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『黒犬が運んできたのは、不幸ではなく恋でした』  作者: 伊佐波瑞樹


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第15話 明日って言ったから


 水曜日の朝、ひよりが教室へ入ると、窓際から差し込む冬の日差しが床を白く照らしていた。暖房はついているものの、登校してきた生徒が出入りするたびに廊下から冷たい空気が入り込み、教室のあちこちでは「寒い」と声を上げながらマフラーを外す姿が見える。


 自分の席へ鞄を置いたひよりも、冷えた指先へ息を吹きかけてから椅子へ座った。


「おはよ、ひより」


「おはよう、千夏」


 すぐに千夏がやってきて、ひよりの前の席を借りるように椅子を反対向きにして座る。いつもの光景なので、まだ登校している途中のクラスメイトたちも特に気にしていない。


 ひよりは鞄から教科書を出しながら、ふと昨夜のメッセージを思い出した。


『じゃあ明日聞く』


『覚えてたらね』


『絶対覚えてる』


 真樹は本当に覚えているのだろうか。


(あのあと普通におやすみって送って終わったけど……北条君、変なところだけ妙にしつこいからなあ)


 もっとも、教えたところで大した内容ではない。


 玲奈と真樹が幼いころからの知り合いだと知って、自分が知らない時間を少し遠く感じた。ただそれだけだ。


 嫉妬したわけではないし、玲奈が嫌だったわけでもない。むしろ話しやすそうな人だったし、真樹やノアの昔を知っていることには興味がある。


「ひより」


「ん?」


「今、誰のこと考えてた?」


「えっ」


 ひよりは顔を上げた。


 千夏がじっとこちらを見ている。


「何で?」


「何となく」


「何となくで分かるの怖いんだけど」


「長い付き合いですから」


 千夏は得意そうに胸を張った。


「で、誰?」


「別に誰でも――」


「北条君?」


「何で分かるの!?」


「当たりかあ」


「千夏!」


 声が少し大きくなり、近くにいた女子生徒がちらりとこちらを見る。ひよりは慌てて声を落とした。


「そういうのやめてよ。別に変なこと考えてたわけじゃないから」


「変なこととは言ってないけど」


「……千夏、最近お姉ちゃんみたい」


「美月さんと一緒にされるのは光栄かな」


「褒めてない」


「じゃあ悠一さん?」


「それは絶対違う」


 即答すると、千夏が声を殺して笑った。


 ひよりもつられて笑いながら、机の中へ教科書を入れていく。


「昨日ね、北条君の幼なじみに会ったの」


 千夏の笑いが止まった。


「幼なじみ?」


「うん。一ノ瀬玲奈さん。同じ桜陵の子」


「女の子?」


「そうだよ。すっごく綺麗な人だった」


 ひよりは昨日の玲奈を思い浮かべる。


 桜陵の制服を綺麗に着こなし、立ち姿にもどこか品があった。真樹を名前で呼び、ノアの幼いころまで知っている。


「北条君とは小さいころから知り合いなんだって。ノアが小さいころのことも知ってたよ」


「へえ……」


「北条君の学校の人に会ったの、一ノ瀬さんが初めてだったからちょっと新鮮だった」


「神崎君にはまだ会ってないんだっけ?」


「うん。名前だけ」


 千夏はひよりの顔を眺める。


「それで?」


「それでって?」


「綺麗な幼なじみが出てきて、ひよりさんは何とも思わなかったんですか?」


「何ともって……?」


 本気で分からないらしい。


 千夏はしばらく黙ってから、質問を変えた。


「北条君と仲良さそうだった?」


「幼なじみだから普通に仲良かったよ。私が知らない話もしてたし」


「それ見て?」


「北条君って、私が知らないところいっぱいあるんだなって思った」


 ひよりは素直に答えた。


「ちょっとだけ遠く感じたけど、考えたら当たり前じゃん? 私たち、知り合ってからそんなに経ってないし」


「……それだけ?」


「うん。だから、これから知っていけばいいかなって」


 千夏は口を閉じた。


(それ、結構すごいこと言ってるんだけどなあ)


 知りたい。


 もっと相手のことを知っていきたい。


 少なくともひよりにとって、真樹はもう「ノアの飼い主」というだけの存在ではない。それは本人も友達という言葉で認めている。


 けれど、そこへ恋愛の意味を足すのはまだ違う。


 何よりひよりは。


「あ、佐伯君」


 教室の外を通った姿を見つけた瞬間、ひよりの表情が変わった。


 頬が少し緩み、目が自然と颯太を追っている。


 千夏はそれを見て、小さく息を吐く。


(こっちは分かりやすいんだよね)


