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『黒犬が運んできたのは、不幸ではなく恋でした』  作者: 伊佐波瑞樹


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11/50

第11話 いつもより長い散歩



 土曜日の午後一時五十分前。


 冬の青空には薄い雲がゆっくりと流れ、平日の夕方とは違う明るい日差しが公園全体へ落ちていた。遊具の近くでは小学生くらいの子どもたちが追いかけっこをしており、ベンチでは買い物帰りらしい老夫婦が紙コップの飲み物を手に休んでいる。


 その中で、ひよりはノアの首元へ両腕を回していた。


「会いたかった!」


 大きな黒い身体へ頬を寄せると、ノアは嬉しそうに尻尾を振った。平日の制服姿ではなく、白いニットに淡いベージュのコート、膝下まである紺色のスカートという私服姿のひよりは、学校帰りよりもずっと柔らかな雰囲気に見える。


「……ノアに、な」


「何?」


「別に」


 少し離れたところに立っていた真樹が視線を逸らす。


 今日は彼も制服ではなかった。黒いパンツに濃いグレーのニット、その上から黒いコートを羽織っただけの落ち着いた格好なのだが、元々整った顔立ちのせいか妙に様になっている。


 ひよりはノアを撫でながら、ちらりと真樹を見た。


(北条君の私服、初めて見た)


 考えてみれば当然だ。これまで会うのは平日の放課後ばかりで、真樹はいつも桜陵学園の制服を着ていた。


 今日もノアに会うことばかり考えて家を出てきたため、真樹が私服で来るという当たり前のことを想像していなかった。


「……何」


 見ていたことに気づかれた。


「何でもないよ」


「今、見てただろ」


「見てない」


「見てた」


「ちょっとだけ」


「何で」


 問い返され、ひよりは困る。


「北条君が私服だから」


「休日だからな」


「それは分かってるよ。初めて見たなって思っただけ」


「ふうん」


 真樹は自分の服を軽く見下ろした。


「変?」


「ううん。似合ってる」


 ひよりは何気なく答えた。


「……」


 真樹の動きが止まる。


「北条君?」


「何でもない」


「今日それ多くない?」


「お前が変なこと言うからだろ」


「褒めただけなのに!」


「急に言うな」


「褒めるのに予告いるの?」


「……いらないけど」


 真樹は顔を背けた。


 耳までは見えない。


 けれど、何となく反応がいつもと違う気がして、ひよりは首を傾げた。


(もしかして褒められるの苦手なのかな)


 そう考えれば納得できる。


 ひより自身も真正面から褒められると、どう返していいか分からなくなることがある。


 すると真樹がこちらを見る。


「お前も」


「ん?」


「……いつもと違うな」


「服?」


「ああ」


「そりゃ休日だからね」


「それは分かってる」


「さっき私に言ったじゃん」


「うるさい」


 ひよりは思わず笑った。


「どう?」


「何が」


「似合ってる?」


「……」


「私だけ言ったのずるくない?」


「何がずるいんだよ」


「ほら、感想」


「別に普通」


「普通かぁ」


 ひよりが自分のコートを見る。


 別に真樹に褒めてもらおうと思って選んだ服ではない。それでも「普通」と言われると、少しくらいは残念に思ってしまう。


「そっか」


「……」


 真樹はひよりの顔を見てから、わずかに眉を寄せた。


「似合ってないとは言ってない」


「うん?」


「だから、その……」


 言葉を探すように視線が泳ぐ。


「似合ってるんじゃない」


「本当?」


「聞くなよ」


「北条君が言ったんでしょ」


 ひよりが笑うと、真樹は露骨に面倒そうな顔をした。


「もういい。散歩行くぞ」


「照れた?」


「照れてない」


「怪しい」


「置いてくぞ」


「あ、待って!」


 真樹がノアのリードを持って歩き始めたため、ひよりも慌てて隣へ並んだ。


 公園で会うことだけは決めていた。


 そのあと何をするのかまでは話していなかったが、ノアがいるのだから散歩になるのは自然だった。


 それでも、いつものように公園で少し話して帰るのではなく、最初から三人でどこかへ歩いていくことが妙に新鮮だった。


     ◇ ◇ ◇


 公園を出ると、ノアは慣れた様子で住宅街の歩道を進んでいった。


 真樹が左手でリードを持ち、ひよりはその反対側を歩いている。休日の昼下がりということもあって、通りには買い物袋を提げた人や自転車に乗った親子の姿があり、少し離れた家からは掃除機の音が聞こえてきた。


「いつもこの道?」


「たまに」


「じゃあ今日は違うコース?」


「ノアが行きたいほうに行かせてる」


「自由だね」


「危ない道じゃなければな」


 前を歩いていたノアが交差点の手前で自然に止まる。


「えらい!」


 ひよりが感心すると、真樹が少しだけ得意そうな顔をした。


「待てはちゃんとできる」


「ノアが褒められてるのに北条君が嬉しそう」


「俺が教えたからな」


「なるほど」


 信号が青へ変わり、三人で横断歩道を渡る。


 向こう側まで行ったところで、ひよりはふと思った。


「北条君って、ノアの散歩どれくらいするの?」


「日による。三十分くらいのときもあるし、一時間以上歩くこともある」


「結構歩くんだ」


「大型犬だからな。運動足りないとよくないし」


「毎日?」


「基本は」


「北条君が?」


「俺ができない日は家の人に頼む」


 ひよりは何気なく聞いてから、「家の人」という表現が少し気になった。


 以前、真樹が桜陵学園に通っていることを知った日。


 大きな黒い車。


 真樹を「真樹様」と呼んだスーツ姿の男性。


 学校名を聞いたときにも、普通の家ではないのだろうと思った。


 けれど真樹自身が詳しく話さないため、ひよりもそれ以上は聞いていない。


(北条君が話したくなったら、そのときでいいよね)


