第12話 友達の友達は、まだ他人
日曜日の朝、ひよりが目を覚まして最初に見たのは、枕元に置いていたスマートフォンだった。
時刻は午前八時十二分。休日ならもう少し寝ていてもいい時間だったが、一度開いた目は思ったよりはっきりしていて、二度寝できそうな気配はない。
画面には新しい通知がいくつか並んでいた。
家族のグループチャット。
学校の連絡。
そして千夏から、昨夜遅くに届いていたメッセージ。
『で、休日デートはどうでした?』
「……まだ言ってる」
布団の中で小さく呟き、ひよりは返信画面を開いた。
『デートじゃない。ノアの散歩』
送ってから数秒。
既読がついた。
「起きてるんだ」
休日の朝なのに早いと思った直後、返信が届く。
『おはよ』
『おはよう』
『で?』
『何が?』
『楽しかった?』
ひよりは少し考えた。
昨日のことを思い返す。
川沿いを歩いたこと。
自動販売機で休憩したこと。
真樹のブラックコーヒーを飲んで、そのあと自分のココアを真樹へ渡したこと。
「……っ」
そこまで思い出した瞬間、ひよりは布団を鼻のあたりまで引き上げた。
(何でそこ思い出すの、私……)
昨夜、あとになってから気づいてしまったせいで、あの出来事だけ妙に記憶へ残っている。
けれど千夏に話したら、間違いなく面倒なことになる。
『楽しかったよ。いっぱい歩いた』
無難なところだけ返す。
『今日も会うの?』
ひよりの指が止まった。
『なんで分かったの?』
『会うんだ』
「あ」
自分から答えを教えてしまった。
『ノアにね』
『はいはい』
『その返事やめて』
『昨日も今日も?』
『たまたま』
『約束した?』
「……」
ひよりは返事に困った。
たまたまではない。
午後二時に公園で会う約束をしている。
それをそのまま送れば、千夏が何を言うかは簡単に想像できた。
『ノアが会いたそうだったから』
『ひより』
『何』
『ノアに責任押しつけるようになったら北条君と同類だよ』
「……」
否定できない。
ひよりは布団の中で頬を膨らませた。
『違うもん』
『まあいいけど。楽しんできな』
『散歩だからね』
『分かった分かった』
『絶対分かってない』
最後に怒っている猫のスタンプを送り、ひよりはスマートフォンを伏せた。
天井を見る。
「二時か……」
まだ六時間近くある。
昨日より寒くなると真樹から聞いているので、服装も少し考えたほうがいい。
そこまで考えてから、ひよりは眉を寄せた。
(何で私、服装考えてるんだろ)
散歩だ。
ノアと歩く。
真樹もいる。
それだけ。
「暖かければ何でもいいよね」
自分へ言い聞かせ、ようやくベッドから出た。
◇ ◇ ◇
朝食の席には、珍しく家族全員が揃っていた。
日曜日で仕事が休みの悠一は眠そうな顔をしながらコーヒーを飲み、美月も部屋着のままトーストを食べている。父の浩介は新聞を広げ、母の由美は焼いた卵を皿へ移していた。
「ひより、今日どこか行くの?」
由美が何気なく尋ねる。
「午後からちょっと」
椅子へ座りながら答えた瞬間、悠一の眠そうだった目が開いた。
「どこへ?」
「公園」
「誰と?」
「ノア」
「犬以外」
「……北条君」
昨日とほとんど同じやり取りになった。
美月がトーストをかじりながら笑う。
「今日も会うんだ」
「ノアの散歩だから」
「二日続けて?」
「そうだけど」
「何時?」
「二時」
「待ち合わせじゃん」
「……」
ひよりは黙って味噌汁へ視線を落とした。
昨日、自分でも同じことを少し考えた。
学校帰りに偶然会うのとは違う。
時間を決めて、それに合わせて家を出る。
確かに形式だけなら待ち合わせだ。
「ひより」
悠一が真剣な顔で身を乗り出す。
「その北条って男、本当に大丈夫なのか?」
「何が?」
「変なことされてないか?」
「されてないよ」
「家どこだ?」
「知らない」
「学校は?」
「桜陵」
悠一の動きが止まった。
「桜陵?」
「うん」
「私立桜陵学園?」
「そうだけど」
悠一は何か考えるように眉を寄せた。
その横で浩介も新聞を少し下げる。
「北条君って言ったね」
「うん」
「下の名前は?」
「真樹」
今度は浩介と悠一が同時に黙った。
美月もトーストを置く。
「北条真樹?」
「そうだよ」
「へえ……」
美月の反応が少し変わった。
ひよりは家族を見回す。
「何?」
「いや」
浩介が新聞を畳んだ。
「北条という名字で桜陵なら、もしかしたらと思ってね」
「何が?」
「北条グループって聞いたことない?」
「……会社?」
「会社というより、いくつもの会社を抱えている企業グループだな。新聞にも時々出る」
「へえ」
ひよりの反応は薄かった。
名前くらいは聞いたことがある気もするが、企業や経済の話題には詳しくない。
由美が卵焼きを置きながら言う。
「前にも名字を聞いたとき、どこかで見た気がしたのよね」
「じゃあ北条君の家って、その会社と関係あるの?」
「同じ名字というだけかもしれないわよ」
由美は決めつけなかった。
浩介も頷く。
「珍しい名字ではあるけど、本人から聞いていないなら勝手に決めるのはよくないな」
「そっか」
ひよりは味噌汁を一口飲んだ。
大きな黒い車。
真樹を「真樹様」と呼んだ男性。
桜陵学園。
昨日、昼食を誰が作ったのか聞いたときの「家の人」という答え。
いくつかの記憶が頭の中でつながりそうになる。
けれど。
(北条君、言わなかったもんね)
ひよりはそこで考えるのをやめた。
