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『黒犬が運んできたのは、不幸ではなく恋でした』  作者: 伊佐波瑞樹


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第1話 黒猫ではなく、黒犬でした

 昔から言われている迷信に、黒猫が目の前を横切ると不幸が訪れる、というものがある。


 もちろん、天野ひよりだって本気で信じているわけではない。黒猫からすれば随分と失礼な話だと思うし、そもそも猫が道路を横切った程度で人間の運命が変わるのなら、世の中の不幸の大半は猫のせいになってしまう。


 だから、その日の帰り道。


 ひよりの前に現れたのが黒猫ではなく、大きな黒犬だったことにも、きっと深い意味なんてなかった。


 ――少なくとも、そのときのひよりはそう思っていた。


     ◇ ◇ ◇


「はぁ……結局、渡せなかった……」


 二月十四日の夕方。


 県立高校から自宅へ向かって歩いていた天野ひよりは、両手に抱えていた小さな紙袋へ視線を落とし、今日何度目になるか分からないため息をこぼした。


 冬の夕暮れは早い。少し前まで校舎の窓を橙色に染めていた太陽はもうずいぶん低いところまで沈み、住宅街を抜ける細い道には冷たい影が伸びている。風が吹くたび、マフラーから出ている頬や耳が刺されるように冷たくなった。


 紙袋の中には、白いリボンを結んだ小箱が入っている。


 中身はチョコレートクッキー。


 昨日の夜、母に少しだけ手伝ってもらいながら焼いたものだ。


 形が悪かったものは家族用にして、その中でも比較的きれいに焼けたものだけを選び、一枚ずつ確認してから箱へ詰めた。ラッピングだって何度もやり直した。最初は赤いリボンを使おうと思ったものの、いかにも本命という雰囲気が恥ずかしくなって白へ変更したくらいには、どうでもいいところまで悩んだ。


 そこまでしたのに。


「……持って帰ってきちゃった」


 紙袋の持ち手を握る指へ、わずかに力が入る。


 渡したかった相手は、同じ高校に通う佐伯颯太だった。


 同じ学年で、クラスは違う。去年は同じクラスだったこともあり、廊下で会えば挨拶くらいはするし、たまに立ち話をすることだってある。


 だから今日だって、渡す機会がまったくなかったわけではない。


 むしろ、あった。


 昼休みに一度。


 放課後にも一度。


 特に放課後なんて、昇降口の近くで颯太が一人になる瞬間まであったのだ。


 鞄の中にはクッキーが入っていた。手を伸ばせばすぐ取り出せるところに入れていたし、何を言うかだって昨夜から何度も考えていた。


『佐伯君、これ。よかったら食べて』


 それだけ。


 告白するわけじゃない。


 好きです、と言うつもりだってなかった。


 ただクッキーを渡すだけだった。


(なのに、なんでそれすらできないの、私……)


 昇降口で颯太を見つけた瞬間、胸が苦しいくらいに高鳴った。


 行こう。


 そう思って一歩踏み出したところまではよかった。


 けれど、その直後だった。


『佐伯ー! 今日チョコ何個もらった?』


『数えてねえよ』


『嘘つけ!』


 そんな声とともに、颯太の友人たちがやってきた。


 楽しそうに笑う男子たち。その少し離れたところには女子も何人かいて、ひよりは足を止めてしまった。


 もし、今ここで渡したら。


 みんなに見られる。


 もしかしたら冷やかされるかもしれない。


 颯太が困るかもしれない。


 それより何より、周りから「あいつ佐伯のこと好きなんだ」と思われることが、どうしようもなく恥ずかしかった。


 結局、ひよりは笑顔を作って友人たちへ「また明日ね」と手を振り、そのまま昇降口を出てしまった。


「……何が『また明日ね』なのよ」


 思い出しただけで自分が嫌になり、マフラーへ半分ほど顔を埋める。


 学校では、明るい子だと思われている。


 友達だっている。


 話しかけられれば普通に話せるし、みんなで盛り上がっているところに混ざることもできる。成績だって特別優秀ではないものの困るほど悪くはなく、先生から注意されるようなこともほとんどない。


