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『黒犬が運んできたのは、不幸ではなく恋でした』  作者: 伊佐波瑞樹


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第3話 もう会わないと思っていたのに


 翌朝、天野ひよりが目を覚まして最初に思い出したのは、昨日渡せなかったチョコレートクッキーのことだった。


 正確には、机の上に置いたままの白いリボンの箱が視界へ入ったせいで、強制的に思い出させられた。


「……おはよう、昨日の私の勇気の残骸」


 ベッドの上で膝を抱えながら呟く。


 もちろん箱から返事はない。


 昨夜は夕食後、美月に散々問い詰められた。


 悠一ほど露骨ではなかったものの、「何も聞かないから」と言いながらひよりの部屋へ入ってきて、そのまま三十分近く居座ったのだから、姉も大概である。


 最終的には、


『渡せなかっただけ。佐伯君に何かされたわけじゃないよ』


 と説明したところでようやく安心してくれた。


 その後、美月はベッドに腰掛けたまま、


『じゃあ明日渡せば?』


 と簡単に言った。


『無理』


『なんで?』


『バレンタイン終わってるし』


『一日くらい変わらないでしょ』


『変わるよ!』


『じゃあ今日だったら渡せたの?』


『……』


『ひより?』


『おやすみ、お姉ちゃん』


『話終わってないんだけど』


 結局、答えられなかった。


 昨日に戻れたとして、周囲に誰もいなかったら渡せただろうか。


 分からない。


 また何か理由をつけて逃げたかもしれない。


「……はぁ」


 朝からため息が出る。


 それでも学校は待ってくれない。


 ひよりはベッドから降り、カーテンを開けた。


 冬の朝の白い光が部屋へ差し込む。窓ガラスの向こうには雲の少ない青空が広がっており、昨日よりは少し暖かくなりそうだった。


 制服へ着替え、髪を整える。


 机の上の紙袋をどうするか迷った末、そのまま置いていくことにした。


(帰ってきたら食べよう)


 もう颯太へ渡すことはない。


 そう決めた。


 昨日渡せなかったものを翌日に持っていく勇気なんて、今の自分にはない。


 階段を下りると、ダイニングから朝食の匂いが漂ってきた。


「おはよう」


「おはよう、ひより」


 母の由美がキッチンから振り返る。


 父の浩介はすでに食卓で新聞を読んでおり、向かいには悠一が座っていた。


「おはよう、ひより」


「おはよ」


 普通に返事をして席へ向かおうとしたところで、悠一がこちらを見た。


「昨日の――」


「朝からその話したら嫌いになる」


「まだ何も言ってないだろ」


「顔に書いてある」


「俺の顔に何が書いてあるんだ」


「『昨日のクッキーは誰に渡す予定だったんだ』」


「……」


 悠一が黙った。


「当たってるじゃん」


「いや、兄としてだな」


「うざい」


「まだ何も聞いてないだろ!」


 由美が笑いながら味噌汁を並べる。


「悠一、朝からひよりを困らせないの」


「母さんまで……」


「だいたい、そうやって聞くから教えてもらえないのよ」


「じゃあ母さんは知ってるのか?」


「さあ?」


 にこりと笑う母。


 悠一の視線が細くなる。


「母さん」


「ほら、ご飯食べなさい。仕事遅れるわよ」


「……絶対知ってるな」


 母は答えない。


 ひよりは少しだけ笑いながら席へ座った。


「お父さん、お醤油取って」


「ん」


 新聞の向こうから父の手が伸びてくる。


「ありがと」


 受け取ろうとしたところで、浩介が新聞を少し下げた。


「ひより」


「なに?」


「昨日の犬、大丈夫だったのか?」


「うん。飼い主さん見つかったよ」


「そうか」


 父はそれだけ言うと、また新聞へ視線を戻した。


 悠一と違って余計なことを聞かない。


(お父さんはこういうところ楽なんだよね)