真樹が話していないことを、周りから勝手に推測して知った気になるのは嫌だった。
「今度本人に聞くのか?」
悠一が尋ねる。
「聞かないよ」
「何で?」
「北条君が話したくなったら話すでしょ」
ひよりは当たり前のように答えた。
「別に家がどこでも、今のところ関係ないし」
浩介が娘を見る。
由美は少しだけ微笑んだ。
美月も何も言わず、ひよりの横顔を眺めている。
「いや、関係あるだろ」
一人だけ悠一が納得していなかった。
「相手の素性は重要だぞ」
「お兄ちゃんが調べたりしたら本気で怒るからね」
「しない!」
「今ちょっと考えたでしょ」
「考えてない!」
「顔に出てる」
「美月まで!」
朝から騒がしくなる。
ひよりは呆れながらも、どこか安心していた。
こういうところはいつもと変わらない。
真樹の家が本当に有名な家だったとしても、少なくとも自分の家の朝食は何も変わらなかった。
◇ ◇ ◇
午後一時三十五分。
真樹は自室でスマートフォンの時刻を確認した。
まだ早い。
昨日は予定より早く着きすぎた。
今日まで同じことをすれば、さすがに自分でも言い訳が苦しくなる。
「……四十分になったら出るか」
ノアはすでに準備が分かっているのか、部屋の扉の近くで待っていた。
「お前、早い」
声をかけると、ノアの尻尾が床を叩く。
「二時だからな」
また尻尾が動く。
「まだだって」
真樹はソファへ座り直した。
スマートフォンを開く。
ひよりとのトーク画面。
昨夜の最後は自分が送った『分かってる』で終わっている。
今日になってからは一度も連絡していない。
(別に必要ないだろ)
時間も場所も決まっている。
わざわざ「今から行く」と送る必要はない。
そう考えて画面を閉じた直後、通知音が鳴った。
反射的にもう一度見る。
『天野ひより』
「……」
開く。
『今から家出るね』
たったそれだけだった。
真樹は少しだけ口元を緩める。
『分かった』
送信。
そのあと一度考え。
『気をつけて』
追加する。
送った直後、少し余計だったかと思った。
しかしすぐに返事が来る。
『北条君もね』
「……」
昨日と似たやり取り。
それだけなのに、悪くない。
「行くか」
立ち上がると、ノアも勢いよく立った。
「だからお前、分かりやすすぎ」
言いながらリードを手に取る。
けれど今の自分がノアを笑えるほど分かりにくいのかは、真樹自身にも少し怪しくなっていた。
◇ ◇ ◇
ひよりが公園へ着いたのは午後一時五十三分だった。
今日は昨日より厚手の白いマフラーを巻き、淡い茶色のダッフルコートを着ている。公園へ入った瞬間、黒い大きな身体がこちらへ向くのが見えた。
「ノア!」
呼ぶと、ノアの尻尾が大きく揺れた。
真樹もすでに来ていた。
「……また早い」
「お前もだろ」
「私は七分前」
「俺も似たようなもん」
「本当?」
「何で疑うんだよ」
「昨日十五分くらい前に来てたんでしょ?」
「……誰が言った」
「北条君」
「言ってない」
「雰囲気で分かった」
「雰囲気って便利だな」
ひよりは笑いながらノアの前へしゃがんだ。
「今日も会えたね」
首元を撫でると、ノアは嬉しそうにひよりの手へ鼻先を押しつける。
「寒くない?」
「そいつ毛皮あるから、お前より暖かいと思う」
「北条君には聞いてないよ」
「会話成立してないだろ」
「成立してるもん。ね、ノア」
ノアがひよりを見る。
「ほら」
「何がほらなんだよ」
昨日と同じようなやり取り。
けれど、ひよりにはそれが少し嬉しかった。
会ってまだそれほど経っていないのに、いつの間にか二人の間には決まった調子ができ始めている。
「今日はどっち行く?」
ひよりが立ち上がる。
「昨日結構歩いたから、別のほう行くか」
「任せる」
「ノアに?」
「北条君に」
「珍しい」
「何が?」
「いつもノア優先だから」
「北条君、もしかして拗ねてる?」
「何で俺が犬相手に拗ねるんだよ」
「ノアは犬じゃなくて家族でしょ?」
ひよりが当然のように言う。
真樹の目がわずかに見開かれた。
「……覚えてたんだ」
「何を?」
「いや」
以前、自分が言った言葉。
『家族みたいなもんだから』
ひよりはそれを覚えている。
本人にとっては何でもないことなのかもしれない。
それでも真樹は、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
「じゃあ行くぞ」
「うん」
三人で歩き始める。
今日は昨日とは逆方向。
住宅街の向こうにある少し大きな緑道へ向かうことになった。
◇ ◇ ◇
歩き始めて十分ほどしたころだった。
ひよりのスマートフォンがコートのポケットで震えた。
「ごめん」
歩道の端へ寄り、画面を見る。
千夏からだった。
『今日暇になった』
「……」
ひよりは何となく嫌な予感がした。
『そうなんだ』
『ひよりどこ?』
『外』
『北条君?』
「何で分かるの……」
思わず声に出る。
「藤崎?」
真樹が横から尋ねた。
「うん」
「また?」
「またって何」
「昨日もメッセージ来てただろ」
「親友だから普通だよ」
「別に悪いとは言ってない」
ひよりは返信する。
『ノアの散歩』
『今どこ?』
「……」
ここで教えるとどうなるか。
千夏の性格を考えれば予想できる。
『何で?』
『近かったら顔見ようかなって』
「やっぱり」
「何?」
「千夏が近かったら来るって」
「……ここに?」
「多分」
真樹の表情がわずかに変わった。
ほんの一瞬。