 きっとクラスメイトから見た天野ひよりは、ごく普通の、少し明るめの女子高生なのだろう。


 それは別に演技ではない。


 友達と話すのは好きだし、楽しいときにはちゃんと笑っている。


 けれど、本当の自分がそれだけかと聞かれれば違った。


(みんなが見てると、どうしてあんなに何もできなくなるんだろう……)


 どう思われるだろう。


 変だと思われないだろうか。


 笑われないだろうか。


 そんなことを考え始めると、簡単な一歩が途端に重くなる。


 そして動けなかった自分をごまかすために、いつものように笑うのだ。


 今日だってそうだった。


 親友の藤崎千夏には、朝から何度も「今日こそ渡しなよ」と背中を押されていた。


 昼休みには、


『まだ渡してないの?』


 と呆れられ、


『放課後には渡すから!』


 と答えた。


 そのときの自分は本当にそのつもりだったのだ。


 なのに結局、この有様である。


 スマートフォンが制服のコートのポケットの中で震えた。


 取り出して画面を見ると、案の定、千夏からメッセージが届いている。


『どうだった!?』


「……早いよ、千夏」


 思わず苦笑してしまう。


 続けて、犬が物陰から顔だけ出しているスタンプまで送られてきた。


 結果が気になって仕方ないらしい。


 ひよりはしばらく入力欄を見つめてから、


『聞かないでください』


 と送り返した。


 既読がついたのは、ほとんど同時だった。


『は?』


『まさか』


『ひよりさん?』


『持って帰ったとか言わないよね?』


 立て続けに届くメッセージに、ひよりの頬が引きつる。


「怖い怖い怖い」


 誰もいない道で小さく呟きながら、


『そのまさかです』


 と返す。


 数秒後。


『ばかーーーー!!』


 画面いっぱいの文字が返ってきた。


「分かってるよぉ……」


 情けない声が漏れる。


 さらに着信まで始まったので、ひよりは慌てて通話ボタンを押した。


「もしもし?」


『ひより!』


 耳からスマートフォンを離したくなるほど大きな声が響いた。


「外だから声大きいって」


『なんで!?』


「……何が?」


『何がじゃない! 昨日あんなに頑張ってたじゃん!』


「頑張ったよ。頑張った結果、今も私の手元にあります」


『胸張って言うことじゃないからね!?』


 千夏の声の向こうから、駅前らしい雑踏が聞こえてくる。どうやら彼女は別方向から帰っている途中らしい。


 ひよりは肩をすくめ、再び歩き始めた。


「だって、佐伯君の友達がいっぱい来たんだもん」


『だから?』


「女子もいたし」


『だから?』


「……見られるじゃん」


 それを言った途端、電話の向こうが静かになった。


 ひよりは唇を軽く噛んだ。


 千夏なら分かっている。


 自分がこういうところで臆病になることを。


 長い付き合いだからこそ、ひよりが学校で見せている顔だけではないことを知っている。


『……そっか』


 先ほどまでとは違う、柔らかな声が返ってきた。


『怖くなっちゃった?』


「……うん」


 ひよりは誰もいない道路の先を見つめながら、小さく答えた。


「もし渡して、周りに何か言われたらって思ったら……急に無理になった」


『ひよりは気にしすぎなんだよ』


「分かってる」


『佐伯が嫌がるかどうかなんて、渡してみなきゃ分かんないじゃん』


「それも分かってる」


『それで持って帰ってきて落ち込んでる』


「……それも分かってます」


 千夏が電話の向こうで吹き出した。


『じゃあ、今日は反省会だね』


「反省会?」


『帰ったらクッキー食べな』


「ええっ」


『だって賞味期限あるでしょ。それとも明日渡す?』


「明日!?」


 思わず大きな声が出た。


 その瞬間、向こうからまた笑い声が聞こえる。


『ほら、無理なんじゃん』


「……だって、バレンタイン終わってるし」


『一日くらい誤差だって』


「千夏はそう言うけど……」


『じゃあ私がもらってあげようか?』


「千夏には昨日、味見でいっぱいあげたじゃん」


『ひよりが作ったものなら何枚でも食べられますー』


 ふざけた口調なのに、その言葉が妙に嬉しい。


 ひよりの口元から、今度は自然な笑みがこぼれた。


「太るよ?」


『ひよりも一緒に太ろ』


「巻き込まないで」


『親友でしょ?』


「そういうときだけ親友を使わないでよ」


 二人で笑う。


 さっきまで胸の中に沈んでいた重いものが、ほんの少しだけ軽くなった。


 千夏はいつもそうだった。


 無理に励ますわけでもなく、できなかったことを責め続けるわけでもない。ひよりが落ち込んでいると、いつの間にかくだらない話へ持っていってくれる。


 だから、ひよりも千夏のことが大好きだった。


『じゃ、明日詳しく聞くからね』


「もう全部話したよ」


『昇降口でどこまで近づいたとか、佐伯がどんな顔してたとか、そういう細かいやつ』


「尋問じゃん」


『親友として当然です』


「絶対楽しんでるでしょ」


『半分くらい』


「半分は楽しんでるんだ……」


『残り半分は、ひよりがかわいい』


「はいはい」


 呆れながら返すと、千夏が『扱い雑!』と騒いだ。


 その後、明日の授業の話を少ししてから電話を切る。


 スマートフォンをポケットへ戻した頃には、家まであと十分ほどのところまで来ていた。


「帰ったら、お兄ちゃんに見つからないようにしないとなぁ……」


 ひよりは紙袋を見て、別の意味でため息をついた。


 昨日、クッキーを作っているところを家族全員に見られている。


 母と姉は事情を察しているものの、問題は兄だった。


 天野家の長男、悠一。


 二十四歳になった今でも、妹二人への過保護がまったく治らない。


 昨日も仕事から帰宅するなり、キッチンでラッピングをしていたひよりを見つけ、


『それ、誰に渡すんだ?』


 と聞いてきた。


『友達』


『男か?』


『友達』


『男友達か?』


『うざい』


『ひより、お兄ちゃんは心配して――』


『美月お姉ちゃーん! お兄ちゃんがうざい!』


 助けを求めたところ、美月はリビングから顔を出し、


『悠一、年頃の妹にそういうこと聞くのやめなよ。嫌われるよ』


 と兄をたしなめてくれた。


 さすがお姉ちゃん。


 そう思ったのも束の間。


『それで、ひより。相手って同級生? どんな子?』


『お姉ちゃんも同類じゃん!』


 結局、二人まとめてキッチンから追い出した。


 母はそれを見ながら笑っていたし、父に至っては新聞を読みながら妙に聞き耳を立てていた。


(……うちの家族、こういうところだけ団結するんだから)