 ひよりは今も、きちんと颯太が好きだ。


 昨日も自分から話しかけられたことを嬉しそうに報告していた。


 真樹への気持ちと颯太への気持ちは、まだ本人の中で明確に別のものとして存在している。


「おはよう、佐伯君」


 廊下を通り過ぎようとした颯太へ、ひよりが自分から声をかけた。


 颯太も足を止める。


「おはよう、天野。藤崎も」


「おはよー」


 千夏が軽く手を振る。


「昨日はちゃんと寝た?」


 ひよりが尋ねると、颯太は苦笑した。


「寝た寝た。昨日の反省を生かして十二時前」


「それでも十二時なんだ」


「高校生なら早いほうじゃない?」


「どうだろ」


「天野は?」


「十一時半くらい」


「負けた」


「何の勝負?」


 ひよりが笑う。


 颯太も笑いながら、「じゃ、また」と自分の教室へ向かった。


 短い会話。


 それでも、ひよりは嬉しそうだった。


 以前なら声をかけるかどうか迷っているうちに颯太が通り過ぎていたはずなのに、今は自然と名前を呼べている。


「……進歩したねえ」


「何が?」


「佐伯君」


 ひよりは少し照れたように笑う。


「うん。昨日からちょっと話しやすくなったかも」


「よかったじゃん」


「うん!」


 その返事には迷いがない。


 千夏は微笑みながらも、心の中では昨日会った真樹の顔を思い出していた。


(北条君、これ聞いたらまた面倒くさそう)


 けれど、それをひよりへ教えるつもりはなかった。


 まだ本人たちが知らなくていいことまで、横から答えを出してしまいたくはない。


     ◇ ◇ ◇


 昼休みになると、ひよりは千夏と机を寄せて弁当を広げていた。


 海斗も近くの友人たちと話していたが、途中でこちらへ顔を向ける。


「天野」


「何?」


「昨日教えてもらったところ、今日の小テスト出た」


「本当?」


「助かった。多分できた」


「よかったじゃん」


「ありがとな」


「どういたしまして」


 ひよりは笑って答えた。


「でも私が教えたところだけじゃなくて、ちゃんと自分でもやりなよ」


「分かってます、先生」


「誰が先生」


 海斗が笑う。


 そのまま自分の友人のところへ戻ろうとしたが、少しだけ足を止めた。


「そういや、北条にも教えてもらったんだっけ?」


「私がね。分かんなかったところ」


「へえ」


「説明分かりやすかったよ。ちょっと厳しかったけど」


「桜陵ってやっぱ勉強大変なのかな」


「どうなんだろ。今度聞いてみようかな」


 ひよりはごく自然にそう言った。


 海斗は「そっか」と頷いて戻っていく。


 その様子を見ていた千夏が、卵焼きを箸でつまみながら口を開いた。


「ひよりさ」


「ん?」


「北条君に聞くこと増えたね」


「そう?」


「前は学校違うし、知らないことばっかりって感じだったのに」


「昨日ちょうど、北条君のこと知らないって話したからかな」


「本人にも?」


「うん」


「へえ」


 千夏は少し面白そうに笑った。


「何その顔」


「別に?」


「絶対何か考えてる」


「ひよりも北条君に似てきたんじゃない?」


「どこが!?」


「『別に』って言われると気になるところ」


「私は前から気になるよ!」


 ひよりが抗議すると、千夏は楽しそうに笑った。


     ◇ ◇ ◇


 同じころ、桜陵学園では真樹が自分の席でスマートフォンを見ていた。


 メッセージは来ていない。


 別に来る約束もない。


 それなのに画面を確認してしまった自分に気づき、真樹は小さく眉を寄せる。


(何やってんだ、俺)


