第3話 もう会わないと思っていたのに
翌朝、天野ひよりが目を覚まして最初に思い出したのは、昨日渡せなかったチョコレートクッキーのことだった。
正確には、机の上に置いたままの白いリボンの箱が視界へ入ったせいで、強制的に思い出させられた。
「……おはよう、昨日の私の勇気の残骸」
ベッドの上で膝を抱えながら呟く。
もちろん箱から返事はない。
昨夜は夕食後、美月に散々問い詰められた。
悠一ほど露骨ではなかったものの、「何も聞かないから」と言いながらひよりの部屋へ入ってきて、そのまま三十分近く居座ったのだから、姉も大概である。
最終的には、
『渡せなかっただけ。佐伯君に何かされたわけじゃないよ』
と説明したところでようやく安心してくれた。
その後、美月はベッドに腰掛けたまま、
『じゃあ明日渡せば?』
と簡単に言った。
『無理』
『なんで?』
『バレンタイン終わってるし』
『一日くらい変わらないでしょ』
『変わるよ!』
『じゃあ今日だったら渡せたの?』
『……』
『ひより?』
『おやすみ、お姉ちゃん』
『話終わってないんだけど』
結局、答えられなかった。
昨日に戻れたとして、周囲に誰もいなかったら渡せただろうか。
分からない。
また何か理由をつけて逃げたかもしれない。
「……はぁ」
朝からため息が出る。
それでも学校は待ってくれない。
ひよりはベッドから降り、カーテンを開けた。
冬の朝の白い光が部屋へ差し込む。窓ガラスの向こうには雲の少ない青空が広がっており、昨日よりは少し暖かくなりそうだった。
制服へ着替え、髪を整える。
机の上の紙袋をどうするか迷った末、そのまま置いていくことにした。
(帰ってきたら食べよう)
もう颯太へ渡すことはない。
そう決めた。
昨日渡せなかったものを翌日に持っていく勇気なんて、今の自分にはない。
階段を下りると、ダイニングから朝食の匂いが漂ってきた。
「おはよう」
「おはよう、ひより」
母の由美がキッチンから振り返る。
父の浩介はすでに食卓で新聞を読んでおり、向かいには悠一が座っていた。
「おはよう、ひより」
「おはよ」
普通に返事をして席へ向かおうとしたところで、悠一がこちらを見た。
「昨日の――」
「朝からその話したら嫌いになる」
「まだ何も言ってないだろ」
「顔に書いてある」
「俺の顔に何が書いてあるんだ」
「『昨日のクッキーは誰に渡す予定だったんだ』」
「……」
悠一が黙った。
「当たってるじゃん」
「いや、兄としてだな」
「うざい」
「まだ何も聞いてないだろ!」
由美が笑いながら味噌汁を並べる。
「悠一、朝からひよりを困らせないの」
「母さんまで……」
「だいたい、そうやって聞くから教えてもらえないのよ」
「じゃあ母さんは知ってるのか?」
「さあ?」
にこりと笑う母。
悠一の視線が細くなる。
「母さん」
「ほら、ご飯食べなさい。仕事遅れるわよ」
「……絶対知ってるな」
母は答えない。
ひよりは少しだけ笑いながら席へ座った。
「お父さん、お醤油取って」
「ん」
新聞の向こうから父の手が伸びてくる。
「ありがと」
受け取ろうとしたところで、浩介が新聞を少し下げた。
「ひより」
「なに?」
「昨日の犬、大丈夫だったのか?」
「うん。飼い主さん見つかったよ」
「そうか」
父はそれだけ言うと、また新聞へ視線を戻した。
悠一と違って余計なことを聞かない。
(お父さんはこういうところ楽なんだよね)
そう思った直後。
「飼い主は男か?」
「お父さんまで!?」
新聞がわずかに揺れた。
悠一が身を乗り出す。
「男だったのか?」
「なんでそこだけ食いつくの!」
「何歳くらいだ?」
「知らない!」
「昨日一緒にいたのか?」
「ノアの飼い主なんだから一緒にいたに決まってるでしょ!」
「ノア?」
「犬の名前!」
「名前まで聞いたのか?」
「首輪に書いてあったの!」
「飼い主の名前は?」
「……」
ひよりは箸を止めた。
まずい。
「ひより?」
「知らない」
「今、一瞬間があったぞ」
