第14話 知らない時間が、少し気になる
火曜日の朝、ひよりが目を覚まして最初に見たのは、枕元へ置いていたスマートフォンだった。
時刻を確認しただけのつもりだったのに、指は自然と通知欄を開いている。昨夜最後に届いた『おやすみ』という短いメッセージは、もちろんそのまま残っていた。
北条真樹。
表示された名前を見ながら、ひよりは布団の中で昨夜のやり取りを思い出す。
『告白するの?』
『したいと思ってる』
『応援してくれる?』
あの質問を真樹がどうしてしたのか、結局よく分からなかった。
恋愛話は苦手そうなのに、颯太のことになると時々自分から聞いてくる。応援してくれるのかと尋ねれば返事まで妙に遅かった。
(北条君って、やっぱりよく分かんない)
そう思う一方で、不思議と嫌ではなかった。
むしろ昨日の夜、数学を教えてもらいながらメッセージを送り合っていた時間は楽しかった。最初は必要な連絡のために交換しただけだったはずなのに、少しずつそれ以外の会話も増えている。
だからといって特別な意味があるわけではない。
友達になったのだから、それくらい普通だろう。
ひよりはそう納得してから、颯太とのトーク画面も開いた。
昨日の朝に送った文化祭の写真と、そのあとに続いた短いやり取り。学校でも直接話せたことを思い出すと、胸の奥がふわりと温かくなる。
(佐伯君とも、もっと普通に話せるようになりたいな)
今度は自分からメッセージを送ってみてもいいかもしれない。
用事がなければ迷惑だろうか。
何を送れば不自然ではないだろう。
そんなことを考えていると、階下から兄の声が響いた。
「ひよりー! 起きてるかー!」
「起きてる!」
「返事だけして二度寝するなよ!」
「しないよ!」
「本当かー!?」
「朝からうるさい!」
扉越しでも届きそうな声量に、ひよりは思わず顔をしかめる。
(お兄ちゃん、今日はいるんだった……)
昨日は早番で朝から不在だった悠一が、今日は少し遅めの出勤らしい。
ひよりはベッドから降り、制服へ着替えてから階下へ向かった。
リビングへ入ると、悠一がトーストを食べながらこちらを見る。
「おはよう、ひより」
「おはよう」
「昨日何時に寝た?」
「十一時半くらい」
「スマホ見ながら夜更かししてないか?」
「してない」
「誰かと連絡取ってなかった?」
「……」
ひよりの足がわずかに止まった。
その反応を悠一は見逃さない。
「いたな?」
「何が?」
「連絡取ってた相手」
「友達とメッセージくらいするでしょ」
「男?」
「お兄ちゃんには関係ない」
「男なんだな!?」
食卓の反対側でコーヒーを飲んでいた美月が、露骨にため息をついた。
「悠一兄、朝から面倒くさい」
「美月、お前は心配じゃないのか!?」
「心配と尋問は違うから」
「俺は尋問なんてしてない」
「じゃあ今のは?」
「兄として当然の確認」
「世間ではそれを尋問って言うんだよ」
ひよりは二人のやり取りを横目に、自分の席へ座った。
由美が味噌汁を運んでくる。
「悠一。ひよりの友達関係を全部把握しようとするのはやめなさい」
「全部じゃないよ。危ない男がいないか確認したいだけ」
「それを全部把握したいって言うんじゃない?」
「母さんまで……」
悠一が肩を落とす。
浩介は新聞越しに息子を見てから、静かに口を開いた。
「悠一」
「父さんなら分かるだろ? ひよりに変な男が近づいたら――」
「俺も心配はするが、お前ほどではない」
「父さん!?」
今度こそ悠一が絶望した顔になり、美月が吹き出した。
ひよりも笑いながら箸を取る。
こうして家族に囲まれている時間は、少し騒がしいけれど嫌いではない。
むしろ。
好きだ。
兄が鬱陶しいと思うこともあるし、姉に見透かされると恥ずかしい。父も母も時々心配しすぎる。
それでも、自分が帰ってくる場所としてこの家があることを、ひよりは当たり前ではないくらい大切に思っていた。
「そういえば、ひより」
美月が声をかける。
「昨日の数学、できた?」
「できたよ」
「誰かに教えてもらったの?」
「うん」
「藤崎さん?」
浩介の問いに、ひよりは首を振る。
「北条君」
悠一の箸が止まった。
「誰?」
「……」
しまった。
ひよりは一瞬だけ目を閉じた。
これまで悠一には真樹の名前を言わないようにしていたのに、自然に口から出てしまった。
「北条君って誰?」
「ノアの飼い主」
「男?」