 昨日、ひよりと交わした約束が頭に残っている。


『今日、一ノ瀬さんと話したあと私が何考えてたかは別に』


『それは気になる』


『北条君も言ってくれないから教えません』


『じゃあ明日聞く』


 絶対覚えている。


 自分でそう送ったのだから、忘れるわけにもいかない。


「真樹」


 聞き慣れた声に顔を上げると、玲奈が机の横に立っていた。


「何」


「交流会、今週の日曜日で決まったって。聞いた?」


「いや」


「北条さんから連絡来てない?」


「まだ見てない」


「そう」


 玲奈は少し呆れたように笑う。


「相変わらずね」


「何が」


「家の連絡、後回しにするところ」


「急ぎなら電話来るだろ」


「そういう問題じゃないでしょう」


 真樹はスマートフォンを確認する。


 確かに家からメッセージが届いていた。


 今週の日曜、午後。


 交流会への出席。


 簡潔な内容を読み、真樹はため息をつく。


「出るの?」


「出ろって書いてある」


「じゃあ出るのね」


「面倒」


「昨日も言ってたわね」


 玲奈は苦笑する。


 少し間を置いてから、何気ない調子で続けた。


「昨日の天野さん、感じのいい子ね」


 真樹の視線がスマートフォンから上がる。


「そう?」


「あなた、その返し好きね」


「別に普通だろ」


「私が彼女を褒めたら、もう少し何かあるかと思った」


「何を言えばいいんだよ」


「知らないわよ」


 玲奈は笑う。


「でも意外だった」


「何が」


「あなたが、学校の違う女の子とあんなふうに毎日のように会ってること」


「ノアが懐いてるだけ」


「昨日もそう言ってたわね」


「事実だからな」


「連絡先も知ってるの?」


 真樹は一瞬だけ黙った。


「……知ってる」


「そう」


 玲奈の笑みは崩れない。


 けれど胸の内側へ、小さな重さが落ちる。


 真樹は必要がなければ人との距離を詰めない。まして、学校も家の付き合いも関係ない相手と、自分から連絡を取り続ける姿など玲奈はほとんど知らなかった。


「玲奈」


「何?」


「昨日の天野、変だった?」


 今度は玲奈が驚いた。


「変?」


「お前と話してる途中から、ちょっと静かだった」


「……気づいてたの?」


「分かるだろ」


 玲奈はすぐには答えなかった。


(分かるのね)


 昔からの自分ならともかく、出会って間もない少女の声や表情のわずかな変化を、真樹が当たり前のように拾っている。


「私には、少し考え事をしているように見えたけれど」


「何の」


「それは本人に聞いたら?」


「聞く」


「聞くのね」


「昨日聞くって言ったから」


 玲奈の目がわずかに細くなる。


「昨日の夜も連絡してたの?」


「ああ」


「……そう」


 真樹は玲奈の声の変化には気づかなかった。


 玲奈も、それ以上は何も言わない。


「じゃあ、日曜日。忘れないでね」


「分かった」


 玲奈は自分の席へ戻っていった。


 真樹はその背中を一度見たあと、再びスマートフォンへ視線を落とす。


 日曜日。


 交流会。


 いつもなら、面倒だと思うだけで終わる。


 なのに今日は別のことが浮かんだ。


(天野とは会えないか)


 休日だからといって毎回会う約束をしているわけではない。


 先週の土曜日に会っただけだ。


 日曜日だって、ひよりにはひよりの予定がある。


 それなのに。


(いや、何で会う前提なんだよ)


 真樹は自分で自分に呆れ、スマートフォンを伏せた。


     ◇ ◇ ◇


 放課後。


 ひよりは昇降口で靴を履き替えながらスマートフォンを確認した。


 真樹からの連絡はない。


 昨日は向こうから『今出た』と来た。


 今日はまだ。


(別に毎日連絡するって決めたわけじゃないし)


 そう思いながら校門を出る。


 数分歩いたところで、ひよりはもう一度スマートフォンを取り出した。


 やはり何もない。


「……」


(私から送ればいいじゃん)


 何を待っているのだろう。


 連絡先は、こういうときのために交換したのだから。


『今学校出たよ』


 送信。


 数十秒もしないうちに既読がついた。


『俺も』


 短い。


 いつもの真樹らしい返事。


『今日はノアいる?』


『いる』


『よかった』


『何で』


『会いたいから』


 送ってから、ひよりは足を止めた。


(あ)


 言葉が足りなかった。


 すぐに追加する。


『ノアに!』


 既読。


 返事が来ない。


『北条君?』


 まだ来ない。


「何で返さないの……」


 ひよりは恥ずかしくなり、スマートフォンをコートのポケットへ押し込んだ。


     ◇ ◇ ◇


 桜陵学園から駅へ向かっていた真樹は、届いたメッセージを見たまま数秒立ち止まっていた。


『会いたいから』


 その直後。


『ノアに!』


 当然だ。


 分かっている。


 分かっているのに。


(何で最初の一行で止まったんだ、俺)