 そう思った直後。


「飼い主は男か?」


「お父さんまで!?」


 新聞がわずかに揺れた。


 悠一が身を乗り出す。


「男だったのか?」


「なんでそこだけ食いつくの!」


「何歳くらいだ?」


「知らない!」


「昨日一緒にいたのか?」


「ノアの飼い主なんだから一緒にいたに決まってるでしょ!」


「ノア?」


「犬の名前!」


「名前まで聞いたのか?」


「首輪に書いてあったの!」


「飼い主の名前は?」


「……」


 ひよりは箸を止めた。


 まずい。


「ひより?」


「知らない」


「今、一瞬間があったぞ」


「気のせい」


「目逸らしただろ」


「お兄ちゃん仕事遅れるよ!」


「まだ時間は――」


「悠一」


 母の声が少し低くなる。


「はい」


「食べなさい」


「……はい」


 悠一が大人しくなった。


 ひよりは心の中で母へ手を合わせた。


 ただ、味噌汁を飲みながら、昨日聞いた名前が自然と浮かんでくる。


 北条真樹。


(……なんで覚えてるんだろ)


 一度聞いただけなのに。


 珍しい名字だからかもしれない。


 それだけだ。


     ◇ ◇ ◇


「で?」


 登校して教室へ入った瞬間、藤崎千夏に捕まった。


「おはようより先に『で?』って何」


「昨日の続き」


「朝から?」


「朝だから」


「意味分かんない」


 ひよりは鞄を机へ置いた。


 千夏は前の席の椅子を勝手に借り、背もたれを前にして座る。


 肩より少し長い髪が揺れ、期待に満ちた目がひよりへ向けられた。


「詳しく聞くって言ったでしょ」


「話すことないよ」


「あります」


「ないです」


「ありますー」


「なんで千夏が決めるの」


「親友だから」


 昨日と同じ理屈である。


 ひよりが呆れていると、千夏は机へ肘をついた。


「結局、佐伯には渡さなかったんでしょ?」


「うん」


「今日持ってきた?」


「持ってきてない」


「そっか」


 千夏はそれ以上責めなかった。


 その代わり、ひよりの顔をじっと見る。


「……なに?」


「昨日より元気じゃん」


「そう?」


「うん。電話したとき結構へこんでたのに」


「まあ……帰りにちょっと色々あって」


「色々?」


 千夏の目が光った。


(しまった)