 またため息が出る。


 けれど嫌ではない。


 悠一が過保護なのは昔からだし、美月も表面上は冷静に見えて、実はかなり妹に甘いことをひよりは知っている。


 文句は言う。


 うざいとも思う。


 それでも二人が大好きなのだから仕方がない。


「でも、今日だけは見つかりたくない……」


 持って帰ったことが知られたら、間違いなく質問攻めに遭う。


 特に悠一。


 想像するだけで面倒くさい。


 ひよりはどうやって紙袋を隠して家へ入るか真剣に考えながら、いつもの道を曲がった。


 住宅街から少し外れたその道は、片側に低い塀が続き、反対側には小さな公園がある。


 夕方には子供たちが遊んでいることも多いが、今日は寒さのせいか誰もいない。葉を落とした木々の枝が風に揺れ、カサカサと乾いた音を立てていた。


 そのときだった。


「……ん?」


 公園の奥で、何かが動いた。


 ひよりは足を止める。


 最初は影かと思った。


 街灯がつき始めたとはいえ、辺りはすでに薄暗い。遊具の向こうにある植え込みの近くで、黒いものがゆっくり動いている。


「猫……?」


 そう呟いた直後、その黒い影がこちらを向いた。


 思ったより大きい。


 猫ではない。


「……犬?」


 黒い犬だった。


 しかもかなり大きい。


 艶のある黒い毛並みに覆われた身体は、ひよりが普段見かける散歩中の犬より一回りも二回りも大きく見える。立ち上がれば、ひよりの腰より高いところまでありそうだった。


 首にはしっかりと首輪がついている。


 野良犬ではないらしい。


 ただ、近くに飼い主の姿がない。


「どうしたの……?」


 ひよりが小さく声をかけると、黒犬の耳がぴくりと動いた。


 じっとこちらを見ている。


「えっと……」


 犬は嫌いではない。


 むしろ好きなほうだ。


 けれど、これだけ大きな犬を一人で見ると、さすがに少し怖い。


(近づかないほうがいいよね……?)


