第13話 好きな人からのメッセージ
月曜日の朝、ひよりは目覚ましが鳴るより少し早く目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光はまだ淡く、部屋の空気には布団から出るのをためらわせる冷たさが残っている。ひよりは枕元のスマートフォンへ手を伸ばし、時刻を確認してから通知欄を何気なく開いた。
新着メッセージが一件。
送り主の名前を見た瞬間、眠気が消えた。
『佐伯颯太』
「……え?」
ひよりは身体を起こした。
昨夜は真樹に数学を教えてもらい、最後に「おやすみ」と送り合ってから眠った。そのあとに届いていたらしい颯太のメッセージには、午前零時を少し過ぎた時刻が表示されている。
胸が急に騒がしくなる。
(佐伯君からだ)
文化祭の写真を送るために連絡先を交換して以来、何度か短いやり取りはしている。しかし、これまでは写真や去年のクラスの話題から自然に続いたものばかりで、颯太のほうから新しく話しかけてくることはなかった。
指先が少し緊張しながら画面を開く。
『急にごめん。天野って去年の文化祭の写真、他にも持ってる? 実行委員のやつ探してたら懐かしくなって』
「……ある」
思わず声が漏れた。
恋愛的な内容ではない。
分かっている。
それでも、颯太が自分を思い出して連絡してくれたという事実だけで嬉しかった。
ひよりはベッドの上で写真フォルダを開き、去年の秋まで遡っていく。クラスの装飾、友人たちとの写真、千夏と撮ったもの、教室の前で撮影した集合写真。目的の写真を探しているうちに、颯太が写っている一枚を見つけて指が止まった。
去年の文化祭。
同じクラスだったころの颯太は、教室の入口で男子数人と笑っている。
(やっぱり好きだな)
胸の奥がきゅっと縮む。
昨日までの週末には真樹と長い時間を過ごした。千夏まで合流し、クレープを食べ、夜には数学を教えてもらった。
楽しかった。
それは間違いない。
けれど颯太の写真を見たときに生まれる緊張は、真樹といるときのものとは違う。
ひよりは目的の写真を数枚選んだ。
『おはよう。あるよ! これかな?』
送信する。
朝早いので、返事は学校へ行ってからかもしれない。
そう思っていたのに、一分もしないうちに既読がついた。
「起きてる……」
『それ! ありがとう』
『助かった』
『朝早いね』
最後の一文を見て、ひよりはまた少し嬉しくなった。
『佐伯君もね』
『昨日寝落ちして今起きた』
『それ早起きって言わないよ』
『確かに笑』
たったそれだけの会話なのに、ひよりの口元は緩んでいた。
『学校で眠くなるやつだね』
『絶対なる』
『授業中寝ないようにね』
『天野もな』
『私はちゃんと寝たから大丈夫』
そこで会話は一度途切れた。
ひよりは画面を見たまま、しばらく動かなかった。
(普通に話せた)
メッセージだからというのもある。
直接顔を合わせると、今でも少し緊張する。
それでも以前より近づけたような気がして、嬉しかった。
「ひよりー! 起きてるー?」
階下から美月の声が聞こえる。
「起きてる!」
「なら早く降りてきなー!」
「はーい!」
返事をしてから、ひよりはもう一度スマートフォンを見る。
颯太とのトーク画面。
そして、その一つ下には真樹の名前。
昨夜最後にやり取りした相手。
ひよりは何となく二つの名前を見比べてから、慌てて画面を閉じた。
(何で比べてるの、私)
比較する必要などない。
颯太は好きな人。
真樹は友達。
ノアを通じて知り合って、最近よく会うようになった友達。
それで説明はつく。
ひよりはベッドから降り、制服へ着替え始めた。
◇ ◇ ◇
「機嫌いいね」
朝食の席へ着いて間もなく、美月に言われた。