 ひより自身、人に踏み込まれたくないことがある。


 だから、知りたいというだけで相手の事情へ踏み込むのは違う気がした。


「何?」


 黙ったひよりを真樹が見る。


「ううん。ノアって幸せだなと思って」


「急に?」


「だって北条君、すごく大事にしてるから」


「普通だろ」


「普通かな」


「家族なんだから普通」


 真樹はそう言って、前を歩くノアへ目を向けた。


 その横顔は、普段ひよりへ向ける少し意地悪そうな表情よりずっと穏やかだった。


「そっか」


 ひよりもノアを見る。


「家族だもんね」


「ああ」


 短い返事だったが、真樹の声は柔らかかった。


 ひよりはそれ以上何も言わなかった。


 代わりに歩調を少しだけ速め、ノアの横へ並ぶ。


「ノア、愛されてるね」


 呼びかけると、ノアがひよりを見上げる。


「……お前も相当好きだよな」


「大好きだよ」


 即答すると、真樹がわずかに目を細めた。


「そんな即答する?」


「するよ。ノアだもん」


「俺には感じ悪いとか散々言うくせに」


「北条君は北条君だから」


「どういう意味だよ」


「そのままの意味」


「絶対悪い意味だろ」


「さあ?」


 ひよりは笑いながら少し先へ進んだ。


 真樹はその背中を見ながら、小さく息を吐く。


(ノアにはあんな簡単に大好きって言うんだな)


 当然だ。


 犬に向ける「大好き」と、人に向ける「好き」は意味が違う。


 分かっている。


 それでも、なぜか耳に残った。


 そしてすぐに、別の言葉まで思い出す。


『好き』


 ひよりが佐伯について口にしたときの声。


「……」


 胸の奥が少しざらつく。


「北条君?」


 いつの間にか少し先まで行っていたひよりが振り返った。


「遅いよ」


「お前が勝手に前行ったんだろ」


「ノアが行ったの」


「リード持ってるの俺なんだけど」


「じゃあ北条君も行ってるじゃん」


「……確かに」


 ひよりが吹き出した。


 真樹も、自分で言ってから少しだけ笑った。


 佐伯の名前は、いつの間にか頭から消えていた。


     ◇ ◇ ◇


 十分ほど歩くと、住宅街を抜けて小さな川沿いの遊歩道へ出た。


 幅の狭い川の両側には低い柵が続き、その脇に舗装された歩道が伸びている。冬の木々は葉をほとんど落としていたが、そのぶん空が広く見え、午後の日差しが水面で細かく揺れていた。


「こんなところあったんだ」


 ひよりは足を緩めて川を見る。


「知らなかった?」


「こっちまで来ないもん」


「青葉高校と逆方向だからな」


「北条君、私の学校の位置知ってるの?」


「大体」


「調べた?」


「学校名聞けば場所くらい分かるだろ」


「桜陵の場所は私も知ってるけど」


「有名だから?」


「うん」


「青葉もこの辺じゃ普通に知られてるだろ」


「まあね」


 真樹はそう言ったものの、実際にはひよりから学校名を聞いたあと、一度地図で場所を確認していた。


 どこにあるのか。


 公園までどのくらいかかるのか。


 それだけだ。


(……何で確認したんだっけ)


 今となっては自分でもよく分からない。


「ねえ、北条君」


「何」


「こっち行っていい?」


 ひよりが川沿いの道を指差す。


「別にいいけど」


「ノアは?」


 ひよりがしゃがんで聞く。


「こっち行く?」


 ノアは当然答えない。


 代わりに、その道へ鼻先を向けて歩き始めた。


「行くって!」


「お前、都合よく解釈してない?」


「ノアが決めたの」


「はいはい」


「その返事、お兄ちゃんみたいだからやめて」


「兄貴も言うの?」


「言う。私が何か言うと『はいはい』って」


「仲いいんだな」


「うざいけどね」


「それ、本人にも言う?」


「言うよ」


「かわいそう」


「北条君がお兄ちゃんの味方するの?」


「会ったことないけど」


「じゃあ味方しないで」


「横暴だな」


 ひよりは笑いながら歩き出した。


 少し冷たい風が川の上を抜け、髪を揺らす。ひよりが頬へかかった髪を耳へ掛けると、その横で真樹が何気なく尋ねた。


「兄貴と姉ちゃん、年いくつだっけ」


「言ってなかった?」


「ちゃんとは聞いてない気がする」


「お兄ちゃんが二十四歳で、お姉ちゃんが二十歳。お姉ちゃんは大学二年」


「結構離れてるな」


「私が末っ子だからね」


「甘やかされてそう」


「どこが!?」


「昨日の話聞いてると」


「過保護なだけだよ。特にお兄ちゃん」


 ひよりは口では不満そうに言いながらも、表情には嫌悪がない。


 真樹はそれを横目で見る。


「嫌いじゃないんだろ」


「……誰が?」


「兄貴」


「そりゃ家族だし」


「うざいって言ってるのに」


「うざいのと嫌いなのは違うよ」


 ひよりは少し考えたあと、照れくさそうに笑った。


「むしろ好きだよ。お兄ちゃんもお姉ちゃんも」


「へえ」


「何、その顔」


「別に」


「またそれ」


 ひよりは少し頬を膨らませた。


「北条君、一人っ子なんだよね」


「ああ」


「兄弟欲しいと思ったことある?」


「ない」


「即答」


「面倒そう」


「お兄ちゃん見て決めないでよ」


「お前の話聞いてると余計にいらない」


「失礼だなぁ」


 ひよりは笑っていたが、少しして真樹の横顔を見る。


 一人っ子。


 大きな家。


 迎えの車。


 家の人。


 自分とはかなり違う環境なのだろう。


 それでも今こうして歩いている真樹は、学校名を初めて聞いたときに想像した「桜陵のお金持ち」とは結びつかなかった。


 ノアのリードを持って。


 自分とくだらないことで言い合って。


 時々、少しだけ優しい。


(やっぱり北条君は北条君なんだよね)