 迷っていると、黒犬がゆっくり立ち上がった。


「え」


 一歩。


 こちらへ来る。


「ちょ、ちょっと待って」


 もう一歩。


「私、何も持ってないよ?」


 言った直後、自分の手元を見る。


 持っている。


 クッキーを。


「……まさか、これ?」


 紙袋を背中へ隠してみる。


 黒犬の視線が動いた。


 明らかに紙袋を追っている。


「ダメだよ。チョコ入ってるから。犬は食べちゃダメなやつだからね?」


 言葉が通じるはずもないのに、つい説明してしまう。


 すると黒犬は立ち止まった。


「……分かった?」


 そんなわけはない。


 ないはずなのだが、黒犬は妙に賢そうな目でひよりを見ている。


 ひよりが恐る恐る一歩近づくと、逃げない。


 さらに一歩。


「首輪、見てもいい?」


 黒犬がゆっくり尻尾を振った。


「……本当に分かってるみたい」


 さっきまでの警戒心が少しずつ薄れていく。


 近くで見ると、本当にきれいな犬だった。


 真っ黒な毛並みはよく手入れされていて、汚れている様子もない。体格は大きいものの、痩せてもいなければ怪我をしているようにも見えなかった。


 やはり、どこかの家から逃げてきたのだろう。


「飼い主さん、心配してるよね……」


 ひよりはしゃがみ込み、ゆっくり手を伸ばした。


 いきなり頭へ触るのは怖かったので、まず手の甲を鼻先へ近づける。


 黒犬はしばらく匂いを嗅いだあと、ひよりの手へ鼻先を押しつけた。


「わっ」


 驚いたものの、噛む様子はない。


 むしろもう一度、ぐいっと鼻を押しつけてくる。


「ふふっ。なに?」


 自然と笑みがこぼれた。


 今度はそっと頭へ触れてみる。


 柔らかい。


 見た目から想像していたよりずっと滑らかな毛並みだった。


「いい子だね」


 撫でると、黒犬の尻尾が大きく揺れる。


 どうやら嫌われてはいないらしい。


「首輪、見るね?」


 ひよりは首元を確認した。


 黒い革製のしっかりした首輪に、銀色のプレートがついている。


 そこにはアルファベットで名前が刻まれていた。


「NOAH……ノア?」


 名前を呼んだ瞬間。


 黒犬――ノアの耳がぴんと立った。


「あ、やっぱりノアなんだ」


 ひよりが笑うと、ノアは嬉しそうに尻尾を振る。


「そっか。ノアっていうんだね」


 もう一度頭を撫でる。


「私はひより。天野ひより」


 自己紹介してから、犬相手に何をしているのだろうと少し恥ずかしくなった。


 けれどノアは真剣な顔でこちらを見ている。


「……覚えてくれる?」


 ノアの尻尾が揺れた。


「ふふっ。返事してるみたい」


 かわいい。


 大きくて少し怖いと思ったのが申し訳なくなるくらい、人懐っこい。


 ただ、問題はこれからだ。


「ノアの家、どこだろう」


 プレートの裏側も確認してみたものの、電話番号などは書かれていなかった。


 近所で見た記憶もない。


 これほど大きな黒犬なら、一度でも散歩しているところを見かければ覚えていそうなものだ。


「交番……かな」


 ここから一番近い交番までは歩いて十五分ほど。


 ノアを連れていけば、飼い主を探してもらえるかもしれない。


 ただし、リードがない。


「どうしよう。ノア、私についてきてくれる?」