「そう?」
「うん」
ひよりは平静を装って味噌汁を飲む。
今日は悠一が早番で、すでに家を出ている。父の浩介も出勤準備をしており、由美は台所で弁当を包んでいた。
「昨日も楽しそうに帰ってきたけど、今日はまた違う感じ」
「お姉ちゃん、私の顔見すぎじゃない?」
「妹だから」
「お兄ちゃんみたいなこと言わないで」
「それは心外」
美月は本気で嫌そうな顔をした。
「私は悠一兄みたいに、ひよりが男の子と出かけるたびに相手の住所と家族構成を調べようとは思わない」
「昨日お兄ちゃん、ちょっと考えてたよね」
「絶対考えてた」
二人で顔を見合わせる。
由美が台所から苦笑した。
「二人とも、悠一がいないところで言いたい放題ね」
「本人の前でも言うよ」
「私も」
そこだけ姉妹の意見が一致した。
浩介がネクタイを整えながら席を立つ。
「ひより、昨日は北条君とその犬、それから藤崎さんと出かけていたんだっけ?」
「うん。途中から千夏が来たの」
「楽しかったか?」
「楽しかったよ」
ひよりが素直に答えると、浩介は「そうか」と頷いた。
北条という名字について昨日少し話したものの、それ以上踏み込んでくることはない。その距離感がひよりにはありがたかった。
美月はトーストをちぎりながら、妹の顔をじっと見る。
「でも今朝の機嫌のよさは北条君じゃない気がする」
「……」
ひよりの箸が止まった。
「分かりやすい」
「何で分かるの?」
「顔」
「そんなに?」
「そんなに」
美月が少し笑う。
「佐伯君?」
「……うん」
ひよりは小さく認めた。
「朝メッセージ来た」
「向こうから?」
「文化祭の写真ないかって聞かれただけだけど」
「それでも嬉しかったんだ」
「うん」
頬が緩むのを止められない。
美月はそんな妹を見て、からかうのではなく柔らかく笑った。
「よかったね」
「うん」
「今度はちゃんと渡せるといいね。気持ち」
バレンタインに渡せなかったクッキー。
あの日のことを思い出し、ひよりは少しだけ背筋を伸ばした。
「……頑張る」
いつになるかは分からない。
けれど、いつかは。
今度こそ逃げずに伝えたい。
その気持ちは変わっていなかった。
◇ ◇ ◇
青葉高校へ着くと、教室にはすでに半分ほどの生徒が集まっていた。
週明け特有の少し重たい空気があり、机へ突っ伏している生徒もいれば、週末の出来事を友人同士で話している者もいる。
「おはよ、ひより」
席へ鞄を置く前に千夏がやってきた。
「おはよう」
「昨日帰ったあと、北条君と何かあった?」
「何で最初がそれなの?」
「気になるから」
「普通に帰ったよ」
「本当に?」
「本当」
ひよりは鞄から教科書を出しながら答える。
「帰ってから数学教えてもらったけど」
「……誰に?」
「北条君」
千夏の動きが止まる。
「昨日別れたあとも連絡してたの?」
「数学分かんないところあったから聞いたの」
「へえ」
「その顔やめて」
「何も言ってないよ」
「言ってるのと同じ!」
千夏は笑いながら前の席の椅子を借り、ひよりのほうへ向けて座った。
「それで、教え方どうだった?」
「途中まではちゃんと教えてくれた。でも橘君のほうが優しいって言ったら、ちょっと機嫌悪くなった」
「……」
「何?」
「いや、何でもない」
「千夏まで『何でもない』使うようになった」
「北条君が移ったかな」
「やめてよ」
ひよりが笑ったところで、千夏は彼女の顔をじっと見た。
「でも、今日はそれだけじゃないでしょ?」
「何が?」
「朝から何か嬉しそう」
「お姉ちゃんにも言われた」
「美月さん、さすが」
「そんな分かりやすい?」
「私は分かる」
千夏が胸を張る。
ひよりは少し迷ったが、隠す必要もない。
「佐伯君からメッセージ来たの」
「お」