 胸の奥が一瞬だけ妙な動きをした。


 その理由を考える前に二通目が届き、今度は逆に何となく面白くない。


『北条君?』


 さらに届く。


 真樹は指を動かした。


『分かってる』


 送る。


 少し迷ってから。


『ノアも会いたいだろ』


 そこで手を止める。


 本当は。


 もう一つ何か書こうとした。


 けれど、それが何なのか自分でも分からず、結局スマートフォンをしまった。


     ◇ ◇ ◇


 公園へ着いたひよりを最初に迎えたのは、やはりノアだった。


「ノア!」


 駆け寄ってきた大きな黒い体を受け止め、ひよりは嬉しそうに首元へ腕を回す。ノアも尻尾を大きく振り、まるで数日ぶりの再会のように全身で喜んでいた。


「会いたかったよー」


 少し離れたところに立っていた真樹の眉が動く。


「……ノアに、な」


 ひよりが顔を上げた。


「え?」


「メッセージ」


「あっ」


 思い出した途端、頬が熱くなる。


「ちゃんとすぐ訂正したでしょ!」


「別に何も言ってない」


「今言った!」


「ノアに会いたかったんだろ」


「そうだよ!」


「じゃあいいじゃん」


「北条君が変な言い方するからでしょ」


「してない」


 真樹はわずかに口元を緩める。


 ひよりはその顔を見て、むっとした。


「絶対楽しんでる」


「何を」


「私が焦ったの」


「別に」


「またそれ!」


 ひよりはノアを撫でながら頬を膨らませた。


 真樹は笑いそうになるのを隠すように視線を逸らす。


 昨日より空気が冷たい。


 公園の木々は冬の風に枝を揺らし、遊具の近くでは小学生たちが寒さなど気にしていないように走り回っている。ベンチには買い物帰りらしい女性が座り、少し離れた場所では幼い子どもを連れた父親がボール遊びをしていた。


「歩く?」


 真樹が聞く。


「うん」


 三人で公園を出る。


 今日は昨日の川沿いではなく、いつもの住宅街側へノアが進んだ。


 しばらく他愛のない話をしていたが、ひよりは昨日の約束を思い出していた。


 真樹も忘れている様子はない。


「天野」


「何?」


「昨日の」


「覚えてたんだ」


「絶対覚えてるって言っただろ」


「本当に覚えてるとは思わなかった」


「お前な」


 真樹は呆れたようにひよりを見る。


「で、何考えてたの」


「そんな気になる?」


「気になるって昨日言った」


「……大したことじゃないよ」


「それは聞いてから決める」


「北条君、こういうときだけしつこい」


「いいから」


 ひよりは少し迷った。


 昨日よりも説明するのが恥ずかしく感じる。


 けれど、隠すほどのことでもない。


「一ノ瀬さんと北条君って、小さいころから知り合いなんでしょ?」


「ああ」


「ノアが小さかったころのことも知ってて、北条君の家のことも、交流会のことも知ってて」


「うん」


「私は知らないことばっかりだなって思ったの」


 真樹は黙って聞いている。


「別にそれが嫌だったわけじゃないよ。一ノ瀬さんも感じのいい人だったし。ただ、私が知ってる北条君って、公園でノアと散歩してる北条君がほとんどだから」


 ひよりは歩きながら、少し前を行くノアを見る。


「学校にいる北条君とか、家にいる北条君とか、昔の北条君とか、全然知らないんだなって思ったら、ちょっとだけ遠く感じた」


 言葉にしてみると、本当にそれだけだった。


「でも」


 ひよりは真樹を見る。


「昨日話してたら、知らないならこれから知ればいいかって思った」


「……何で?」


「友達だから」


 迷いのない返事。


 真樹の足がほんの少しだけ遅くなる。


 ひよりは気づかず続けた。


「北条君だって私のこと全部知らないでしょ?」


「まあ」


「だから同じじゃん。少しずつ知ってけばいいんだよ」


「……そっか」


「うん」


 ひよりは笑った。


 真樹は前へ視線を戻す。


(友達だから、か)