ひよりはそれに気づかなかった。
「嫌?」
何気なく尋ねる。
「別に」
「本当に?」
「お前の友達だろ」
「うん」
「なら俺が嫌がる理由ないだろ」
「そっか」
ひよりは安心して場所を送った。
その横で真樹は前を向く。
(来るのか)
藤崎千夏。
名前は何度も聞いている。
ひよりの親友。
中学からずっと一緒。
昨日もひよりへメッセージを送ってきた相手。
会うこと自体は別に構わない。
むしろ、どんな人物なのか少し興味はある。
ただ。
(……今日は三人だったんだけどな)
人間二人とノア。
昨日と同じ。
それが自然だと思っていた。
そこへ一人増える。
何が問題なのかと聞かれれば、何も問題はない。
友達の友達が来るだけだ。
「北条君?」
「何」
「やっぱり嫌だった?」
「違う」
「顔怖いよ」
「元から」
「自分で言うんだ」
「お前がいつも感じ悪いって言うからだろ」
「最近は優しいも付けてるよ」
「どっちか消せ」
「じゃあ優しい消す?」
「何でそっちなんだよ」
ひよりが笑った。
その笑顔を見ているうちに、真樹の中にあった小さな引っかかりも少し薄くなった。
◇ ◇ ◇
二十分ほどして、三人は緑道の入口近くにある小さな広場へ到着した。
冬でも葉を残す木々が並び、その間を舗装された散歩道が通っている。日曜日ということもあり、犬を連れた人やジョギングをする人、幼い子どもと歩く家族の姿があった。
「ひよりー!」
聞き慣れた声が飛んできた。
ひよりが振り返る。
「千夏!」
薄いブルーのコートを着た千夏が、小走りでこちらへ向かってくる。
そして。
ひよりの隣に立つ真樹を見た。
真樹も千夏を見る。
二人の視線がぶつかる。
「……」
「……」
ひよりだけが気づかない。
「千夏、こっち! この子がノア!」
「うん、まずそこなんだ」
千夏は苦笑した。
大きな黒犬を見下ろす。
「写真で見るより大きいね」
「かわいいでしょ?」
「ひよりが毎日会いたくなるのは分かる」
「でしょ!」
ひよりが嬉しそうに笑う。
千夏はノアへいきなり触れず、真樹へ視線を移した。
「触っても大丈夫?」
「ああ。急に頭からいかなければ」
「了解」
千夏はしゃがみ、手をゆっくり差し出した。
ノアが匂いを確認する。
「よろしく、ノア」
肩のあたりを撫でると、ノアは特に嫌がらなかった。
「わ、本当にふわふわ」
「でしょ!?」
「何でひよりが得意げなの」
「私の友達だから」
「ノアは俺の家族だけどな」
真樹がすかさず言う。
千夏が顔を上げた。
「へえ」
「何」
「北条君だ」
「……そうだけど」
千夏は立ち上がる。
「藤崎千夏。ひよりの親友です」
「北条真樹」
「知ってる」
「俺も名前は聞いてる」
「へえ?」
千夏の目が細くなる。
ひよりは嬉しそうに二人を見る。
「よかった。もう知ってるんだ」
「ひよりから何回か聞いたからね」
「俺も」
真樹が答える。
千夏はその一言を聞き逃さなかった。
「何回か?」
「……何」
「別に?」
真樹の眉が動く。
ひよりは二人を交互に見る。
「何か、二人ちょっと似てない?」
「どこが?」
「どこが?」
声が重なった。
「あ、やっぱり似てる」
「ひより、それは私に失礼」
「俺にもだろ」
「ほら!」
ひよりが笑う。
千夏と真樹は互いを見た。
初対面。
まだ友達でも何でもない。
けれど二人とも同時に思った。
(この人、ちょっと面倒そう)
奇妙な第一印象まで、きれいに一致していた。
◇ ◇ ◇
三人と一匹で緑道を歩き始めた。
ひよりが中央。
右に千夏。
左に真樹。
ノアは真樹の少し前を歩いている。
「それで?」
千夏がひよりを見る。
「昨日もここら辺散歩してたの?」
「昨日は川のほう」
「どれくらい?」
「二時間くらいかな」
「結構長いね」
「途中休んだよ。ココア飲んだり」
「二人で?」
「ノアもいたってば」
「ノアはココア飲まないでしょ」
「そうだけど」
真樹は黙って歩いていた。
嫌な予感がする。
千夏がひよりの顔を見る。
「何かあった?」
「何もないよ」
「その間、怪しい」
「怪しくない!」
「ひより、分かりやすいから」
「本当に何もないもん」
「へえ」
「何その顔!」
ひよりの頬が少し赤い。
真樹はそれを横目で見てしまった。
(……まさか)
昨日のココア。
ひよりはあのとき何も気づいていなかった。
少なくとも、そう見えた。
けれど今の反応は。
「北条君」
突然千夏に呼ばれ、真樹は視線を戻した。
「何」
「昨日何したの?」
「散歩」
「それだけ?」
「途中で飲み物買った」
「へえ」
「千夏!」
「聞いてるだけじゃん」
「その顔が嫌なの!」
千夏は楽しそうに笑う。
真樹は確信した。
(こいつ、何か気づいたな)
何に気づいたのかまでは分からない。
ただ、ひよりが何かを隠していることは確実に察している。
そして真樹自身も、その隠している内容に心当たりがある。
(……言うなよ)
心の中で思う。
幸い、千夏はそれ以上追及しなかった。
代わりに。
「ひより、寒い」
そう言って、ひよりの腕へ自分の腕を絡めた。
「え?」
「くっついていい?」
「もうくっついてるじゃん」
「親友特権」
「何それ」
ひよりは慣れているらしく、嫌がる様子もない。
千夏はそのままひよりの肩へ軽く寄る。
真樹の視線がそちらへ向いた。
「……」
近い。
かなり近い。
腕が絡んでいる。
肩も触れている。
ひよりは普通に笑っている。
(女子同士なら普通なのか?)
