そういうことにしておく。
隣を見る。
ノアが真樹を見上げていた。
「何」
尻尾が一度揺れる。
「勘違いすんなよ」
ノアは何も言わない。
「俺は別に、あいつに会いたいわけじゃない」
また尻尾が揺れた。
「……その顔やめろ」
犬がどんな顔をしているというのか。
真樹自身にも分からなかった。
◇ ◇ ◇
帰宅したひよりは、玄関を開けた瞬間に悠一と鉢合わせた。
「ただいま」
「おかえり」
兄はすでに仕事から帰っていたらしい。
私服姿でリビングから出てきたところだった。
「今日は早かったんだ」
「ああ。ひよりも昨日より早いな」
「普通だよ」
「そうか」
それだけ言って終わるかと思った。
しかし。
「ひより」
「なに?」
「なんかいいことあった?」
「……え?」
ひよりは目を瞬いた。
「なんで?」
「機嫌よさそうだから」
「そう?」
「ああ」
朝、千夏にも同じことを言われた。
ひよりは無意識に自分の頬へ触れる。
「別に何もないよ」
「そうか?」
「うん」
「ならいいけど」
悠一は少しだけ不思議そうな顔をしながらリビングへ戻っていった。
ひよりはその場に残る。
(私、そんなに分かりやすい?)
首を傾げる。
確かに今日はノアに会えた。
昨日会えなかった分、嬉しかった。
それに。
『多分、同じくらいの時間に散歩する』
真樹の言葉を思い出す。
月曜日。
またノアに会える。
「……楽しみ」
自然と声が漏れた。
そして階段を上がりかけたところで、ひよりは足を止める。
(あれ?)
月曜日に会えるのは、ノアだけではない。
当然、真樹もいる。
「……まあ」
ひよりは一人で頷いた。
「北条君も、ついでに」
誰も聞いていないのに言い訳する。
そのまま自分の部屋へ向かった。
机の上には、まだ白いリボンの箱が置いてある。
ひよりはそれを見て、少しだけ足を止めた。
佐伯颯太へ渡すはずだったクッキー。
気持ちは変わっていない。
颯太が好きだ。
今度こそ、ちゃんと伝えたいと思っている。
それなのに。
今日一日の中で、自分を一番笑わせたのが誰だったのかと考えた瞬間。
「……」
ひよりは慌てて首を振った。
「違う違う」
比較するようなことではない。
颯太は好きな人。
真樹はノアを通して知り合ったばかりの人。
全然違う。
「月曜日はノアに会うだけ」
もう一度、自分に言い聞かせた。
けれど。
その顔には、自分でも気づかない小さな笑みが浮かんでいた。
そして別の場所では。
「月曜、こっちの道な」
ノアの頭を撫でながらそう告げた少年が、直後に自分の言葉へ眉を寄せていた。
「……お前が行きたいならだけど」
ノアは嬉しそうに尻尾を振る。
「だから、俺じゃないからな」
誰も責めていないのに、真樹は念を押した。
会えたらいいな、だったものが。
いつの間にか、また会おうという小さな約束へ変わっていた。




