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『黒犬が運んできたのは、不幸ではなく恋でした』  作者: 伊佐波瑞樹


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第16話 会わない日の予定



 木曜日の朝、ひよりが目を覚ましたとき、枕元のスマートフォンには新しい通知が一件届いていた。


 まだカーテンを開けていない部屋は薄暗く、暖房の切れた空気には夜の冷たさが残っている。布団から腕だけを伸ばしてスマートフォンを手に取ったひよりは、眠気の残る目を細めながら画面を確認し、表示されていた名前を見たところで瞬きをした。


『北条真樹』


 昨夜は互いに「おやすみ」と送って終わったはずだった。


(何だろ。こんな朝から珍しい)


 通知を開くと、送られてきた時刻は午前六時四十八分だった。


『今日、少し遅くなる』


 それだけだった。


 ひよりは時計を見る。自分が起きたのは七時少し前なので、真樹はもう起きているらしい。


『学校?』


 送ってからベッドを出て、カーテンを開ける。冬の朝らしい白っぽい光が部屋へ差し込み、窓の向こうには雲の少ない青空が広がっていた。


 制服へ着替えようとしたところで、すぐに返事が来る。


『家の用事』


『交流会の?』


『それとは別』


『そっか』


 そこまで打ってから、ひよりは少し考えた。


 以前なら、真樹が遅くなる理由をここから詳しく聞こうとはしなかっただろう。彼の家については知らないことが多く、本人が話したくないことまで聞くつもりもない。


 今も、その考えは変わっていない。


 ただ、昨日の夜に交わした言葉を思い出す。


『お前の知らないこと、これから知ればいいって話』


 真樹自身がそう言ってくれた。


 だから、少しくらいなら聞いてもいいのだろうか。


『聞いてもいいなら、何の用事?』


 送ったあと、ひよりはスマートフォンを机へ置いて着替え始めた。すぐに答えが来るとは思っていなかったが、ブラウスのボタンを留めている途中で通知音が鳴る。


『親父の会社の人と会う』


「会社の人……?」


 ひよりは思わず声に出した。


 高校生が、平日の放課後に父親の会社の人と会う。


 自分の日常にはあまりない話だ。


『北条君も?』


『俺も』


『何するの?』


『顔合わせみたいなもん』


『高校生なのに大変だね』


 少し間を置いて返ってきたのは、


『慣れてる』


 という短い言葉だった。


 ひよりはその文字を見つめた。


 真樹は時々、「慣れている」という言葉を使う。


 一人っ子で寂しくないのかと聞いたときもそうだった。


 詳しく説明する代わりに、それ以上の話を閉じるような言い方をする。


(聞かないほうがいいかな)