真樹には分からない。
少なくとも自分と蓮は絶対にやらない。
比較するものではない気もする。
「北条君」
千夏が呼ぶ。
「何」
「何見てるの?」
「見てない」
「そう?」
「そう」
「ふーん」
千夏は、ほんの少しだけ口元を上げた。
そして。
ひよりの腕へさらにぎゅっと抱きついた。
「ちょ、千夏。歩きにくい!」
「いいじゃん」
「よくないよ!」
「私たち親友でしょ?」
「そうだけど!」
真樹の眉間へ薄くしわが寄る。
千夏はそれを見た。
(へえ)
面白い。
けれど。
まだ断定するほどではない。
ひよりから聞いている限り、真樹自身も何も自覚していないように思える。
なら、余計なことを言う必要はない。
ただ少しくらい。
からかう程度ならいいだろう。
「ひより」
「何?」
「今日このあと暇?」
「夕方には帰るよ」
「じゃあ帰りに何か食べてく?」
「え、いいね」
「駅前のクレープとか」
「あ、この前行ったところ?」
「そう」
ひよりの顔が明るくなる。
真樹は前を向いたまま聞いている。
「北条君も行く?」
ひよりが突然尋ねた。
「……俺?」
「うん」
「何で」
「一緒にいるから」
あまりにも自然な理由だった。
「ノアいるし」
真樹はリードを見る。
飲食店へ連れて入れるかは分からない。
「テイクアウトなら外で食べられるよ」
千夏が言う。
「犬連れでも大丈夫じゃない?」
「……」
真樹は少し考えた。
本来なら断ってもいい。
散歩が終われば帰る予定だった。
けれど。
「ノアが大丈夫なら」
「やった!」
ひよりが笑う。
「北条君、クレープ何味にする?」
「まだ行くとも言ってないだろ」
「今行くって言ったじゃん」
「ノアが大丈夫ならって言った」
「大丈夫だよね、ノア」
ノアが歩き続ける。
「ほら」
「何がほらなんだよ」
千夏は二人を見ながら、静かに笑った。
(なるほどね)
ひよりが最近よく真樹の話をする理由が、少し分かった気がした。
恋愛かどうかは別として。
二人はかなり自然に話している。
ひよりが無理に明るく振る舞っているときの癖も、千夏は知っている。
今は違う。
真樹と話しているひよりは、千夏といるときに近い。
言いたいことを言い。
遠慮なく笑い。
少しむっとすれば、そのまま顔に出す。
(この人の前だと、結構素なんだ)
それは千夏にとって、少し意外だった。
◇ ◇ ◇
緑道を抜け、三人は駅前へ向かった。
休日の駅前は人が多く、買い物客や学生たちが行き交っている。ノアの大きな身体は目立つため、すれ違う人が振り返ることも多かった。
「ノア、人気者だね」
ひよりが笑う。
「大きいから目立つだけだろ」
「かっこいいもんね」
「かわいいもある」
千夏が加わる。
「でしょ!」
「だから何でひよりが得意げなの」
同じやり取りを繰り返しながら、三人はクレープ店へ着いた。
小さな店舗の前には数人が並んでいた。
メニューを見上げ、ひよりが迷う。
「どうしよう」
「また?」
真樹が呆れる。
「またって何」
「昨日もココアとミルクティーでずっと迷ってただろ」
「覚えてるの?」
「目の前で見てたからな」
「ひより、昔からだよ」
千夏が笑う。
「選択肢多いとすぐ迷う」
「千夏まで!」
「この前もキャラメルバナナといちごチョコで最後まで迷ってたじゃん」
「だって両方おいしそうだったから」
「結局キャラメルバナナ」
「今日はどうしよう……」
真樹と千夏は、同時に小さく息を吐いた。
そして。
「キャラメルバナナにすれば?」
「いちごチョコにしたら?」
二人の声が重なる。
「……」
「……」
真樹と千夏が互いを見る。
「何でキャラメルバナナ?」
千夏が尋ねる。
「前に好きって言ってたから」
「へえ。そこまで聞いてるんだ」
「藤崎は何でいちごチョコ」
「私が一口もらいたいから」
「自分で買えよ」
「私は別の買うから」
「知らないよ」
ひよりが二人の間へ割って入る。
「私のクレープで喧嘩しないで!」
「してない」
「してないよ」
「また揃った!」
三人で顔を見合わせる。
最初に笑ったのは千夏だった。
ひよりも続く。
少し遅れて、真樹も諦めたように笑った。
結局ひよりはキャラメルバナナ、千夏はいちごチョコ、真樹はシンプルなチョコレートを選んだ。
「北条君、チョコなんだ」
「何」
「甘いの食べるんだなって」
「嫌いじゃないって言っただろ」