「前にも男の子って言ったでしょ」
「名前は初めて聞いたぞ」
「言ってなかったからね」
「何で?」
「こうなるから」
「どうなるから?」
「今みたいになるから!」
悠一は納得していない。
「同い年?」
「そう」
「学校は?」
「……桜陵」
「桜陵!?」
声が大きくなる。
ひよりは眉を寄せた。
「うるさい」
「いや、だって桜陵って――」
「学校がどこでも関係ないでしょ」
「そういう問題じゃなくてだな」
「ひより」
由美が穏やかに割って入る。
「もう食べないと遅れるわよ」
「あ、本当だ」
時計を見れば、いつもより少し時間が過ぎていた。
ひよりは朝食を急ぎすぎない程度に食べ進める。
悠一はまだ何か言いたそうだったが、美月が向かいから睨んでいるせいで口を閉じた。
もっとも、その目は完全に諦めた人間のものではない。
(絶対あとでまた聞かれる)
ひよりには分かっていた。
◇ ◇ ◇
「おはよ、ひより」
「おはよう、千夏」
青葉高校の教室。
ひよりが席へ着くと、千夏はいつものように近づいてきた。
「今日ちょっと眠そう?」
「朝からお兄ちゃんがうるさくて」
「何かあった?」
「北条君の名前、知られた」
「あー」
千夏はすぐに理解したらしい。
「悠一さん、どうだった?」
「想像通り」
「ご愁傷さま」
「まだ何も起きてないのに!」
「これから起きそうだから言ってる」
「やめてよ」
ひよりが机へ頬杖をつく。
千夏はその隣で笑いながら、ふと思い出したように尋ねた。
「そういえば昨日、北条君には佐伯君の話したの?」
「したよ」
「自分から?」
「ううん。北条君が聞いてきた」
「何て?」
「告白するのかって」
千夏の笑顔が止まった。
「……北条君が?」
「うん」
「それで?」
「したいと思ってるって答えた」
「北条君は?」
「『そっか』って」
「それだけ?」
「そのあと応援してくれるか聞いたら、すごい返事遅かった」
千夏は何も言わず、ひよりを見る。
ひよりはその視線に気づき、首を傾げた。
「何?」
「……ひよりはどう思ったの?」
「何が?」
「北条君が何でそんなこと聞いたのか」
「恋愛話嫌いって言ってたのに変だなって」
「それだけ?」
「うん」
「そっか」
千夏は小さく息を吐いた。
(ひよりはまだ完全に佐伯君なんだよね)
それは昨日の様子でも分かっている。
颯太からメッセージが来たときのひよりは、本当に嬉しそうだった。
だから千夏も、今の段階で余計なことを言うつもりはない。
一方で真樹については、どう考えても引っかかる。
昨日公園で会ったばかりだが、彼がひよりを見る目や、海斗の名前を出したときの反応。そして、ひよりが颯太へ告白するのか本人へ確認したという話。
(本人も分かってなさそうだけど)
少なくとも、単なる「犬を通じて知り合った友達」で片づけるには、真樹の反応は少しずつ大きくなっている。
「千夏?」
「ん?」
「考え事?」
「ちょっとね」
「何?」
「秘密」
「最近秘密多くない?」
「親友にも秘密の一つや二つあるんです」
千夏は笑って誤魔化した。
そのとき海斗が登校してきた。
「おはよ」
「おはよう、橘君」
「おはよー」
海斗は鞄を机へ置きながら、ひよりを見る。
「昨日の数学、できた?」
「できたよ!」
「お、よかったじゃん」
「北条君に教えてもらった」
「……また?」
「またって?」
「昨日もってこと」
「昨日の夜にメッセージで」
「へえ」
海斗は軽く頷いた。
表情はいつもとほとんど変わらない。
ただ、千夏にはほんの少しだけ気になる間が見えた。
「北条って勉強できるんだな」
「桜陵だしね」
「学校だけで決めるのも違うけどな」
「それ北条君も言いそう」
「そうなの?」
「うん。前に似たようなこと言ってた」
ひよりは何気なく笑う。
海斗はそんな彼女を見てから、自分の席へ向かった。
千夏はその背中とひよりを交互に見る。
(なんか、忙しくなりそう)
もちろん、それを口に出すことはなかった。
◇ ◇ ◇
昼休み。
ひよりは購買から戻る途中、廊下の向こうに颯太を見つけた。
友人らしい男子二人と話している。
昨日なら、見かけただけで緊張して目を逸らしていたかもしれない。
けれど今日は。
(昨日ちゃんと話せたし)
少しだけ勇気が出た。
「佐伯君」
自分から声をかける。
颯太が振り返った。
「あ、天野」
「昨日の写真、他にも必要なのあった?」