 以前自分が口にした言葉を思い出す。


 学校がどこでも。


 家がどうでも。


 今のところ、ひよりにとってはそれで十分だった。


     ◇ ◇ ◇


「ちょっと待って」


 遊歩道をしばらく進んだところで、ひよりが立ち止まった。


「どうした?」


「自販機」


 川沿いから一本入った場所に、小さな休憩スペースと飲料の自動販売機が設置されていた。ベンチが二つあり、その横には地域の案内板も立っている。


「喉渇いた」


「さっき家出たばっかだろ」


「歩いたから」


「子どもか」


「北条君はいらないの?」


「……コーヒー」


「ほら」


「何がほらだよ」


 二人で自動販売機の前へ行く。


 ひよりは財布を出しながら商品を眺めた。


「温かいのにしようかな」


「寒いしな」


「ミルクティーとココア……」


「長い」


「迷ってるの!」


「どっちでも同じだろ」


「全然違うよ!」


「甘いのは同じ」


「北条君、前に甘いもの嫌いじゃないって言ってたよね?」


「嫌いじゃないけど、飲み物はコーヒーでいい」


「ブラック?」


「ああ」


「大人ぶってる」


「何でブラック飲むだけで大人ぶってることになるんだよ」


「高校生でブラックってちょっと格好つけてる感じしない?」


「偏見だろ」


 真樹は呆れながら硬貨を入れ、温かいブラックコーヒーを買った。


 缶を取り出してひよりを見る。


「で、まだ決まらないの?」


「決めた。ココア」


「散々迷ってそれ?」


「大事なんだよ」


 ひよりも温かいココアを買う。


 二人はベンチへ移動し、ノアは足元に伏せた。


 ひよりは缶を両手で包む。


「あったかい」


 冷えていた指先へ熱が移ってくる。


 真樹は隣で缶コーヒーを開けた。


「一口飲む?」


「ココア?」


「うん」


「甘いだろ」


「甘いよ」


「じゃあいらない」


「甘いの嫌いじゃないって言ったじゃん」


「ココアは甘すぎる」


「飲んでないのに」


「分かる」


「じゃあ北条君のちょうだい」


「ブラックだぞ」


「一口だけ」


 ひよりが手を出す。


 真樹は缶を見てから、ひよりを見る。


「……自分のあるだろ」


「ブラック飲めるか試したい」


「自分で買えよ」


「一本いらないもん」


「わがまま」


「一口だけ!」


「……」


 真樹は少し迷ったあと、缶を差し出した。


「苦くても文句言うなよ」


「言わない」


 ひよりは受け取り、そのまま一口飲む。


 直後。


 眉間にしわが寄った。


「にがっ」


「だから言っただろ」


「北条君、よくこれ飲めるね」


「普通だろ」


「絶対ココアのほうがおいしい」


「子ども」


「じゃあ飲んでみてよ」


「いらない」


「北条君だけ逃げるのずるい」


「何がずるいんだよ」


「私は飲んだのに」


「お前が勝手に飲んだんだろ」


「一口だけ」


「……」


 ひよりが自分のココアを差し出す。


 そこで。


 真樹の視線が缶へ落ちた。


 ひよりが口をつけた缶。


「……」


「北条君?」


 ひよりは何も気にしていない。


 さっき自分も真樹の缶へ普通に口をつけた。


 つまり。


(……いや、待て)


 真樹はようやく気づいた。


 自分が飲んでいた缶を、ひよりがそのまま飲んだ。


 そして今度は、ひよりが飲んでいた缶を自分へ差し出している。


(こいつ、何も考えてないのか)


 ひよりの顔を見る。


「飲まないの?」


 本当に何も考えていない。


 真樹は無言でココアを受け取った。


 飲み口を見る。


「……」


「何?」


「いや」


 一口だけ飲む。


 甘い。


「どう?」


「甘い」


「おいしい?」


「甘い」


「感想それだけ?」


「俺には甘すぎる」


「えー」


 ひよりが缶を受け取る。


 そして何のためらいもなく、また飲んだ。


 真樹は視線を逸らした。


(気にした俺が馬鹿みたいじゃん)


 胸のあたりが妙に落ち着かない。


 別に大したことではない。


 飲み物を回し飲みしただけ。


 友達同士ならあることだろう。


 蓮とも――。


(いや、蓮とはしないな)