「昨日ココア甘すぎるって言ってたのに」
「……」
真樹の手が止まる。
千夏の目が光った。
「昨日、北条君ココア飲んだの?」
「千夏」
「ひよりの?」
「千夏!」
ひよりの顔が一気に赤くなる。
真樹も言葉に詰まった。
「……一口だけ」
「へえ」
「その『へえ』やめろ」
「北条君もそういう顔するんだね」
「どういう顔」
「困ってる顔」
「……」
真樹は答えず、出来上がったクレープを受け取った。
千夏はひよりを見る。
ひよりは目を合わせない。
(なるほど。これか)
昨夜から何かあったと思っていたが、どうやら当たりらしい。
ただ。
千夏はそれ以上追及しなかった。
ひよりが本当に嫌がり始める一歩手前が分かるからだ。
「ほら、外行こ」
何事もなかったようにひよりの腕を取る。
「うん」
ひよりはほっとした顔をした。
真樹はそんな二人の背中を見ながら、少しだけ千夏への印象を修正した。
(からかうだけじゃないのか)
踏み込むところと引くところを分かっている。
それは多分、長くひよりのそばにいるからなのだろう。
◇ ◇ ◇
駅前広場の端にあるベンチへ移動し、三人はクレープを食べた。
ノアにはもちろん与えず、真樹が持ってきていた犬用のおやつを少量だけ渡す。
「ノアだけ別メニュー」
ひよりが笑う。
「チョコは絶対駄目だからな」
「分かってるよ」
「ひより、この前ちゃんとおやつ買う前に北条君に確認したんだよね」
「うん」
「偉いじゃん」
「でしょ?」
「そこは普通」
真樹が言う。
「また普通って言った!」
「犬に食べさせるもの確認するのは普通だろ」
「褒めてもいいじゃん」
「じゃあ偉い偉い」
「雑!」
千夏が笑う。
「北条君、ひよりの扱い分かってきてるね」
「どういう意味」
「こういうとき適当にあしらうと、ひよりは余計食いつくから」
「千夏!」
「事実でしょ」
「……参考になる」
「参考にしないで!」
ひよりが抗議する。
そのとき、千夏のクレープからいちごが一つ落ちそうになった。
「あっ」
慌てて口元へ運ぶ。
ひよりが笑う。
「欲張るから」
「ひよりに言われたくない」
「私落としてないもん」
「さっきクリーム鼻につきそうだったよ」
「嘘!」
「本当」
「言ってよ!」
「面白かったから」
「親友でしょ!?」
「親友だから見守った」
「意味分かんない!」
真樹は二人のやり取りを見ながら、クレープを食べる。
ひよりが千夏といるときは、いつも以上によく笑う。
声も少し大きい。
表情が次々変わる。
学校ではきっと、こうして過ごしているのだろう。
自分が知らないひよりの日常。
(……こういう感じなんだな)
不思議だった。
少し前まで、ひよりが学校で誰と何をしていようが知る理由などなかった。
今は。
千夏。
橘海斗。
佐伯颯太。
名前が増えている。
どんな相手なのかまで少しずつ知っている。
そして。
佐伯の名前だけは、やはり他の二人より気に入らない。
「北条君?」
ひよりがこちらを見る。
「何」
「ぼーっとしてた」
「してない」
「してたよ」
「考え事」
「何の?」
「別に」
「出た」
ひよりが笑う。
千夏も真樹を見る。
「北条君って、本当に『別に』多いんだ」
「ひよりも最近言う」
「北条君のが移ったの!」
「責任押しつけんな」
「ほらね」
ひよりが千夏へ同意を求める。
「こういう人なの」
「うん。何となく分かってきた」
「まだ一時間も会ってないだろ」
「でもひよりから結構聞いてるし」
「……」
真樹の視線がひよりへ向く。
ひよりが固まる。
「何」
「結構?」
「千夏が勝手に言ってるだけ」
「何話した?」
「ノアのこと」
「俺は?」
「……ちょっと」
「どれくらい」
「ちょっと!」
ひよりの声が少し大きくなる。
千夏は楽しそうにクレープを食べている。
「感じ悪いけど優しいって」
「千夏!」
「それ本人にも言われてる」
「ならいいじゃん」
「よくない!」
真樹はひよりを見る。
「他には?」
「言わない!」
「気になる」
「何で!」
「俺の話だろ」
「悪口は言ってないから大丈夫!」
「じゃあ何言ったんだよ」
ひよりは答えない。
言えるわけがない。
ノアに会いたい。
北条君は意外と優しい。
桜陵なのに普通。
何となく会えると嬉しい。
連絡先を交換した。
休日に約束した。
そんなことを少しずつ千夏へ話してきた。
(並べると私、北条君の話しすぎじゃない?)