千夏の表情が変わった。
「向こうから?」
「うん。去年の文化祭の写真ないかって」
「なるほど」
「それだけなんだけどね」
そう言いながらも、ひよりは嬉しそうだった。
千夏はそれを見て安心する。
昨日、真樹と一緒にいるひよりを見て少し考えるところはあった。
けれど今のひよりは、やはり颯太が好きなのだ。
「朝ちょっと話せたし、嬉しかった」
「よかったじゃん」
「うん」
「今度は学校でも普通に話せるといいね」
「それが難しいんだよ」
「メッセージでは話せるのに?」
「顔見ると緊張するの!」
「恋する乙女だねえ」
「もう!」
ひよりが頬を膨らませた。
そのとき、教室の後方から海斗が近づいてきた。
「何の話?」
「橘君には内緒」
千夏が即答する。
「何でだよ」
「女子の秘密」
「天野、顔赤いけど大丈夫?」
「大丈夫!」
「ならいいけど」
海斗は深追いせず、自分の席へ戻っていく。
千夏がその背中を見送り、ひよりへ小声で言った。
「橘君も結構ひよりのこと見てるよね」
「同じクラスなんだから普通でしょ」
「まあ、今はね」
「何その言い方」
「何でもない」
「また!」
始業を知らせる予鈴が鳴り、千夏は笑いながら自分の席へ戻った。
◇ ◇ ◇
二時間目と三時間目の間の休み時間。
ひよりは廊下を歩きながら、友人に頼まれたプリントを隣のクラスへ届けに向かっていた。
目的の教室が近づくにつれ、少しだけ心臓が速くなる。
颯太のクラスだ。
(普通に渡して帰ればいいだけ)
自分へ言い聞かせる。
教室の入口で友人の名前を呼び、プリントを渡す。
これで終わり。
そう思って踵を返そうとしたところで。
「あ、天野」
背後から声をかけられた。
身体が一瞬だけ固まる。
振り返ると、颯太がいた。
「佐伯君」
「朝、写真ありがとな」
「う、うん。あれで合ってた?」
「合ってた。実行委員のやつが欲しかったから助かった」
「よかった」
直接顔を見ると、やはり緊張する。
メッセージなら普通に返せた言葉が、口から出すと少しぎこちなくなる。
颯太はそんなひよりの緊張には気づかず、気軽な調子で続けた。
「他の写真も懐かしかった。去年結構撮ってたんだな」
「千夏が写真好きだから。私のスマホでもいっぱい撮ってたの」
「ああ、藤崎か。去年も二人いつも一緒だったよな」
「今も一緒だよ」
「だろうな」
颯太が笑う。
ひよりもつられて笑った。
ほんの短い会話。
それでも嬉しい。
「じゃ、また」
「うん。またね」
颯太が教室へ戻る。
ひよりは廊下を歩き出した。
角を曲がったところで、胸元へ手を当てる。
(話せた……)
顔が熱い。
でも逃げなかった。
ちゃんと目を見て話した。
以前の自分なら、必要以上に意識して不自然になっていたかもしれない。
少しだけ前へ進めた気がした。
「よし」
小さく呟いてから、ひよりは自分の教室へ戻った。
◇ ◇ ◇
同じころ。
桜陵学園の教室では、真樹が窓際の席で教科書を閉じていた。
「北条」
前の席から蓮が振り返る。
「何」
「週末どうだった?」
「何が」
「散歩」
「普通」
「二日とも?」
真樹の眉がわずかに動く。
「何で知ってる」
「土曜に会うって話は聞いてたし、お前の顔見たら日曜も会ったんだろうなって」
「顔で分かるわけないだろ」
「じゃあ会ってない?」
「……会った」
蓮が笑う。
「ほら」
「うざい」
「しかもその反応だと、何かあったな」
「何もない」
真樹は机の中へ教科書をしまう。
「藤崎が来た」
「藤崎?」
「天野の友達」
「ああ。前に言ってた親友?」
「そう」
蓮は少し興味を示した。
「どんな子?」
「よく喋る。距離近い。面倒」
「評価ひどくない?」
「別に悪い奴とは言ってない」
「じゃあ仲良くなった?」
