第2話 名前も知らない、感じの悪い人
夕暮れの住宅街で、天野ひよりは見知らぬ少年と向かい合っていた。
正確には、少年との間に一頭の大きな黒犬――ノアを挟んでいる。
飼い主らしき少年が見つかったのだから、ひよりの役目はもう終わったはずだった。迷子になっていたノアを無事に引き渡し、「それじゃあ」と言って家へ帰ればいい。
それなのに当のノアは、飼い主のもとへ戻るどころか、ひよりの脚へぴったりと身体を寄せたまま離れようとしなかった。
「……お前は誰の味方だよ」
少年が呆れたように呟く。
ノアは聞こえているはずなのに、ひよりを見上げながら尻尾を振っている。
「私の味方みたいですね」
「調子に乗るな」
間髪入れずに返され、ひよりは思わず笑ってしまった。
ついさっきまで「感じの悪い人」と思っていたのに、ノアを相手にしている少年を見ていると、最初に抱いた印象が少しずつ揺らいでいく。
言い方はぶっきらぼうだし、初対面の相手へ「誰?」と聞くような人ではある。
けれど、ノアを見る目は優しい。
見つけた直後も怒るより先に身体を確認していたし、頭を撫でる手つきにも慣れと親しさがあった。
(本当に大切なんだろうな)
そう思いながらノアの頭を撫でていると、少年がこちらへ手を伸ばした。
「帰るぞ、ノア」
首輪へ触れようとする。
ところが。
ノアは、ひょいっと身体をずらした。
「……」
「……」
少年の手が空を切った。
ひよりは口元を押さえる。
「今、笑っただろ」
「笑ってません」
「顔が笑ってる」
「これは、その……」
言い訳を探している間にも、ノアはひよりの背後へ回り込んだ。
大きな身体なので全然隠れられていない。
「ふっ……」
「笑ってんじゃねえか」
「だ、だって……!」
耐えられなかった。
「ノア、全然隠れてない……!」
ひよりが笑いながら振り返ると、ノアは満足そうな顔をしている。
少年は深いため息をついた。
「何やってんだ、お前」
そう言いながらも、無理やり引っ張ろうとはしない。
ひよりは笑いを収めながらノアの首元へ手を添えた。
「ほら、ノア。飼い主さんのところに戻らないと」
するとノアはひよりの手へ鼻先を押しつける。
「……そんな顔されても」
困る。
かわいい。
ものすごくかわいい。
しかし、このままでは帰れない。
「お家に帰ろう?」
少しだけしゃがみ、ノアと目線を近づける。
「飼い主さん、ずっと探してたみたいだよ」
「……飼い主さんって」
少年がぼそりと言った。
「え?」
「いや」
少年は何でもないように視線を逸らした。
その反応の意味が分からず、ひよりは首を傾げる。
「じゃあ……お兄さん?」
「同い年くらいだろ」
「じゃあ、あなた?」
「なんでそうなるんだよ」
「名前知らないんだから仕方ないじゃないですか」
ひよりが言い返すと、少年は一瞬黙った。
確かに、とでも思ったのだろうか。
けれど自分から名乗る気配はない。
(なんなの、この人)
ひよりも少しむっとする。
こちらだって名前を聞こうとしたわけではない。
単にノアへ説明するための呼び方に困っただけだ。
そもそも、もう二度と会わない可能性のほうが高い相手である。
名前を知ったところで仕方ない。
「とにかく」
ひよりはノアの頬を両手で優しく挟んだ。
「ちゃんと帰るんだよ?」
ノアがじっとひよりを見つめる。
黒い瞳に自分の顔が小さく映っている。
