第10話 連絡先を知っただけなのに
金曜日の朝。
天野ひよりは目を覚ますと、枕元に置いていたスマートフォンへ手を伸ばした。
アラームを止める。
時刻は六時三十分。
通知欄には、クラスのグループから数件のメッセージと、昨夜千夏から送られてきたスタンプが残っている。
そして。
「……」
ひよりの指が止まった。
少し下。
昨日、新しく追加された名前がある。
『北条真樹』
最後のやり取りは短い。
『今日はノアに会えなかったから、明日は連れてきてね!』
『ノア次第』
『絶対北条君次第でしょ』
『風邪ひかないようにね』
『お前もな』
たったそれだけ。
昨日の雨の中、公園で連絡先を交換したあとに交わしたメッセージだ。
「……本当にある」
当然だ。
自分で交換したのだから。
それなのに、スマートフォンの中に真樹の名前があることが少し不思議だった。
これまでは放課後の公園へ行かなければ会えなかった。
学校で何かあっても。
家で何か思い出しても。
次に会うまで話すことはできなかった。
でも今は違う。
送ろうと思えば、いつでも送れる。
「……」
試しに入力欄を開く。
『おはよう』
打ってみる。
「……いやいや」
消した。
(何で朝から送るの)
今日も学校がある。
放課後には会うかもしれない。
わざわざ朝から連絡する理由がない。
もう一度入力する。
『今日ノア連れてくる?』
そこまで打ち。
「昨日聞いたじゃん……」
また消した。
昨夜、明日はノアを連れてきてと送った。
真樹は「ノア次第」と返している。
なら、また聞く必要はない。
「何やってるんだろ、私」
スマートフォンを伏せた。
そのまま布団から出る。
少しして。
またスマートフォンを手に取った。
「……」
何も来ていない。
「当たり前でしょ」
自分に突っ込む。
朝から何を期待しているのだろう。
(別に北条君からメッセージ欲しいわけじゃないし)
連絡先を交換したばかりだから、何となく気になるだけ。
それだけだ。
ひよりはそう結論づけ、制服へ着替え始めた。
◇ ◇ ◇
「ひより」
「何?」
「さっきからスマホ見すぎじゃない?」
朝食の席で美月に言われ、ひよりの手が止まった。
「そんな見てないよ」
「今ので四回目」
「数えてたの?」
「たまたま目に入っただけ」
美月はトーストをちぎりながら平然としている。
向かい側に座る悠一が反応した。
「誰かから連絡来てるのか?」
「来てない」
「じゃあ何で見るんだ?」
「スマホってそういうものでしょ」
「そういうものか?」
「そういうもの!」
悠一が怪訝そうな顔をする。
由美がコーヒーを飲みながら娘を見る。
「昨日、雨だったでしょう?」
「うん」
「ちゃんと傘使った?」
「使ったよ」
「濡れなかった?」
「ちょっとだけ」
「風邪ひかないようにね」
「大丈夫」
その言葉で、昨夜のメッセージを思い出した。
『お前もな』
「……」
「ひより?」
「え?」
「何笑ってるの?」
由美に言われ、ひよりは慌てて口元へ手を当てた。
「笑ってた?」
「少し」
「何でもない!」
「怪しい」
悠一が身を乗り出す。
「何があった?」
「何もないってば!」
「昨日も帰り少し遅かったよな」
「雨宿りしてたの!」
「誰と?」
「……」
一瞬詰まった。
その一瞬を悠一は見逃さない。
「誰と?」
「ノアの飼い主!」
「男か!?」
「前から男だって言ってるでしょ!」
「雨宿りを二人で!?」
「声大きい!」
「どこで!?」
「公園!」
「何分!?」
「知らない!」
「連絡先は!?」
「交換した!」
言ってから。
ひよりは止まった。
食卓も止まった。
「……」
「……」
「……交換した?」
悠一の声が低くなる。
「しまった」
「ひより」
「違うの!」
「何が違う!」
「雨の日とか、来られない日とか困るから!」
「何で来る来ないを連絡する必要がある!?」
「ノアに会うから!」
「犬を口実にしてないか、その男!」
「してない!」
「本当に!?」
「知らないけど!」
「知らない!?」
「朝からうるさい!」
ひよりが立ち上がる。
「ごちそうさま!」
「まだ食べ終わってないでしょう」
由美の声に止まる。
「……食べます」
座り直した。
美月が笑いを堪えている。
「お姉ちゃん!」
「ごめん」
「絶対面白がってる!」
「だって悠一が分かりやすすぎるから」
「俺は妹を心配してるだけだ!」
「知ってる」
美月はさらりと返し、今度はひよりを見る。
「で、どんな人?」
「お姉ちゃんまで!」
「私は尋問じゃないよ」
「同じだよ!」
「名前は?」
「言わない」
「学校は?」
「言わない」
「同い年?」
「……」
「同い年なんだ」
「もう!」
ひよりは頭を抱えた。
その横で浩介が新聞を少し下ろす。
「ひより」
「お父さんまで何?」
「変な人じゃないんだな?」
父の声は悠一ほど騒がしくなかった。
だからこそ、ひよりも少し落ち着く。
「……うん」
「ならいい」
「父さん!?」
「ただし、帰りが遅くなるなら連絡しなさい」