 比較対象を間違えた。


「北条君?」


「何」


「顔赤い?」


「寒いから」


「寒かったら赤くなるの?」


「なるだろ」


「耳も?」


「うるさい」


 ひよりがじっと見る。


 真樹は耐えきれず、ひよりの額を指で軽く押した。


「近い」


「痛くないけど!」


「ならいいだろ」


「よくない!」


 ひよりは額を押さえながら笑う。


 真樹は残ったコーヒーを飲み、どうにか気持ちを落ち着かせた。


 足元ではノアが二人を見上げていた。


「何だよ」


 真樹がノアへ言う。


 ノアは何も答えない。


 ただ、ひよりの膝へ鼻先を寄せた。


「ノア、どうしたの?」


 ひよりが嬉しそうに頭を撫でる。


「かわいい」


「……」


「北条君?」


「お前は誰の味方だよ」


 ノアの尻尾が揺れた。


「私!」


「お前に聞いてない」


「でも私だよね、ノア」


 ひよりがノアの首へ抱きつく。


 真樹はその光景を見ながら、また小さく息を吐いた。


「……本当に懐いたな」


 呆れているような声だったが、その表情は穏やかだった。


     ◇ ◇ ◇


 休憩を終えた二人は、再び川沿いを歩き始めた。


 来た道を戻るのではなく、ノアが選んだ別の道へ進む。少し先には小さな商店街があり、パン屋から焼きたてのパンの香りが流れてきた。


「あ、いい匂い」


 ひよりが店のほうを見る。


「腹減った?」


「ちょっと」


「ココア飲んだばっかだろ」


「飲み物と食べ物は別」


「意味分かんない」


「北条君、お昼何食べた?」


「家で適当に」


「何?」


「パスタ」


「誰が作ったの?」


「……家の人」


 真樹の返事が少し曖昧になる。


 ひよりは気づいたが、やはり深くは聞かなかった。


「私はお母さんが作ったチャーハン」


「急に庶民的だな」


「悪かったね」


「悪いとは言ってない」


「北条君の家、休日のお昼にパスタ出るんだ」


「チャーハンも出ると思うけど」


「思う?」


「俺が全部把握してるわけじゃない」


「何か変なの」


「何が」


「同じ高校生なのに生活違いそう」


 真樹の歩みがわずかに鈍った。


 ひよりは気づかず、パン屋の前を通りながら続ける。


「でもこうやって話してると全然分かんないね」


「……何が」


「北条君がお金持ちっぽいってこと」


「……」


「口悪いし」


「最後いらないだろ」


「ふふっ」


 ひよりが笑う。


 真樹はその横顔を見た。


 桜陵と聞いたとき。


 大きな車を見たとき。


 ひよりは確かに驚いた。


 けれど、その後の態度は変わらなかった。


 今日も同じ。


 家のことを詳しく聞こうともせず、ただ「生活違いそう」と笑っている。


(……変なやつ)


 真樹の胸にあったわずかな警戒が、また少しだけ薄くなる。


 家名や金のことを知った瞬間、距離を詰める人間もいれば、逆に必要以上に遠慮する人間もいる。


 ひよりはどちらでもない。


 知らないことは知らないまま。


 真樹が話さないなら、無理に聞かない。


 それなのに「口悪い」は普通に言う。


「何笑ってるの?」


 ひよりが怪訝そうに見る。


「笑ってない」


「今ちょっと笑った」


「気のせい」


「絶対笑った」


「お前、俺の顔見すぎ」


「北条君が分かりやすくなってきたんだよ」


「それ前も言ってたな」


「本当だもん」


 ひよりは少し得意そうに笑った。


「最初より分かるようになった」


「……何が」


「北条君のこと」


 何気ない一言だった。


 けれど真樹の足がほんの少しだけ遅くなる。


「最初は本当に感じ悪い人だと思ってたけど」


「今も言ってるだろ」


「今は、感じ悪いけど優しい人」


「感じ悪いは消えないんだな」


「大事だから」


「何でだよ」


「北条君らしいもん」


 ひよりは前を向いた。


「私、今の北条君のほうが話しやすい」


「……」


 真樹はすぐに返事ができなかった。


 ひよりは気づかず、ノアへ話しかけながら歩いている。


(今の俺って何だよ)


 別に変わったつもりはない。


 学校でも家でも、真樹は真樹だ。


 ただ。


 ひよりといるときだけ、最近少し喋る量が増えた気はする。


 どうでもいい話をする。


 言い返す。


 待つ。


 メッセージまで送る。


(……十分変わってるか)


 認めると、何となく負けた気がした。


     ◇ ◇ ◇


 商店街を抜けた先で、ノアが急に歩みを緩めた。


 前方から、小さな女の子を連れた父親が歩いてくる。


 女の子はノアを見るなり目を輝かせたものの、大きな身体に少し怖さもあるらしく、父親の手を握ったまま立ち止まった。


「わんちゃん……」


 ひよりが気づく。


 真樹もノアを自分の近くへ寄せた。


「触りたい?」


 ひよりが女の子へ尋ねると、女の子は父親を見上げた。


 父親が「飼い主さんに聞いてごらん」と促す。


「さわってもいいですか?」


 真樹は女の子の目線に合わせるよう少し腰を落とした。


「いいよ。でも急に頭触るとびっくりするから、最初は手の匂い嗅がせて」


「うん」


「手、こうして」


 真樹が自分の手を見せながら教える。


 女の子は恐る恐る手を出した。


 ノアが鼻先を近づける。


「わっ」


 女の子は一瞬手を引いたが、父親とひよりが笑うと、もう一度ゆっくり差し出した。


 今度はノアが静かに匂いを嗅ぐ。


「大丈夫。ゆっくりな」


 真樹の声は穏やかだった。


 女の子がノアの肩のあたりを撫でる。


「ふわふわ!」


「よかったね」


 父親が笑う。


「ありがとうございます」


「いえ」


 真樹が軽く頭を下げる。


 女の子は何度もノアへ手を振りながら去っていった。


 その背中が見えなくなってから、ひよりは真樹を見る。


「北条君」


「何」


「やっぱり優しいよね」


「普通だろ」


「そうやってすぐ普通って言う」


「危ない触り方されてノアが嫌な思いするのも困るから」


「それでも」


 ひよりは笑う。


「いいところだと思う」


「……」


 真樹はまた視線を逸らした。


「褒めすぎ」


「褒められるの苦手?」


「別に」


「じゃあもっと褒めようかな」


「やめろ」


「何で?」


「面倒」


「照れるから?」


「違う」


「じゃあ平気だね」


「……お前、最近性格悪くなってない?」


「北条君の影響かも」


「俺のせいにすんな」


 ひよりが楽しそうに笑う。


 真樹は言い返しながら、少しだけ困っていた。


 他人から何かを褒められること自体は珍しくない。


 成績。


 家柄。


 見た目。


 学校での評価。


 言われ慣れているものはいくらでもある。


 けれど、ひよりが褒めるのはそういうところではない。


 ノアを大切にしていること。


 子どもへ接するときの態度。


 誰かの失敗を笑わなかったこと。


 自分では特別だと思っていない部分を見つけて、まっすぐ「いい」と言ってくる。


(……調子狂う)