「また勝手にいなくなったら、この人が心配するから」
「この人って……」
「名前知らないので」
「……」
少年が黙った。
ほんの少しだけ勝った気がして、ひよりは内心で満足する。
ノアの頭を最後にもう一度撫で、立ち上がった。
「じゃあ、私は帰ります」
「ああ」
少年が短く答える。
「ノア、ばいばい」
手を振ると、ノアの尻尾が大きく揺れた。
名残惜しい。
ほんの少し一緒にいただけなのに、不思議なくらいそう思った。
(また会えたらいいな)
けれど、口にはしなかった。
飼い主も見つかったのだから、ノアが一頭でこの辺りを歩いていることなど、もうないだろう。
ひよりは踵を返した。
一歩、二歩。
家へ向かって歩き出す。
そして十歩も進まないうちに、背後から足音が聞こえてきた。
人間のものではない。
爪が舗装路へ触れる軽い音。
「……まさか」
振り返る。
ノアがいた。
「ノア!?」
当然のような顔でついてきている。
そのさらに後ろを、少年が歩いていた。
先ほどよりも明らかに不機嫌そうな顔で。
「えっと……」
「……」
「私、呼んでないですよ?」
「分かってる」
「じゃあ、なんで」
「俺が聞きたい」
少年がノアを見る。
「ノア、帰るぞ」
ノアは立ち止まった。
ひよりも立ち止まる。
少年も止まる。
三者の間に妙な沈黙が生まれた。
冷たい風が道路を抜けていく。
ひよりの髪が頬へかかり、それを耳へかけながらノアを見る。
「……もしかして、私についてきたいの?」
ノアの尻尾が振られた。
「ええ……」
嬉しい。
嬉しいけれど困る。
ちらりと少年を見ると、彼は目を細めてノアを見ていた。
「お前、初対面だろ」
ノアは答えない。
「俺よりそっち選ぶのか?」
「選ぶって……」
「お前には聞いてない」
「分かってますよ」
ひよりも少し口を尖らせる。
少年はしばらく考えていたようだが、やがて息を吐いた。
「……家、どっち」
「え?」
「家」
「なんでですか」
「こいつがついていくから」
「いやいやいや」
ひよりは慌てて両手を振った。
「ダメですよ。知らない人に家教えるの」
「俺も知らない奴の家なんか興味ない」
「だったら聞かないでください」
「ノアを連れて帰るためだろ」
「だったらあなたがノアを連れて帰ればいいじゃないですか」
「それができてたら、こんなことになってない」
少年が視線を落とす。
ノアはひよりの横で尻尾を振っている。
「……確かに」
ひよりも困った。
少年がリードを持っていれば話は簡単だっただろう。しかしノアはどこかから抜け出してきたらしく、首輪はあってもリードはついていない。
「抱っこは?」
「こいつ何キロあると思ってんだ」
「ですよね」
見るからに無理である。
「じゃあ、おやつで釣るとか」
「今持ってない」
「あ」
そこで、ひよりは紙袋へ視線を落とした。
少年も同じものを見る。
「それは?」
「これはダメです」
「まだ何も言ってないだろ」
「チョコレートクッキーなので、ノアにはあげられません」
「……チョコ?」
なぜか少年の視線が紙袋で止まった。
「はい」
「今日、バレンタインだから?」
「……そうですけど」
「ふうん」
それだけ言って、少年は視線を逸らした。
何だろう。
少し気になったが、わざわざ説明するようなことでもない。
ひよりは紙袋を身体の前へ抱え直した。
その仕草を少年が一瞬見ていたことには気づかなかった。
(渡せなかったやつか?)
