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『黒犬が運んできたのは、不幸ではなく恋でした』  作者: 伊佐波瑞樹


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第4話 会えたらいいな、くらいだったのに

 翌日の放課後。


「……別に、待ってるわけじゃないし」


 天野ひよりは誰に聞かせるでもなく呟きながら、昨日と同じ道を歩いていた。


 学校から自宅までの帰り道はいくつかある。


 駅前を通る道。


 住宅街を真っ直ぐ抜ける道。


 少し遠回りになるものの、コンビニの前を通る道。


 そして今歩いている、小さな公園の横を通る道。


 普段から使っている道なのだから、ここを歩いていても何もおかしくない。


 昨日、偶然ここでノアと再会したからといって、今日も同じことを期待しているわけではない。


(……会えたら嬉しいけど)


 それくらいだ。


 ノアはかわいい。


 あれだけ懐いてくれたのだから、また会いたいと思うのは普通だろう。


 ひよりはマフラーへ口元を埋めた。


 冬の夕方の空気はまだ冷たい。道路脇には数日前に降った雪が日陰にわずかに残り、薄い氷へ変わっている場所もあった。


 公園が近づいてくる。


 無意識に歩く速度が少しだけ落ちた。


「……」


 公園を見る。


 誰もいない。


 ブランコが風に揺れているだけだった。


「まあ、そうだよね」


 小さく笑う。


 昨日会えたこと自体が偶然なのだ。


 ノアだって毎日同じ時間に散歩するとは限らないし、散歩コースだって一つではないだろう。


(北条君も、わざわざこっちに来る理由ないし)


 昨日はノアがこちらへ来たがったと言っていた。


 それだけ。


 少し残念ではあるものの、落ち込むほどではない。


 ひよりはそのまま公園を通り過ぎた。


 スマートフォンが震える。


 取り出すと、千夏からだった。


『今日こそクレープ』


 その下に、両手を上げて喜んでいるキャラクターのスタンプ。


 ひよりは笑った。


『昨日忘れた人が何か言ってます』


 すぐ既読になる。


『今日は忘れてません』


『本当に?』


『駅前集合』


『もう学校出ちゃった』


『は!?』


『千夏が委員会で遅くなるって言ってたから先帰った』


 数秒後。


『待っててよ!!』


「知らないよ」


 笑いながら画面を見る。


『明日ね』


『二日連続で延期!?』


『最初に延期したの千夏だから』


『ぐぬぬ』


 悔しがっているスタンプまで届いた。


 ひよりはスマートフォンをしまう。


 千夏と話していると、先ほど感じた小さな残念さもすぐに薄れていった。


 そのまま家へ向かおうとした、そのとき。


「ワン!」


 背後から聞こえた声に、ひよりの足が止まった。


「……え?」


 心臓が跳ねる。


 振り返る。


 少し離れた道路の向こうに、大きな黒い犬がいた。


「ノア!」


 名前を呼んだ瞬間、ノアの尻尾が激しく揺れた。


 ひよりの顔も一気に明るくなる。


「ノア!」


 今度は自分から駆け寄った。


 ノアもこちらへ来ようとする。


 しかし。


「待て」


 低い声。


 ノアの動きが止まった。


 リードの先には北条真樹がいる。


「北条君!」


 ひよりが呼ぶ。


 真樹は一瞬だけ目を見開いた。


「……天野」


「今日も散歩?」


「見れば分かるだろ」


「またそういう言い方する」


「事実だろ」


「普通に『そう』って言えばいいのに」


「面倒くさい」


「もう!」


 昨日と同じ。


 少し感じの悪い言い方。


 なのに今日は、それほど腹が立たなかった。


 ひよりはノアの前へしゃがむ。


「今日も会えたね」


 頭を撫でる。


 ノアがひよりの手へ鼻先を押しつけた。


「ふふっ。くすぐったいよ」


 頬を撫でると、ノアは目を細める。


「かわいいなぁ」


 夢中で撫でているひよりの頭上から、真樹の声が落ちてきた。


「お前」


「ん?」


「今日もこの道なんだな」


「……」


 ひよりの手が止まった。


「な、なに?」


「別に」


「何、その言い方」


「いつもここ通るのかと思っただけ」


「通るよ」


 嘘ではない。


 この道は以前から使っている。


「毎日じゃないけど」


「ふうん」


「……何?」


「何も」


「なんか疑ってない?」


「何を」


「私がノアに会うためにこの道選んだとか」


 言ってから。


 ひよりは固まった。


(あ)