 ひよりは迷った末、それ以上は踏み込まなかった。


『じゃあ今日は無理しなくていいよ。ノアの散歩もあるんでしょ?』


 今度の返事には少し時間がかかった。


『終わったら連絡する』


 ひよりは画面を見ながら、わずかに口元を緩めた。


『分かった。私も学校終わったら連絡するね』


 送信したところで、廊下から由美の声が飛んできた。


「ひよりー! 起きてるなら早く降りてきなさい!」


「起きてるー!」


 返事をしてから、ひよりは慌てて髪を整え始めた。


     ◇ ◇ ◇


「朝から誰と連絡してた?」


 食卓へ着いて数分も経たないうちに、悠一が聞いてきた。


 ひよりは味噌汁を飲もうとしていた手を止め、兄を見る。


「何で?」


「二階で通知音してただろ」


「聞こえるわけないでしょ」


「じゃあ連絡してたんだな?」


「……誘導尋問じゃん!」


 向かいに座る美月が呆れた顔で兄を見る。由美は焼き魚を皿へ移しながらため息をつき、浩介は新聞から顔を上げて苦笑していた。


「悠一、朝から妹を尋問するな」


「父さんだって気になるだろ。最近ひより、スマホ見る回数増えてるし」


「お兄ちゃん、私のスマホ見る回数まで数えてるの?」


「数えてはいない。ただ分かる」


「怖いんだけど」


 ひよりが本気で少し引くと、悠一は「兄なら普通だろ」と言い切った。


 美月がすぐに首を横へ振る。


「普通じゃないから安心して」


「美月だって気にしてるだろ?」


「気にはしてるけど、監視はしてない」


「俺も監視してない!」


「似たようなものじゃない」


「違う!」


 朝から始まった兄姉の言い争いを横目に、ひよりは焼き魚へ箸を伸ばした。こういう光景にも慣れているが、真樹の家の朝はどんなものなのだろうと、ふと思う。


 兄も姉もいない。


 家は、おそらくかなり大きい。


 食事を作る「家の人」がいる。


 父親の会社関係の人と、高校生の真樹まで顔を合わせることがある。


(やっぱり、うちとは全然違うんだろうな)