真樹はそう思ったものの、口には出さなかった。
見知らぬ女子が誰にチョコを渡そうとしていたかなど、自分には関係ない。
それより問題はノアだ。
普段から人嫌いというわけではない。散歩中に誰かが触りたがれば、相手が無茶なことをしない限り大人しくしている。
だが、ここまで初対面の人間へ懐くことは珍しかった。
(何がそんなに気に入ったんだよ)
真樹には分からない。
ノアは昔から人を見る。
嫌な相手には近づかないし、真樹が信用していない人間には妙に警戒することもある。
だからこそ、この状況が不思議だった。
目の前の少女。
どこにでもいそうな県立高校の制服。特別派手な格好をしているわけでもない。
先ほどから表情がころころ変わる。
警戒したり、怒ったり、笑ったり、困ったり。
そして何より、真樹のことを知らないらしい。
(……まあ、別に知らなくていいけど)
それも少し珍しかった。
名字を名乗ったわけではないから当然といえば当然なのだが、学校の制服を見ただけで態度を変える人間もいる。
目の前の少女には、そういう様子がない。
「……あの」
少女の声で、真樹は思考を切った。
「何」
「もしかして、家って遠いんですか?」
「ここからなら歩いて二十分くらい」
「意外と近い」
「意外ってなんだよ」
「なんとなく」
少女が周囲を見回す。
それからノアを見る。
「じゃあ、途中まで一緒に歩きます?」
「は?」
「私がそっち方面に歩けば、ノアもついてくるかもしれないし」
「お前の家、逆じゃないのか」
「逆です」
「だったらいい」
真樹は即座に断った。
「でも」
「もう暗くなるだろ」
空を見上げる。
冬の日は短い。青さを残していた空も、いつの間にか濃い藍色へ変わり始めている。
「わざわざ遠回りして帰る必要ない」
「……」
少女が少し驚いたような顔をした。
「何」
「いえ」
「言えよ」
「思ってたより優しいんだなって」
「は?」
今度は真樹が眉を寄せた。
少女は慌てて手を振る。
「いや、最初がちょっと感じ悪かったから!」
「それ、本人に言うか普通」
「あ」
少女の顔が固まった。
「……すみません」
「遅いだろ」
「でも最初に『誰?』って言ったのそっちじゃないですか」
「知らない奴がノアと一緒にいたんだから警戒するだろ」
「それは……まあ、そうですけど」
「だろ」
「でも言い方ってあると思います」
「面倒くさ」
「なっ……!」
少女の眉が吊り上がる。
真樹はわずかに口元を緩めた。
からかうつもりはなかった。
けれど反応が分かりやすい。
「やっぱり感じ悪い!」
「さっきから本人に言いすぎだろ」
「だって本当に感じ悪いんだもん!」
「お前も大概だぞ」
「私は普通です!」
「初対面の相手に感じ悪いって二回も言う奴のどこが普通なんだよ」
「それはあなたが……!」
言い返そうとして、ひよりは口を閉じた。
(……私、何やってるんだろ)
初対面の男子と道端で言い合っている。
学校だったら絶対にしない。
相手にどう思われるだろうとか、周りに見られたらどうしようとか、そんなことばかり気にしてしまうはずなのに。
今は不思議と口から言葉が出てくる。
どうせもう会わない相手だからだろうか。
それともノアがいるからだろうか。
「……まあ、いいです」
「何が」
「なんでもありません」
ひよりはぷいっと顔を逸らした。
そのとき、スマートフォンが震えた。
「あ」
取り出して画面を見る。
母からだった。
『もう帰ってくる?』
時刻を確認して、ひよりは目を見開いた。
「やばっ」
「何」
「思ったより遅くなってる」
ノアと出会ってから、かなり時間が経っていたらしい。
母から連絡が来る程度ならまだいい。
問題はこのままさらに遅くなった場合である。
(お兄ちゃんに知られたら絶対面倒くさい……!)