 この親友はこういうところだけ異様に鋭い。


「別に大したことじゃないよ」


「へえ」


「何、その顔」


「ひよりが『大したことじゃない』って言うとき、大体なんかある」


「ないって」


「じゃあ話せるよね?」


「……」


「ほら」


 千夏が得意げに笑う。


「もう」


 ひよりは椅子へ座った。


 まだホームルームまでは時間がある。教室には半分ほどしか生徒が来ておらず、あちこちで朝の雑談が交わされていた。


「迷子の犬を見つけたの」


「犬?」


「うん。黒くて、すっごく大きいの」


「怖くなかった?」


「最初はちょっと。でも、すごくいい子だったよ。ノアっていうの」


「名前までつけたの?」


「違うよ! 首輪に書いてあったの」


「ああ」


 千夏が納得する。


「それで、交番に連れていこうと思ってたら、途中で飼い主さんが見つかって」


「よかったじゃん」


「うん」


 思い出すだけで自然と頬が緩んだ。


「本当にかわいかったんだよ。大きいのに甘えん坊で、私が帰ろうとするとついてきちゃって」


「……」


「飼い主さんが呼んでも私のところにいてさ。最後なんて制服の袖を咥えて――」


「ひより」


「なに?」


「めちゃくちゃ嬉しそうじゃん」


「え?」


 指摘され、ひよりは自分の頬へ触れた。


 確かに笑っている。


「だってかわいかったから」


「犬好きだもんね」


「うん。また会えたらいいんだけど」


「近所の犬なら会えるんじゃない?」


「それが、見たことないんだよね」


「散歩の時間が違うとか?」


「そうかも」


 千夏はしばらく頷いていたが、やがて何かに気づいたように眉を上げた。


「ところで」


「ん?」


「飼い主さんって?」


「……」


「なんで黙るの」


「別に」


「男?」


「……」


「男なんだ」


「なんで分かるの!?」


「分かりやすすぎるんだよ、ひよりは」


 千夏が身を乗り出してくる。


「何歳?」


「たぶん同い年くらい」


「高校生?」


「制服着てたから、多分」


「イケメン?」


「……」


「ひより?」


「知らない」


「見たんでしょ?」


「見たけど」


「じゃあ分かるじゃん」


「顔は……まあ……」


 整っていた。


 それは認めるしかない。


「結構かっこよかった、かも」


「おお」


「何、その反応」


「いやいや、失恋した日に迷子の黒犬を拾って、その飼い主がイケメン高校生って」


「失恋してないから!」


 思わず声が大きくなる。


 近くにいたクラスメイトがこちらを見たので、ひよりは慌てて声を落とした。


「……告白してないんだから、失恋じゃない」


「じゃあ何?」


「渡せなかっただけ」


「それを一般的には不戦敗と言います」


「やめて。余計傷つく」


 机へ突っ伏す。


 千夏は笑いながらひよりの頭を撫でた。


「よしよし」


「子供扱いしないで」


「かわいいかわいい」


「雑」


 ひよりが顔を上げると、千夏は楽しそうに笑っていた。


「で、そのイケメン君の名前は?」


「北条真樹」


 答えてから。


 ひよりは固まった。


「……」


「……」


 千夏の口元がゆっくり持ち上がる。


「へえー?」


「違うから」


「私、まだ何も言ってないけど?」


「その顔が言ってる!」


「名前まで知ってるんだー?」


「向こうが勝手に名乗ったの!」


「向こうから?」


「その前に私の名前を聞かれてて……いや、聞かれたっていうか、ノアに自己紹介したのを聞かれてて……」


「ノアに自己紹介したの?」


「そこ拾わないで!」


 千夏が吹き出した。


「かわいすぎるでしょ」


「もう話さない!」


「待って待って。ごめんって」


 笑いながら、千夏がひよりの腕へ絡みつく。


「続き聞かせてよ、ひよりー」


「嫌」


「ひよりちゃーん」


「重い」


「親友でしょ?」


「都合のいい言葉にしないで!」


 腕を振っても離れない。


 むしろさらに密着してくる。


「千夏!」


「いいじゃん。減るもんじゃないし」


「暑い!」


「冬ですー」


 そんなやり取りをしていると、教室の後ろから声が飛んできた。


「朝から仲いいな、お前ら」


 振り返る。


 男子生徒が一人、鞄を肩へかけたまま立っていた。


 橘海斗。


 同じクラスで、席もひよりからそれほど遠くない。明るく誰とでも話せるタイプで、ひよりや千夏とも普段からよく話す。


「海斗、おはよ」


 千夏がひよりへ抱きついたまま言う。


「おはよ。何してんの?」


「ひよりを補給してる」


「意味分かんねえ」


「私も分かんない」


 ひよりが答えると、海斗は笑った。


「天野、今日も大変だな」


「毎日だよ」


「失礼な。こんなかわいい親友に愛されてるんだから喜びなさい」


「愛が重いの」


「贅沢な悩みだな」


 海斗が自分の席へ鞄を置く。


 その何気ない会話の中で、ひよりはいつもの学校へ戻っていった。


 ここでは誰も北条真樹を知らない。


 ノアのことも知らない。


 昨日の出来事だけが、普段の自分から少し切り離されたところにあるように感じた。


 やがてホームルームが始まり、授業が始まる。


 数学。


 現代文。


 体育。


 いつもの一日。


 昼休みには千夏と弁当を食べ、海斗たちとくだらない話をして笑った。


 廊下で一度、颯太の姿も見かけた。


 向こうもひよりに気づいた。


「天野」


「あ、佐伯君」


「おは……じゃないな。もう昼か」


「ふふっ、そうだね」


 颯太が笑う。


 昨日と変わらない。


 それだけで胸が少し痛んだ。


「じゃあ、また」


「うん」


 すれ違う。


 結局、クッキーのことは言えなかった。


 けれど昨日ほど落ち込まなかった。


(……次はちゃんとしよう)