 納得できる。


 普通の話だ。


 それなのに。


 胸の奥に残るものがある。


 ひよりが、自分をもっと知りたいと思っている。


 そのことが。


 思っていた以上に嬉しい。


「じゃあ」


 真樹が口を開く。


「何知りたい?」


「え?」


「昨日も聞いてただろ」


「聞いていいの?」


「答えられる範囲なら」


 ひよりの目が少し明るくなる。


「じゃあ、学校の北条君」


「広すぎる」


「普段何してるの?」


「授業受けてる」


「そうじゃなくて!」


「昼は蓮と飯食うことが多い」


「一ノ瀬さんも?」


「たまに来る」


「部活は?」


「入ってない」


「委員会は?」


「入ってない」


「放課後は?」


「帰る」


「北条君、学校生活薄くない?」


「ほっとけ」


 ひよりが笑う。


「神崎君とはいつから友達なの?」


「中学から」


「どんな人?」


「うるさい」


「それ前も聞いた」


「人をからかうのが趣味」


「北条君がからかわれてるところ、ちょっと見たい」


「会わせるのやめるわ」


「何で!」


「絶対あいつと組むだろ、お前」


「まだ会ってもないのに」


「何となく分かる」


 真樹は本気で嫌そうな顔をした。


 ひよりはますます興味を持つ。


「会いたい」


「嫌だ」


「友達の友達じゃん」


「だから何」


「仲良くなれるかもしれない」


「ならなくていい」


「北条君が決めることじゃないでしょ」


 その言葉に、真樹は昨日と同じ妙な引っかかりを覚えた。


 ひよりと蓮が話しているところを想像する。


 蓮なら間違いなくひよりを面白がる。


 ひよりも、蓮の軽い性格ならすぐに話せるだろう。


 そして。


 自分の知らないところで連絡先まで交換したら。


(……何でそこまで考えてんだ)


 真樹は眉間へ力を入れた。


「北条君?」


「何」


「嫌そう」


「蓮が調子乗るから嫌なんだよ」


「神崎君かわいそう」


「会ったら分かる」


「じゃあ会わせてよ」


「……そのうちな」


「約束?」


「約束まではしてない」


「逃げた」


「うるさい」


 そんな話をしながら歩いていると、ノアが突然足を止めた。


 道の向こうから、小型犬を連れた年配の女性がやってくる。


 ノアは興味を示したものの、真樹がリードを短く持つと静かに横へついた。


「偉いね、ノア」


 ひよりが褒める。


「こういうとき北条君の言うことちゃんと聞くよね」


「普段も聞く」


「私がいるときは?」


「……聞かないときがある」


「私のほうが好きだから?」


「調子乗んな」


 いつものやり取り。


 けれど年配の女性は、すれ違いざまに微笑んだ。


「仲がいいのねえ」


 ひよりと真樹が同時に女性を見る。


「わんちゃんも、お二人も」


 女性はそれだけ言うと、小型犬とともに歩いていった。


 ひよりは数秒固まった。


「……私たち?」


「多分」


「仲良く見えるんだ」


「毎日こんだけ話してればな」


「そっか」


 ひよりは少し笑う。


「友達に見えるってことだよね」


「……まあ」


 真樹は答えた。


 なぜか。


 その言葉を聞いた瞬間、少しだけ物足りなく感じた。


(何がだよ)


 友達。


 自分たちはそうだ。


 それ以上でも以下でもない。


 ひよりには好きな相手がいる。


 佐伯颯太。


 昨日だって、告白したいと言っていた。


「そうだ」


 ひよりが突然声を上げる。


「今日も佐伯君と話したよ」


 真樹は心の中で盛大にため息をついた。


(何で今なんだよ)


「朝、私から声かけたの」


「……へえ」


「昨日より自然に話せた」


「よかったな」


「今日はちゃんと言えたね」


「昨日も言っただろ」


「言わせたらね」


 ひよりは嬉しそうに笑っている。


 真樹はその横顔を見る。


 嬉しそうなら。


 友達なら。


 一緒に喜べばいい。


 理屈では分かっている。


 なのに口から出てきたのは別の言葉だった。


「そんなに好きなの?」


 ひよりが瞬きをする。


「佐伯君?」


「他に誰がいるんだよ」


「……好きだよ」


 ひよりの声が少しだけ小さくなる。


 それでも迷いはなかった。


「去年同じクラスになって、最初は普通に話すだけだったんだけどね。優しいし、誰とでも自然に話せるし、一緒にいると楽しかったから」


 真樹は黙って聞く。


「いつから好きになったかは、自分でもよく分かんない。でも気づいたら、話せるだけで嬉しくなってた」


「……そっか」


「うん」


 ひよりは少し照れたようにマフラーへ口元を隠した。


 真樹は前を向く。


 聞いたのは自分だ。


 なのに。


(聞かなきゃよかった)