「いや、あれで大丈夫。ありがとな」
「ううん」
そこまで言って、ひよりは少し迷う。
用事は終わった。
ここで帰れば、今までと同じ。
(もうちょっと話したい)
その気持ちを飲み込まないようにする。
「佐伯君、昨日寝落ちしたって言ってたけど、授業大丈夫だった?」
「ああ、それな。五時間目やばかった」
「やっぱり」
「先生に一回当てられて目覚めた」
「最悪じゃん」
「答えられたからセーフ」
「本当に?」
「多分」
颯太が笑う。
ひよりも自然に笑えた。
その場にいた颯太の友人たちは、特に茶化すこともなく少し離れたところで話を続けている。
「天野は寝ないの?」
「授業中?」
「うん」
「たまに眠くなるけど、寝ないよ」
「真面目だな」
「普通だよ」
「俺も今日から普通目指すわ」
「まず夜ちゃんと寝たほうがいいと思う」
「正論」
また笑い合う。
ほんの数分。
それでも昨日より長く話せた。
「じゃ、俺購買行ってくる」
「うん。またね」
「また」
颯太が友人たちと歩いていく。
ひよりはその背中を見送ったあと、頬が緩むのを抑えられなかった。
(自分から話しかけられた)
小さなことかもしれない。
けれど、ひよりにとっては大きい。
バレンタインの日には、声をかけることさえできなかったのだから。
少しずつ。
本当に少しずつだけれど。
前へ進めている。
◇ ◇ ◇
桜陵学園の昼休み。
真樹は食堂の窓際に座り、スマートフォンを伏せて置いた。
向かいでは蓮がランチを食べている。
「北条」
「何」
「さっきからスマホ気にしすぎ」
「気にしてない」
「じゃあ何で五分で三回見たの?」
「時間」
「時計あるけど」
「スマホで見る派」
「苦しいな」
「うるさい」
真樹は箸を進める。
別に連絡を待っているわけではない。
昨日、ひよりとは「また明日」と言って別れた。
今日も放課後に会う予定だ。
連絡する必要などない。
それなのに、朝から何度かスマートフォンを確認している。
(昨日のあれが残ってるだけだ)
佐伯へ告白したい。
ひよりから聞いた言葉。
昨夜は考えすぎた。
寝る直前まで。
自分でも馬鹿らしいと思う。
「今日も天野さん?」
蓮が聞く。
「ああ」
「もう完全に日課じゃん」
「ノアのな」
「はいはい」
「何だよ」
「別に」
蓮は水を飲む。
「そういえば、昨日玲奈が言ってた交流会。お前出るの?」
「まだ決まってない」
「俺んちにも案内来てた」
「お前も出るのか」
「親父次第。でも多分」
「面倒だな」
「毎年言ってるよな、それ」
「実際面倒だからな」
真樹にとって、家の付き合いで参加する集まりは珍しいものではない。
幼いころから何度も経験してきた。
誰がどの家の人間なのか。
どこの企業とどこが繋がっているのか。
そういう話ばかりする大人たちの中で育った。
玲奈も蓮も、その世界の中にいる。
だから二人と一緒にいるとき、わざわざ説明する必要がない。
「なあ」
蓮が口を開く。
「天野さんって、そういうの知ってる?」
「昨日聞かれた」
「北条家のこと?」
「ああ」
「どうだった?」
真樹は箸を止める。
「別に」
「その『別に』はどっち?」
「何も変わらなかった」
「へえ」
「調べてないって」
「今どき珍しいな」
「俺に聞けばいいからって」
蓮は一瞬黙った。
そのあと、少し笑う。
「お前、それ嬉しかったんだ」
「は?」
「顔」
「何も変わってないだろ」
「変わってる」
「変わってない」
「まあいいけど」
蓮はそれ以上追及しなかった。
けれど内心では、かなり意外に思っている。
真樹が家のことを知られて態度を変えなかった相手について、こんなふうに自分から話すことはほとんどない。
しかも。
名前を出す回数が多い。
天野。
藤崎。
橘。
佐伯。
真樹の中に、ひよりの周囲の人間まで少しずつ入り込んでいる。
(これ、本人が気づくまで結構かかりそうだな)
蓮はそう思ったが、口には出さなかった。
今言えば、真樹は間違いなく否定する。
それどころか意地になって距離を取る可能性すらある。
だから今は。
見ているほうが面白い。
「何笑ってる」
「何でもない」
「お前もそればっかりだな」
「最近周りで流行ってるんじゃない?」
「知らねえよ」
真樹は呆れながら食事へ戻った。
◇ ◇ ◇
放課後。
ひよりが昇降口を出ると、冷たい風が頬へ当たった。
空は晴れているが、夕方が近づくにつれて気温が下がっている。