 いつになるか分からない。


 それでも、いつかは自分の気持ちを伝えたい。


 ひよりはそう思った。


     ◇ ◇ ◇


 一方。


 ひよりがいつも通り県立高校で授業を受けていた頃。


 北条真樹もまた、自分の日常へ戻っていた。


 高い塀と広大な敷地に囲まれた私立桜陵学園。


 政財界の有力者や企業経営者、旧家の子女などが数多く通うことで知られる学校である。


 真樹にとっては、それが特別だという感覚すら薄い。


 幼い頃から周囲にいる人間の多くが似たような家庭で育ってきた。


 北条という名字を聞いて態度を変える者も、この学園では外より少ない。


 もっとも、まったくいないわけではないが。


「真樹」


 昼休み。


 教室でスマートフォンを見ていた真樹の机へ、一人の男子生徒が近づいてきた。


 神崎蓮。


 真樹とは中学以前から付き合いのある数少ない友人だ。


「昨日、大変だったらしいな」


「誰から聞いた」


「お前んとこの運転手」


「余計なことを」


「ノア、脱走したんだって?」


「脱走っていうか、門が開いた隙に出た」


「それを脱走って言うんじゃないのか?」


「うるさい」


 蓮は笑いながら向かいの席へ腰を下ろした。


「見つかったならよかったじゃん」


「まあな」


「で?」


「何が」


「なんかあった?」


「何もない」


 真樹はスマートフォンへ視線を戻す。


 蓮はじっとこちらを見ている。


「……何」


「いや?」


「言いたいことあるなら言えよ」


「ノア見つけてくれた女の子がいたって聞いた」


 真樹の指が一瞬止まった。


「……運転手、マジで余計なことしか言わないな」


「女の子だったんだ?」


「だったら何」


「かわいかった?」


「知らねえ」


「見てないの?」


「見たけど」


「じゃあ分かるだろ」


 昨日も似たような会話が別の場所で行われていることを、二人は知らない。


 真樹は面倒そうに息を吐いた。


「普通」


「へえ」


「何だよ」


「真樹が女子を『普通』って言うとき、大体ちゃんと顔見てるよなと思って」


「意味分かんねえ」


「名前は?」


「天野ひより」


 答えてから、真樹は眉を寄せた。


 蓮が笑っている。


「名前まで知ってんじゃん」


「ノアに名乗ってたのが聞こえただけだ」


「ノアに自己紹介したの?」


「……してたな」


「何それ、かわいい」


 その言葉に、真樹はなぜか少しだけ引っかかった。


「別に」


「なんでお前が否定するんだよ」


「否定してねえ」


「今しただろ」


「してない」


 蓮がますます楽しそうに笑う。


「珍しいな」


「何が」


「お前が昨日会っただけの女子の話、こんなにするの」


「お前が聞いてるから答えてるだけだろ」


「はいはい」


 明らかに信じていない返事だった。


 真樹は相手をするのをやめた。


 スマートフォンへ視線を戻す。


 画面には、今朝撮ったノアの写真が表示されていた。


 いつもと変わらない顔。


 昨日あれだけ天野ひよりから離れようとしなかったくせに、今日は何事もなかったように庭で寝転がっていた。


(……あいつ、本当に何が気に入ったんだ)


 真樹にはまだ分からない。


     ◇ ◇ ◇


 放課後。


「ひより、今日どうする?」


 昇降口で靴を履き替えながら、千夏が尋ねた。


「普通に帰るよ」


「寄り道しない?」


「どこ?」


「駅前。新しいクレープ屋できたじゃん」


「あー、行きたい」


「じゃあ決まり」


「でも昨日のクッキー家にあるんだよね」


「それは別腹」


「両方食べる気?」


「もちろん」


「太るよ」


「ひよりも一緒なら怖くない」


「私は巻き込まれないからね」


 二人で笑いながら昇降口を出る。


 そのとき、千夏が「あ」と声を上げた。


「ごめん」


「どうしたの?」


「今日、駅じゃなかった。お母さん迎え来るんだった」


「ええ?」


「買い物付き合えって朝言われてたの忘れてた」


「千夏……」


「ごめん!」


 両手を合わせられる。


「クレープは?」


「明日!」


「本当に?」


「絶対!」


「じゃあ許す」


「ひより大好き!」


「はいはい」


 千夏が勢いよく抱きついてくる。


「ちょっと、学校!」


「いいじゃん」


「みんな見てるから!」


「見せつけてるの」


「誰に!?」


「世界に?」


「意味分かんない!」


 ひよりが引き剥がそうとしていると、後ろから海斗が通りかかった。


「またやってる」


「助けて、海斗」


「無理。藤崎強そう」


「賢明な判断だね、橘君」


「なんで勝ち誇ってるの!」


 結局、迎えの車が来るまで千夏に付き合い、ひよりは一人で帰ることになった。


 校門を出る。


 昨日と同じ道。


 冬の午後の空気は冷たいが、風はそれほど強くない。


 ひよりはマフラーへ口元を埋めながら歩いた。


 自然と昨日のことを思い出す。


(ノア、今日はちゃんと家にいるかな)


 さすがに二日続けて迷子にはならないだろう。


 北条真樹も「次はない」と言っていた。


 あの人なら、今日はしっかり見ているはずだ。


(……北条君)