「何で俺が」
「友達の友達だろ」
「友達の友達は他人だろ」
真樹が即答する。
蓮は一度黙ったあと、肩を揺らして笑った。
「何」
「いや。お前が『友達』って普通に認めるようになったなと思って」
「……」
真樹の動きが止まる。
「天野のこと」
「それが何」
「最初は『知らない奴』だったのに」
「今は知ってるんだから当たり前だろ」
「そういう意味じゃないけどな」
蓮はそれ以上追及しなかった。
真樹が面倒そうな顔をしているときに突っつきすぎれば、本当に会話を切られる。
「藤崎さんも散歩したの?」
「ああ。そのあとクレープ食った」
「三人で?」
「ノアも」
「お前もそれ言うようになったの?」
「何が」
「天野さんと同じ」
真樹は蓮を見る。
「……会ったことないのに何で知ってる」
「お前から聞いてれば何となく分かる」
「俺、そんな話してないだろ」
「してるよ」
「してない」
「してる」
「具体的に言ってみろ」
「天野さんは青葉で、藤崎さんって親友がいて、橘って男子が同じクラスで、佐伯って好きな男子がいる。ノアにめちゃくちゃ懐かれてて、犬のおやつ買う前にちゃんと確認するような子で、数学はお前より橘のほうが優しく教えてくれるらしい」
「……最後どこで知った」
「今朝お前が『橘のほうが優しいって何だよ』って一人で言ってた」
「言ってない」
「言ってた」
「……」
真樹は黙った。
朝。
確かに昨日のやり取りを思い出しながら、似たようなことを口にした気はする。
「というか、数学まで教えてるの?」
蓮が面白そうに尋ねる。
「聞かれたから」
「メッセージで?」
「ああ」
「へえ」
「その顔やめろ」
「何も言ってない」
「藤崎と同じこと言うな」
蓮はまた笑った。
そのとき教室の入口から女子生徒の声がした。
「真樹」
一ノ瀬玲奈だった。
真樹と蓮がそちらを見る。
「少しいい?」
「何」
「交流会の件。昨日、うちにも正式な案内が来たの」
玲奈は書類の入った薄いファイルを抱えていた。
「北条家の返事、まだでしょう?」
「俺に聞くなよ。家のほうでやってる」
「あなた本人が出るかどうかは?」
「知らない」
「知らないって……」
玲奈は呆れたように息を吐いた。
「毎年出てるじゃない」
「今年も同じとは限らないだろ」
「でも真樹が出るなら、私も予定を空けておきたいの」
玲奈にとっては自然な言葉だった。
幼いころから家同士の付き合いがあり、こうした場で顔を合わせることも珍しくない。
真樹もそこに特別な意味は感じていない。
「家に聞けば?」
「聞いてるけど、まだ返事がないから本人に聞いたの」
「俺も聞いてない」
「そう」
玲奈は少し残念そうにしながらも、それ以上は迫らなかった。
「分かった。決まったら教えて」
「覚えてたら」
「そこは覚えておいてよ」
玲奈が苦笑する。
そして蓮へ軽く会釈し、教室を出ていった。
蓮はその背中を見送る。
「玲奈、交流会一緒に出たいんじゃない?」
「家同士の付き合いあるからだろ」
「まあ、お前はそう取るよな」
「他に何がある」
「別に」
蓮は肩をすくめた。
真樹は机へ視線を落とす。
交流会。
面倒な行事の一つ。
今のところ、それ以上でも以下でもなかった。
◇ ◇ ◇
昼休み。
ひよりは千夏と海斗と一緒に弁当を食べていた。
午前中に颯太と話せたことを千夏へ伝えたい気持ちはあるが、海斗もいるので今は黙っている。
「天野」
海斗が卵焼きを食べながら言う。
「数学の課題やった?」
「やったよ」
「最後の応用分かった?」
「分かった」
「珍しい」
「失礼!」
ひよりが眉を寄せる。
「私だってやればできるんだから」
「昨日あれ分かんないって言ってなかった?」
「教えてもらったの」