今さら気づく。
頬が熱くなる。
「……ノアのついで!」
「絶対嘘だろ」
「嘘じゃない!」
「ひより、顔赤いよ」
「千夏は黙って!」
千夏は笑いを堪えきれなかった。
◇ ◇ ◇
午後四時前。
三人は駅前から公園へ戻ってきた。
空は少しずつ薄い橙色を帯び始めている。
「じゃあ私、こっちだから」
千夏が立ち止まる。
「うん。また明日ね」
「また明日」
千夏はひよりへ手を振ったあと、真樹を見る。
「北条君」
「何」
「今日はどうも」
「こっちこそ」
「ノアにも会えたし、楽しかった」
「ならよかった」
少し間が空く。
千夏は真樹をまっすぐ見る。
「ひより、結構無理して笑うことあるから」
「え?」
ひよりが驚く。
「千夏?」
「何となく言いたくなっただけ」
「急に何」
「北条君なら、そのうち分かるかもって思って」
真樹はすぐに答えなかった。
ひよりの表情を見る。
「……」
ひよりは困ったように笑っていた。
その笑顔を見た瞬間。
真樹は、千夏が言いたいことを少しだけ理解した。
いつもの楽しそうな笑顔とは違う。
何かを誤魔化すときの笑い方。
以前にも見た気がする。
「余計なこと言わないでよ」
ひよりが千夏へ言う。
怒ってはいない。
ただ少し恥ずかしそうだった。
「ごめん」
千夏は素直に謝った。
「でも北条君」
「何」
「ひよりの友達なら、よろしく」
「……」
真樹は一瞬だけ目を見開いた。
そして。
「ああ」
短く頷いた。
「分かった」
ひよりが二人を見る。
「何それ。私抜きで話進めないでよ」
「別に進めてないよ」
「藤崎が勝手に言っただけ」
「北条君まで!」
千夏が笑う。
「じゃ、本当にまた明日」
「うん」
今度こそ千夏は歩いていった。
少し離れたところで一度振り返り、ひよりへ大きく手を振る。
ひよりも振り返した。
姿が人混みの向こうへ消える。
「……」
「……」
急に静かになった。
ひよりと真樹。
そしてノア。
昨日と同じ三人へ戻っただけなのに。
「何か静か」
ひよりが言う。
「藤崎がよく喋るからだろ」
「北条君も結構喋ってたじゃん」
「お前らが振るから」
「楽しかった?」
「まあ」
「千夏のこと嫌いじゃない?」
「何でそんなこと聞くんだよ」
「最初、二人とも何か変だったから」
「初対面だったし」
「そっか」
ひよりは少し安心したように笑った。
「千夏、いい子でしょ」
「ああ」
「私の大事な親友」
「見れば分かる」
「本当?」
「距離近すぎ」
「え?」
「……何でもない」
真樹は前を向いた。
ひよりは首を傾げる。
「また?」
「また」
「変なの」
二人で歩き出す。
ノアがその間を少し先に進む。
「でもよかった」
ひよりが言う。
「何が」
「北条君と千夏が会えて」
「何で?」
「私の友達と北条君が知り合いになるの、何か不思議だったから」
「……」
「学校違うし、普通なら会わなかったでしょ?」
「そうだな」
「ノアがいなかったら、私と北条君も会ってないし」
二人の視線がノアへ向く。
黒い大きな背中。
あの日。
ひよりの前へ現れた黒犬。
「本当にノアが全部つないでるね」
ひよりが笑う。
「大げさ」
「そうかな」
「ただ脱走しただけだろ」
「でもそのおかげで会ったんだよ?」
「……」
「だから私、ノアには感謝してる」
「俺はあの日めちゃくちゃ心配したけどな」
「それはそうだね」
ひよりは苦笑した。
「ごめん、そこは感謝しちゃ駄目だった」
「まあ、結果的には何もなかったからいいけど」
真樹はノアを見る。
そして。
ほんの少しだけ思う。
(結果的には、か)
ノアがいなくなったあの日。
必死で探した。
見つけたとき、ノアの隣にいた知らない女子。
それが今は。
明日も会うかもしれない相手になっている。
連絡先まで知っている。
友達だと呼べる。
不思議なものだった。
◇ ◇ ◇
公園の入口へ戻ったところで、ひよりが足を止めた。
「じゃあ帰ろうかな」
「ああ」
「今日はありがとう」
「何が」
「千夏来てもいいって言ってくれて」
「別に俺の許可いらないだろ」
「でも北条君とノアの散歩だったし」
「……お前もいたけど」
「私は勝手についていってるだけだよ?」
「今さら?」
「え?」
真樹は少しだけ眉を寄せた。
「昨日も今日も時間決めて会ってるのに、勝手についてきてるは無理あるだろ」
「……」
ひよりが瞬きをする。
言われてみればそうだ。
「じゃあ……一緒に散歩してる?」
「そうだろ」
「北条君がそう思ってるなら」
「何だよそれ」
「だって最初はノアに会いたくてついていってただけだったし」
「今は?」
真樹が尋ねる。
ひよりは少し考えた。
「今は……」
ノアを見る。
それから真樹を見る。
「北条君と話すのも楽しいよ」
真樹が黙った。
「だから、両方かな」
「……そ」
「反応薄い!」
「何て言えばいいんだよ」
「私も楽しいとか」
「自分で要求する?」
「言ってくれてもいいじゃん」
「……」
真樹は視線を逸らした。
少し間を置いて。
「俺も」
「え?」
「だから」
真樹はひよりを見ないまま続ける。
「退屈はしてない」
「……それ、楽しいって意味?」
「好きに取れば」
「素直じゃないなぁ」
ひよりは笑った。
真樹はその笑い声を聞きながら、少しだけ口元を緩める。
退屈していない。
それどころではない。
昨日も今日も、時間が過ぎるのが妙に早かった。
けれど、そこまで言う必要はない。
「明日学校だね」
ひよりが言う。
「ああ」
「北条君も?」