 名前を思い浮かべる。


 感じが悪い。


 でも、そこまで悪い人でもない。


 それが今の評価だった。


「まあ、会うこともないだろうけど」


 小さく呟く。


 昨日ノアと出会った公園が見えてきた。


 ひよりは無意識にそちらを見る。


 誰もいない。


「……だよね」


 ほんの少しだけ残念だった。


 そのまま通り過ぎようとした。


 公園の横を抜ける。


 角を曲がる。


 そして。


「ワン!」


「……え?」


 聞き覚えのある声だった。


 ひよりは足を止める。


 まさか。


 ゆっくり振り返る。


 道路の向こう。


 黒い大きな身体。


 艶のある毛並み。


「ノア!?」


 思わず声を上げた。


 ノアがこちらへ駆けてくる。


「えっ、ちょっと!」


 昨日と違う。


 今日はちゃんとリードがついている。


 ということは。


「ノア、待て」


 少し離れたところから、聞き覚えのある低い声。


 ノアが止まった。


 けれど尻尾は千切れそうなくらい振られている。


 そのリードを持っている人物を見て、ひよりは目を丸くした。


「……北条君?」


 黒いコート。


 整った黒髪。


 昨日と同じ、どこか不機嫌そうに見える顔。


 北条真樹だった。


「……天野」


 真樹も少し驚いたようにひよりを見る。


「なんで?」


「こっちの台詞だ」


「ノア、また逃げたの!?」


「逃げてねえよ。見れば分かるだろ」


「あ」


 リード。


「散歩?」


「そう」


「この辺まで来るんだ」


「今日はこいつがこっちに来たがった」


「ノアが?」


 ひよりがノアを見る。


 ノアは嬉しそうにこちらを見上げている。


「もしかして……」


 しゃがむ。


「私に会いに来てくれたの?」


 ノアの尻尾がさらに激しく揺れた。


「ノアー!」


 嬉しくなり、ひよりはその大きな首元へ腕を回した。


 ノアも身体を寄せてくる。


「会いたかった!」


 昨日別れたばかりなのに。


 それでも本当に嬉しかった。


「今日もかわいいね」


 頭を撫でる。


 頬を寄せる。


 ノアは大人しく受け入れている。


「……」


 少し離れたところで、真樹が無言でその光景を見ていた。


(……昨日会ったばっかだろ)


 そう思う。


 ノアもノアだ。


 家を出てからずっと、昨日歩いた方向へ行きたがった。


 いつもの散歩道へ曲がろうとしても動かず、結局こちらが折れた。


 まさか本当に会えるとは思っていなかったが。


「ノア、本当に私のこと覚えてたんだ」


 ひよりが嬉しそうに笑う。


 その顔を見て、真樹はなぜか何も言えなくなった。


(……まあ、いいか)


 ノアが嬉しいなら。


 それだけだ。


 ひよりが顔を上げる。


「北条君」


「何」


「ありがとう」


「……何が」


「ノア連れてきてくれて」


「お前に会わせに来たわけじゃない」


「え?」


「散歩」


「あ、そっか」


 ひよりは少し恥ずかしそうに笑った。


「そうだよね」


「……」


 真樹は一瞬だけ視線を逸らした。


(別に、そんな顔することでもないだろ)


 なぜか言い直したくなる。


 けれど、何と言えばいいのか分からない。


「でも、会えてよかった」


 ひよりはすぐに笑った。


「ね、ノア」


 ノアの頭を撫でる。


 真樹はその様子を見ながら、小さく息を吐いた。


「……お前、本当にノア好きだな」


「好きだよ」


 迷いのない即答だった。


「すっごく好き」


「……そう」


「北条君もノアのこと大好きでしょ?」


「は?」


「見てれば分かるよ」


 ひよりは当たり前のように言った。


「昨日だって、見つけたときすごく安心してたし。最初に怪我してないか確認してたし」


「……見てたのかよ」


「目の前にいたからね」


 ひよりが笑う。


「ノアも北条君のこと大好きなんだろうな」


「だったら昨日、お前についていこうとしないだろ」


「それとこれは別じゃない?」


「何が違うんだよ」


「北条君は家族で、私は新しい友達とか?」


「お前、ノアと友達になったつもりなのか」


「ダメ?」


 ひよりがノアへ問いかける。


「私たち友達だよね?」


 ノアが尻尾を振る。


「ほら」


「……何が『ほら』だよ」


「認めてくれた」


「尻尾振っただけだろ」


「嫉妬?」


「するか」


 即答する。


 ひよりが楽しそうに笑った。


「ふふっ」


「何」


「昨日も思ったけど、北条君とノアって仲いいよね」


「普通だろ」


「そうかな」


「そうだよ」


 真樹はすました顔で答えた。


 けれど。


 ひよりがまたノアの首へ抱きつく。


「ノアー」


 ノアも嬉しそうに身体を寄せる。


(……近くないか?)