 それなのに、不快ではなかった。


     ◇ ◇ ◇


 歩き始めてから一時間近くが経ったころ、三人は最初の公園へ戻ってきた。


 ひよりはベンチへ座ると、小さく息を吐いた。


「結構歩いたね」


「疲れた?」


「ちょっと。でも楽しかった」


 ノアもひよりの足元へ伏せる。


「ノアはまだ元気そう」


「こいつはこれくらい平気」


「すごいね」


 ひよりはノアの頭を撫でながらスマートフォンを取り出した。


 時刻は三時を少し過ぎている。


「まだ三時なんだ」


「何時だと思ってた?」


「もっと遅いかと思った」


「一時間ちょっとしか歩いてない」


「でもいつもより長く北条君といる気がする」


 真樹がひよりを見る。


「……そう?」


「うん。平日は学校帰りだから、すぐ夕方になるし」


「まあな」


「今日はまだ明るいね」


 ひよりは空を見る。


 冬の日差しは傾き始めているものの、帰宅を急ぐような時間ではない。


 真樹もベンチへ座った。


 二人の間には一人分ほどの隙間がある。


 ノアはその前。


 いつもの公園。


 いつもの三人。


 なのに、休日というだけで少し違って見えた。


「北条君」


「何」


「休日っていつも何してるの?」


「適当」


「適当じゃ分かんない」


「勉強したり、本読んだり、ノアと散歩したり」


「友達と遊ばないの?」


「たまに蓮が来る」


「家に?」


「ああ」


「仲いいね」


「勝手に来るだけ」


「それを許してるなら仲いいんじゃない?」


「……」


「図星?」


「うるさい」


 ひよりは笑う。


「私は千夏と出かけること多いかな。お姉ちゃんと買い物行くこともあるし」


「兄貴とは?」


「最近はあんまり。お兄ちゃん仕事あるし」


「ふうん」


「でも小さいころはよく遊んでもらったよ」


 ひよりは懐かしそうに笑った。


「お兄ちゃん、私が小学生のころにはもう高校生とか大学生だったから、何でもできるように見えたんだよね」


「今は?」


「うるさいお兄ちゃん」


「落差ひどいな」


「でも頼りにはしてるよ」


「本人に言えば喜ぶんじゃない?」


「絶対調子乗るから言わない」


「かわいそう」


「北条君、お兄ちゃんに会ったら意外と仲良くなるかもね」


「絶対嫌だ」


「即答!」


「昨日の話だけで面倒そう」


「それは否定できないけど」


 ひよりが笑う。


 少しして、スマートフォンが震えた。


「あ」


 画面を見る。


 真樹は意識しないように前を向いた。


 けれど。


「千夏だ」


 ひよりの声を聞いた瞬間、わずかに肩の力が抜けた。


(……何安心してんだよ)


 佐伯ではなかった。


 ただそれだけ。


「何て?」


「『何してる?』って」


「返せば」


「うん」


 ひよりは文字を打つ。


『ノアと散歩してる』


 送信。


 すぐに返事が来る。


『北条君も?』


 ひよりは笑った。


「何」


「千夏が北条君もいるのって」


「いるけど」


「そう返すね」


『いるよ』


 送信。


 数秒後。


『休日デート?』


「っ!」


 ひよりがむせた。


「何だよ」


「何でもない!」


「絶対何かあるだろ」


「ない!」


 スマートフォンを胸元へ隠す。


「藤崎?」


「そうだけど!」


「何て?」


「言わない」


「何で」


「言わない!」


 真樹は怪訝そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。


 ひよりは画面へ視線を戻す。


『違う! ノアの散歩!』


 送る。


『二人で?』


『ノアいる!』


『人間は二人でしょ?』


「……」


 返せない。


 確かに人間は二人だ。


『だから何!』


『別に?』


「もう!」


 思わず声が出た。


 真樹が横を見る。


「どうした」


「千夏が腹立つ」


「仲いいな」


「何でそうなるの」


「何でも言えるからだろ」


 ひよりは止まった。


 真樹の言葉は妙にすんなり胸へ入った。


「……うん」


「何」


「そうかも」


 ひよりは少し笑う。


「千夏には何でも言える」


「佐伯のことも?」


「うん。最初から知ってる」


「……ふうん」


「またその顔」


「何もしてない」


「してる」


「してない」


 ひよりは真樹を見つめる。


「北条君って、佐伯君の話するとちょっと機嫌悪くなるよね」


「……は?」


 真樹の身体がわずかに固まった。


「気のせいかな」


「気のせい」


「だよね」


「……」


 あまりにもあっさり納得されて。


 なぜかそれも気に入らない。


(何なんだよ)