「うん」
「何か嫌なことされたらすぐ言うんだぞ」
「分かってる」
「父さん、甘くないか!?」
「悠一」
由美が兄を見る。
「ひよりが本当に困ったとき、あなたに相談できなくなるわよ」
「……」
悠一が黙る。
それでも納得していない顔だった。
ひよりはそんな兄を見て、少しだけ表情を緩めた。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「心配してくれてありがと」
「……おう」
「でもうるさい」
「ひより!?」
食卓に笑い声が広がった。
ひよりも笑いながら残っていた朝食を口へ運ぶ。
いつもの家。
いつもの朝。
ただ一つ。
スマートフォンの中に新しい名前が増えただけだった。
◇ ◇ ◇
「連絡先交換した!?」
「千夏、声!」
登校して早々、昨日とは逆のことをする羽目になった。
ひよりは慌てて千夏の口元へ指を立てる。
「しーっ!」
「ごめん。でもいつ?」
「昨日」
「雨の日?」
「うん」
「公園で?」
「うん」
「ノアは?」
「いなかった」
「……え?」
千夏の表情が変わった。
「ちょっと待って」
「何?」
「ノアいなかったの?」
「うん」
「じゃあ、北条君と二人だったの?」
「そうだけど」
ひよりは特に深く考えず答える。
千夏は数秒黙った。
「……へえ」
「その『へえ』やめて」
「だって」
「何」
「北条君、雨の中何しに来たの?」
「本人は通り道って言ってた」
「公園が?」
「車で」
「……」
「何、その顔」
「ひよりは信じたの?」
「信じてない」
「だよね」
「多分、私がいるか確認しに来たんだと思う」
自分で言ってから。
ひよりは少しだけ照れた。
「……多分だけど」
「北条君、優しいね」
「うん」
ひよりは素直に頷いた。
「口は悪いけど」
「それ毎回言うね」
「だって本当だもん」
「それで連絡先?」
「私から言ったの。今日みたいなとき困るから交換する? って」
「ひよりから!?」
「だから声!」
「ごめん!」
千夏は今度こそ声を抑えた。
「で、交換したんだ」
「うん」
「メッセージした?」
「ちょっとだけ」
「見せて」
「嫌」
「何で!」
「別に見せるような内容じゃないから」
「余計気になる」
「ノア連れてきてねって送っただけ」
「北条君は?」
「『ノア次第』」
「……北条君らしい」
「会ったことないのに分かるの?」
「ひよりから聞いてるだけで、だいぶ人物像できてきた」
「絶対変なイメージになってる」
「ちょっと感じ悪くて、口悪くて、捻くれてるけど、なんだかんだ優しいお金持ち」
「……」
ひよりは反論しようとして。
やめた。
「大体合ってる」
「でしょ?」
千夏が笑う。
「会ってみたいな」
「千夏と北条君?」
「うん」
ひよりは二人が並んでいるところを想像した。
千夏が自分へ抱きつく。
真樹が嫌そうな顔をする。
千夏が面白がる。
真樹がさらに機嫌を悪くする。
「……嫌かも」
「何で!?」
「絶対私が疲れる」
「失礼だなぁ」
「千夏なら北条君からかうでしょ」
「ちょっとだけ」
「絶対ちょっとじゃない」
「でも親友の新しい友達なら、一回くらい会ってみたいじゃん」
「新しい友達……」
その言葉に、ひよりは少しだけ笑った。
「何?」
「いや」
昨日までは、自分でも友達なのか分からなかった。
でも今は。
「うん。友達」
そう言えた。
「北条君、友達だと思う」
「そっか」
千夏は柔らかく笑う。
そのとき。
「何の話?」
海斗が教室へ入ってきた。
「あ、橘君」
「おはよ」
「おはよう」
海斗は自分の席へ鞄を置いてから、二人のところへ来る。
「今日、放課後忘れてない?」
「……」
ひよりの顔が固まった。
「天野?」
「数学」
「そう」
「……覚えてたよ?」
「今思い出した顔だったけど」
「覚えてました」
「本当か?」
「本当です」
千夏が横で笑う。
「昨日完全に忘れてたけどね」
「千夏!」
「昨日?」
「何でもない!」
海斗が首を傾げる。
ひよりは慌てて話題を変えた。
「今日は図書室だよね?」
「うん。三十分くらいでいいから」
「分かった」
「助かる」
海斗が自分の席へ戻っていく。
ひよりはその背中を見送ったあと。
「あ」
小さく声を出した。
「どうしたの?」
「今日、北条君に……」
そこまで言って止まる。
公園へ行く時間が遅くなる。
昨日までなら。
どうしよう。
そう思っていただろう。
でも今日は。
「……連絡できるんだった」
ひよりはスマートフォンを取り出した。
千夏が隣から覗こうとする。
「見ないで」
「まだ何もしてない」
「絶対見るでしょ」
「親友なのに」
「関係ない」
ひよりは身体を少し傾け、画面を隠した。
真樹とのトーク画面を開く。
入力する。
『今日、放課後ちょっと遅くなるかも』
指が止まる。
(これだけだと何でって聞かれるかな)
追加する。
『クラスの友達に数学教えてから帰る』
「……」
送ろうとして。
また止まる。
(友達って書く必要ある?)