 聞いてみる。


 ノアは座ったまま、ひよりを見つめている。


「……さすがに分かんないよね」


 苦笑しながら立ち上がる。


 するとノアも立った。


「え?」


 試しに一歩歩く。


 ノアも一歩ついてくる。


 止まる。


 ノアも止まる。


「……すご」


 もう一度歩く。


 やはりついてくる。


「ノア、本当に頭いいね」


 感心しながら歩き出したところで、ひよりはふと気づいた。


「……あれ?」


 今、自分はどこへ行こうとしていたのだったか。


 そうだ。


 家へ帰って、渡せなかったクッキーを隠して、兄に見つからないように自分の部屋へ逃げ込もうとしていた。


 つい数分前まで、あれだけ落ち込んでいたはずなのに。


 ノアと出会ってから、すっかり忘れていた。


「もしかして、慰めてくれた?」


 ひよりが冗談めかして尋ねると、ノアは隣を歩きながらこちらを見上げた。


「……なんてね」


 笑って前を向く。


 冷たい風が吹いた。


 それでも、さっきまでほど寒く感じない。


 隣に大きなノアがいるせいかもしれない。


 そのまま公園を出ようとしたところで、ノアが突然立ち止まった。


「ノア?」


 ひよりも足を止める。


 ノアの耳が立っている。


 先ほどまで穏やかだった様子が変わり、何かを探すように道路の向こうへ顔を向けていた。


「どうしたの?」


 次の瞬間。


 ノアが走り出した。


「えっ、ちょっと!」


 ひよりは慌てて追いかける。


「ノア! 待って!」


 黒い身体が夕暮れの道を駆けていく。


 とはいえ本気で走っているわけではないらしく、ときどき振り返ってひよりを確認している。


「待ってってば!」


 どう考えても、自分を置いていくつもりがない。


 むしろ、ついてこいと言われているようだった。


(どこ行くの!?)


 紙袋を抱え直し、ひよりはノアを追った。


 角を一つ曲がる。


 さらに細い道へ入る。


 そこでノアが突然止まった。


「わっ!」


 追いついたひよりも慌てて足を止める。


「もう、急に走ったら危ないでしょ」


 息を整えながら顔を上げる。


 そして、気づいた。


 ノアはひよりを見ていなかった。


 その視線は、少し先へ向いている。


 そこに、一人の少年が立っていた。


 ひよりと同じくらいの年齢だろうか。


 見覚えのない制服を着ている。


 濃紺のコートの下から覗く制服は、ひよりの通う県立高校のものとは明らかに違っていた。きちんと整えられた黒髪に、すらりとした長身。薄暗くなり始めた住宅街の中でも、妙に目を引く少年だった。


 けれど、その整った顔には今、はっきりとした苛立ちが浮かんでいる。


 少年がノアを見つけた。


「……ノア」


 低い声だった。


 その瞬間、ノアの尻尾が大きく揺れた。


「え……?」


 ひよりがノアを見る。


 ノアは迷うことなく少年へ駆け寄った。


 少年は近づいてきたノアの身体を確認するように首元や脚へ視線を走らせ、それから小さく息を吐いた。


「勝手にいなくなるな。どれだけ探したと思ってる」


 叱っている。


 けれど、その手はノアの頭を優しく撫でていた。


 ノアも嬉しそうに少年の手へ頭を押しつけている。


(……飼い主さん?)