 否定したのは自分だ。


 それなのに「だよね」と言われると引っかかる。


「北条君?」


「何」


「本当に今日変だよ」


「お前にだけは言われたくない」


「私普通だもん」


「自分で言うやつほど普通じゃない」


「ひどい」


 二人の間にまたいつもの軽い言い合いが戻る。


 足元のノアは慣れたように目を閉じた。


     ◇ ◇ ◇


 同じころ。


 桜陵学園とは別の場所で、神崎蓮は自宅のリビングにいた。


 ソファへ寝転びながらスマートフォンを眺め、ふと思い出して真樹へメッセージを送る。


『今日暇?』


 しばらくして。


『無理』


「……」


 蓮は身体を起こした。


 土曜日。


 真樹。


 予定あり。


「珍し」


 もう一通送る。


『何してんの』


 既読はつく。


 返事がない。


『ノア?』


 少しして。


『散歩』


「……」


 蓮は笑った。


『一人?』


 今度は既読すらつかなくなった。


「分かりやす」


 蓮はスマートフォンを置こうとして、また持ち直す。


『天野さんいる?』


 送信。


 数分後。


『うるさい』


「いるじゃん」


 思わず声に出して笑った。


 蓮はまだ天野ひよりに会ったことがない。


 顔も知らない。


 知っているのは、ノアが妙に懐いていること。


 青葉高校の女子であること。


 真樹が何度も会っていること。


 雨の日にはノアもいないのに真樹がわざわざ公園へ確認しに行ったこと。


 そして、ついには連絡先まで交換したこと。


(真樹が自分から女の子と休日に会う、ねえ)


 正確にはノアの散歩なのだろう。


 本人に言わせれば。


 けれど蓮からすれば、その言い訳がいつまで続くのかのほうが面白かった。


 もっとも。


 真樹自身がまだ何も分かっていないのなら、余計なことを言って壊す必要もない。


「そのうち会ってみたいな」


 蓮はそう呟き、スマートフォンをテーブルへ置いた。


 その相手が、つい少し前に「神崎君と仲良くなるかも」と話していたことを、もちろん蓮は知らない。


     ◇ ◇ ◇


 公園では、真樹がスマートフォンをポケットへ押し込んだ。


「神崎君?」


 ひよりが尋ねる。


「何で分かった」


「さっきから嫌そうな顔でスマホ見てたから」


「俺の中で蓮どういう扱いなんだよ」


「仲いい友達」


「嫌そうな顔って言った直後に?」


「仲いいから嫌そうな顔できるんでしょ?」


「……」


「違う?」


「いや」


 真樹は少し考える。


「多分合ってる」


「ほら」


 ひよりは満足そうに笑った。


「何て来たの?」


「今日暇かって」


「遊びたかったんじゃない?」


「知らない」


「かわいそう」


「お前まで言うな」


「だって北条君、私といるから断ったんでしょ?」


 真樹が止まる。


「……」


「違うの?」


「いや」


 実際そうだ。


 今日は二時にひよりと会う約束があった。


 だから蓮から誘われても無理だった。


 ひよりはその事実を理解した瞬間、少しだけ申し訳なさそうな顔をする。


「ごめん」


「何で謝るんだよ」


「神崎君と遊べたのに」


「俺がこっち選んだんだから、お前が謝ることじゃないだろ」


「……」


「何」


「北条君、そういうところだよね」


「どういうところ」


「優しいところ」


「またそれ?」


「だって今のは優しいよ」


「普通」


「はいはい」


「それやめろ」


 ひよりは笑った。


 その笑顔を見ながら、真樹は少しだけ視線を逸らす。


 自分が選んだ。


 確かにそうだ。


 蓮と過ごす休日より、ひよりとノアと歩く時間を選んだ。


 ただそれだけのことなのに。


 口にしてみると妙に重く聞こえた。


(……考えすぎだろ)


 まだ三時を少し過ぎただけだ。


「もう少し歩く?」


 真樹が尋ねる。


「いいの?」


「ノアまだ歩きたそうだし」


 足元のノアを見る。


 ノアは伏せている。


 ひよりも見る。


「……休んでない?」


「今休んでるだけ」


「本当にノア?」


「何が」


「北条君がもう少し歩きたいんじゃなくて?」


「……」


 真樹は答えない。


 ひよりが笑う。


「じゃあ歩こう」


「何で笑うんだよ」


「別に?」


「それ禁止」


「北条君が一番使うじゃん」


 二人は再び立ち上がった。


 ノアも待っていたように身体を起こす。


 今度は公園の反対側の出口へ向かった。


     ◇ ◇ ◇


 二度目の散歩は、さっきより短い道を選んだ。


 公園の裏手から続く住宅街を抜け、近くの小さな神社の前を通る。


 境内には数人の参拝客がいて、鈴の音が冬の空気に静かに響いていた。


「初詣、ここ来たことある」


 ひよりが鳥居を見る。


「家族で?」


「うん。今年も来たよ。お兄ちゃんが私とお姉ちゃんの分までお守り買おうとして、お姉ちゃんに『自分で選ぶから』って怒られてた」


「兄貴、想像以上だな」


「でしょ?」


「お前は?」


「私は買ってもらった」


「……」


「何、その顔」


「結局甘やかされてるじゃん」


「違うよ! お兄ちゃんが勝手に!」


「受け取ったんだろ」


「……受け取ったけど」


「甘やかされてる」


「北条君には分からないの!」


「何が」


「末っ子には末っ子の事情があるの!」


「便利な言葉だな」


 ひよりは不満そうに頬を膨らませたが、すぐに自分でもおかしくなったのか笑った。


 神社を過ぎたところで、道が少し狭くなる。


 前から自転車が来たため、真樹が自然にひより側へ一歩寄り、ノアのリードを短く持った。


「こっち」


 ひよりの肩へ軽く手を添え、道路の端へ寄せる。


「え?」


 自転車が通り過ぎる。


 真樹はすぐに手を離した。


「危ないだろ」


「あ……うん」


 ひよりは一拍遅れて頷いた。


 肩に残った感覚は、本当に一瞬だった。


 制服越しですらない。


 コートの上から。


 ただ危ないから寄せられただけ。


(びっくりした)


 それ以上でも以下でもないはずなのに、ひよりは少しだけ自分の肩を意識した。


「どうした?」


「何でもない」


「お前までそれ言うようになったな」


「北条君のが移った」


「人のせいにすんな」


 いつもの調子で返す。


 それだけで妙な意識は薄れていった。


 ひよりは小さく息を吐き、ノアの隣へ並ぶ。


 真樹も特に気にした様子はない。


 実際、危ないと思って動いただけなのだろう。


(そうだよね)