消す。
『放課後、数学教えてから帰るから少し遅くなる』
これでいい。
送信。
「送った」
「北条君?」
「うん」
「便利になったね」
「本当だね」
ひよりはスマートフォンを机へ置いた。
すぐに返事が来るとは思っていない。
真樹も学校だ。
授業前かもしれない。
ところが。
十秒ほどで通知が鳴った。
「早っ」
画面を見る。
『誰に』
「……」
ひよりは首を傾げた。
「何て?」
「誰に、って」
「数学?」
「多分」
「橘君でしょ」
「うん」
ひよりは返信する。
『橘君』
送信。
またすぐ返ってきた。
『昨日言ってたやつ?』
「覚えてるんだ」
思わず呟く。
『そう。昨日約束したの忘れてた』
送る。
少し間が空く。
『何時くらい』
「……」
ひよりは時計を見る。
『いつもより30分くらい遅いと思う』
返事。
『分かった』
それだけだった。
「終わった?」
千夏が聞く。
「うん」
「何て?」
「分かったって」
「それだけ?」
「うん」
「北条君らしいね」
「だから会ったことないでしょ」
ひよりは笑いながらスマートフォンをしまった。
これで今日、真樹は待たなくて済む。
そう思うと、少し安心した。
◇ ◇ ◇
そのころ。
桜陵学園の教室。
真樹は机の上へスマートフォンを伏せた。
「……」
橘。
橘海斗。
昨日聞いた名前。
ひよりと同じクラスの男子。
『放課後、数学教えてから帰るから少し遅くなる』
ただそれだけの話だ。
同じクラスなら勉強を教えることくらいある。
何もおかしくない。
「……」
スマートフォンをもう一度裏返す。
最後のメッセージを見る。
『橘君』
「何見てんの?」
横から声がした。
真樹は反射的にスマートフォンを伏せた。
「見るな」
「見てないよ」
蓮だった。
「今の反応怪しすぎない?」
「うるさい」
「誰とメッセージ?」
「関係ない」
「天野さん?」
「……」
「当たりだ」
「何で分かるんだよ」
「お前、俺に分かりやすすぎる」
「意味分かんねえ」
蓮は前の席の椅子を借り、背もたれを前にして座った。
「連絡先交換したんだ?」
「昨日な」
「へえ」
「何」
「進展早いね」
「何の進展だよ」
「友達として?」
「……そうだよ」
真樹は少しだけ間を置いて答えた。
友達。
昨日ひよりにも似たようなことを言われた。
連絡先を交換して、友達っぽくなったと。
否定する理由はなかった。
「何で交換したの?」
「雨だったから」
「意味分かんない」
真樹は昨日の出来事を簡単に説明した。
雨。
公園。
ひよりが待っていたこと。
自分が車で確認しに行ったこと。
来られない日には連絡できたほうがいいという話になったこと。
話し終えるころには、蓮が完全に笑っていた。
「何」
「いや……」
「笑うな」
「だってお前、わざわざ車止めて見に行ったの?」
「来てるかもしれないと思ったから」
「天野さんを?」
「……そうだけど」
「ノアいないのに?」
「雨だったから家だよ」
「じゃあお前、天野さん確認するためだけに行ったんじゃん」
「……」
真樹は黙った。
蓮がさらに笑う。
「面白すぎる」
「殴るぞ」
「怖い怖い」
「本当にうるさい」
真樹はスマートフォンをポケットへ入れた。
「それで今日は?」
「何が」
「会うの?」
「多分」
「さっきメッセージしてたんじゃないの?」
「少し遅くなるって」
「天野さんが?」
「ああ」
「何で?」
「……」
答えたくない。
しかし蓮は待っている。
「クラスの男に数学教えるらしい」
「へえ」
「その顔やめろ」
「何もしてないよ」
「してる」
「橘君?」
真樹が蓮を見る。
「何で名前知ってんだよ」
「前に言ってなかった?」
「言ったか?」
「天野さんのクラスに橘って男子いるって」
「……」
真樹は眉を寄せる。
自分でもいつ話したのか曖昧だ。
それだけ自然に、ひよりの話を蓮へしていたらしい。
「仲いいんだ?」
「知らない」
「天野さんと橘君」
「知らないって言ってるだろ」
「聞けば?」
「何で俺が聞くんだよ」
「気になってるから?」
「なってない」
「じゃあ聞かなくていいね」
「……」
蓮が笑う。
「何」
「いや、何も」
「絶対何かあるだろ」
「真樹って面白いなと思って」
「お前、最近それしか言わないな」
「最近のお前が面白いから」
真樹は相手にするのをやめた。
けれど。
授業が始まったあとも。
『橘君』
その三文字が、頭の隅へ残っていた。
◇ ◇ ◇
昼休み。
青葉高校では、ひよりが千夏と弁当を食べながらスマートフォンを見ていた。
「また見てる」
「何?」
「スマホ」
「時間見ただけ」
「朝も同じこと言ってた」
「本当に時間だよ」
ひよりは画面を伏せた。