 自分から言ってしまった。


 真樹の眉がわずかに上がる。


「そうなの?」


「違う!」


「まだ何も言ってないけど」


「今聞いたじゃん!」


「お前が言ったからだろ」


「違うからね。本当に普通に帰ってただけだから」


「分かった」


「絶対分かってない顔してる!」


「どんな顔だよ」


「その顔!」


 ひよりが指を差す。


 真樹はその指先を見てから、ひよりへ視線を戻した。


「……まあ、ノアはお前に会いたかったみたいだけど」


「え?」


 ひよりの表情が変わった。


「本当?」


「昨日と同じ道に来たがった」


「ノア!」


 一瞬で真樹への追及を忘れ、ノアへ抱きつく。


「私に会いたかったの?」


 ノアの尻尾が大きく揺れる。


「私も会いたかった!」


「……」


 真樹は黙った。


 今、自分が余計なことを言った気がする。


(まあ、事実だけど)


 ノアは朝から普段と少し様子が違った。


 散歩へ出る時間が近づくと玄関付近をうろつき、外へ出れば迷うことなくこの方向へ進んだ。


 昨日ひよりと会った場所を覚えていたのだろう。


 そして実際に会えた。


 偶然とはいえ、ノアにとっては狙い通りということになる。


「よかったね、ノア」


 ひよりが笑う。


 昨日と同じ笑顔だった。


 いや。


 昨日よりも自然に見える。


 真樹はそれを眺めてから、ふと気づいた。


「……お前、今日はチョコ持ってないんだな」


「え?」


 ひよりが振り返る。


 真樹自身、なぜそんなことを言ったのか分からなかった。


 昨日まで持っていた紙袋が今日はない。


 それだけだ。


「昨日持ってただろ」


「ああ……」


 ひよりの表情が少し曇った。


 その変化を見て、真樹はわずかに眉を寄せる。


「食べたのか?」


「まだ家にある」


「じゃあ渡さなかったのか」


「……」


 ひよりが黙る。


 真樹はそこで気づいた。


(聞くことじゃなかったか)


 バレンタインのチョコ。


 渡す相手がいたのだろう。


 昨日もその可能性は考えていた。


 けれど、わざわざ本人へ聞くつもりなどなかった。


「……ごめん」


「え?」


「いや、別に言いたくないならいい」


 真樹が視線を逸らす。


 ひよりは少し驚いた。


 もっと無神経な人だと思っていた。


 昨日から何度も言い方は感じが悪いし、すぐ「面倒くさい」と言う。


 けれど、踏み込んではいけないところは意外と分かっているらしい。


「渡せなかったの」


 気づけば、ひよりは答えていた。


 真樹がこちらを見る。


「……そう」


「笑わないの?」


「何を」


「せっかく作ったのに渡せなかったこと」


「なんで笑うんだよ」


 真樹は本気で分からないような顔をしている。


「でも、結構情けなくない?」


「知らない」


「知らないって」


「お前がどんな状況だったか知らないし」


 真樹は少し考えてから続けた。


「渡せなかった理由も知らないのに、情けないとか決められないだろ」


「……」


 ひよりは目を瞬いた。


 予想していなかった言葉だった。


 昨日、千夏にも似たようなことを話した。


 千夏はひよりの性格を知っているから、怖くなったのだと理解してくれた。


 でも真樹は何も知らない。


 それなのに、簡単に笑わなかった。


「……北条君」


「何」


「やっぱり意外と優しいね」


「やっぱりって何だよ」


「だって感じ悪いから」


「またそれ言うのかよ」


「でも優しい」


「どっちだよ」


「両方」


 昨日、自分が兄について言ったことと同じだった。


 ひよりが笑う。


 真樹は何とも言えない顔をした。


「褒められてる気がしない」


「半分くらいは褒めてるよ」


「半分かよ」


「じゃあ六割」


「微妙に増やすな」


 ひよりはまた笑った。


 その笑顔を見ながら、真樹は先ほど聞いた話を考える。


 渡せなかった。


 つまり、あのチョコを受け取った男はいない。


(……だから何だよ)