 ひよりはそう納得した。


 少しだけ早くなっていた鼓動の理由までは考えなかった。


     ◇ ◇ ◇


 四時近くになり、空の色が少しずつ夕方へ傾き始めた。


 公園へ戻ってきた二人は、今度こそ帰ることにした。


「今日すごい歩いた」


 ひよりが伸びをする。


「明日筋肉痛とか言うなよ」


「そこまでじゃないよ」


「普段運動してる?」


「体育」


「それ運動してるに入る?」


「入るでしょ!」


「週何回だよ」


「北条君は?」


「ノアの散歩」


「ずるい」


「何が」


「毎日こんなに歩いてるなら体力あるじゃん」


「普通」


「また普通」


「お前が運動不足なんだよ」


「失礼だなぁ」


 言い合いながら、公園の入口まで歩く。


 いつもならここで別れる。


 ひよりは自然に足を止めた。


「じゃあ、またね」


「ああ」


 言ったあと。


 二人とも少しだけ黙った。


 明日は日曜日。


 学校はない。


 今日のように約束しているわけでもない。


 月曜日なら、放課後に会えるかもしれない。


 けれど。


 連絡先はある。


「……」


 ひよりは鞄の中のスマートフォンを意識した。


「北条君」


「何」


「明日は?」


「明日?」


「ノアの散歩」


 真樹は少し考える。


「するけど」


「何時?」


「……」


 ひよりは自分で聞いてから、少し恥ずかしくなった。


 昨日も同じように聞いた。


 今日もまた聞いている。


「いや、別に毎日会う必要はないんだけど」


「……」


「ノアも毎日私に会いたいわけじゃないだろうし」


 足元のノアが、ひよりの手へ鼻先を押しつけた。


「……」


 真樹が見る。


 ひよりも見る。


 ノアの尻尾がゆっくり動く。


「会いたいみたい」


 ひよりが笑った。


「……そうだな」


「じゃあ明日も?」


 真樹は少しだけ迷う。


 迷う必要など、本当はなかった。


「二時」


「今日と同じ?」


「ああ」


「分かった」


 ひよりの表情が明るくなる。


「じゃあまた明日ね、ノア」


 しゃがんでノアを撫でる。


 そして立ち上がり、真樹を見る。


「北条君も」


「ああ」


「また明日」


「……また明日」


 昨日と同じ言葉。


 けれど昨日より、少し自然に言えた。


 ひよりは手を振り、自宅の方向へ歩き始める。


 真樹はノアとその場に残った。


 数十歩ほど進んだところで、ひよりが一度振り返る。


 まだ真樹がいた。


 目が合う。


 ひよりはもう一度手を振った。


 真樹も小さく片手を上げる。


 それを見てから、ひよりは前を向いた。


「……」


 真樹はその背中が角を曲がるまで見送った。


 ノアが足元から見上げる。


「何」


 ノアは尻尾を振る。


「明日もだからな」


 言いながら歩き出す。


「……お前が会いたいんだろ」


 自分でも苦しい言い訳だとは分かっていた。


 それでも、まだ他の理由を探そうとは思わなかった。


     ◇ ◇ ◇


 帰宅したひよりが玄関を開けると、リビングから悠一が顔を出した。


「おかえり!」


「ただいま」


「四時過ぎてるぞ!」


「暗くなる前に帰ってきたでしょ」


「誰といた?」


「ノア」


「犬以外!」


「……北条君」


 昨日までなら誤魔化したかもしれない。


 けれど今日は、何となく隠すほうが面倒だった。


 悠一の表情が固まる。


「北条君?」


 ソファにいた美月が反応した。


「昨日言ってた人ね」


「美月、知ってるのか!?」


「名字だけ」


「何で俺は知らない!?」


「お兄ちゃんがうるさいから」


「ひより!」


 ひよりは靴を脱ぎながら笑う。


「友達だよ」


「男だろ!?」


「男友達」


「二人で!?」


「ノアもいた!」


「人間は二人だろ!」


「千夏と同じこと言わないで!」


「藤崎さんも何か言ったのか!?」


「もういい!」


 ひよりはリビングへ入る。


 由美がキッチンから顔を出した。


「楽しかった?」


「うん」


 ひよりは素直に頷いた。


「いっぱい歩いた」


「よかったわね」


「お母さん!?」


 悠一だけが納得していない。


 美月は妹の顔をじっと見る。


 頬は寒さのせいか少し赤い。


 それ以上に、表情が柔らかい。


「ひより」


「何?」


「明日は?」


「……」


 ひよりの動きが止まる。


 美月の目が細くなる。


「会うんだ」


「ノアにね」


「北条君もいる?」


「飼い主なんだからいるでしょ」


「そう」


「何?」


「別に」


「その言葉、本当に嫌い!」


 美月が笑う。


 ひよりは頬を膨らませたまま、自分の部屋へ逃げるように階段を上った。


 扉を閉めてベッドへ座る。


 鞄からスマートフォンを取り出した。


 通知はない。


「……」


 別に何も来ていなくていい。


 さっき別れたばかりなのだから。


 それでも何となくトーク画面を開く。


 昨日から増えたやり取り。


 今日の朝は連絡していない。


 公園で直接会った。


(明日も会うんだ)


 土曜日。


 日曜日。


 二日続けて。


「……」


 ひよりはベッドへ横になる。


(最近、北条君と会うの普通になってきたな)


 少し前まで名前すら知らなかった。


 黒い犬に連れられて出会った、感じの悪い人。


 それが今は。


 連絡先を知っている。


 学校の友達の名前も少し知っている。


 家族の話もする。


 一緒に散歩をする。


 飲み物まで交換した。


「……あ」


 そこで。


 ひよりは身体を起こした。


「……待って」


 自販機でのことを思い出す。


 真樹のブラックコーヒー。


 自分のココア。


 同じ飲み口。


「……」


 その意味を。


 今さら理解した。


「えっ」


 頬が熱くなる。


「え、待って待って」


 誰もいないのに声を抑える。


(私、北条君が飲んだところから普通に飲んだよね?)