 胸の奥が重い。


 理由はまだ分からない。


 分かりたくないだけなのかもしれないという考えすら、今の真樹には浮かばなかった。


「北条君は?」


「何が」


「好きな人」


「いないって言っただろ」


「今まで一回も?」


「ない」


「本当に?」


「しつこい」


「だって北条君、そういうの分かんなそう」


「どういう意味だよ」


「誰か好きになってても気づかなそう」


 真樹の足が止まりかけた。


「……何でそう思う」


「何となく」


「適当だな」


「北条君、自分の気持ち説明するの苦手そうだもん」


「お前に言われたくない」


「私はちゃんと分かるよ」


「佐伯が好きって?」


「そう」


「それ以外は?」


「それ以外?」


 ひよりは首を傾げる。


 真樹はしばらく彼女を見る。


 しかし、自分が何を聞こうとしたのか分からなくなり、視線を外した。


「……何でもない」


「またそれ」


「忘れろ」


「今日の北条君、変」


「いつもだろ」


「自覚あるんだ」


「お前がいつも言うからな」


 二人は再び歩き出す。


 ノアだけが、そんな二人を気にする様子もなく一定の速度で先を進んでいた。


     ◇ ◇ ◇


 公園へ戻るころには、空の色が少しずつ橙色へ変わっていた。


 遊んでいた小学生たちも減り、冷たい風が強くなっている。


「寒くなってきたね」


 ひよりが両手を擦る。


「手袋は?」


「忘れた」


「馬鹿」


「朝急いでたの!」


「明日は持ってこい」


「お兄ちゃんみたいなこと言わないで」


「それは嫌だ」


「そんな嫌がらなくても」


 ひよりは笑う。


 公園の入口で足を止める。


「じゃあ、帰ろうかな」


「ああ」


「また明日ね」


 自然に出た言葉だった。


 真樹も自然に答えようとして。


 昼間に届いた家からの連絡を思い出す。


「天野」


「何?」


「日曜」


「日曜日?」


「俺、予定ある」


 ひよりは少し不思議そうな顔をする。


「うん?」


「交流会」


「ああ、昨日言ってたやつ?」


「出ることになった」


「そっか。頑張って」


「……それだけ?」


「え?」


 ひよりは首を傾げる。


 真樹自身、自分が何を期待したのか分からない。


「いや、何でもない」


「また?」


「忘れろ」


「今日何回目?」


「数えてない」


 ひよりは少し笑ったあと、ふと気づく。


「北条君、もしかして日曜日も会うつもりだった?」


「……」


 真樹が黙る。


「え、本当に?」


「決めてない」


「でも今、わざわざ予定あるって教えてくれたよね」


「連絡しといたほうがいいかと思っただけ」


「何で?」


「……」


 答えられない。


 ひよりはそんな真樹を見て、少しだけ嬉しくなった。


 土曜日に初めて休日の約束をした。


 だから真樹の中でも、休日に会うことが選択肢になっていたのかもしれない。


「じゃあ土曜日は?」


 ひよりが聞く。


「空いてる」


「私も多分空いてる」


「……じゃあ」


「二時?」


「また?」


「この前二時だったから分かりやすいじゃん」


「まあいいけど」


「決まりね」


 ひよりは笑った。


「日曜日会えない分、土曜日にノアといっぱい遊ぼ」


「結局ノアかよ」


「当たり前でしょ」


「……そうだな」


 真樹は返事をしながら、何となく納得できないものを感じていた。


 けれど、その正体を考えるより先に、ひよりがノアへしゃがみ込む。


「ノア、土曜日も会おうね」


 ノアの頭を撫でる。


「日曜日は北条君忙しいんだって。残念だね」


「何でノアに説明してんだよ」


「大事でしょ」


「分かってるのか?」


「分かってるよねー?」


 ノアが尻尾を振る。


 ひよりが得意そうに真樹を見る。


「ほら」


「何でも尻尾振るだろ」


「嫉妬?」


「何にだよ」


「私とノアの絆」


「しない」


「即答」


 ひよりは笑いながら立ち上がった。


「じゃあ、本当に帰るね」


「ああ」


「明日は普通に会えるよね?」


「多分」


「多分?」


「何かあったら連絡する」


「私も」


 それでいい。


 会えなければ連絡する。


 遅くなれば伝える。


 次に会う日を決める。


 ほんの少し前には存在しなかった習慣が、二人の間へ当たり前のように増えている。


「また明日、北条君」


「また明日」


「ノアも!」


 ノアにも手を振り、ひよりは帰っていった。


 真樹はその背中が角を曲がるまで見送ってから、ノアへ視線を落とした。


「……日曜の予定、言う必要あったと思うか?」


 ノアは答えない。


「会う約束してたわけでもないのにな」


 それでも。


 黙って日曜日を迎えることが、何となく嫌だった。


 ひよりが公園へ来て、自分たちがいないことを知る。


 そんな可能性を考えた。


「……まあ、連絡先交換したんだから普通か」


 自分で理由をつける。


 ノアは一度だけ真樹を見上げ、また歩き始めた。


「何だよ、その顔」


 もちろんノアは何も言っていない。


     ◇ ◇ ◇


 帰宅したひよりがリビングへ入ると、美月がソファで大学の資料を読んでいた。


「ただいま」


「おかえり」