悠一なら心配して迎えに来かねない。
そして見知らぬ男子と一緒にいるところなど見られた日には、さらに面倒なことになる。
想像しただけで頭が痛い。
「ごめん、ノア。私、本当に帰らないと」
ひよりはしゃがんでノアを撫でた。
「ちゃんとこの人と帰ってね」
「まだこの人なのかよ」
「名前知らないですから」
「……」
「じゃあね、ノア」
ノアの耳の後ろを撫でる。
するとノアは気持ちよさそうに目を細めた。
「今日は会えてよかった」
素直な気持ちだった。
クッキーを渡せず、落ち込んで帰っていた。
もしノアと会っていなかったら、家に着くまでずっと同じことを考えていただろう。
「ありがとう」
ノアへ小さく囁く。
何に対するお礼なのか、自分でもよく分からない。
それでも言いたかった。
立ち上がる。
「それじゃあ」
少年にも軽く頭を下げる。
「ああ」
今度こそ帰ろう。
そう思って歩き出した。
一歩。
二歩。
三歩。
後ろから足音。
「……」
ひよりは止まった。
振り返りたくない。
嫌な予感しかしない。
ゆっくり振り返る。
ノアがいる。
「ノアぁ……」
思わず情けない声が出た。
少し離れた場所では、少年が片手で額を押さえている。
「……マジかよ」
「どうするんですか、これ」
「俺に聞くな」
「飼い主でしょう!」
「だから困ってんだろ」
「もう!」
ひよりはノアの前へしゃがんだ。
「ノア。私はこっち。あなたはあっち」
右と左を指差す。
「分かる?」
ノアが首を傾げる。
「かわいい……じゃなくて!」
危うく目的を忘れるところだった。
少年が小さく笑った気がした。
「今笑いました?」
「笑ってない」
「絶対笑った」
「証拠は?」
「顔が笑ってます」
「さっき俺が言ったやつだろ、それ」
ひよりはむっとしながら立ち上がった。
「じゃあ、どうするんですか」
「……仕方ない」
少年はスマートフォンを取り出した。
「迎え呼ぶ」
「迎え?」
「ああ」
電話をかけ、耳へ当てる。
数秒後、相手が出たらしい。
「俺。ノア見つかった」
短い言葉。
『――』
「怪我はない。今、場所送るから車回して」
『――』
「分かった」
それだけで通話を切った。
ひよりは目を瞬く。
(車?)
家族が迎えに来るのだろうか。
「これでいいだろ」
「そうですね」
「車来るまで五分くらい」
「じゃあ私は――」
帰ります、と言いかけたところで、ノアがひよりの制服の袖を軽く咥えた。
「え」
「……」
「……」
引っ張るわけではない。
ただ、行かないでと言うように袖を咥えている。
「ノア?」
ひよりが見下ろす。
ノアは離さない。
少年もその様子を見ていた。
「……五分だけ待ってくれないか」
先ほどまでとは少し違う声だった。
「こいつ、このままだとまたお前についていきそうだから」
「でも……」
家へ連絡しなければならない。
少し迷った末、ひよりは母へメッセージを送った。
『ごめん、ちょっと遅くなる。迷子の犬見つけて飼い主さんと会ったところ』
送信。
すぐに既読がついた。
『分かった。暗いから気をつけて帰ってきてね』
「……よし」
ひよりはスマートフォンをしまった。
「五分だけですよ」
「ああ」
ノアがようやく袖を離す。
「もう。甘えん坊なんだから」
しゃがんで撫でると、ノアは嬉しそうに尻尾を振った。
それから数分。
ひよりと少年は、道路脇でノアを挟んで立っていた。
妙な時間だった。
話すことがない。
さっきまで言い合っていたのに、いざ静かになると何を話せばいいのか分からない。
ひよりは何度か少年を横目で見た。
改めて見ると、やはり整った顔をしている。
学校にいたらかなり目立つだろう。
背も高い。
制服も何となく高そうに見える。
(どこの学校なんだろう)
聞こうか迷う。
けれど、聞いたらこちらも学校を聞かれるかもしれない。
それは少し嫌だ。
もう会わない人に余計な個人情報を教える必要もない。
そう思って黙っていると、
「お前」
向こうから声をかけてきた。
「はい?」
「名前」
「え?」
「ノアに名乗ってただろ」
ひよりの身体が固まった。
「……聞いてたんですか?」
「聞こえた」
「いつから?」
「天野ひより、ってところ」
「ほぼ全部じゃないですか!」
「別に聞こうとして聞いたわけじゃない」
「だったら忘れてください」
「無理だろ」
「なんで!」
「もう覚えたから」
さらっと言われる。
ひよりは何となく悔しくなった。
「ずるい」
「何が」
「そっちは私の名前知ってるのに、私は知らない」
「別に知らなくていいって言ってただろ」
「そうですけど……」
そうなのだ。
数分前までそう思っていた。
なのに今は、少しだけ気になる。
名前くらい知ってもいいのではないか。
ノアの飼い主なのだから。
ただ、それを自分から聞くのは何となく負けたような気がする。
「……まあ、いいですけど」
「そう」
「本当にいいですから」
「二回言うと気にしてるようにしか聞こえないぞ」
「気にしてません!」
「声でかい」
「誰のせいですか!」
まただ。
どうしてこの人と話すと、普段なら飲み込む言葉まで出てくるのだろう。
少年は少しだけ口元を緩めている。
(……もしかして、からかわれてる?)