 昨日なら、そこで少し遠さを感じていたかもしれない。


 けれど今は、それよりも知りたいという気持ちのほうが強かった。


「ひより?」


 美月に呼ばれて顔を上げる。


「何?」


「また考え事?」


「ちょっとだけ」


「北条君?」


 悠一の箸が止まった。


「北条?」


「お姉ちゃん!」


「当たりみたいね」


「だから何で分かるの!」


「昨日もそんな顔してたから」


「どんな顔!?」


 ひよりが頬を押さえると、美月は笑った。


 悠一だけは笑っていない。


「北条って、あの桜陵の男だよな?」


「そうだけど」


「朝から連絡してたのも?」


「……そうだけど」


「何の用だよ」


「今日ちょっと遅くなるって」


「何でひよりにそれを報告する必要があるんだ?」


「公園で会うこと多いからでしょ」


「毎日?」


「大体」


「何で?」


「ノアの散歩!」


「犬の散歩に何でひよりが毎日――」


「悠一」


 由美の声が少し低くなる。


 悠一は口を閉じた。


「ひよりにも友達付き合いがあるんだから、何でもかんでも聞き出そうとしないの」


「でも母さん」


「心配するのと、全部把握しようとするのは違うでしょ」


「……はい」


 母には弱い。


 ひよりはそんな兄を見ながら、少しだけ笑った。


「でも、心配してくれてありがと」


「ひより……!」


「ただし、しつこいのは嫌」


「……はい」


 喜んだ直後に落とされた悠一を見て、美月が吹き出す。


 ひよりも笑いながら時計を確認し、残っていたご飯を急いで口へ運んだ。


     ◇ ◇ ◇


 青葉高校へ着くと、千夏はすでに教室にいた。


「おはよ」


「おはよう、ひより」


 挨拶を交わし、ひよりが鞄を机へ置く。千夏は何気なくひよりの顔を見たあと、すぐに視線をスマートフォンへ落とした。


「今日も北条君?」


「何が?」


「朝からちょっと機嫌いい」


「昨日からみんなそればっかり!」


「みんな?」


「お姉ちゃんにも言われた」


「美月さん鋭いからね」


「千夏も十分鋭いよ」


 ひよりは椅子へ座り、教科書を机の中へしまっていく。


「北条君、今日はちょっと遅くなるんだって」


「……朝から連絡来たの?」


「うん」


 千夏の手が止まる。


「北条君から?」


「そうだよ」


「へえ」


「何?」


「いや、別に」


「その『別に』嫌いになりそう」


「北条君のせいだね」


「何で北条君のせいになるの」


 千夏は笑いながら、ひよりの前の席へ腰を下ろした。


「でもさ、北条君ってそういう連絡するようになったんだね」


「そういうって?」


「今日遅くなるとか、日曜は予定あるとか」


「会えないかもしれないからでしょ?」


「約束してない日でも?」


 ひよりは返事に詰まった。


 今日、会う約束をした覚えはない。


 昨日の帰り際に「また明日」と言った。


 それだけである。


「……でも、また明日って言ったから」


「うん」


「だったら遅くなるなら言うでしょ」


「ひよりも言う?」


「言うよ」


 即答した。


 千夏が少し目を丸くする。


 ひより自身も、答えてから気づいた。


 もし今日、自分が委員会や用事で遅くなるなら。


 たぶん真樹へ連絡する。


 真樹が待っていると決めつけているわけではない。それでも、何も言わずにいつもの時間を過ぎるのは嫌だと思う。


「……友達だから」


 ひよりは少し遅れて付け加えた。


「うん」


 千夏は否定しなかった。


 ただ、微笑んでいる。


「何その顔」


「別に?」


「もう!」


 ひよりが抗議したところで予鈴が鳴り、教室へ入ってきた担任に促されて千夏は自分の席へ戻っていった。


     ◇ ◇ ◇


 二時間目と三時間目の間の休み時間。


 ひよりが次の授業の準備をしていると、廊下側から自分の名前を呼ぶ声がした。


「天野」


 顔を上げる。


 教室の入口に颯太が立っていた。


「佐伯君?」


 反射的に立ち上がる。


 昨日までは廊下で偶然会ったときに少し話しただけだった。それが今日は、颯太のほうから自分の教室まで来ている。


 胸が一気に速くなった。


(え、何? 何だろ)


 平静を装いながら廊下へ出る。


「どうしたの?」


「この前送ってもらった写真なんだけどさ」


「あ、うん」


「うちのクラスの宮田が去年の文化祭の写真欲しいって言ってて。天野が持ってたやつ、あいつも写ってた気がするんだけど」


「宮田君?」


 ひよりは記憶を探る。


「多分あるよ。昨日千夏からも何枚かもらったから」


「マジ? 悪いけど送ってもらっていい?」


「もちろん」


「助かる」


 颯太が笑う。


 ただそれだけの用事だった。


 それでも、わざわざ自分を呼びに来てくれたことが嬉しい。


「じゃあ、あとで送るね」


「ありがとう。急がなくていいから」


「うん」


 颯太が自分の教室へ戻っていく。


 ひよりはその背中を見送りながら、自分の頬が緩んでいるのを感じていた。


(向こうから来てくれた)


 写真が目的だ。


 分かっている。


 それでも嬉しいものは嬉しい。


 教室へ戻ると、千夏が何も言わずにこちらを見ていた。


「……何?」


「嬉しそう」


「だって佐伯君のほうから来てくれたんだよ?」


「うん」


「写真のことだけど。それでも、前だったらこんなふうに話すことなかったし」


「よかったじゃん」


「うん!」


 ひよりは席へ戻り、スマートフォンに入っている写真を確認し始めた。


 千夏はそんな親友を見ながら、頬杖をつく。


 颯太を見たときのひよりは、今も分かりやすい。


 嬉しくて、緊張して、少しでも近づけたことを喜んでいる。


 だからこそ、千夏は真樹との関係を急いで何かに当てはめる気にはなれなかった。


(北条君には悪いけど、今はまだ佐伯君なんだよね)


 もっとも、真樹自身もそれを知っている。


 そのうえで、あの少年が何を感じているのか。


 千夏には少しだけ興味があった。


     ◇ ◇ ◇


 同じころ、桜陵学園では昼休みを前にした教室で、真樹が机へ頬杖をついていた。


 午前中の授業が終わり、周囲では昼食の話をする声や椅子を動かす音が重なっている。真樹が教科書を閉じたところで、蓮が隣の机へやってきた。


「今日、放課後暇?」


「暇じゃない」


「即答だな」


「家の用事」


「ああ、北条のおじさん関係?」


「多分な」


「大変だねえ、御曹司」


「うるさい」


 蓮は笑いながら近くの椅子を引き寄せる。


「じゃあ今日は天野さんに会えないの?」


「終わる時間次第」


「会うつもりなんだ」


「ノアの散歩」


「便利だな、ノア」


 真樹の眉が寄る。


「何が言いたい」


「何も?」


「その顔で言うな」


 蓮はさらに笑った。


「天野さんには遅くなるって言った?」


「朝」


「朝?」


「何だよ」


「いやあ」


 蓮は少しだけ目を丸くしたあと、面白そうに真樹を見る。


「お前、マメになったなと思って」


「会えないかもしれないなら言っといたほうがいいだろ」


「今日、約束してたの?」


「してない」


「じゃあ何で?」


 真樹は黙った。


 朝、目を覚まして最初に考えたのは、今日の放課後の予定だった。


 家の用事がある。


 いつもの時間には公園へ行けない。


 だからひよりへ連絡した。


 それだけだ。


(……何でって言われると、確かに何でだ)