「今日寒かったー」


「手袋は?」


「忘れた」


「明日は持っていきなよ」


「北条君にも同じこと言われた」


 ひよりはコートを脱ぎながら答えた。


 美月の手が止まる。


「……北条君にも?」


「うん」


「今日も会ったの?」


「会ったよ」


「毎日?」


「最近は大体」


「ふうん」


 美月は資料へ視線を戻した。


 ひよりはその反応が気になる。


「何?」


「何でもない」


「お姉ちゃんまでそれ言う!」


「何が?」


「北条君もすぐ『何でもない』って言うの」


「へえ」


 美月は少しだけ笑った。


「似てきたんじゃない?」


「千夏にも今日それ言われた!」


「じゃあ本当に似てきたのかもね」


「やめてよ」


 ひよりは不満そうに言いながら、ソファの隣へ座る。


「ねえ、お姉ちゃん」


「ん?」


「幼なじみって、やっぱり特別?」


 美月の視線が資料から離れた。


「誰の?」


「北条君」


「女?」


「……何で分かるの」


「男ならひよりがそんな聞き方しないでしょ」


「別に変な意味じゃないよ」


「分かってる。名前は?」


「一ノ瀬玲奈さん。北条君と同じ桜陵で、小さいころから知り合いなんだって」


「それで?」


「昨日たまたま会ったの。ノアの小さいころも知ってた」


 美月は妹の顔を見る。


 嫉妬しているようには見えない。


 ただ、少し引っかかっている。


「特別かどうかは、本人たち次第じゃない?」


「本人たち?」


「幼なじみだから絶対特別、なんて決まりはないでしょ。昔から知ってるっていう意味では特別かもしれないけど、それが恋愛とは限らないし」


「恋愛の話してないよ」


「だから、してないって言ってるでしょ」


「……お姉ちゃん、ずるい」


「何が?」


「私が気にしてるみたいになるじゃん」


 美月は小さく笑う。


「気になってるのは本当でしょ?」


「それは……」


 ひよりは少し考える。


「北条君の昔を知ってるの、いいなとは思った」


「どうして?」


「私、知らないから」


 その返事を聞き、美月の目がわずかに細くなる。


「だから昨日、これから知ればいいかなって思った」


「……そう」


「友達なんだし」


「うん」


 美月はそれ以上言わなかった。


 今のひよりへ、余計な名前を与える必要はない。


 妹は昔から、自分の感情を人に見せることが得意ではない。周囲にどう見られるかを気にして、本当は嫌でも笑ったり、寂しくても平気だと言ったりする。


 そんなひよりが。


 知り合って間もない男子のことを、もっと知りたいと自分から思っている。


 それだけでも、美月には十分大きな変化に見えた。


「ひより」


「何?」


「焦らなくていいんじゃない?」


「何を?」


「いろいろ」


「だから何?」


「分からないなら、それでいいよ」


「お姉ちゃんまで北条君みたい!」


 ひよりが抗議する。


 美月は声を上げて笑った。


     ◇ ◇ ◇


 夜。


 風呂を終えたひよりがベッドへ入ると、スマートフォンに一件の通知が来た。


 真樹から。


『今日の答え』


「答え?」


 ひよりは少し考えてから、すぐに分かった。


 昨日、玲奈と会ったあとに何を考えていたのか。


 今日ちゃんと話した。


『ちゃんと話したでしょ』


『聞いた』


『じゃあ何?』


 少し間が空く。


『これから知ればいいってやつ』


『うん』


『俺も同じでいい』


 ひよりの指が止まる。


『同じ?』


『お前の知らないこと、これから知ればいいって話』


 ひよりは画面を見つめた。


 文章が少し分かりにくい。


 けれど意味は伝わる。


『北条君も私のこと知りたいってこと?』


 送信したあと。


 既読がつく。


 返事が来ない。


 一分。


 二分。


「……遅い」


 ひよりが呟く。


 ようやく届いた。


『友達だからな』


 ひよりは少し笑った。


(そこ、私と同じなんだ)


『じゃあ何知りたい?』


 送る。


 今度は比較的早かった。


『普段何してんの』


『学校?』


『家でも』


『普通だよ』


『俺がそれ言ったら文句言っただろ』


「確かに」


 ひよりは笑う。


『家ではお母さんの手伝いしたり、お姉ちゃんと話したり、漫画読んだり動画見たりしてる』


『兄は』


『避けてる』


『かわいそうだな』


『北条君までお兄ちゃんの味方するの?』


『してない』


『ならよし』


 やり取りが続く。


 何か特別な話をしているわけではない。


 好きな音楽。


 よく見る動画。


 休日に何時ごろ起きるか。


 朝はパンとご飯ならどちらが多いか。


 ひよりが目玉焼きには醤油をかけると言えば、真樹は塩胡椒だと言う。


『合わない』


『そこだけで判断しないで』


『重要だろ』


『じゃあ北条君とは朝ごはん一緒に食べられないね』


 送ってから。


 ひよりは何となくその文章を見つめた。


 朝ごはんを一緒に食べる。


 そんな予定など当然ない。


 ただの冗談だ。


 向こうもそう受け取るはず。


 一方。


 真樹は自室で、その一文を見て動きを止めていた。


『じゃあ北条君とは朝ごはん一緒に食べられないね』


(何で一緒に食う前提なんだよ)