 自分には関係ない。


 相手が誰なのかも知らない。


 同じ学校の男子なのだろうとは思うが、それだけだ。


「でも」


 ひよりがノアの頭を撫でながら言った。


「次はちゃんとしたいなって思ってる」


「次?」


「うん」


 ひよりは少しだけ照れたように笑った。


「今度は、ちゃんと気持ちを伝えたい」


 真樹の胸の奥に、ほんのわずかな引っかかりが生まれた。


 理由は分からない。


「……そう」


「うん」


「なら、やれば」


「簡単に言うね」


「やる前から無理って決めても仕方ないだろ」


「それができたら苦労しないの」


「じゃあ諦める?」


「それは……嫌」


「ならやるしかないだろ」


「正論だけど!」


「正論ならいいだろ」


「正論って、ときどき一番痛いんだよ?」


「知らない」


「またそれ!」


 ひよりが頬を膨らませる。


 真樹はわずかに笑った。


「今、笑った!」


「笑ってない」


「絶対笑った!」


「証拠は?」


「またそれ言う!」


 ノアが二人を交互に見ている。


 その尻尾はゆっくりと揺れていた。


     ◇ ◇ ◇


 それから二人は、なぜか公園へ入ることになった。


 理由は単純だった。


 ノアが動かなかったからである。


「ノア、帰らないの?」


 ひよりが尋ねても、ノアは公園の入口近くで座り込んだままだった。


 真樹がリードを軽く引いても動かない。


「……こいつ」


「まだ一緒にいたいんじゃない?」


「誰と」


「私?」


「なんで疑問形なんだよ」


「だって北条君とはいつも一緒でしょ?」


「まあ」


「じゃあ私じゃん」


 ひよりが得意げに言う。


「ほら、ノア。もうちょっとだけね」


 そう言って公園へ入ると、ノアはすぐに立ち上がった。


「……本当にお前かよ」


「勝った」


「何にだよ」


「北条君に?」


「張り合ってねえよ」


 公園には小学生が数人いた。


 ボールを蹴っていた男の子たちがノアに気づき、少し離れたところから興味深そうに見ている。


「でっかい犬」


「黒い!」


「かっこいい!」


 子供たちの声に、ひよりが振り返った。


 そのうち一人の男の子が恐る恐る近づいてくる。


「あの……触ってもいい?」


 ひよりは反射的に真樹を見る。


「北条君」


「俺に聞けよ」


「だって私に聞いたから」


「お前の犬じゃないだろ」


「あ、そっか」


「今気づいたのかよ」


 真樹はしゃがみ、ノアの首元を軽く撫でた。


「急に触らなければ大丈夫。まず手の匂い嗅がせて」


「うん!」


 男の子が教えられた通りに手を出す。


 ノアは静かに匂いを嗅ぎ、それから大人しく頭を撫でさせた。


「わあ……!」


 男の子の顔が輝く。


 その様子を見て、ひよりも笑った。


「ノア、優しいね」


「慣れてるから」


「子供好きなの?」


「嫌いじゃないと思う」


「北条君は?」


「何が」


「子供」


「……普通」


「その答え便利だね」


「じゃあ何て言えばいいんだよ」


「好きとか嫌いとか」


「別にどっちでもない」


「やっぱり普通じゃん」


「だから最初からそう言ってるだろ」


 そんな会話をしている間にも、別の子供たちが寄ってきた。


 ノアは嫌がる様子もなく、一人ずつ相手をしている。


 ただ、子供の一人が背後から急に抱きつこうとした瞬間。


「後ろからはダメ」


 真樹がすぐに声をかけた。


 強い声ではない。


 けれど、はっきりと止める声だった。


 子供が足を止める。


「犬もびっくりするから。顔が見えるところから触って」


「……うん」


「こっち」


 真樹が自分の隣を指す。


 子供が移動してから、もう一度ノアへ触れる。


 今度は問題ない。


 ひよりはその一連の様子を黙って見ていた。


(やっぱり優しいんだ)


 口調は少しぶっきらぼう。


 でも子供を怒鳴らない。


 ノアのことも守っている。


 初めて会ったときの「感じの悪い人」という印象が、少しずつ別のものへ変わっていく。


 ひよりが見つめていると、真樹が気づいた。


「何」


「別に」


「さっきから見てただろ」


「見てない」


「見てた」


「証拠は?」


「……お前、それ気に入ったのか」


「北条君の真似」


「やめろ」


「嫌です」


 ひよりは笑った。


 真樹は呆れたように息を吐く。


 少し離れたところで、子供たちの母親らしい女性たちもこちらを見ていた。


「あの子たち、高校生かな」


「大きい犬ね」


「彼女のほうにもすごく懐いてる」


 そんな会話が風に乗って、ひよりの耳へ届く。


 彼女。


 一瞬、その単語に反応しそうになった。


(いや、女の子って意味だよね)