そう思った瞬間、遠くから車のライトが近づいてきた。
黒い大きな車だった。
ひよりの近くを走っている一般的な乗用車とは、何となく雰囲気が違う。
音も静かで、車体は磨き上げられたように光っている。
車は三人の少し手前でゆっくり停車した。
「……え」
後部座席ではなく、助手席から一人の男性が降りてくる。
三十代くらいだろうか。黒いスーツをきっちり着こなし、こちらへ歩いてきた。
「真樹様」
(……様?)
ひよりの思考が止まった。
「お待たせいたしました」
「別に。ノア用のリードある?」
「はい」
男性は車からリードを取り出すと、少年へ渡した。
そのやり取りがあまりにも自然だ。
(真樹……様?)
ひよりは少年を見る。
少年――真樹は、受け取ったリードをノアの首輪へ取り付けている。
ようやくノアを確保できた。
これでもう本当に帰れる。
なのにひよりの頭には、先ほどの呼び方が残っていた。
「……真樹?」
無意識に声が出た。
少年が振り返る。
「あ」
口に出したあとで、ひよりは慌てた。
「ご、ごめんなさい。今、この人が呼んだから……」
「北条真樹」
「え?」
「名前」
少年は何でもないことのように言った。
「そっちだけ知らないのはずるいんだろ」
「……覚えてたんですか」
「さっき聞いたばっかだろ」
ひよりは目を瞬いた。
そして少しだけ笑った。
「北条君」
名前を呼んでみる。
真樹の眉がほんのわずかに動いた。
「……何」
「呼んでみただけです」
「意味分かんねえ」
「いいじゃないですか」
ひよりはノアへ目を向ける。
「じゃあね、ノア。今度こそ本当にばいばい」
ノアの頭を撫でる。
リードがあるから、もうついてくることはできない。
少し寂しい。
でも、それでいい。
「北条君も、今度はちゃんとノアから目を離さないでくださいね」
「……お前な」
「だって、また迷子になったら大変じゃないですか」
「今日は俺が目を離したわけじゃない」
「じゃあ、なんで一人だったんですか?」
「それは……」
真樹が少し言葉に詰まる。
ひよりは笑った。
「ほら」
「……次はない」
「ならいいです」
なぜ自分が偉そうにしているのか分からない。
けれど、真樹が不機嫌そうな顔をしているのがおかしかった。
「じゃあ、本当に帰ります」
「ああ」
「さようなら」
ひよりは軽く頭を下げ、今度こそ歩き出した。
何歩か進んでから、振り返る。
ノアがこちらを見ていた。
「ノアー!」
少し大きく手を振る。
ノアの尻尾が激しく揺れた。
「またね!」
言ってから、ひよりは自分で少し驚いた。
(またね、って……)
また会える保証なんてないのに。
でも訂正するほどのことでもない。
ひよりはもう一度手を振り、家へ向かって歩き始めた。
今度は振り返らなかった。
◇ ◇ ◇
ひよりの姿が角の向こうへ消えてからも、ノアはしばらく同じ方向を見ていた。
「もういないぞ」
真樹がリードを軽く引く。
ノアはようやくこちらを向いたものの、どこか不満そうだった。
「なんだよ」
返事はない。
「そんな気に入ったのか?」
ノアの尻尾が一度だけ揺れた。
「……そうかよ」
真樹は小さく息を吐く。
車の横では、迎えに来た男性が黙って待っていた。
「真樹様、そちらの方は?」
「知らない奴」
答えたあと。
真樹の頭の中に、さっき聞いた名前が浮かんだ。
天野ひより。
(……いや、名前知ってるなら知らない奴じゃないのか?)