「気のせい」
「目逸らしただろ」
「お兄ちゃん仕事遅れるよ!」
「まだ時間は――」
「悠一」
母の声が少し低くなる。
「はい」
「食べなさい」
「……はい」
悠一が大人しくなった。
ひよりは心の中で母へ手を合わせた。
ただ、味噌汁を飲みながら、昨日聞いた名前が自然と浮かんでくる。
北条真樹。
(……なんで覚えてるんだろ)
一度聞いただけなのに。
珍しい名字だからかもしれない。
それだけだ。
◇ ◇ ◇
「で?」
登校して教室へ入った瞬間、藤崎千夏に捕まった。
「おはようより先に『で?』って何」
「昨日の続き」
「朝から?」
「朝だから」
「意味分かんない」
ひよりは鞄を机へ置いた。
千夏は前の席の椅子を勝手に借り、背もたれを前にして座る。
肩より少し長い髪が揺れ、期待に満ちた目がひよりへ向けられた。
「詳しく聞くって言ったでしょ」
「話すことないよ」
「あります」
「ないです」
「ありますー」
「なんで千夏が決めるの」
「親友だから」
昨日と同じ理屈である。
ひよりが呆れていると、千夏は机へ肘をついた。
「結局、佐伯には渡さなかったんでしょ?」
「うん」
「今日持ってきた?」
「持ってきてない」
「そっか」
千夏はそれ以上責めなかった。
その代わり、ひよりの顔をじっと見る。
「……なに?」
「昨日より元気じゃん」
「そう?」
「うん。電話したとき結構へこんでたのに」
「まあ……帰りにちょっと色々あって」
「色々?」
千夏の目が光った。
(しまった)
この親友はこういうところだけ異様に鋭い。
「別に大したことじゃないよ」
「へえ」
「何、その顔」
「ひよりが『大したことじゃない』って言うとき、大体なんかある」
「ないって」
「じゃあ話せるよね?」
「……」
「ほら」
千夏が得意げに笑う。
「もう」
ひよりは椅子へ座った。
まだホームルームまでは時間がある。教室には半分ほどしか生徒が来ておらず、あちこちで朝の雑談が交わされていた。
「迷子の犬を見つけたの」
「犬?」
「うん。黒くて、すっごく大きいの」
「怖くなかった?」
「最初はちょっと。でも、すごくいい子だったよ。ノアっていうの」
「名前までつけたの?」
「違うよ! 首輪に書いてあったの」
「ああ」
千夏が納得する。
「それで、交番に連れていこうと思ってたら、途中で飼い主さんが見つかって」
「よかったじゃん」
「うん」
思い出すだけで自然と頬が緩んだ。
「本当にかわいかったんだよ。大きいのに甘えん坊で、私が帰ろうとするとついてきちゃって」
「……」
「飼い主さんが呼んでも私のところにいてさ。最後なんて制服の袖を咥えて――」
「ひより」
「なに?」
「めちゃくちゃ嬉しそうじゃん」
「え?」
指摘され、ひよりは自分の頬へ触れた。
確かに笑っている。
「だってかわいかったから」
「犬好きだもんね」
「うん。また会えたらいいんだけど」
「近所の犬なら会えるんじゃない?」
「それが、見たことないんだよね」
「散歩の時間が違うとか?」
「そうかも」
千夏はしばらく頷いていたが、やがて何かに気づいたように眉を上げた。
「ところで」
「ん?」
「飼い主さんって?」
「……」
「なんで黙るの」
「別に」
「男?」
「……」
「男なんだ」
「なんで分かるの!?」
「分かりやすすぎるんだよ、ひよりは」
千夏が身を乗り出してくる。
「何歳?」
「たぶん同い年くらい」
「高校生?」
「制服着てたから、多分」
「イケメン?」
「……」
「ひより?」
「知らない」
「見たんでしょ?」
「見たけど」
「じゃあ分かるじゃん」
「顔は……まあ……」
整っていた。
それは認めるしかない。
「結構かっこよかった、かも」
「おお」
「何、その反応」
「いやいや、失恋した日に迷子の黒犬を拾って、その飼い主がイケメン高校生って」
「失恋してないから!」
思わず声が大きくなる。
近くにいたクラスメイトがこちらを見たので、ひよりは慌てて声を落とした。
「……告白してないんだから、失恋じゃない」