真樹から新しいメッセージは来ていない。
当然だ。
必要な話は終わっている。
少し遅れる。
分かった。
それだけ。
「……」
「ひより」
「何?」
「連絡先交換した途端、気にしすぎじゃない?」
「してないよ」
「してる」
「だって昨日までなかった名前があると、ちょっと気になるじゃん」
「じゃあ私の名前も毎日見る?」
「千夏とは何年一緒だと思ってるの」
「ひどい」
「そういう意味じゃないって」
ひよりは笑う。
そのとき。
スマートフォンが震えた。
「あ」
反射的に画面を見る。
表示された名前は。
『佐伯颯太』
「……!」
ひよりの顔が一気に変わった。
千夏がすぐに気づく。
「佐伯君?」
「うん」
メッセージを開く。
『昨日の写真、他にもあったりする?』
ひよりはすぐ返信しようとして、指を止める。
「千夏」
「ん?」
「去年の文化祭の写真、他にも持ってる?」
「あるよ」
「佐伯君が他にもないかって」
「ああ、じゃああとで送る」
「ありがとう!」
ひよりは颯太へ返信する。
『千夏も持ってるって! あとで探してみるね』
少しして。
『助かる!』
それだけで嬉しい。
「ふふ」
「顔」
「分かってる!」
「まだ何も言ってないよ」
「絶対言うでしょ」
「まあ言うけど」
千夏が笑う。
「でもよかったね」
「うん」
ひよりは素直に頷いた。
「こうやって連絡取れるだけでも嬉しい」
「前は個別で連絡してなかったもんね」
「うん」
「少しずつでいいんじゃない?」
「そうする」
焦らない。
バレンタインの失敗を取り返そうとして、また一人で追い込む必要はない。
今は話せるだけで嬉しい。
メッセージが来るだけで嬉しい。
その気持ちは、ひより自身にもはっきり分かる。
颯太が好きだからだ。
その直後。
またスマートフォンが震えた。
ひよりの胸が跳ねる。
「また佐伯君?」
「……あ」
画面を見る。
『北条真樹』
「北条君だった」
「何て?」
ひよりはメッセージを開く。
『雨降ってない?』
「……何これ」
「何?」
「雨降ってない? って」
二人で窓を見る。
晴れている。
「降ってないね」
「うん」
返信する。
『降ってないよ。そっちは?』
少しして。
『降ってない』
「……」
ひよりは首を傾げた。
「何だったんだろ」
「天気の確認?」
「同じ県内なのに?」
「場所によって違うことあるでしょ」
「まあ、そうだけど」
さらに一通。
『昨日みたいになると面倒だから聞いただけ』
「……」
ひよりは少し笑った。
「何?」
「昨日みたいになると面倒だからだって」
「へえ」
「何、その顔」
「優しいじゃん」
「……うん」
ひよりは画面を見る。
昨日。
雨の中、自分が公園にいるか確認しに来た真樹。
今日も天気を気にしている。
『今日は大丈夫そう!』
送信。
少し考えて。
『遅くなるけど待ちすぎないでね』
送る。
すぐに既読。
『待ってない』
「……ふふっ」
「何?」
「やっぱり北条君だなって」
「もうそれで通じるようになってるの、ちょっと面白いね」
「そう?」
「うん」
千夏は笑う。
ひよりも笑った。
その直後、颯太からも新しいメッセージが届いた。
ひよりの表情がまた明るくなる。
千夏はそれを見ながら、何も言わなかった。
ひよりの中には、今。
好きな人がいる。
そして。
気軽に連絡を取り始めた、新しい友達がいる。
その二つはまだ、きちんと別々の場所にあった。
◇ ◇ ◇
放課後。
約束通り、ひよりは海斗と図書室へ向かった。
千夏は今日は用事があるらしく、先に帰っている。
青葉高校の図書室は校舎三階の端にあり、放課後になると昼間よりさらに静かだった。
窓際の席へ海斗と向かい合って座る。
「じゃあ、昨日の続きね」
「お願いします、先生」
「誰が先生」
「天野先生」
「帰ろうかな」
「ごめん!」
海斗が慌てて数学の問題集を開く。
ひよりも自分のノートを出した。
「ここが分かんないんだよ」
「昨日も説明したところじゃん」
「だから分かってないんだって」
「威張らないでよ」
ひよりは呆れながら、問題を指差す。
「まずここ。いきなり答え出そうとするから分かんなくなるの」
「はい」
「この式を先に変形して」
「はい」
「ちゃんと聞いてる?」
「聞いてます」
「怪しい」
そんなやり取りをしながら、問題を一つずつ解いていく。
海斗は決して勉強ができないわけではない。
ただ数学が苦手で、一度分からなくなると途中を飛ばそうとする癖がある。
「だからここ省略しないの」
「あー……」
「分かった?」
「多分」
「じゃあ次、自分でやって」
「厳しくない?」
「教えてって言ったの橘君でしょ」
「はい」
海斗が問題へ向き合う。