どうでもいい。
今日たまたまノアを見つけた女子。
それだけだ。
「帰る」
「かしこまりました」
後部座席のドアが開けられる。
真樹が乗り込もうとすると、ノアがまたひよりの消えた方向を振り返った。
「ノア」
呼ぶ。
ノアはこちらを見る。
「行くぞ」
今度は素直についてきた。
車内へ入ったノアが真樹の隣へ身体を落ち着ける。
ドアが閉まり、車が静かに走り出した。
窓の外を住宅街の景色が流れていく。
真樹はシートへ背を預けた。
ようやく見つかった安堵のほうが大きいはずなのに、頭の片隅にはさっきの少女が残っている。
初対面で感じが悪いと言われた。
二回も。
(普通、本人に言うか?)
思い出すと少し腹が立つ。
そのくせノアにはやたら優しかった。
迷子だと思って交番まで連れていこうとして、名前を呼んで、頭を撫でて。
最後には「またね」なんて言っていた。
「……もう会わないだろ」
小さく呟く。
隣でノアが顔を上げた。
「何」
ノアはじっと真樹を見る。
「お前も期待すんな」
尻尾が座席を軽く叩いた。
「……だから、なんで嬉しそうなんだよ」
真樹はノアの頭へ手を置いた。
そのとき、ふと別のものが頭に浮かぶ。
白いリボンのついた箱が入っていた紙袋。
バレンタインのチョコレートクッキー。
(誰に渡すつもりだったんだろうな)
そこまで考えて、真樹は眉を寄せた。
(……いや、本当にどうでもいいだろ)
今日初めて会った女子だ。
もう会うこともない。
名前を知ったところで、それが何かに繋がるわけでもない。
真樹は窓の外へ視線を向けた。
けれど。
「天野ひより、か」
今度は声に出していた。
ノアの耳がぴくりと動く。
「……お前に言っただけだ」
誰に言い訳しているのか自分でも分からない。
ノアは何も答えず、ただ満足そうに目を閉じた。
◇ ◇ ◇
「ただいまー」
玄関の扉を開けた瞬間、暖かい空気がひよりの冷えた頬を包んだ。
「おかえり」
奥から母の声が聞こえる。
「手洗ってね」
「はーい」
靴を脱ぎながら、ひよりはほっと息を吐いた。
ようやく帰ってきた。
ノアの飼い主も見つかった。
結果的には少し遅くなっただけで、何事もなく終わった。
「ひより」
「ひゃっ!」
突然横から声をかけられ、肩が跳ねた。
振り返る。
兄の悠一がいた。
仕事から帰ったばかりなのか、シャツ姿のまま廊下に立っている。
「な、なに?」
「遅かったな」
「ちょっとだけでしょ」
「母さんから聞いた。迷子の犬を見つけたって?」
「うん」
それだけなら問題ない。
ひよりは平静を装って廊下へ上がる。
「飼い主さん見つかったから大丈夫だったよ」
「そうか。怪我は?」
「してない」
「ひよりが」
「私?」
「大きい犬だったんだろ。噛まれたりしてないか?」
思わず兄を見る。
悠一は本気で心配しているらしい。
「大丈夫だよ。すっごくいい子だったから」
「ならいいけど」
そう言って、悠一の視線が下がった。
ひよりの手元へ。
「……」
「……」
白いリボンの箱が入った紙袋。
(しまった)
完全に忘れていた。
悠一の目が細くなる。
「ひより」
「なに?」
「それ」
「じゃあ私、手洗ってくるから!」