「じゃあ何?」
「渡せなかっただけ」
「それを一般的には不戦敗と言います」
「やめて。余計傷つく」
机へ突っ伏す。
千夏は笑いながらひよりの頭を撫でた。
「よしよし」
「子供扱いしないで」
「かわいいかわいい」
「雑」
ひよりが顔を上げると、千夏は楽しそうに笑っていた。
「で、そのイケメン君の名前は?」
「北条真樹」
答えてから。
ひよりは固まった。
「……」
「……」
千夏の口元がゆっくり持ち上がる。
「へえー?」
「違うから」
「私、まだ何も言ってないけど?」
「その顔が言ってる!」
「名前まで知ってるんだー?」
「向こうが勝手に名乗ったの!」
「向こうから?」
「その前に私の名前を聞かれてて……いや、聞かれたっていうか、ノアに自己紹介したのを聞かれてて……」
「ノアに自己紹介したの?」
「そこ拾わないで!」
千夏が吹き出した。
「かわいすぎるでしょ」
「もう話さない!」
「待って待って。ごめんって」
笑いながら、千夏がひよりの腕へ絡みつく。
「続き聞かせてよ、ひよりー」
「嫌」
「ひよりちゃーん」
「重い」
「親友でしょ?」
「都合のいい言葉にしないで!」
腕を振っても離れない。
むしろさらに密着してくる。
「千夏!」
「いいじゃん。減るもんじゃないし」
「暑い!」
「冬ですー」
そんなやり取りをしていると、教室の後ろから声が飛んできた。
「朝から仲いいな、お前ら」
振り返る。
男子生徒が一人、鞄を肩へかけたまま立っていた。
橘海斗。
同じクラスで、席もひよりからそれほど遠くない。明るく誰とでも話せるタイプで、ひよりや千夏とも普段からよく話す。
「海斗、おはよ」
千夏がひよりへ抱きついたまま言う。
「おはよ。何してんの?」
「ひよりを補給してる」
「意味分かんねえ」
「私も分かんない」
ひよりが答えると、海斗は笑った。
「天野、今日も大変だな」
「毎日だよ」
「失礼な。こんなかわいい親友に愛されてるんだから喜びなさい」
「愛が重いの」
「贅沢な悩みだな」
海斗が自分の席へ鞄を置く。
その何気ない会話の中で、ひよりはいつもの学校へ戻っていった。
ここでは誰も北条真樹を知らない。
ノアのことも知らない。
昨日の出来事だけが、普段の自分から少し切り離されたところにあるように感じた。
やがてホームルームが始まり、授業が始まる。
数学。
現代文。
体育。
いつもの一日。
昼休みには千夏と弁当を食べ、海斗たちとくだらない話をして笑った。
廊下で一度、颯太の姿も見かけた。
向こうもひよりに気づいた。
「天野」
「あ、佐伯君」
「おは……じゃないな。もう昼か」
「ふふっ、そうだね」
颯太が笑う。
昨日と変わらない。
それだけで胸が少し痛んだ。
「じゃあ、また」
「うん」
すれ違う。
結局、クッキーのことは言えなかった。
けれど昨日ほど落ち込まなかった。
(……次はちゃんとしよう)
いつになるか分からない。
それでも、いつかは自分の気持ちを伝えたい。
ひよりはそう思った。
◇ ◇ ◇
一方。
ひよりがいつも通り県立高校で授業を受けていた頃。
北条真樹もまた、自分の日常へ戻っていた。
高い塀と広大な敷地に囲まれた私立桜陵学園。
政財界の有力者や企業経営者、旧家の子女などが数多く通うことで知られる学校である。
真樹にとっては、それが特別だという感覚すら薄い。
幼い頃から周囲にいる人間の多くが似たような家庭で育ってきた。
北条という名字を聞いて態度を変える者も、この学園では外より少ない。
もっとも、まったくいないわけではないが。
「真樹」
昼休み。
教室でスマートフォンを見ていた真樹の机へ、一人の男子生徒が近づいてきた。
神崎蓮。
真樹とは中学以前から付き合いのある数少ない友人だ。
「昨日、大変だったらしいな」
「誰から聞いた」
「お前んとこの運転手」
「余計なことを」
「ノア、脱走したんだって?」
「脱走っていうか、門が開いた隙に出た」
「それを脱走って言うんじゃないのか?」
「うるさい」