ひよりは少し身体を引き、窓の外を見た。
雨は降っていない。
空には雲があるものの、昨日のような天気ではない。
時計を見る。
いつもより十五分ほど遅い。
(あと十五分くらいかな)
「天野」
「ん?」
「ここ」
「あ、ごめん」
海斗のノートを見る。
途中式が間違っている。
「ここ符号違う」
「マジ?」
「うん」
「だから答え合わないのか」
「ちゃんと見て」
「先生厳しい」
「もう教えないよ?」
「すみません」
海斗が笑う。
ひよりもつられて笑った。
図書室のカウンターにいた司書教諭から静かにするよう視線を向けられ、二人で慌てて声を落とす。
「怒られた」
「橘君が笑わせるから」
「天野も笑ってたじゃん」
「声出したの橘君」
「はいはい」
「それ北条君も嫌がるやつ」
口から出た。
海斗が首を傾げる。
「北条?」
「あ……」
「犬の飼い主?」
「うん」
「よく名前出るな」
「え?」
「最近」
ひよりは少し止まった。
「そう?」
「俺が聞いてる範囲でも結構出てる」
「……ノアと一緒にいるからじゃない?」
「まあ、そうか」
海斗は深く考えず問題へ戻った。
ひよりだけが、少し気になった。
(そんなに話してるかな)
千夏には話す。
家でも少し話した。
海斗にも。
確かに、真樹の名前を口にする機会は増えている。
(だって最近会ってるからだよね)
新しく知り合った人。
印象に残る出来事が多い。
それだけだ。
「天野」
「何?」
「またぼーっとしてる」
「してない!」
「してたって」
「ほら、続きやるよ」
「誤魔化した」
「うるさい」
ひよりは問題集を指差した。
◇ ◇ ◇
同じころ。
真樹は公園にいた。
足元にはノア。
ベンチへ座り、スマートフォンを見る。
ひよりからの最後のメッセージ。
『遅くなるけど待ちすぎないでね』
それに対して。
『待ってない』
そう返した。
「……」
時計を見る。
普段ひよりが来る時間を二十分ほど過ぎている。
「待ってない」
声に出した。
ノアが見上げる。
「何」
尻尾が一度動く。
「分かってる。遅くなるって言ってた」
ノアはまた前を向く。
「数学だろ」
誰に説明しているのか分からない。
「橘に」
その名前を口にすると、また少しだけ面白くない。
「……」
真樹はベンチの背へ身体を預けた。
橘海斗。
同じクラス。
放課後。
数学を教える。
(だから何だよ)
友達なら普通だ。
ひより自身が「クラスの友達」と言っている。
男女だからといって何かあるわけでもない。
そもそもひよりが好きなのは佐伯だ。
「……」
そこまで考えて、さらに面白くなくなる。
「何なんだよ」
小さく呟いた。
ノアがまた見る。
「お前じゃない」
頭を撫でる。
「天野、遅いな」
言ってから。
真樹は止まった。
「……いや」
遅いことは最初から知っている。
連絡まで来ている。
だから待っていない。
はずだった。
そのとき。
スマートフォンが震えた。
反射的に見る。
『天野ひより』
『今終わった! これから行くね』
「……」
胸の奥にあった妙なざらつきが、一瞬で薄くなる。
「……何だよ、それ」
自分自身に呆れた。
返信する。
『分かった』
それだけ。
送ってから。
少し考える。
『急がなくていい』
追加した。
既読。
『はーい』
さらに。
『北条君ちゃんと待ってる?』
真樹の眉が動く。
『待ってない』
『じゃあ帰ろうかな』
「……は?」
声が出た。
すぐ入力する。
『ノアが待ってる』
既読。
数秒。
『ふふ、分かった。ノアに会いに行きます』
「……」
真樹は画面を見つめる。
「何笑ってんだ、あいつ」
文章だけなのに。
笑っている顔が簡単に想像できた。
「ノア」
真樹はスマートフォンをしまう。
「来るって」
ノアが立ち上がった。
「……分かりやすいな」
言いながら。
自分も少しだけ安心していることには、気づかないふりをした。
◇ ◇ ◇
「ノアー!」
公園へ着くなり、ひよりが呼んだ。
ノアが尻尾を振る。
「ごめんね、遅くなって!」
ひよりは駆け寄り、ノアの前へしゃがんだ。
「待った?」
「待ってない」
真樹が答える。
ひよりが顔を上げる。
「北条君には聞いてない」
「……」
「ノアに聞いたの」
「こいつも待ってない」
「何で北条君が答えるの」
「飼い主だから」
「ずるい」
ひよりは笑いながらノアの首元を撫でた。
「今日はおやつないよ」
ノアが鞄を見る。
「本当に分かってるの?」
「昨日までそこから出してたからな」
「賢いね」
「俺も同じこと言ったら褒める?」
「北条君がおやつ欲しいの?」
「そういう意味じゃねえよ」
ひよりが吹き出した。
「何笑ってんだよ」
「北条君が変なこと言うから」