 当然だ。


 隣にいる女子、という意味だろう。


 変なことを考えた自分が恥ずかしくなり、ひよりはノアへ視線を落とした。


 真樹は聞こえていないのか、気にした様子もない。


(何考えてるんだろ、私)


 昨日会ったばかりの人なのに。


 それも、自分には好きな人がいる。


 颯太へちゃんと気持ちを伝えたいと思っている。


 真樹はただ、ノアを通して知り合った人だ。


「天野」


「ひゃい!」


 変な声が出た。


 真樹が怪訝な顔をする。


「……何、その返事」


「なんでもない!」


「いや、今――」


「なんでもないから!」


「そう」


 真樹は若干引きながらノアのリードを持ち直した。


「そろそろ帰る」


「あ……うん」


 気づけば空がかなり暗くなっている。


 子供たちも母親に呼ばれ、公園から帰り始めていた。


「私も帰らなきゃ」


「また兄貴がうるさい?」


「うん。お兄ちゃんだけじゃなくて、お姉ちゃんも」


「二人とも?」


「二人とも」


「大変だな」


「北条君が思ってる三倍くらい大変」


「知らないけど」


「でもね」


 ひよりは少し笑った。


「大事な家族だから」


 真樹が一瞬黙った。


「……そう」


「北条君も、ノアが大事でしょ?」


「ああ」


 今度は迷いのない返事だった。


 ひよりは少し驚いた。


「そこは素直なんだ」


「何が」


「いつもなら『普通』とか言いそうなのに」


「ノアは別」


 真樹がノアの頭へ手を置く。


「家族みたいなもんだから」


 その言葉に、ひよりの表情が柔らかくなった。


「そっか」


「ああ」


「じゃあ、昨日ノアが私についてこようとしたとき、結構寂しかった?」


「……」


「北条君?」


「帰るぞ、ノア」


「あ、逃げた!」


「うるさい」


「図星なんだ!」


「違う」


「絶対そうじゃん」


「違うって言ってるだろ」


 ひよりが楽しそうに笑う。


 真樹は面倒そうな顔をしながらも、本気で怒ってはいなかった。


     ◇ ◇ ◇


 公園を出たところで、二人の帰り道は反対方向へ分かれる。


「じゃあね、ノア」


 ひよりがしゃがむ。


 ノアはもう慣れたように頭を差し出した。


「また会えたらいいね」


 撫でながら言う。


 昨日までは、偶然会えたことが嬉しかった。


 でも今日は。


 ほんの少しだけ違った。


 明日も会えるだろうか。


 そんなことを考えている。


「北条君も」


 立ち上がる。


「またね」


「ああ」


 真樹が答える。


 ひよりは手を振り、歩き始めた。


 数歩進む。


 今日は振り返らないでおこうと思った。


 なんとなく。


 本当になんとなく。


 でも。


 十歩ほど進んだところで、結局振り返った。


「……」


 真樹と目が合った。


 向こうもこちらを見ていた。


「……!」


 ひよりは慌てて前を向く。


(なんで北条君も見てるの!?)


 頬が少し熱い。


 ただ振り返っただけ。


 それだけなのに、妙に恥ずかしい。


 早足になる。


 後ろから追いかけてくる足音はない。


 それでも、しばらく振り返ることはできなかった。


     ◇ ◇ ◇


 一方。


 真樹もまた、ひよりが突然振り返ったことに少し驚いていた。


(……何だったんだ)


 自分も見ていたから目が合った。


 では、なぜ見ていたのか。


 分からない。


 ただ、ひよりが帰っていく姿を何となく眺めていただけだ。


 それ以上の意味はない。


「行くぞ、ノア」


 歩き出す。


 ノアが隣を歩く。


 今日も偶然会った。


 昨日に続いて二日目。


 話した内容は大したものではない。


 バレンタインのクッキーを渡せなかったこと。


 次はちゃんと気持ちを伝えたいと思っていること。


 兄と姉を大切にしていること。


 それくらい。


(……結構聞いたな)


 真樹は眉を寄せた。


 そもそも、なぜあんな話になったのだろう。


 あのクッキーのことだって、聞く必要はなかった。


 なのに自分から口にした。


『今度は、ちゃんと気持ちを伝えたい』


 ひよりの言葉が頭へ浮かぶ。


 好きな男がいる。


 それ自体は最初から想像できていた。


 バレンタインに手作りのクッキーを持っていたのだから当然だ。


「……」


 なぜか少しだけ面白くない。


(何が?)