 ふと思った。


 犬相手に何を考えているのだろう。


(いや、ノアだぞ)


 自分の家族同然の存在である。


 ひよりがノアをかわいがってくれているなら、それでいい。


「北条君?」


「何」


「なんか不機嫌?」


「別に」


「そう?」


「元からこういう顔」


「それ自分で言うんだ」


「うるさい」


 ひよりがまた笑う。


 昨日と同じだった。


 真樹と話しているときの彼女は、よく笑う。


 それが普段からなのかどうか、真樹にはまだ分からない。


「じゃあ私、帰るね」


 ひよりが立ち上がった。


「もう?」


 口から出た。


「え?」


「……いや」


 真樹はわずかに眉を寄せた。


(何言ってんだ、俺)


 別に引き止める理由はない。


「帰るんだろ」


「うん。昨日より遅くなると、お兄ちゃんがうるさいから」


「兄貴?」


「いるの。ものすごくうざいのが」


 口ではそう言いながら、ひよりの表情は柔らかい。


「嫌いなのか?」


「まさか」


 ひよりは即座に首を振った。


「大好きだよ」


「……」


「うざいけど」


「どっちだよ」


「両方」


 迷いなく答える。


「お姉ちゃんもいるんだけど、お姉ちゃんも最近ちょっとうざい」


「そっちも嫌いじゃないんだろ」


「大好き」


「……よく分かんねえ兄妹だな」


「北条君にはいないの? 兄弟」


 聞いてから、ひよりは少しだけ不安になった。


 家族の話を初対面に近い相手へ聞くのは踏み込みすぎただろうか。


 真樹は一瞬だけ黙った。


「……いない」


「そっか」


 それ以上は聞かなかった。


 真樹が少し意外そうにひよりを見る。


「何?」


「いや」


「変なの」


 ひよりはマフラーを整えた。


「じゃあ、今度こそ帰るね」


 ノアの頭を撫でる。


「またね、ノア」


 昨日と同じ言葉。


 けれど今日は少し違う。


 本当にまた会えた。


 だから次もあるかもしれない。


 ひよりは立ち上がり、真樹を見る。


 一瞬迷った。


「……北条君も」


「何」


「またね」


 真樹の目がわずかに見開かれた。


「……ああ」


 短い返事。


 ひよりは笑って手を振り、歩き出した。


 昨日とは違い、ノアはリードで繋がれている。


 だから追いかけてこない。


 それでも何度か振り返ると、そのたびにノアはこちらを見ていた。


 そして、その隣には真樹もいた。


     ◇ ◇ ◇


「……またね、か」


 ひよりの姿が見えなくなったあと、真樹は小さく呟いた。


 昨日は、もう会わないと思っていた。


 今日だって、この道を通ったのはノアがどうしてもこちらへ来たがったからだ。


 偶然。


 ただそれだけ。


 明日も会う保証なんてない。


 真樹はリードを軽く引いた。


「帰るぞ」


 ノアが動かない。


「……おい」


 ノアはひよりが消えた方向を見ている。


「もう帰った」


 尻尾が一度揺れる。


「明日も会えると思ってんのか?」


 ノアがこちらを見上げた。


「知らねえよ」


 そう言いながら歩き出す。


 ノアも今度はついてきた。


 数歩進んだところで、真樹はふと振り返った。


 もちろん、もう誰もいない。


(……何見てんだ、俺)


 すぐ前を向く。


 天野ひより。


 昨日まで存在すら知らなかった少女。


 今日もう一度会っただけ。


 それなのに、昨日より少しだけ彼女について知った。


 兄と姉がいること。


 口ではうざいと言いながら、その二人を大好きだと迷いなく言えること。


 ノアが好きなこと。


 そして。


『北条君も、またね』


 自分にもそう言ったこと。


「……別に」


 誰に対してでもなく呟く。


 また会ったところで、何かが変わるわけではない。


 そう思っているのに。


 真樹は帰り道を選ぶとき、明日もこの辺りを歩くかもしれないという考えを、完全には否定しなかった。


 その隣では、ノアがどこか満足そうに歩いていた。

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