「お前が変な受け取り方したんだろ」
「だって」
笑いながらベンチへ座る。
真樹も少し間を空けて隣へ座った。
ノアは二人の前に伏せる。
「数学、終わった?」
真樹が尋ねた。
「うん」
「教えるほうだろ」
「そうだけど」
「橘、そんな数学できないの?」
「そんなってほどじゃないよ。ちょっと苦手なだけ」
「へえ」
「……」
ひよりが横を見る。
「何」
「やっぱり橘君のこと気になる?」
「ならない」
「昨日から名前覚えてるし」
「聞いた名前くらい覚える」
「ふーん」
「何だよ」
「別に?」
「……お前」
ひよりが笑う。
「北条君の真似」
「似てない」
「似てるよ」
「似てない」
「意地張るところまで北条君っぽい」
「俺本人だよ」
「それもそうだね」
また笑う。
真樹は呆れながらも、少しだけ口元を緩めた。
「そういえば」
ひよりが鞄からスマートフォンを出す。
「佐伯君に写真送れた」
「……そう」
「千夏が他の写真も持ってたから、それも送って」
「へえ」
「今日もメッセージ来たんだ」
「……」
真樹は前を見る。
予想していた。
それでも聞くと面白くない。
「嬉しそうだな」
「うん」
迷いのない返事。
「だって今まで個別に連絡したことなかったから」
「そう」
「少しずつ話せるようになったらいいなって」
「……」
「北条君?」
「聞いてる」
「ならいいけど」
ひよりはスマートフォンをしまう。
「応援しなくていいからね」
「してない」
「知ってる」
「何だよ」
「この前、恋愛話苦手って言ってたでしょ?」
「ああ」
「でも聞いてくれるから、それで十分」
ひよりは柔らかく笑った。
「ありがと」
「……」
真樹は一瞬言葉を失った。
「何」
「いや」
視線を逸らす。
「別に」
「出た」
「うるさい」
ひよりは楽しそうに笑う。
真樹は自分でも分からなかった。
佐伯の話は聞きたくない。
でも。
ひよりが自分には話さなくなるのも嫌だ。
矛盾している。
(本当に面倒くさいな)
自分の感情が。
「北条君は?」
「何」
「学校で今日何してたの?」
「授業」
「それだけ?」
「学校だからな」
「友達と話したりするでしょ」
「蓮とは話した」
「あ、神崎君」
「覚えてたんだ」
「聞いた名前くらい覚える」
さっき自分が言った言葉をそのまま返される。
真樹は眉を寄せた。
「真似すんな」
「北条君が先に言ったんでしょ」
「それを真似って言うんだよ」
「ふふっ」
「……」
ひよりが楽しそうなので、それ以上は言わなかった。
「神崎君ってどんな人?」
「うるさい」
「それ前も聞いた」
「人のこと面白がるのが好き」
「北条君が反応するからじゃない?」
「何で会ったことないのに蓮の味方なんだよ」
「何となく」
「納得いかない」
「いつか会ってみたいな」
「……」
真樹の表情が止まった。
「何?」
「いや」
蓮。
ひより。
会わせる。
昼間の蓮の顔が思い浮かぶ。
『天野さんに会いたい』
「……絶対面倒くさい」
「何で?」
「お前ら会わせたら俺が疲れる」
「お前ら?」
「蓮とお前」
「まだ会ってないのに!」
「想像つく」
「ひどい!」
ひよりは頬を膨らませる。
「私、神崎君と仲良くなるかもしれないよ?」
「……」
真樹の眉がわずかに動いた。
「何、その顔」
「別に」
「また」
「好きにすれば」
「何か急に冷たくない?」
「元から」
「そういう顔?」
「そういう性格」
「自分で言うんだ」
ひよりは笑った。
真樹は前を向く。
(仲良くなるって何だよ)
会ってすらいない。
蓮がひよりと仲良くなろうが、自分には関係ない。
そう思う。
なのに。
何となく面白くない。
(……佐伯も橘も蓮も、何で男ばっか増えるんだよ)
そこまで考え。
「……」
真樹は自分で自分の思考に引っかかった。
(増えるって何だ)
元々ひよりの周りにいた人間だ。
自分が後から知っただけ。
「北条君?」
「何」
「今日ちょっと変」
「毎回言ってない?」
「最近よく変だから」
「失礼だな」
「何考えてたの?」
「何も」
「嘘」
「何で」
「顔」
「お前、最近それで全部済ませるな」
「北条君が分かりやすくなったんじゃない?」
「なってない」
「なってるかもよ?」
「絶対ない」
ひよりはまた笑った。
その笑顔を見ていると。
さっきまでの妙な苛立ちが、少しずつどうでもよくなっていく。
それがまた。
真樹には気に入らなかった。
◇ ◇ ◇
夕方。
公園の外を通る人が少しずつ減り、街灯が灯り始めた。
「そろそろ帰らないと」
ひよりが立ち上がる。
「今日は遅くなったし」
「ああ」
「お兄ちゃんうるさいんだよね」
「連絡すれば?」
「したよ。遅くなるって」
「ならいいだろ」