蓮は笑いながら向かいの席へ腰を下ろした。
「見つかったならよかったじゃん」
「まあな」
「で?」
「何が」
「なんかあった?」
「何もない」
真樹はスマートフォンへ視線を戻す。
蓮はじっとこちらを見ている。
「……何」
「いや?」
「言いたいことあるなら言えよ」
「ノア見つけてくれた女の子がいたって聞いた」
真樹の指が一瞬止まった。
「……運転手、マジで余計なことしか言わないな」
「女の子だったんだ?」
「だったら何」
「かわいかった?」
「知らねえ」
「見てないの?」
「見たけど」
「じゃあ分かるだろ」
昨日も似たような会話が別の場所で行われていることを、二人は知らない。
真樹は面倒そうに息を吐いた。
「普通」
「へえ」
「何だよ」
「真樹が女子を『普通』って言うとき、大体ちゃんと顔見てるよなと思って」
「意味分かんねえ」
「名前は?」
「天野ひより」
答えてから、真樹は眉を寄せた。
蓮が笑っている。
「名前まで知ってんじゃん」
「ノアに名乗ってたのが聞こえただけだ」
「ノアに自己紹介したの?」
「……してたな」
「何それ、かわいい」
その言葉に、真樹はなぜか少しだけ引っかかった。
「別に」
「なんでお前が否定するんだよ」
「否定してねえ」
「今しただろ」
「してない」
蓮がますます楽しそうに笑う。
「珍しいな」
「何が」
「お前が昨日会っただけの女子の話、こんなにするの」
「お前が聞いてるから答えてるだけだろ」
「はいはい」
明らかに信じていない返事だった。
真樹は相手をするのをやめた。
スマートフォンへ視線を戻す。
画面には、今朝撮ったノアの写真が表示されていた。
いつもと変わらない顔。
昨日あれだけ天野ひよりから離れようとしなかったくせに、今日は何事もなかったように庭で寝転がっていた。
(……あいつ、本当に何が気に入ったんだ)
真樹にはまだ分からない。
◇ ◇ ◇
放課後。
「ひより、今日どうする?」
昇降口で靴を履き替えながら、千夏が尋ねた。
「普通に帰るよ」
「寄り道しない?」
「どこ?」
「駅前。新しいクレープ屋できたじゃん」
「あー、行きたい」
「じゃあ決まり」
「でも昨日のクッキー家にあるんだよね」
「それは別腹」
「両方食べる気?」
「もちろん」
「太るよ」
「ひよりも一緒なら怖くない」
「私は巻き込まれないからね」
二人で笑いながら昇降口を出る。
そのとき、千夏が「あ」と声を上げた。
「ごめん」
「どうしたの?」
「今日、駅じゃなかった。お母さん迎え来るんだった」
「ええ?」
「買い物付き合えって朝言われてたの忘れてた」
「千夏……」
「ごめん!」
両手を合わせられる。
「クレープは?」
「明日!」
「本当に?」
「絶対!」
「じゃあ許す」
「ひより大好き!」
「はいはい」
千夏が勢いよく抱きついてくる。
「ちょっと、学校!」
「いいじゃん」
「みんな見てるから!」
「見せつけてるの」
「誰に!?」
「世界に?」
「意味分かんない!」
ひよりが引き剥がそうとしていると、後ろから海斗が通りかかった。
「またやってる」
「助けて、海斗」
「無理。藤崎強そう」
「賢明な判断だね、橘君」
「なんで勝ち誇ってるの!」
結局、迎えの車が来るまで千夏に付き合い、ひよりは一人で帰ることになった。
校門を出る。
昨日と同じ道。
冬の午後の空気は冷たいが、風はそれほど強くない。
ひよりはマフラーへ口元を埋めながら歩いた。
自然と昨日のことを思い出す。
(ノア、今日はちゃんと家にいるかな)
さすがに二日続けて迷子にはならないだろう。
北条真樹も「次はない」と言っていた。
あの人なら、今日はしっかり見ているはずだ。
(……北条君)
名前を思い浮かべる。
感じが悪い。
でも、そこまで悪い人でもない。
それが今の評価だった。
「まあ、会うこともないだろうけど」
小さく呟く。
昨日ノアと出会った公園が見えてきた。
ひよりは無意識にそちらを見る。
誰もいない。
「……だよね」
ほんの少しだけ残念だった。