「誰に?」
「北条君」
自然に名前が出た。
海斗が一瞬だけ箸を止める。
「桜陵の?」
「うん」
「昨日も会ったんだっけ」
「千夏も途中から来たよ」
「へえ」
海斗は千夏を見る。
「どうだった?」
「何が?」
「北条って人」
「口悪い」
「おい」
ひよりがすぐに反応する。
「でも悪い人じゃなかったよ」
千夏が続ける。
「ノアのことすごく大事にしてるし、ひよりとも普通に仲よさそうだった」
「仲よさそうって」
「仲いいでしょ?」
「友達だからね」
ひよりはそう答える。
海斗は少しだけ考えるような顔をした。
「桜陵って結構遠くない?」
「学校同士はね。でも北条君の家がどこかは知らない」
「よく会えるな」
「ノアの散歩コースが近いみたい」
「そっか」
海斗はそれ以上何も言わず、弁当に戻った。
ひよりも特に気にしなかった。
けれど千夏だけは、ほんの少し海斗の横顔を見た。
(……こっちも、まだ何とも言えないけど)
ひより本人が気づいていないところで、周囲の空気が少しずつ変わり始めている気がする。
ただ今は、余計なことを言わないほうがいい。
千夏はそう判断し、自分の弁当へ視線を戻した。
◇ ◇ ◇
放課後。
ひよりは昇降口で靴を履き替えながら、スマートフォンを確認した。
真樹からメッセージが来ている。
『今から出る』
時刻は数分前。
ひよりはすぐに返信した。
『私も今学校出るところ』
『了解』
短いやり取り。
それだけで、これから会うのだと分かる。
「ひより」
後ろから千夏が来た。
「今日も行くの?」
「うん」
「毎日だねえ」
「ノアの散歩」
「もうそれ説明になってない気がするけど」
「何で?」
「何でもない」
千夏は笑う。
「私は委員会あるから、今日は行かないよ」
「毎日来なくていいからね?」
「昨日一回行っただけなのにひどくない?」
「だって北条君と何か変な感じだったし」
「気のせい気のせい」
「本当かな」
「それより」
千夏がひよりの肩へ軽く触れる。
「佐伯君と話せてよかったね」
「……うん」
ひよりの顔がぱっと明るくなった。
「朝メッセージ来て、学校でも話せて、今日すごくいい日」
「その顔、北条君にも見せるの?」
「え?」
「何でもない」
「今日それ多くない?」
「気にしないで」
千夏は手を振り、校舎へ戻っていった。
ひよりは首を傾げながら昇降口を出る。
◇ ◇ ◇
公園へ近づくにつれ、ひよりの足取りは自然と軽くなった。
朝からずっと嬉しかった。
颯太からメッセージが来た。
学校でも話せた。
昨日は真樹に教えてもらった数学の問題も解けた。
良いことが重なっている。
公園の入口が見える。
黒い大きな身体。
「ノア!」
ひよりが呼ぶ。
ノアがこちらを向き、尻尾を振った。
その横に真樹がいる。
「お疲れ」
「北条君もお疲れ!」
「……何か機嫌いいな」
会ってすぐに言われた。
「分かる?」
「分かる」
「今日いいことあったの」
「へえ」
ひよりはノアの前へしゃがみ、その首元を撫でる。
「ノア聞いて。今日ね、すごくいい日だったの」
ノアはひよりの顔を見上げる。
真樹も聞いている。
「昨日教えてもらった数学、ちゃんとできたし」
「それは俺のおかげだな」
「そこ自分で言う?」
「事実」
「橘君より厳しかったけど」
「じゃあ次から橘に聞け」
「まだ言ってる!」
ひよりが笑う。
真樹も少しだけ口元を緩める。
「それで?」
「何が?」
「他にもいいことあったんだろ」
「あ、うん!」
ひよりの表情がさらに明るくなった。
真樹はその変化を見た。
嫌な予感がした。
「佐伯君から朝メッセージ来たの」
「……」
予感は当たった。
「向こうから?」
「うん!」
ひよりは嬉しそうに続ける。