 どうやら交番へ行く必要はなくなったらしい。


 よかった。


 そう思っていると、少年がこちらを見た。


 目が合う。


「……誰?」


 最初の一言が、それだった。


「えっ」


 あまりにも警戒心のこもった目を向けられ、ひよりは固まった。


 少年の視線がひよりから、その手にある紙袋へ移る。


 そしてノアへ戻った。


「ノア」


 呼ばれたノアが少年を見る。


「お前、知らない奴についていったのか?」


「ち、違います!」


 思わず声が大きくなった。


 少年の眉がわずかに動く。


「何が?」


「私がノアについていったんじゃなくて……いや、途中まではノアが私についてきたんですけど、途中から私がノアについてきて……」


「どっちだよ」


「だから!」


 初対面なのに、なんだこの人。


 せっかく飼い主が見つかって安心したのに、一気に調子を狂わされる。


 ひよりは紙袋を抱え直しながら少年を睨んだ。


「公園にノアが一人でいたんです。飼い主さんがいなかったから、交番に連れていこうと思って。それで歩いてたら、急にノアが走り出して……追いかけてきたら、あなたがいたんです」


 説明を終えると、少年は少しだけ目を見開いた。


 それからノアを見る。


「……公園?」


 ノアは尻尾を振っている。


「お前、あそこまで行ったのか」


 呆れたような声だった。


 けれど、ひよりには分かった。


 怒っているというより、安心している。


 少年はもう一度ノアの身体へ手を触れ、怪我がないことを確かめているようだった。


(すごく心配してたんだ……)


 第一印象は最悪に近かったけれど、悪い人ではないのかもしれない。


 そう思ったところで、少年がひよりへ向き直った。


「……悪かった」


「え?」


「ノアを見ててくれたんだろ」


 先ほどまでの刺々しさが、ほんの少しだけ薄れている。


「ありがとう」


 素直に礼を言われるとは思っていなかった。


 ひよりは一瞬返事に困ってから、


「……いえ」


 と答えた。


「何もしてませんから」


「でも、こいつと一緒にいてくれたんだろ」


「まあ……はい」


 ひよりはノアを見る。


 ノアもこちらを見ていた。


 目が合った途端、少年の隣から離れ、またひよりのところへ戻ってくる。


「えっ」


「……は?」


 少年の声が低くなった。


 ノアはそのままひよりの脚へ身体を寄せる。


「ノア?」


 ひよりが名前を呼ぶと、嬉しそうに尻尾を振った。


 少年の眉間に皺が寄る。


「おい」


 呼ばれても、ノアは動かない。


「ノア」


 もう一度。


 それでもノアはひよりの隣にいる。


 少年はしばらく無言でその様子を眺めたあと、信じられないものを見るような目をノアへ向けた。


「……お前は誰の味方だよ」


 その言い方がおかしくて。


 ひよりは、つい吹き出してしまった。


「ふふっ」


「……何笑ってんだよ」


「ご、ごめんなさい。でも……」


 笑いを堪えながらノアの頭を撫でる。


「私の味方みたいですね」


「調子に乗るな」


 即答だった。


 けれど本気で怒っているようには見えない。


 ひよりはまた笑った。


 今日一日、ずっと胸の奥に引っかかっていたものを忘れてしまうくらい、自然に。


 少年はそんなひよりを少しだけ不思議そうに見つめていた。


 ひよりはまだ知らない。


 目の前にいる少し感じの悪い少年が、北条真樹という名前であることも。


 彼が、自分とはまるで違う世界で生きてきた人間であることも。


 そして、今日渡せなかった小さな箱よりもずっと大きな恋を、この先知ることになることも。


 ただ、この日。


 天野ひよりの前を横切ったのは、黒猫ではなく黒犬だった。


 黒犬が運んできたものが不幸ではなかったと彼女が知るのは、もう少し先のことである。

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