そのまま通り過ぎようとした。
公園の横を抜ける。
角を曲がる。
そして。
「ワン!」
「……え?」
聞き覚えのある声だった。
ひよりは足を止める。
まさか。
ゆっくり振り返る。
道路の向こう。
黒い大きな身体。
艶のある毛並み。
「ノア!?」
思わず声を上げた。
ノアがこちらへ駆けてくる。
「えっ、ちょっと!」
昨日と違う。
今日はちゃんとリードがついている。
ということは。
「ノア、待て」
少し離れたところから、聞き覚えのある低い声。
ノアが止まった。
けれど尻尾は千切れそうなくらい振られている。
そのリードを持っている人物を見て、ひよりは目を丸くした。
「……北条君?」
黒いコート。
整った黒髪。
昨日と同じ、どこか不機嫌そうに見える顔。
北条真樹だった。
「……天野」
真樹も少し驚いたようにひよりを見る。
「なんで?」
「こっちの台詞だ」
「ノア、また逃げたの!?」
「逃げてねえよ。見れば分かるだろ」
「あ」
リード。
「散歩?」
「そう」
「この辺まで来るんだ」
「今日はこいつがこっちに来たがった」
「ノアが?」
ひよりがノアを見る。
ノアは嬉しそうにこちらを見上げている。
「もしかして……」
しゃがむ。
「私に会いに来てくれたの?」
ノアの尻尾がさらに激しく揺れた。
「ノアー!」
嬉しくなり、ひよりはその大きな首元へ腕を回した。
ノアも身体を寄せてくる。
「会いたかった!」
昨日別れたばかりなのに。
それでも本当に嬉しかった。
「今日もかわいいね」
頭を撫でる。
頬を寄せる。
ノアは大人しく受け入れている。
「……」
少し離れたところで、真樹が無言でその光景を見ていた。
(……昨日会ったばっかだろ)
そう思う。
ノアもノアだ。
家を出てからずっと、昨日歩いた方向へ行きたがった。
いつもの散歩道へ曲がろうとしても動かず、結局こちらが折れた。
まさか本当に会えるとは思っていなかったが。
「ノア、本当に私のこと覚えてたんだ」
ひよりが嬉しそうに笑う。
その顔を見て、真樹はなぜか何も言えなくなった。
(……まあ、いいか)
ノアが嬉しいなら。
それだけだ。
ひよりが顔を上げる。
「北条君」
「何」
「ありがとう」
「……何が」
「ノア連れてきてくれて」
「お前に会わせに来たわけじゃない」
「え?」
「散歩」
「あ、そっか」
ひよりは少し恥ずかしそうに笑った。
「そうだよね」
「……」
真樹は一瞬だけ視線を逸らした。
(別に、そんな顔することでもないだろ)
なぜか言い直したくなる。
けれど、何と言えばいいのか分からない。
「でも、会えてよかった」
ひよりはすぐに笑った。
「ね、ノア」
ノアの頭を撫でる。
真樹はその様子を見ながら、小さく息を吐いた。
「……お前、本当にノア好きだな」
「好きだよ」
迷いのない即答だった。
「すっごく好き」
「……そう」
「北条君もノアのこと大好きでしょ?」
「は?」
「見てれば分かるよ」
ひよりは当たり前のように言った。
「昨日だって、見つけたときすごく安心してたし。最初に怪我してないか確認してたし」
「……見てたのかよ」
「目の前にいたからね」
ひよりが笑う。
「ノアも北条君のこと大好きなんだろうな」
「だったら昨日、お前についていこうとしないだろ」
「それとこれは別じゃない?」
「何が違うんだよ」
「北条君は家族で、私は新しい友達とか?」
「お前、ノアと友達になったつもりなのか」
「ダメ?」
ひよりがノアへ問いかける。
「私たち友達だよね?」
ノアが尻尾を振る。
「ほら」
「……何が『ほら』だよ」
「認めてくれた」
「尻尾振っただけだろ」
「嫉妬?」
「するか」
即答する。
ひよりが楽しそうに笑った。
「ふふっ」
「何」
「昨日も思ったけど、北条君とノアって仲いいよね」
「普通だろ」
「そうかな」
「そうだよ」
真樹はすました顔で答えた。
けれど。
ひよりがまたノアの首へ抱きつく。
「ノアー」
ノアも嬉しそうに身体を寄せる。
(……近くないか?)