「文化祭の写真ないかって聞かれただけなんだけどね。でも朝ちょっとメッセージできて、学校でも向こうから声かけてくれたの」
「……そ」
「ちゃんと普通に話せた!」
「よかったな」
「うん!」
真樹は前を向いた。
公園の木々。
冬の冷たい風。
遊具で遊ぶ子どもたち。
いつもと変わらない景色なのに、急に面白くなくなった気がする。
(何なんだよ)
ひよりが好きな相手と話せた。
友達なら喜ぶところだろう。
実際、「よかったな」と言った。
なのに。
胸の奥にあるものは、その言葉と一致していない。
「北条君?」
「何」
「また機嫌悪くなった?」
「なってない」
「なってるよ」
「なってない」
「佐伯君の話すると、時々そうなるよね」
ひよりが不思議そうに首を傾げる。
以前にも同じことを指摘された。
そのとき真樹は、恋愛話が面倒なのだという説明を受け入れた。
今は。
自分でも、それだけではない気がしてきている。
「……別に」
「またそれ」
「お前が嬉しいならいいんじゃない」
「嬉しいよ」
即答だった。
真樹の胸がまた少しざわつく。
(そんなに嬉しいのかよ)
当たり前だ。
好きな相手なのだから。
分かっている。
分かっているのに、納得できない。
「行くぞ」
真樹が歩き出す。
「あ、待って」
ひよりもノアの横へ並ぶ。
しばらく三人で歩いた。
ひよりは何度か真樹の横顔を見る。
「……怒ってる?」
「怒ってない」
「じゃあ何?」
「何でもない」
「言ってくれないと分かんないよ」
「俺も分かんない」
思わず本音が出た。
ひよりが瞬きをする。
「北条君も?」
「……」
「自分のことなのに?」
「悪いかよ」
「悪くないけど」
ひよりは少し考える。
そして。
「じゃあ分かったら教えて」
「何で」
「気になるから」
「……覚えてたら」
「絶対忘れるやつ」
「忘れない」
「じゃあ約束」
「勝手に約束にすんな」
真樹はそう言いながらも、否定しきれなかった。
◇ ◇ ◇
公園を出て、いつもの住宅街を歩く。
今日は学校帰りなので、週末ほど長く歩くつもりはない。
ひよりは制服姿。
真樹も桜陵学園の制服。
並んで歩けば、別々の学校の生徒だということが一目で分かる。
「北条君」
「何」
「昨日、家で北条君の名字の話になった」
真樹の表情が少し変わる。
「……何の」
「お父さんが、北条グループって会社のこと知ってるかって」
「……」
「北条君の家と関係あるの?」
ひよりは真樹を見る。
問いかけ方に探るような響きはなかった。
ただ本人へ聞いている。
真樹は少し黙った。
いずれ知られるとは思っていた。
学校名も名字も伝えている。
調べようと思えば簡単に分かる。
「ある」
「そっか」
ひよりはそれだけ言った。
「……それだけ?」
「何が?」
「いや」
「詳しく聞いていいの?」
「聞きたいなら」
真樹は少し身構えていた。
これまでにも何度かあった。
家のことを知った途端、態度が変わる。
急に距離を詰める者。
逆に遠慮し始める者。
自分ではなく「北条」という家を見る者。
ひよりは少し考えた。
「じゃあ一個だけ」
「何」
「北条君が話したくないなら、話さなくていい?」
「……は?」
「だって家のことって北条君が決めたわけじゃないでしょ?」
「まあ」
「私が知りたいのは、北条君が話してもいいことだけでいいよ」
真樹は黙った。
ひよりは前を向く。
「昨日、お父さんたちも同じ名字なだけかもしれないって言ってたし、勝手に調べるの嫌だったから」
「調べなかったの?」
「うん」
「何で」
「北条君に聞けばいいから」
「……」
「それに、前に言ったでしょ?」
ひよりが笑う。
「桜陵の北条君と話してるんじゃなくて、ノアの飼い主の、ちょっと感じ悪い北条君と話してるって」