「待て」
「お腹空いたなー!」
「ひより」
「今日のご飯なんだろー!」
「そのクッキー、なんで持って帰ってきてるんだ?」
「うわあああああ!」
ひよりは逃げた。
「おい!」
「美月お姉ちゃーん!」
二階へ向かって叫ぶ。
するとちょうど階段の上から美月が顔を出した。
「何?」
「お兄ちゃんがうざい!」
「また?」
「またってなんだよ!」
悠一も追ってくる。
ひよりは姉の背後へ逃げ込んだ。
「お姉ちゃん、助けて!」
「悠一。ひよりが嫌がってるでしょ」
「俺は何もしてない。ただクッキーを――」
「そういうの聞かないの」
「ほら!」
ひよりが美月の背中から顔を出す。
悠一は納得できない顔をしている。
やっぱり姉は頼りになる。
そう思った直後だった。
美月がひよりへ振り返る。
「それで?」
「……え?」
「渡せなかったの?」
「……」
美月の視線は紙袋へ向いている。
「お姉ちゃん?」
「大丈夫。怒らないから。何があったの?」
「……」
「相手に何か言われた?」
「…………」
「名前は?」
「お姉ちゃんも同じじゃん!」
「一緒にしないで。私は純粋に妹を心配してるだけ」
「俺だってそうだ!」
「悠一はうるさい」
「なんでだよ!」
階段の途中で兄妹三人の声が重なる。
リビングから母の笑い声まで聞こえてきた。
「もう二人とも嫌い!」
ひよりが叫ぶ。
「嘘つけ」
悠一が即答する。
「ひより、私のこと大好きだもんね」
美月まで笑う。
「うざい! 二人とも本当にうざい!」
頬が熱くなる。
でも。
否定はできなかった。
ひよりは二人の間をすり抜け、自分の部屋へ逃げ込む。
扉を閉めてから、背中を預けた。
「……もう」
腹が立つ。
恥ずかしい。
でも、少しだけ安心する。
いつもの家だ。
紙袋を机の上へ置き、制服のままベッドへ腰を下ろした。
白いリボンを見る。
今日の朝までは、この箱を颯太へ渡すことで頭がいっぱいだった。
学校でもずっと緊張していた。
渡せなくて、帰り道ではあんなに落ち込んでいた。
なのに。
今、頭に浮かんだのは颯太ではなかった。
艶のある黒い毛。
嬉しそうに振られる尻尾。
「ノア……」
もう会えないのかな。
少し寂しい。
そして、そのノアの隣にいた少年の顔まで一緒に思い出す。
『北条真樹』
最後に教えてくれた名前。
「……感じ悪い人だったな」
呟く。
でも。
ノアを見つけたときの安心した顔。
暗くなるから遠回りしなくていいと言った声。
名前を教えたときの、何でもないような表情。
最初に思ったほど嫌な人ではなかった。
「……まあ、もう会わないか」
ひよりはベッドへ倒れ込んだ。
知らない学校。
知らない家。
たまたま迷子になったノアを通して出会っただけの相手。
もう一度会う理由なんてない。
それなのに。
ひよりは目を閉じる直前、黒い大きな犬が嬉しそうに自分へ駆け寄ってくる姿を思い浮かべていた。
「また会いたいな、ノア」
その呟きに続けて、別の名前を口にすることはなかった。
まだ、その必要がなかったから。
この日のひよりにとって北条真樹は、ノアの飼い主で、少し感じが悪くて、思っていたより優しかった――ただそれだけの少年だった。