「高校生なんだから当たり前だろ」
「桜陵って日曜日も学校ありそう」
「どういう偏見だよ」
「勉強すごそうだから」
「青葉だって普通に勉強するだろ」
「私は数学苦手」
「橘に教えるんじゃなかったの?」
「教えられる範囲だけ!」
橘。
その名前を聞いた瞬間、真樹の胸に小さな引っかかりが戻る。
けれど昨日ほど強くはなかった。
今日はずっとひよりと一緒だったからかもしれない。
「北条君、数学得意?」
「まあ」
「桜陵の『まあ』は信用できない」
「何だそれ」
「絶対私よりできるでしょ」
「多分」
「今度分かんないところあったら教えて」
「……俺が?」
「駄目?」
「別にいいけど」
「本当?」
「時間合えば」
「やった」
ひよりは素直に喜ぶ。
真樹は少しだけ考える。
(橘じゃなくて俺に聞けばいいのに)
そんな考えが浮かんだ。
浮かんでから。
(……何で張り合ってんだよ)
自分で呆れる。
海斗はひよりの同級生。
学校で勉強を教え合うのは普通だ。
それなのに。
自分にも聞けばいいと思ってしまった。
「じゃあまた連絡するね」
「ああ」
「ノアもまたね」
ひよりがしゃがみ、ノアの頭を撫でる。
「明日は学校だから、今日みたいに長くはいられないけど」
「……明日も来るの?」
真樹が尋ねる。
ひよりは顔を上げた。
「北条君、来ないの?」
「いや」
「じゃあ行く」
「……」
「何?」
「何でもない」
真樹は少しだけ笑った。
「多分、いつもの時間」
「分かった」
ひよりが立ち上がる。
「じゃあまた明日」
「ああ。また明日」
今度はもう。
二人とも、その約束を不自然だとは思わなかった。
◇ ◇ ◇
帰宅途中。
千夏は電車の座席に座り、スマートフォンを開いた。
ひよりへメッセージを送る。
『今日はありがと』
少しして返信。
『こっちこそ! 千夏とノア会わせられてよかった』
『北条君ともね』
『うん』
その返事を見て、千夏は少し笑った。
以前なら。
ひよりはそこへ何か一言付け足したかもしれない。
『別に北条君はついでだけど』
とか。
『ノアがメインだから』
とか。
けれど今日は普通に『うん』と返した。
(本人は気づいてないんだろうな)
千夏は窓の外へ目を向ける。
ひよりが佐伯颯太を好きなのは知っている。
ずっと見てきた。
去年同じクラスだったころから、颯太の話をするときだけ少し声が変わることも。
バレンタインのためにクッキーを作ったことも。
結局渡せず、落ち込んでいたことも。
だから。
今のひよりが真樹を好きだとは、千夏も思っていない。
ただ。
(北条君の前のひより、楽そうだったな)
そこは大きかった。
ひよりは明るい。
誰とでも話せる。
周りからはそう見られやすい。
でも本当は、人の反応をかなり気にする。
嫌われていないか。
変に思われていないか。
空気を悪くしていないか。
そんなことを考え、笑って誤魔化すことがある。
千夏は長い付き合いだから分かる。
今日。
真樹の前にいたひよりは、かなり素に近かった。
それが恋愛につながるのかは分からない。
友達のままかもしれない。
何より、ひよりには今好きな相手がいる。
(まあ、私はひよりの味方でいればいいか)
それで十分だ。
ただし。
「北条君かぁ」
千夏は小さく呟く。
悪い印象ではなかった。
口は少し悪い。
無愛想。
素直でもない。
でもノアを大事にしている。
ひよりの話も思った以上によく覚えている。
そして。
千夏がひよりへ抱きついたとき。
あの視線。
「……ふふ」
少しだけ面白い。
だからといって、まだ何も決めつけるつもりはない。
ただ次に会ったとき。
もう少しくらい観察してみてもいいかもしれなかった。
◇ ◇ ◇
その夜。
ひよりは机に向かい、月曜日の授業の準備をしていた。
数学の教科書を鞄へ入れようとして、ふと思い出す。
『今度分かんないところあったら教えて』
自分で言った言葉。
真樹は『時間合えば』と答えた。
「……」
ひよりは教科書を開く。
ちょうど少し苦手な問題がある。
(これ聞いたら、本当に教えてくれるかな)
スマートフォンを見る。
連絡先がある。
わざわざ公園まで待たなくても聞ける。
写真を送ればいい。
けれど。
(今聞くのは迷惑かな)
日曜日の夜。
もう八時を過ぎている。
明日でもいい。
そう思って教科書を閉じかけたところで、スマートフォンが震えた。
真樹からだった。
『藤崎、ちゃんと帰った?』
「……」
ひよりは少し驚いた。
『帰ったよ。さっき連絡きた』
『ならいい』
それだけ。
ひよりは笑う。
『北条君、千夏のこと心配してくれたの?』
しばらく返事がない。
やがて。
『遅くなってたから一応』
「やっぱり優しいじゃん」
声に出して笑った。
『ありがとう』
送る。
そのあと、ひよりは少し迷ってから数学の教科書を開いた。
問題を写真に撮る。
『あと、これ分かる?』
送信。
既読。
数十秒後。
『分かる』
『教えて』
『今?』
『迷惑なら明日でいいよ』
少し間が空く。
『別にいい』
そのあと、真樹から式の途中を説明する文章が届いた。
ひよりはノートへ書き写す。
『ここまでは分かる?』
『分かる』
『じゃあ次、自分でやって』
『急に厳しい』
『全部答え言ったら意味ないだろ』
『橘君はもっと優しく教えてくれる』
送った直後。
返事が止まった。
「……あれ?」
一分。
二分。
『じゃあ橘に聞けば』
「えっ」
ひよりは画面を見つめた。
(何でちょっと怒ってるの?)