マフラーを整えながら歩き出したところで、スマートフォンが震えた。
『今出た』
真樹から。
ひよりはすぐに返す。
『私も今出たよ』
少し考えてから。
『今日寒いね』
送る。
すぐに既読がついた。
『冬だからな』
「……」
ひよりは画面を見つめる。
『そういうことじゃない』
『じゃあ何』
『会話!』
『してるだろ』
「してないよ」
思わず声に出る。
それでも笑ってしまう。
『北条君ってメッセージでも北条君だね』
『意味分からん』
『会えば説明します』
『いらない』
『します』
『いらない』
ひよりは笑いながらスマートフォンを鞄へしまった。
少し前まで。
真樹が今どこにいるのか。
今日会えるのか。
そんなことすら分からなかった。
雨が降れば、互いに公園へ来るかどうか確認する方法もなかった。
今は違う。
短いメッセージ一つで、これから会うことを確かめられる。
それが思った以上に便利で。
そして、少し楽しい。
◇ ◇ ◇
公園へ着くと、真樹とノアはすでに入口近くにいた。
「ノア!」
ひよりが呼ぶ。
ノアの尻尾が大きく揺れる。
「お待たせ」
「別に待ってない」
「それ前にも聞いた」
「今日は本当に待ってない」
「何分前に来た?」
「……三分」
「待ってるじゃん」
「三分は待ってるうちに入らない」
「入るよ」
ひよりは笑いながらノアの首元を撫でる。
真樹はその様子を見てから、何気なく尋ねた。
「今日どうだった」
「学校?」
「ああ」
「楽しかったよ」
「何かあった?」
「うん!」
まただ。
真樹は嫌な予感がした。
「佐伯君と話せた」
「……」
やっぱり。
「今日は私から声かけたの」
「へえ」
「昨日より普通に話せた!」
「よかったな」
「北条君、昨日より反応薄くない?」
「普通だろ」
「何かもっとないの?」
「何を求めてんだよ」
「友達なら『頑張ったな』とか」
「……頑張ったな」
「言わされてる感すごい」
「実際言わされたからな」
ひよりが頬を膨らませる。
真樹は視線を逸らした。
(また佐伯か)
今日一日。
昨夜のことを忘れようとしていた。
考えすぎだと。
友達の恋愛に自分が妙な反応をしているだけだと。
けれどひよりの嬉しそうな顔を見ると、やはり胸の奥がざわつく。
「何話したの」
気づけば聞いていた。
「え?」
「佐伯と」
「昨日寝落ちしたって話とか、授業眠かったって話」
「それだけ?」
「うん」
「……そ」
「何で聞いたの?」
「別に」
「気になる?」
「話振られたから聞いただけ」
「ふーん」
ひよりは疑うような目を向ける。
「何だよ」
「北条君、佐伯君のこと気にするよね」
「お前がよく話すからだろ」
「そうかな?」
「そうだよ」
真樹は歩き出す。
ノアがその横を進み、ひよりも追いつく。
公園を出て、住宅街へ。
いつもの道。
けれど今日は、少し違う方向へノアが進もうとした。
「あれ?」
ひよりが気づく。
「ノア、そっち行くの?」
「たまにこっち行きたがる」
「初めて」
「いつも同じ道じゃ飽きるんだろ」
「じゃあ今日はこっち?」
「ああ」
三人はいつもとは違う角を曲がった。
住宅街を抜けると、小さな川沿いの遊歩道へ出る。
冬の夕暮れ。
水面に傾いた日差しが反射し、風が通り抜けるたびに川沿いの草が揺れる。
「こんなところあったんだ」
「知らなかった?」
「こっちあんまり来ないから」
「青葉からだと反対方向か」
「うん」
ひよりは周囲を見回す。
ジョギングをする人。
自転車で帰る学生。
犬を散歩させる老夫婦。
いつもの公園とは少し違う景色が新鮮だった。
「北条君はよく来るの?」
「ノア次第」
「本当に散歩コース、ノアが決めてるんだね」
「だいたいな」
「自由だなあ、ノア」
ひよりが笑う。
ノアは気にした様子もなく前を歩いている。
「そういえば」
ひよりが真樹を見る。
「私、北条君のことあんまり知らないよね」
「急に何」
「昨日家の話したから」
「別に知らなくても困らないだろ」
「でも友達なのに」
「友達なら全部知ってるもんなの?」
「全部じゃないけど」
ひよりは少し考える。
「好きな食べ物とか」
「普通」
「それ答えになってない」
「特にない」
「甘いもの嫌いじゃないって言ってたよね」
「ああ」
「じゃあ好きなものは?」
「……肉」
「男子高校生っぽい」
「何だと思ってたんだよ」
「もっと高級そうなの言うかと思った」