ふと思った。
犬相手に何を考えているのだろう。
(いや、ノアだぞ)
自分の家族同然の存在である。
ひよりがノアをかわいがってくれているなら、それでいい。
「北条君?」
「何」
「なんか不機嫌?」
「別に」
「そう?」
「元からこういう顔」
「それ自分で言うんだ」
「うるさい」
ひよりがまた笑う。
昨日と同じだった。
真樹と話しているときの彼女は、よく笑う。
それが普段からなのかどうか、真樹にはまだ分からない。
「じゃあ私、帰るね」
ひよりが立ち上がった。
「もう?」
口から出た。
「え?」
「……いや」
真樹はわずかに眉を寄せた。
(何言ってんだ、俺)
別に引き止める理由はない。
「帰るんだろ」
「うん。昨日より遅くなると、お兄ちゃんがうるさいから」
「兄貴?」
「いるの。ものすごくうざいのが」
口ではそう言いながら、ひよりの表情は柔らかい。
「嫌いなのか?」
「まさか」
ひよりは即座に首を振った。
「大好きだよ」
「……」
「うざいけど」
「どっちだよ」
「両方」
迷いなく答える。
「お姉ちゃんもいるんだけど、お姉ちゃんも最近ちょっとうざい」
「そっちも嫌いじゃないんだろ」
「大好き」
「……よく分かんねえ兄妹だな」
「北条君にはいないの? 兄弟」
聞いてから、ひよりは少しだけ不安になった。
家族の話を初対面に近い相手へ聞くのは踏み込みすぎただろうか。
真樹は一瞬だけ黙った。
「……いない」
「そっか」
それ以上は聞かなかった。
真樹が少し意外そうにひよりを見る。
「何?」
「いや」
「変なの」
ひよりはマフラーを整えた。
「じゃあ、今度こそ帰るね」
ノアの頭を撫でる。
「またね、ノア」
昨日と同じ言葉。
けれど今日は少し違う。
本当にまた会えた。
だから次もあるかもしれない。
ひよりは立ち上がり、真樹を見る。
一瞬迷った。
「……北条君も」
「何」
「またね」
真樹の目がわずかに見開かれた。
「……ああ」
短い返事。
ひよりは笑って手を振り、歩き出した。
昨日とは違い、ノアはリードで繋がれている。
だから追いかけてこない。
それでも何度か振り返ると、そのたびにノアはこちらを見ていた。
そして、その隣には真樹もいた。
◇ ◇ ◇
「……またね、か」
ひよりの姿が見えなくなったあと、真樹は小さく呟いた。
昨日は、もう会わないと思っていた。
今日だって、この道を通ったのはノアがどうしてもこちらへ来たがったからだ。
偶然。
ただそれだけ。
明日も会う保証なんてない。
真樹はリードを軽く引いた。
「帰るぞ」
ノアが動かない。
「……おい」
ノアはひよりが消えた方向を見ている。
「もう帰った」
尻尾が一度揺れる。
「明日も会えると思ってんのか?」
ノアがこちらを見上げた。
「知らねえよ」
そう言いながら歩き出す。
ノアも今度はついてきた。
数歩進んだところで、真樹はふと振り返った。
もちろん、もう誰もいない。
(……何見てんだ、俺)
すぐ前を向く。
天野ひより。
昨日まで存在すら知らなかった少女。
今日もう一度会っただけ。
それなのに、昨日より少しだけ彼女について知った。
兄と姉がいること。
口ではうざいと言いながら、その二人を大好きだと迷いなく言えること。
ノアが好きなこと。
そして。
『北条君も、またね』
自分にもそう言ったこと。
「……別に」
誰に対してでもなく呟く。
また会ったところで、何かが変わるわけではない。
そう思っているのに。
真樹は帰り道を選ぶとき、明日もこの辺りを歩くかもしれないという考えを、完全には否定しなかった。
その隣では、ノアがどこか満足そうに歩いていた。