 自分で自分へ問いかける。


 答えは出ない。


(別に俺には関係ないだろ)


 その通りだ。


 昨日知り合ったばかりの女子が誰を好きでも、自分には何の関係もない。


 ただノアが懐いているだけ。


 それだけの相手だ。


 真樹は歩きながらノアを見る。


「明日は別の道行くからな」


 ノアがこちらを見る。


「毎日ここ来る必要ないだろ」


 尻尾が一度揺れた。


「……何」


 ノアは前を向いた。


「言っとくけど、俺は別に会いたいわけじゃないからな」


 当然、返事はない。


「お前が来たがるから来てるだけだ」


 ノアは淡々と歩いている。


「……聞いてんのか?」


 耳だけがぴくりと動いた。


 真樹は少しだけ眉を寄せる。


「本当に明日は別の道だからな」


 念を押す。


 誰に対してなのか、自分でもよく分からないまま。


     ◇ ◇ ◇


 翌日。


「……」


 放課後。


 ひよりは校門を出たところで立ち止まっていた。


「どうしたの?」


 隣にいる千夏が首を傾げる。


「いや……」


 正面には駅へ向かう道。


 右へ行けば住宅街。


 さらにその先には、あの公園がある。


「クレープ行くんだよね?」


「うん」


「じゃあ駅こっち」


「分かってる」


「右見てるけど」


「見てない」


「見てたよ」


「見てないって」


 千夏がじっとひよりの顔を見る。


「……何?」


「昨日の犬」


「え?」


「会った?」


「……」


 ひよりの沈黙。


 それだけで十分だった。


 千夏の口元がゆっくり上がる。


「会ったんだ?」


「ノアにね!」


「私は犬だけとは聞いてないけど?」


「……」


「北条君もいたんだ?」


「ノアの散歩なんだからいるでしょ!」


「ふうん」


「何、その顔!」


「別に?」


 千夏がにやにやしている。


「本当に何もないからね」


「何もないなんて聞いてないよ」


「千夏!」


「はいはい」


 千夏は笑いながら、ひよりの腕へ自分の腕を絡ませた。


「今日は私とクレープです」


「分かってるよ」


「犬に負ける気はないから」


「何と戦ってるの?」


「親友としての意地?」


「意味分かんない」


「あと、その飼い主にも」


「なんで北条君まで入るの!?」


「ひよりの時間取ってるから」


「別に取られてないよ!」


「じゃあ今日は私が独占ね」


「はいはい」


「返事が雑」


 二人は駅へ向かって歩き出した。


 ひよりは一度だけ、右へ続く道を見た。


(今日は会わないか)


 少しだけそう思った。


 でも、千夏と約束している。


 クレープも食べたい。


 だから今日は駅へ行く。


 それでいい。


 ただ。


(明日は会えるかな)


 そんな考えが自然に浮かんだ。


     ◇ ◇ ◇


 同じ頃。


「……」


 真樹はノアのリードを持ったまま、公園の前に立っていた。


 昨日、自分は何と言ったか。


『明日は別の道行くからな』


 確かに言った。


 覚えている。


 それなのに。


「……お前がこっち来たがったからな」


 ノアを見る。


 ノアは何もしていない。


 ただ普通に立っている。


「俺じゃないからな」


 尻尾が揺れる。


「お前だから」


 もう一度言う。


 ノアは公園の入口を見る。


 そこにひよりはいない。


「……いないな」


 口から出た。


 真樹は少し待った。


 一分。


 二分。


 もちろん来ない。


「帰るぞ」


 歩き出す。


 ノアは素直についてくる。


 それなのに、真樹は何となく公園の反対側を見た。


 昨日ひよりが帰っていった道。


 誰もいない。


(学校で遅くなってるだけかもしれない)


 そこまで考えた瞬間、真樹は足を止めた。


(……何考えてんだ、俺)


 別に約束しているわけではない。


 毎日会う理由もない。


 来ると思っていたこと自体がおかしい。


「……帰る」


 今度こそ歩き出す。


 少しだけ機嫌が悪くなった理由を、真樹は考えないことにした。


 そして駅前では、そんなことなど何も知らないひよりが、千夏とクレープを半分ずつ交換しながら笑っていた。


 まだ二人は、会えなかっただけで少し物足りなくなる理由を知らない。


 会えたらいいな。


 今はまだ、その程度の気持ちだった。

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