「感じ悪いは毎回必要なのかよ」
「最近は優しいも付くよ」
「じゃあそっちだけにしろ」
「それはちょっと」
「何でだよ」
いつものやり取りへ戻る。
けれど真樹の胸の奥では、先ほどまでとは違うものが広がっていた。
(変わらないんだな)
ひよりは。
知っても。
何も変えない。
それが思った以上に嬉しかった。
「北条君?」
「何」
「今ちょっと機嫌直った?」
「元から悪くない」
「嘘」
「うるさい」
ひよりは笑った。
真樹も、今度はその笑顔を素直に見られた。
◇ ◇ ◇
散歩を終えて公園へ戻るころには、空が夕暮れ色へ変わり始めていた。
ひよりはベンチの近くでノアを撫でる。
「今日は短かったね」
「平日だからな」
「明日も学校だし」
「当たり前」
「分かってるよ」
ノアの耳の後ろを撫でながら、ひよりは少し名残惜しそうにする。
真樹はそれに気づいた。
「明日も来るだろ」
「北条君も?」
「ああ」
「じゃあいいや」
「何が」
「今日短くても」
ひよりは立ち上がった。
「また明日会えるから」
「……」
真樹の胸が一度だけ強く鳴った。
ひよりは気づかない。
ただ当たり前のように言っただけだ。
明日も会える。
それを前提にしている。
「北条君?」
「……ああ」
「何?」
「何でもない」
「今日は本当にそれ多いね」
「考えること多いんだよ」
「難しい人」
「お前に言われたくない」
「私は分かりやすいよ?」
「……そうだな」
佐伯の話をするときは、本当に分かりやすい。
嬉しそうに笑う。
頬を赤くする。
声が少し弾む。
それを見るたびに胸がざわつく。
けれど。
今。
自分へ「また明日会えるから」と言ったときの笑顔も、真樹は覚えていた。
佐伯へ向けるものとは違う。
それが何なのかは、まだ分からない。
「じゃあ帰るね」
「ああ」
「ノア、また明日」
ひよりがノアへ手を振る。
「北条君も」
「また明日」
ひよりが歩き出す。
数歩進んだところで振り返る。
「数学、また分かんなかったら聞いていい?」
「いいけど」
「橘君より優しく教えてね」
「もう橘に聞け」
「冗談だって!」
ひよりが笑う。
「また連絡する!」
手を振って去っていく。
真樹はその背中を見送った。
「……」
ノアが隣で座る。
「何」
ノアは真樹を見る。
「別に」
視線を逸らす。
けれど。
「……橘より優しく、か」
小さく呟く。
悪くない。
次はもう少し丁寧に教えてやってもいい。
そう思った自分に気づき、真樹はため息をついた。
◇ ◇ ◇
夜。
ひよりは自室のベッドでスマートフォンを見ていた。
颯太とのトーク画面。
朝のやり取りから更新はない。
それでも今日は学校で話せた。
嬉しかった。
(次は私から何か送ってもいいかな)
用事がなくても。
少しくらいなら。
そう考えていると、通知が入った。
ひよりの心臓が跳ねる。
画面を見る。
『北条真樹』
「あ……」
一瞬だけ。
颯太かと思った。
そのことに自分で気づく。
けれど真樹からのメッセージを見て、がっかりしたわけでもなかった。
開く。
『数学、今日の範囲大丈夫だった?』
「……先生みたい」
ひよりは笑う。
『大丈夫だったよ』
『昨日北条先生が教えてくれたから』
『先生やめろ』
『じゃあ北条君』
『最初からそうしろ』
『今日も宿題ある』
『頑張れ』
『教えてくれないの?』
『まだ聞かれてない』
『教えて』
少しして。
『どこ』
ひよりは問題の写真を送る。
昨日と同じようなやり取りが始まる。
途中でひよりが式を間違え。
『そこ違う』
『どこ?』
『二行目』
『分かんない』
『写真に書く』
真樹から手書きの式が写った写真が届いた。
ひよりは拡大する。
「字、綺麗」
意外だった。
『北条君字綺麗だね』