「よくないの。帰ったら絶対聞かれる」
「何を」
「誰といたとか」
「……」
「北条君のことはまだ名前言ってないけど」
「何で」
「面倒くさいから」
「兄貴が?」
「すっごく」
ひよりは両手を広げる。
「私が男の子と話してるってだけで警戒するもん」
「……へえ」
「何?」
「じゃあ俺のこと知ったら?」
「多分すごい」
「すごいって何」
「質問攻め」
「面倒だな」
「でしょ?」
「会いたくない」
「私も会わせたくない」
即答。
真樹が少しだけ眉を上げる。
「何で」
「北条君絶対喧嘩するもん」
「しない」
「する」
「しない」
「お兄ちゃんが『ひよりに近づくな』とか言ったら?」
「……」
真樹は想像する。
会ったこともない男から、ひよりに近づくなと言われる。
「何でお前の兄貴に決められなきゃいけないんだよ」
「ほら!」
「……」
「絶対喧嘩する!」
「今のはお前の兄貴がおかしいだろ」
「まだ言ってないからね!? 想像だからね!?」
「先に言ったのお前だろ」
二人で言い合う。
ノアがその間に座っている。
ひよりはしばらく笑ったあと、ふと真樹を見る。
「でも」
「何」
「いつか会うことあるのかな」
「誰と」
「北条君と、うちの家族」
「……」
「いや、何となく」
ひよりは自分で言ってから首を傾げた。
「友達なら、そういうこともあるのかなって」
「知らない」
「私も分かんない」
「じゃあ考える必要ないだろ」
「そうだね」
ひよりはあっさり笑った。
深い意味などない。
ただの雑談。
真樹もそう理解した。
それでも。
ひよりの家。
ひよりの家族。
自分の知らない場所。
そこへ自分がいる光景を、一瞬だけ想像してしまった。
(……何考えてんだ)
すぐに打ち消した。
「じゃあ帰るね」
「ああ」
「ノア、またね」
ひよりがノアを撫でる。
立ち上がる。
数歩進み。
振り返る。
「北条君」
「何」
「明日って土曜日だよね」
「ああ」
「学校ないね」
「そうだな」
「……」
「……」
ひよりは少し困った。
平日は放課後に会う。
でも休日は。
時間が決まっていない。
「ノア、散歩する?」
「する」
「何時?」
真樹は一瞬黙った。
「……午後」
「何時くらい?」
「二時とか」
「そっか」
ひよりが頷く。
「じゃあ私もそのくらいに公園来ようかな」
「……」
「ノアに会いに」
「分かってる」
「何、その言い方」
「別に」
「また!」
ひよりが笑う。
「じゃあ二時くらいね」
「ああ」
「今度はちゃんと待ち合わせみたい」
言った。
二人とも。
少しだけ止まった。
「……みたい、だからね」
ひよりが慌てて付け足す。
「別にデートとかじゃないし」
「誰も言ってない」
「分かってる!」
「お前が一人で言ったんだろ」
「もう!」
ひよりの顔が赤くなる。
「じゃあ帰る!」
「はいはい」
「その返事やめて!」
ひよりは背を向けた。
「また明日!」
「ああ」
少し間を置き。
「また明日」
真樹も返した。
ひよりは振り返らなかった。
けれど。
その声を聞いて、少しだけ笑った。
◇ ◇ ◇
帰宅した真樹は、自室へ入って制服の上着を脱いだ。
ノアは先に部屋へ入り、いつもの場所へ伏せる。
真樹はスマートフォンを机へ置いた。
数分後。
通知が鳴る。
「……」
見る。
『天野ひより』
『明日寝坊しないでね』
「……」
真樹は眉を寄せた。
『二時に寝坊するわけないだろ』
返信。
すぐ既読。
『北条君ならありそう』
『何でだよ』
『何となく』
『お前のほうが寝坊しそう』
『しません』
『朝何時に起きてる』
『6時半くらい』
『普通』
『聞いた意味ある?』
「……」
真樹は少し笑った。
『ない』
送る。
『ひどい』
スタンプが一つ届く。
頬を膨らませた小さな動物。
「何これ」
初めて見る。
真樹は返信欄を開いた。
何を返す。
文章。
スタンプ。
普段、蓮相手なら適当に返すか既読で終わらせる。
なのに。
ひよりには何を返せばいいのか少し考えている。
「……」
結局。
『寝坊すんなよ』
送った。
『北条君もね』
そこで会話が終わる。
真樹はスマートフォンを机へ置いた。
少しして。
また手に取る。
新しい通知はない。
「……」
伏せる。
ノアがこちらを見ている。
「何」
尻尾が動く。
「明日二時な」
また動く。
「天野来るって」
さらに大きく揺れる。
「嬉しそうだな」
ノアの頭を撫でる。
「まあ」
真樹は小さく息を吐いた。
「俺も暇だったし」
誰も聞いていない言い訳だった。
◇ ◇ ◇
一方。
天野家。
夕食後、ひよりはソファでスマートフォンを眺めていた。
「何見てるの?」
「わっ!」
後ろから美月に声をかけられ、慌てて画面を伏せる。