『冗談だよ』
送る。
返事はない。
『北条先生お願いします』
まだない。
『北条君?』
数十秒後。
『先生はやめろ』
ひよりは吹き出した。
『じゃあ教えて』
『まずさっきの式解いて』
『はーい』
再び問題へ向かう。
十分ほどかけて答えを出し、写真を送る。
『できた』
すぐに。
『合ってる』
『やった!』
『そこできるなら次も同じ』
『分かった』
やり取りは、それから三十分ほど続いた。
勉強の話だけ。
時々ひよりが文句を言い、真樹が呆れた返事をする。
それだけだった。
けれど。
最後の問題が解けたとき。
『できた!』
『おつかれ』
『ありがとう。助かった』
『どういたしまして』
ひよりはその一文を見て、少しだけ目を丸くした。
真樹が素直に「どういたしまして」と返している。
『北条君が素直』
『もう教えないぞ』
『ごめんなさい』
『遅い』
『また教えてね』
しばらくして。
『分かる範囲なら』
ひよりは笑った。
『おやすみ』
送る。
返ってくる。
『おやすみ』
「……」
スマートフォンを机へ置く。
昨日も。
今日も。
会った。
そして夜まで話している。
(友達って、こんな感じだよね)
千夏とはもっと頻繁に連絡を取る。
海斗とも学校の用事ならメッセージする。
だから特別ではない。
そう思う。
それでも。
明日学校へ行けば颯太に会えるかもしれないことと。
放課後になれば真樹とノアに会えるかもしれないこと。
その二つを思い浮かべたとき。
ひよりの胸には、違う種類の楽しみが並んでいた。
颯太を思うと、緊張する。
ちゃんと話せるだろうか。
変に思われないだろうか。
少しでも可愛く見られたい。
真樹を思うと。
なぜか肩の力が抜ける。
またくだらないことで言い合うのだろう。
ノアを撫でて。
笑って。
今日の続きをするように話す。
「……全然違うな」
ひよりは小さく呟いた。
どちらがいいとか。
どちらが大切とか。
そんな比較ではない。
今のひよりには、まだまったく別の感情だった。
だからこそ。
その違いが何を意味するのかを、深く考えることもなかった。
◇ ◇ ◇
一方。
真樹はベッドへ座り、ひよりとのトーク画面を見ていた。
『おやすみ』
その上には数学の問題。
さらに上には千夏の話。
昨日までは天気や待ち合わせ程度だったやり取りが、少しずつ長くなっている。
「……橘のほうが優しい、ね」
途中で送られてきた一文を思い出す。
冗談だと分かっている。
それでも、反射的に『じゃあ橘に聞けば』と返した。
(子どもか、俺は)
自分でも呆れる。
別に橘と競う必要などない。
ひよりの同級生。
それだけ。
佐伯だって。
ひよりが好きな相手。
それだけ。
自分は友達。
ノアを通じて知り合った。
最近少し話すようになった。
今日、その友達の親友にも会った。
「……」
千夏の言葉を思い出す。
『ひより、結構無理して笑うことあるから』
真樹は目を細めた。
確かに。
今日あの言葉を向けられたとき、ひよりは笑っていた。
でも普段とは少し違った。
(藤崎は、ずっとあいつのこと見てきたんだな)
自分が知らないひよりを知っている。
当然だ。
中学からの親友なのだから。
そこでなぜか。
少しだけ悔しいと思った。
「……意味分かんね」
真樹はスマートフォンを伏せる。
知り合って間もない自分が、千夏と同じだけひよりを知っているはずがない。
それでも。
(そのうち分かるかも、か)
千夏が言った。
そのうち。
真樹はその言葉を否定しなかった。
明日も会う。
きっと明後日も。
毎日とは限らない。
でも連絡先がある。
学校が違っても、以前のように偶然だけを待つ必要はなくなった。
ひよりが分からない問題を送ってきたように。
自分から何か送ることだってできる。
「……」
そこで真樹は気づく。
ひよりとの関係が続くことを、当たり前のように考えている。
いつまで。
どこまで。
そんなことは考えていない。
ただ明日も、その先も。
何となく会うのだと思っている。
足元で眠っていたノアが寝返りを打つ。
真樹はその黒い身体を見る。
「お前が連れてきたんだからな」
返事はない。
「……最後まで責任取れよ」
何の責任なのか。
自分でも分からない。
真樹は小さく笑い、部屋の明かりを落とした。
黒犬がつないだ縁は、まだ恋には遠い。
ひよりには好きな相手がいて。
真樹は自分の胸に生まれ始めた小さな引っかかりへ、まだ名前すらつけていない。
それでも二人の間では、偶然会えたことを喜んでいた頃とは違うものが、少しずつ増え始めていた。
会う約束。
短いメッセージ。
互いの友人の名前。
知らなかった日常。
そして、明日も会えると思えること。
まだ誰も、それを特別とは呼ばなかった。