「お前な」
真樹が呆れる。
「じゃあ趣味は?」
「ノア」
「それ趣味?」
「散歩」
「ノア込みじゃん」
「悪いか」
「悪くないけど」
ひよりは笑う。
「ゲームとかしないの?」
「たまに」
「漫画は?」
「読む」
「アニメは?」
「見るときは見る」
「普通だ」
「だから前から言ってるだろ」
「桜陵で、家がすごくて、黒い大きな車で迎えに来るから、もっと別世界の人かと思うじゃん」
「実際は?」
「口が悪くて、ノアに甘くて、意外と面倒見よくて、数学教えるときちょっと厳しい人」
「最後いらない」
「大事」
真樹はため息をつく。
それでも不快ではなかった。
ひよりが知ろうとしているのは、北条家のことではない。
自分のこと。
それが分かる。
「天野は?」
「私?」
「お前だけ質問するのずるいだろ」
「いいよ。何でも聞いて」
ひよりはすぐに答えた。
真樹は少し考える。
「好きな食べ物」
「甘いもの!」
「知ってる」
「じゃあ聞かないでよ」
「一応」
「クレープも好きだし、ケーキも好きだし、プリンも好き。あとお母さんの唐揚げ」
「甘いものじゃないじゃん」
「好きな食べ物って聞いたでしょ」
「そうだけど」
「北条君は?」
「肉って言っただろ」
「料理で」
「……生姜焼き」
「普通!」
「普通で悪かったな」
ひよりが楽しそうに笑う。
「趣味は?」
「本読むの好き。漫画も読むし、小説も読むよ。あとは千夏と買い物行ったり」
「家では?」
「動画見たり、お姉ちゃんと話したり。お兄ちゃんから逃げたり」
「最後趣味じゃないだろ」
「日常」
「大変だな」
「北条君、今ちょっと他人事で笑ったでしょ」
「気のせい」
「絶対笑った」
ひよりが抗議する。
そのときノアが足を止め、川沿いの柵の近くへ鼻を向けた。
二人も自然に立ち止まる。
夕日が少しずつ低くなっていた。
「兄弟いないんだよね」
ひよりが以前聞いたことを思い出す。
「ああ」
「一人っ子ってどんな感じ?」
「普通」
「また普通」
「それ以外言いようないだろ」
「寂しくない?」
何気ない質問。
真樹は少しだけ黙った。
「……慣れてる」
ひよりは横顔を見る。
その答えに何か引っかかった。
けれど。
「そっか」
それ以上は聞かなかった。
真樹が話したくなれば話す。
以前、自分でそう言ったのだから。
真樹も、ひよりが追及しなかったことに気づいていた。
「天野」
「何?」
「お前は?」
「何が?」
「兄弟多いの、嫌じゃないの」
「うざいときはある」
「即答だな」
「特にお兄ちゃん」
ひよりは苦笑する。
「今日も北条君の名前知られて大変だったし」
「……俺の?」
「あ」
言ってから、ひよりは少ししまったという顔になる。
「何」
「お兄ちゃんには北条君の名前言ってなかったの」
「何で」
「絶対面倒くさくなるから」
「で、なった?」
「なった」
「俺何もしてないんだけど」
「分かってるよ」
ひよりは笑う。
「でもね、うざいけど嫌いじゃないよ」
川面へ目を向ける。
「お兄ちゃんも、お姉ちゃんも大好き」
真樹は何も言わず聞いていた。
「お兄ちゃんは本当にうるさいし、お姉ちゃんもたまに私のこと見透かしてくるし、お父さんも男の子の話するとちょっと気にするし、お母さんは何でも分かってるみたいな顔するけど」
「全員面倒そうだな」
「北条君に言われたくない」
「何で俺」
「北条君も結構面倒だから」
「……」
「でも」
ひよりは笑う。
「家族だから好き」
その言葉は明るくて。
当たり前のことを話しているだけなのに。
真樹には少し眩しく聞こえた。
「いいな」
気づけば、口から出ていた。
「え?」
「……何でもない」
「今何か言った」
「言ってない」
「言ったよ」
「聞こえてないならいいだろ」
「気になる!」
「忘れろ」
「無理」
「じゃあ勝手に気にしてろ」
「北条君!」
ひよりが追及する。
真樹は歩き出した。
その横顔を隠すように。
ノアも二人の間を歩き始める。
◇ ◇ ◇
遊歩道を少し進んだところで、前方から制服姿の女子生徒が歩いてきた。
桜陵学園の制服。
真樹が先に気づく。
「……」
「北条君?」
ひよりが視線の先を見る。
相手もこちらに気づいた。
「あら」
足を止めたのは、一ノ瀬玲奈だった。
「真樹?」
ひよりの耳に、その呼び方が入る。
真樹。
名字ではなく。
名前。
玲奈は少し驚いたように二人を見る。