「お姉ちゃん!」
「何、その反応」
「急に覗かないで!」
「覗いてないよ」
「絶対覗いた!」
「名前までは見えなかった」
「……名前?」
「誰かとメッセージしてたのは見えた」
「もう!」
美月が隣へ座る。
「好きな人?」
「違う!」
即答。
「じゃあ友達?」
「……うん」
「男?」
「……」
「男なんだ」
「お姉ちゃんもお兄ちゃんと同じことしてる!」
「私は騒いでない」
「やってること一緒!」
美月は笑う。
「今日の朝言ってた、犬の飼い主?」
「……うん」
「へえ」
「何」
「別に?」
「もうその言葉嫌い!」
「何で?」
「北条君も千夏も言うから!」
言った。
美月が止まる。
「北条君?」
「……」
ひよりも止まる。
「名字、北条なんだ」
「今の忘れて」
「無理」
「お姉ちゃん!」
「北条君ね」
美月はそれだけ繰り返した。
ひよりは警戒する。
「調べたりしないでよ?」
「何で私が」
「お姉ちゃんならやりそう」
「ひどいなぁ」
「お兄ちゃんより静かなだけで、お姉ちゃんも結構過保護だからね?」
「私は普通」
「絶対違う」
「で、明日会うの?」
「……」
「その顔は会うんだ」
「ノアにもね」
「何時?」
「二時くらい」
「待ち合わせ?」
「待ち合わせみたいなだけ!」
声が大きくなる。
リビングの反対側にいた悠一が反応した。
「待ち合わせ!?」
「お姉ちゃん!」
「私は悪くない」
「誰と待ち合わせ!?」
「お兄ちゃんは来ないで!」
ひよりはスマートフォンを掴んで立ち上がった。
「ひより!」
「もう寝る!」
「まだ早いぞ!」
「部屋に行くだけ!」
階段へ逃げる。
後ろから悠一の声が追ってくるが無視した。
自室へ入り、扉を閉める。
「もう……」
ベッドへ倒れ込む。
スマートフォンを見る。
最後のメッセージ。
『寝坊すんなよ』
『北条君もね』
それだけ。
ひよりは少し笑った。
明日は土曜日。
学校はない。
颯太には会えない。
でも。
午後二時になれば、ノアに会える。
真樹にも会う。
「……待ち合わせ、か」
自分で口にすると、また少し恥ずかしい。
デートではない。
そんなものでは絶対にない。
好きなのは颯太だ。
それは今日だって変わっていない。
颯太からメッセージが来れば嬉しかった。
学校で姿を探してしまう。
もっと話したいと思う。
いつか気持ちを伝えたい。
だから。
明日真樹に会うことを楽しみにしている気持ちは、それとは別のもの。
友達に会う。
ノアに会う。
ただ、それだけ。
ひよりはスマートフォンを充電器へ繋いだ。
「寝坊しないし」
誰もいない部屋で真樹へ言い返す。
明日の予定は午後二時。
寝坊を心配するような時間ではない。
それでも。
休日の予定として真樹と会う時間が決まっていることが、少しだけ嬉しかった。
◇ ◇ ◇
翌日。
土曜日。
午後一時四十二分。
「……」
ひよりは自宅の玄関で靴を履いていた。
予定より少し早い。
「ひより」
背後から美月の声。
「何?」
「二時じゃなかった?」
「……歩く時間あるから」
「公園までそんなにかかる?」
「かかるの!」
「そう」
美月は笑っている。
「何」
「別に?」
「もう!」
ひよりは立ち上がった。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
「暗くなる前に帰れよ!」
リビングから悠一の声。
「分かってる!」
玄関を開ける。
冬の昼間の冷たい空気。
けれど今日はよく晴れていた。
ひよりは歩き出す。
公園へ向かう。
まだ二時には早い。
(北条君、まだ来てないかな)
そう思いながら角を曲がる。
公園が見えた。
「……あ」
いた。
大きな黒い犬。
そして。
ベンチに座る少年。
真樹がひよりに気づく。
「……早くない?」
ひよりは公園へ入りながら言った。
「お前もだろ」
「私は歩く時間考えて」
「俺も」
「北条君、車じゃないの?」
「今日は歩いてきた」
「……」
二人で顔を見る。
時計はまだ一時五十分前。
約束より早い。
それなのに。
二人とも、もう来ていた。
「ノア!」
ひよりは誤魔化すように黒犬へ駆け寄った。
ノアが嬉しそうに尻尾を振る。
「会いたかった!」
ひよりが抱きつく。
真樹はそれを見ながら、少しだけ笑った。
「……ノアに、な」
「何?」
「別に」
「またそれ!」
ひよりが笑う。
真樹もわずかに口元を緩める。
平日の帰り道ではない。
偶然でもない。
学校のついででもない。
それでも二人はまだ、この時間に特別な名前をつけようとはしなかった。
ただ。
約束した時間より少し早く着いてしまったことだけは。
二人とも、相手には言い訳しておきたかった。