 そして。


(北条君も私の……)


 そこまで考え、両手で顔を覆った。


「何で今気づくの……!」


 別に大したことではない。


 友達同士で飲み物を交換することくらいある。


 ある。


 多分。


「……千夏とは普通にするし」


 でも千夏は女の子だ。


「橘君とは……」


 しない。


「佐伯君……」


 想像した瞬間。


 ひよりはさらに顔を赤くした。


「無理無理無理」


 好きな相手と同じ飲み物を回し飲みするなんて、意識しすぎて絶対にできない。


 では、なぜ真樹とは普通にできたのか。


「……北条君だから?」


 恋愛対象として意識していないから。


 きっとそうだ。


 気を遣わなくていい友達だから。


 そう考えれば自然だった。


(でも北条君、途中でちょっと変だったような……)


 缶を見ていた。


 顔も赤かった。


 寒いからと言っていた。


「……」


 ひよりは枕へ顔を埋めた。


「もう考えない」


 考えるほど恥ずかしくなる。


 しばらくして。


 スマートフォンが震えた。


 顔を上げる。


『北条真樹』


 ひよりの心臓が一度だけ強く跳ねた。


「……何で今」


 メッセージを開く。


『明日、今日より寒いらしい』


「……」


 天気の話だった。


 ひよりは力が抜ける。


「何だ……」


 なぜ安心したのか。


 なぜ少しだけ残念だったのか。


 自分でも分からない。


『じゃあ暖かくしていく』


 返信。


 少しして。


『今日みたいな格好なら平気じゃない』


 ひよりの指が止まる。


(今日みたいな格好)


 つまり。


 覚えている。


 自分の服を。


 朝ではなく、会ったときに「似合ってる」と言ってくれた。


 それを思い出し、また少しだけ頬が熱くなる。


『北条君もね』


 それだけ返す。


 数秒後。


『分かってる』


 会話はそこで終わった。


 ひよりはスマートフォンを胸元へ置く。


「……友達」


 確認するように呟いた。


 好きなのは颯太。


 それは変わっていない。


 今日だって、颯太からメッセージが来ていないか少し気になった。


 月曜日になれば学校で会えるかもしれない。


 もっと話せたら嬉しい。


 いつか自分の気持ちを伝えたい。


 その思いは本物だ。


 ただ。


 真樹といる時間も、いつの間にかかなり好きになっていた。


 恋ではない。


 まだ、ひよりはそう思っている。


 けれど、明日も会えることを考えると。


 自然と口元が緩んだ。


     ◇ ◇ ◇


 北条家では、真樹が自室のソファへ座っていた。


 ノアは床に伏せ、散歩の疲れもあるのか静かに目を閉じている。


 真樹はスマートフォンを机へ置いた。


『北条君もね』


 最後のメッセージ。


 たったそれだけだ。


 それなのに。


「……」


 真樹は自分の右手を見る。


 今日。


 自転車が来たとき、ひよりの肩へ触れた。


 コート越し。


 ほんの一瞬。


 あのときは何も考えていなかった。


 危ないと思ったから寄せただけ。


 けれど今になって思い出す。


 そして。


 もう一つ。


「……」


 テーブルに置いてある空の缶コーヒーを見る。


 帰る途中、なぜか捨てそびれて持ち帰ってしまったものだ。


(何で持って帰ってんだよ)


 ゴミ箱へ捨てればよかった。


 真樹は缶を掴む。


 ひよりが一口飲んだ。


 自分もひよりのココアを飲んだ。


「……」


 思い出した瞬間、また落ち着かなくなる。


「馬鹿じゃねえの」


 自分へ向けて呟く。


 ただの回し飲み。


 それだけだ。


 ひより自身、何も気にしていなかった。


(あいつ、絶対何も考えてなかったし)


 そこまで考えると。


 なぜか少し腹が立つ。


「……何でだよ」


 気にされても困る。


 気にされなくても面白くない。


 意味が分からない。


 ノアが薄く目を開ける。


「見るな」


 また目を閉じる。


「……」


 真樹は缶をゴミ箱へ入れた。


 今度こそ捨てた。


 それでも記憶までは消えない。


 ひよりの私服。


 似合っていると言ったときの笑顔。


 川沿いを歩いたこと。


 家族の話。


 蓮より自分との約束を優先したこと。


 佐伯の話をされて面白くなかったこと。


 橘と数学をしていたことも、まだ少し引っかかっている。


「……面倒くさ」


 最近、そればかりだ。


 ひよりと会うようになってから。


 考えなくてもよかったことを考える。


 気にしなくてもよかった名前が増える。


 待つ時間ができる。


 予定まで増える。


 そして明日も。


 午後二時。


「……」


 真樹はベッドへ身体を預け、天井を見る。


(明日も会うのか)


 嫌ではない。


 むしろ。


 少し楽しみだ。


 そこまでは、もう否定しなくてもいい気がした。


 友達と会うのを楽しみにするくらい普通だ。


 そう結論づける。


「ノア」


 呼ぶと、黒い耳が動いた。


「明日も二時」


 ノアが顔を上げる。


「……嬉しそうだな」


 尻尾が床を軽く叩いた。


 真樹は小さく笑う。


「俺も、まあ……暇だし」


 言い訳は、昨日より少しだけ弱くなっていた。


 けれど。


 その理由へ名前をつけるには。


 二人とも、まだ少し早かった。

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