そしてノアへ目を向けると、表情を柔らかくした。
「ノアも一緒だったのね」
ノアは玲奈を知っているらしく、警戒する様子はない。
「玲奈、何でここにいる」
「今日は車じゃなくて駅まで歩こうと思ったの。こっちの道、近いでしょう?」
「ああ」
玲奈の視線がひよりへ向く。
ひよりも玲奈を見る。
綺麗な人。
最初に浮かんだ感想はそれだった。
整った顔立ち。
きちんと着こなされた桜陵学園の制服。
姿勢も良く、真樹の隣にいても不思議なく馴染みそうな雰囲気がある。
(北条君の知り合い……だよね)
当たり前だ。
同じ制服なのだから。
「真樹」
玲奈が尋ねる。
「こちらは?」
「ああ」
真樹がひよりを見る。
「天野ひより。前に話した、ノアが懐いてる奴」
「紹介の仕方!」
ひよりが思わず抗議する。
玲奈が少し目を見開く。
「ああ、あなたが」
「え?」
ひよりが玲奈を見る。
「私のこと知ってるんですか?」
「名前までは知らなかったけれど、ノアが最近とても懐いている女の子がいるって」
「……北条君が話したの?」
「別に詳しく話してない」
真樹がすぐに言う。
「蓮が勝手に聞いただけ」
「神崎君にも話してるの?」
「何でそこ拾うんだよ」
ひよりは少し驚いていた。
自分が知らないところで。
真樹の学校の人が、自分の存在を知っている。
妙な感じだった。
「初めまして」
玲奈がひよりへ微笑む。
「一ノ瀬玲奈です。真樹とは小さいころからの知り合いなの」
「天野ひよりです。初めまして」
ひよりも頭を下げる。
「北条君とは、ノアがきっかけで知り合いました」
「聞いてるわ」
「だから聞いてるってどこまで」
「そんなに警戒しなくても、変なことは言わないわよ」
玲奈は少し呆れたように真樹を見る。
そのやり取り。
自然だった。
長い時間を一緒に過ごしてきた人同士の会話。
ひよりには入れない時間が、そこにある。
「ノア、久しぶり」
玲奈がしゃがむ。
ノアの頭を撫でる手つきも慣れていた。
「昔はもっと小さかったのにね」
「当たり前だろ」
「初めて会ったときなんて、私の膝くらいまでしかなかったじゃない」
「お前が小さかったのもある」
「それもそうだけど」
玲奈が笑う。
ひよりはその話を聞いていた。
(ノアが小さいころから知ってるんだ)
自分が知らないノア。
自分が知らない真樹。
当たり前なのに。
少しだけ不思議な気持ちになる。
「天野さんは青葉高校?」
「はい」
「じゃあ真樹とは学校も違うのね」
「そうなんです」
「それなのによく会うのね」
「ノアの散歩で」
ひよりはいつもの説明をする。
「私の帰り道にある公園で会うことが多くて」
「そう」
玲奈は穏やかに微笑む。
けれど。
その視線は一度だけ真樹へ向いた。
玲奈は知っている。
真樹が誰かに合わせて行動することを好まないこと。
家の付き合いで必要なら別だが、私生活では特に。
それなのに。
学校の違う女子生徒と、何度も同じ時間に散歩している。
(この子なんだ)
玲奈は初めて、ひよりという存在を具体的に認識した。
「そういえば真樹」
「何」
「交流会のこと、聞いた?」
「まだ」
「今日うちの父が北条さんと話すって言ってたから、そろそろ決まると思う」
「そう」
ひよりには分からない言葉だった。
「交流会?」
思わず聞く。
真樹がこちらを見る。
「家の付き合いみたいなもん」
「へえ」
「別に面白いもんじゃない」
「真樹は毎年そう言うのよ」
玲奈が苦笑する。
「でも出席したら、ちゃんと周りに合わせるの」
「余計なこと言うな」
「本当でしょう?」
ひよりは二人を見る。
知らない世界。
北条家。
桜陵学園。
交流会。
幼なじみ。
真樹には、自分が知らない場所で過ごしてきた時間がたくさんある。
それは当然なのに。
(北条君って、本当に私と全然違うところにいる人なんだな)
少しだけ。
距離を感じた。
嫌ではない。
怖くもない。
ただ。
今まで公園で話しているときには忘れていたものを、玲奈が自然に見せてくれたような気がした。
「天野?」
真樹の声で、ひよりは顔を上げる。
「何?」
「ぼーっとしてる」
「あ、ごめん」
「寒い?」
「大丈夫」
ひよりは笑った。
いつものように。
けれど真樹は、ほんの少しだけ引っかかった。
「玲奈」
「何?」
「駅行くんだろ」
「ええ」
「じゃあここで」
「分かったわ」
玲奈は立ち上がる。