『問題見ろ』
『褒めたのに』
『ありがとう』
『今日は素直』
『教えるのやめるぞ』
『ごめんなさい』
ひよりは笑いながらノートへ式を書き写す。
しばらくして問題が解けた。
『できた!』
『合ってる』
『やった』
そこで一度やり取りが止まる。
ひよりはノートを閉じた。
今日。
颯太と話せた。
それが一番嬉しかったはずなのに。
こうして一日の終わりに真樹と話している時間も、自然に楽しい。
(友達だからだよね)
自分の中で確認する。
そのとき。
『天野』
真樹から新しいメッセージ。
『何?』
『今日言ってた佐伯のこと』
ひよりの指が止まる。
『うん』
少し待つ。
『告白するの?』
「……」
心臓が少し速くなる。
真樹に直接そこまで聞かれたのは初めてだった。
ひよりはすぐには返さなかった。
ベッドの上で膝を抱える。
(する)
いつか。
今度こそ。
バレンタインのときのように逃げたくない。
『したいと思ってる』
送る。
既読がつく。
返事が来ない。
一分ほど経つ。
『そっか』
それだけ。
ひよりは画面を見る。
『何で聞いたの?』
また少し間が空いた。
『何となく』
『また何となく』
『悪いか』
『悪くないけど』
ひよりは少し考え。
『応援してくれる?』
送った。
既読。
返事が来ない。
「……北条君?」
画面の向こうへ声をかけても届かない。
数十秒。
一分。
二分。
ようやく返信が来た。
『失敗して泣かれるよりは』
「何それ」
ひよりは笑った。
『それ応援?』
『多分』
『素直じゃない』
『うるさい』
『でもありがとう』
ひよりはスマートフォンを胸元へ置いた。
真樹は応援してくれる。
少し変な言い方だけれど。
友達だから。
きっとそうなのだ。
◇ ◇ ◇
同じころ。
真樹は自室のベッドへ腰掛け、スマートフォンを握っていた。
画面にはひよりの言葉が残っている。
『したいと思ってる』
佐伯へ告白したい。
分かっていたことだ。
最初から。
バレンタインにクッキーを渡せなかったことも聞いている。
次はちゃんと伝えたいと、ひより自身が話していた。
何も新しくない。
それなのに。
「……」
胸の奥が重い。
(応援してくれる?)
その問いへ。
すぐに「する」と返せなかった。
友達なら。
ひよりが好きな相手とうまくいくことを願うのが普通なのかもしれない。
でも。
(嫌だな)
初めて。
それだけは、はっきり思った。
ひよりが佐伯へ告白すること。
その先を想像すること。
もし佐伯が受け入れたら。
ひよりがあの嬉しそうな顔を、もっと近くで佐伯へ向けるようになったら。
放課後。
今のように自分とノアに会いに来なくなるかもしれない。
休日。
自分ではなく佐伯と出かけるようになるかもしれない。
夜。
数学の問題を自分へ送るのではなく。
別の話を佐伯とするようになるかもしれない。
「……何考えてんだ」
真樹は片手で顔を覆った。
そこまで考える必要などない。
ひよりはまだ告白していない。
佐伯がどう答えるかも分からない。
そもそも自分に関係のある話ではない。
(関係ないなら、何でこんなに嫌なんだよ)
答えは出ない。
出したくないだけなのかもしれない。
そこまで考えかけて、真樹は思考を止めた。
スマートフォンが震える。
『おやすみ、北条君』
ひよりから。
真樹は画面を見る。
数秒後。
『おやすみ』
返した。
そのあと。
もう一度だけ、ひよりの『したいと思ってる』という言葉を見る。
胸の奥に生まれたものは、以前のような小さな引っかかりではなくなり始めていた。
けれど真樹はまだ、それを嫉妬とも恋とも呼ばない。
ただ一つ。
ひよりが佐伯へ告白する未来を想像すると、面白くない。
今は、それだけだった。