 そう返そうとして。


 指が止まる。


 頭の中に一瞬だけ浮かんだ。


 ひよりが向かいに座って朝食を食べている光景。


 自分の家なのか。


 天野家なのか。


 そこまでは分からない。


 ただ。


 妙に具体的に浮かんでしまった。


(……何考えてんだ、俺)


 真樹は文章を消す。


 別の返事を打った。


『醤油くらい家にある』


 ひよりからすぐに返ってくる。


『そこ合わせてくれるんだ』


『別に自分のにかけなきゃいいだけだろ』


『優しいじゃん』


『普通』


『出た』


 真樹は小さく笑った。


 そのときノアが部屋へ入ってきた。


「ノア」


 呼ぶと、ノアが近づいてくる。


 真樹は大きな頭を撫でながら、スマートフォンを見る。


『北条君、今日いつもよりメッセージ長いね』


 言われて初めて気づいた。


 確かに長い。


 最初のころは用件だけだった。


 雨だからどうする。


 何時になる。


 ノアを連れてくる。


 それだけ。


 今は。


 朝食の目玉焼きに何をかけるか。


 そんな、明日になれば忘れていても困らない話をしている。


『天野が質問多いから』


『北条君も聞いてるじゃん』


『そうだっけ』


『そうです』


 ひよりから、得意そうな動物のスタンプが届いた。


 真樹はそれを見ながら、ノアの頭を撫で続ける。


「……友達ってこんなもんか」


 ノアは静かに真樹を見上げた。


「何だよ」


 もちろん返事はない。


 けれど真樹は、何となくノアに見透かされたような気がして視線を逸らした。


     ◇ ◇ ◇


 ひよりもまた、ベッドの中でスマートフォンを眺めていた。


 真樹との会話が終わらない。


 どちらかが新しい話題を出す。


 それに返す。


 また少し続く。


 毎日ずっと連絡を取り合うような関係ではない。


 学校にいる間はほとんど連絡しないし、会えば直接話している。


 それでも今日は。


 いつもより長い。


『もう十一時』


 真樹から届く。


 時計を見る。


 本当だ。


『寝なきゃ』


『明日起きれなくなるぞ』


『お兄ちゃんみたい』


『それやめろ』


『嫌なんだ』


『嫌』


『じゃあお父さん』


『もっと嫌』


『何で!?』


『知らん』


 ひよりは布団の中で笑う。


『じゃあ北条君は北条君で』


 送信。


 少しして。


『最初からそうしろ』


 返ってきた。


「ふふっ」


 声が漏れる。


 そのまま。


『おやすみ、北条君』


 送る。


『おやすみ』


 返事はすぐだった。


 ひよりはスマートフォンを伏せる。


 颯太と話せた朝は嬉しかった。


 明日も話せたらいいと思う。


 いつか。


 ちゃんと気持ちを伝えたい。


 その思いは何も変わっていない。


 それとは別に。


 真樹のことを少し知れた今日は楽しかった。


 生姜焼きが好き。


 目玉焼きは塩胡椒。


 蓮とは中学からの友達。


 学校では部活にも委員会にも入っていない。


 そんな小さなこと。


 知らなくても困らないこと。


 けれど、知れたことが嬉しい。


(友達って、こういう感じなのかな)


 ひよりは目を閉じる。


 明日も学校がある。


 颯太に会える。


 千夏とも話せる。


 海斗もいる。


 そして放課後になれば、たぶん真樹とノアに会う。


 会えないなら連絡が来る。


 自分が遅れるなら連絡できる。


 少し前までは偶然でしかなかった時間が、今は互いの日常の中へ静かに場所を作り始めている。


 それでも。


 まだ二人は知らない。


 会えることを前提に予定を考え、会えない日をわざわざ伝え、どうでもいいことまで知りたいと思うようになったその変化が、いつまでもただの偶然や習慣だけでは説明できないものへ変わっていくことを。


 今のひよりに分かるのは。


 明日も会える。


 そう思えることが、少し嬉しい。


 ただ、それだけだった。

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