「天野さん、またね」
「はい。また」
玲奈はノアにも「またね」と声をかけ、駅の方向へ歩いていった。
その背中が遠ざかる。
ひよりは少しだけ見送った。
「綺麗な人だね」
「そう?」
「そうだよ」
「見慣れてるから分からん」
「幼なじみなんだ」
「ああ」
「どれくらいから?」
「覚えてない。小さいころから」
「へえ」
ひよりは笑う。
でも。
さっきまでより少しだけ声が静かだった。
真樹はそれに気づく。
「何」
「何が?」
「急に静か」
「そう?」
「そう」
「別に何でもないよ」
「……」
真樹は眉を寄せる。
その言葉。
自分がよく使う。
「何でもないって顔じゃない」
「北条君に言われたくない」
「俺はいいんだよ」
「ずるい」
「で?」
「本当に何でもないよ」
ひよりは少し迷った。
言うほどのことではない。
けれど。
真樹がまだこちらを見ている。
「ただ」
「うん」
「北条君の知らないところ、いっぱいあるんだなって思っただけ」
「……当たり前だろ」
「分かってるよ」
ひよりは笑う。
「私たち、知り合ってまだそんなに経ってないし」
その言葉に。
今度は真樹のほうが少し引っかかった。
「だから」
ひよりは続ける。
「一ノ瀬さんみたいに昔から知ってる人とは、全然違うなって」
「何が」
「何がって……知ってること?」
「それだけ?」
「それだけだよ」
ひよりは本当に恋愛的な意味で言っているわけではない。
玲奈に嫉妬しているわけでもない。
ただ。
自分が知っている真樹は、公園でノアと一緒にいる真樹。
少し口が悪くて。
でも優しくて。
数学を教えてくれて。
毎日「また明日」と言う友達。
それ以外の彼を。
ほとんど知らない。
「別に」
真樹が前を向く。
「昔から知ってるから何でも知ってるわけじゃないだろ」
「そうなの?」
「玲奈だって俺の全部知ってるわけじゃない」
「それはそうだろうけど」
「お前が知ってることだってあるだろ」
ひよりが瞬きをする。
「例えば?」
「……」
聞かれて真樹が詰まる。
「ほら」
「うるさい。今考えてる」
「ないんじゃん」
「ある」
「何?」
「ノアがお前のこと異常に好き」
「それ一ノ瀬さんも知ってたよ」
「……」
「他は?」
「数学教えた」
「神崎君も知ってるみたいだったけど」
「……」
ひよりが少し笑う。
「北条君、弱い」
「待て」
「まだあるの?」
「ある」
真樹は本気で考え始める。
ひよりはそんな彼を見て、先ほど感じた距離が少しだけ薄くなっていくのを感じた。
「もういいよ」
「よくない」
「何でそんな必死なの」
「お前が勝ったみたいな顔してるから」
「勝負だったの?」
「今から勝負」
「何それ」
二人の間に、いつもの空気が戻る。
ノアが間で一度だけ振り返った。
「じゃあ」
真樹が言う。
「俺が生姜焼き好きなのは?」
「今日知った」
「玲奈は多分知らない」
「本当?」
「多分」
「多分じゃん」
「家で何食ってるかなんて話さないからな」
「じゃあ私の勝ち?」
「何で」
「北条君が生姜焼き好きなの知ってる」
「だから何の勝負だよ」
「北条君が始めたんでしょ!」
ひよりは笑った。
真樹も呆れながら、少しだけ笑う。
その表情を見たとき。
ひよりの中にあった妙な距離感は、ほとんど消えていた。
(そうだよね)
知らないなら。
これから知ればいい。
友達なのだから。
そう思うと、少し気持ちが軽くなった。
◇ ◇ ◇
その夜。
一ノ瀬玲奈は自室の机で交流会の案内状を眺めていた。
けれど意識は紙面には向いていない。
夕方に会った少女。
天野ひより。
「……あの子なんだ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
真樹から詳しく聞いていたわけではない。
蓮との会話の中で、ノアが最近よく懐いている女子生徒がいると知った程度。
けれど今日。
実際に会って分かったことがある。
真樹はひよりといるとき、普段より言葉が多かった。
家の付き合いがある人間と接するときの、どこか線を引いた態度とも違う。
ひよりの表情が少し変わっただけで、「ぼーっとしてる」と気づいた。
(真樹があんなふうに誰かの顔を見てるの、珍しい)
玲奈は幼いころから真樹を知っている。
だからこそ。
少しだけ胸の奥が落ち着かなかった。
まだ何かが決まったわけではない。
真樹自身、ひよりを特別だと思っているようには見えなかった。
ひよりのほうも。
自分を見たとき、敵意も警戒もなかった。
ただ少しだけ。
真樹の知らない一面を見つけたような顔をしていた。
「……友達、か」
玲奈は小さく息を吐いた。
今は。
きっとそれだけなのだろう。
それでも。
これまで真樹の周囲にいなかった種類の少女であることだけは、確かだった。
◇ ◇ ◇
同じ夜。
ひよりはベッドへ寝転がりながら、スマートフォンを見ていた。
真樹とのトーク画面には、少し前に届いたノアの写真が表示されている。
散歩から帰って眠そうにしているノア。
『かわいい!』
そう返したあと。
『今日一ノ瀬さんに会えてよかった』
ひよりは送った。
しばらくして返信が来る。
『何で』
『北条君の友達に初めて会ったから』
『友達っていうか幼なじみ』
『同じようなものでしょ』
『違うだろ』
『じゃあ神崎君は友達?』
『多分』
『本人に怒られるよ』
『知らん』
ひよりは笑う。
神崎蓮。
まだ会ったことはない。
でも真樹から何度か名前を聞いている。
『神崎君にもいつか会ってみたい』
送る。
既読。
少し間が空く。
『何で』
「また何でだ」
『北条君の友達だから』
『別に会わなくていい』
『何で?』
『面倒だから』
『北条君そればっかり』
ひよりは笑いながら返信する。
そのころ。
画面の向こうでは、真樹が別の理由で眉を寄せていた。
(蓮に会いたいって何だよ)
自分の友人だから。
ひよりはそう言っている。
それだけなのに。
何となく。
嫌だった。
玲奈とひよりが会ったときも、妙に落ち着かなかった。
自分の学校側の人間と、ひより。
これまで別々だったものが混ざり始めている。
それが嫌なのか。
それとも。
(……蓮と天野が仲良くなるのが嫌なのか?)
真樹は考え。
すぐにスマートフォンを伏せた。
「意味分かんねえ」
ノアがベッドの横から顔を上げる。
「お前に言ってない」
ノアはしばらく真樹を見たあと、再び伏せる。
「……」
真樹はスマートフォンを取り直した。
新しいメッセージ。
『北条君?』
『寝た?』
真樹は返信する。
『起きてる』
『返事なかったから』
『考えてた』
『何を?』
真樹の指が止まる。
本当のことは。
自分でも分からない。
『別に』
送信。
すぐに返ってくる。
『またそれ』
『便利なんだよ』
『ずるい』
『お前も使えば』
『じゃあ使う』
『何に』
少しして。
『今日、一ノ瀬さんと話したあと私が何考えてたかは別に』
真樹は画面を見る。
「……」
『それは気になる』
送った。
すぐに。
『北条君も言ってくれないから教えません』
「……こいつ」
真樹は思わず笑った。
『じゃあ明日聞く』
『覚えてたらね』
今度はひよりが、真樹の言葉を使う。
真樹は数秒画面を見て。
『絶対覚えてる』
そう返した。
◇ ◇ ◇
ひよりは届いたメッセージを見つめた。
『絶対覚えてる』
何となく。
胸の奥が少し温かくなった。
(そんな気になることかな)
自分が何を考えていたか。
それを真樹が覚えてまで聞こうとしている。
不思議。
でも。
嫌じゃない。
『じゃあ明日』
ひよりが送る。
『明日』
真樹から返る。
それだけ。
たった二文字ずつの約束。
けれどひよりは、スマートフォンを置いたあとも少しだけ笑っていた。
今日は真樹の知らない一面を見た。
幼なじみの玲奈。
家の付き合い。
交流会。
自分がまだ知らない時間。
少し遠く感じた瞬間もあった。
けれど。
(知らないなら、これから知っていけばいいんだよね)
友達として。
少しずつ。
真樹だって、自分のことを全部知っているわけではない。
颯太が好きなことは知っている。
千夏が親友なのも知っている。
海斗が同じクラスなのも。
家族が過保護なのも。
それでも、まだ知らないことはたくさんある。
互いに。
そうやって知っていくのが、友達になるということなのかもしれない。
ひよりは布団へ入った。
明日。
学校へ行けば颯太に会える。
放課後になれば真樹とノアに会える。
そのどちらも楽しみにしている自分を、不思議だとは思わなかった。
まだ。
ひよりの中では、それぞれが違う場所にいる。
好きな人。
そして。
最近、とてもよく話すようになった友達。
その境界は、ひより自身が思っているより少しずつ曖昧になり始めていたけれど、本人がそれに気づくのは、もう少し先のことだった。