 昨日、「また明日」と言ったから。


 それなら十分な理由に思える。


「昨日、また明日って言った」


「なるほど」


 蓮は頷く。


「じゃあ天野さんも、お前が来ると思ってるわけだ」


「多分」


「お前も天野さんが来ると思ってる」


「……多分な」


「それ、もう結構ちゃんとした約束じゃない?」


「時間決めてないだろ」


「そこ?」


 蓮が吹き出す。


 真樹は面倒になって弁当へ手を伸ばした。


「お前と話してると疲れる」


「俺は楽しいけど」


「最悪だな」


 蓮は笑いながら、自分の昼食を取りに一度席を離れた。


 真樹はスマートフォンへ目を落とす。


 ひよりから新しい連絡はない。


 当然だ。


 授業中なのだから。


 それでも、今朝のやり取りを開いてしまう。


『じゃあ今日は無理しなくていいよ。ノアの散歩もあるんでしょ?』


『終わったら連絡する』


 自分からそう送った。


(会えなかったら会えなかったで、別に明日があるだろ)


 頭ではそう思う。


 なのに、用事が終わった時間によっては公園へ行こうと考えている自分がいる。


「……面倒」


 小さく漏らした声を、ちょうど戻ってきた蓮が聞いた。


「何が?」


「お前が」


「今いなかったけど?」


「戻ってきたから」


「ひどくない?」


 真樹は答えず、弁当の蓋を開けた。


     ◇ ◇ ◇


 放課後、ひよりは校門を出たところで真樹へメッセージを送った。


『今終わったよ』


 すぐに返事は来なかった。


 今ごろ家の用事なのだろう。


 ひよりはスマートフォンを鞄へしまい、駅とは反対側の道へ向かう。


 今日はどうしよう。


 真樹は遅くなると言っていた。


 なら、公園へ寄らずに帰ってもいい。


 そう考えたところで、足がいつもの道へ向いていることに気づいた。


(……まあ、通り道だし)


 完全な嘘ではない。


 家へ帰るなら、公園を通る道でも大きな遠回りにはならない。


 ただ。


 真樹もノアもいないと分かっているのに、わざわざそちらを選んだ理由までは考えないことにした。


 公園へ着く。


 当然、いつもの場所に二人はいなかった。


 冬の夕方の公園には小学生が数人いるだけで、ベンチの周辺は静かだった。ブランコが風にわずかに揺れ、金属の鎖が小さな音を立てている。


 ひよりは立ち止まった。


「……そりゃ、いないよね」


 分かっていた。


 朝から聞いていたのだから。


 それでも、いつもノアがこちらへ走ってくる場所が空いていると、思ったより寂しい。


(毎日会いすぎたかな)


 まだ知り合ってから長くない。


 それなのに、真樹とノアがいる景色のほうが普通になりつつある。


 ひよりは少しだけベンチへ座った。


 スマートフォンを確認する。


 まだ返事はない。


(忙しいんだろうな)


 五分だけ休んで帰ろう。


 そう決めて、冷たい空気の中で白い息を吐いた。


     ◇ ◇ ◇


 そのころ真樹は、父親の会社が所有する応接室にいた。


 濃い木目の長机を挟み、向かいには父親と同年代ほどの男性が二人座っている。窓の外には夕暮れの街並みが広がり、室内にはコーヒーの香りが薄く漂っていた。


 真樹の隣には父親がいる。


 北条家当主であり、グループ企業の経営に深く関わる父は、仕事の場では家にいるとき以上に隙がない。


「真樹」


 呼ばれて、真樹は視線を上げる。


「こちらは今後、お前も顔を合わせる機会が増える。覚えておきなさい」


「はい」


 相手の男性へ改めて頭を下げる。


 こういう場には慣れている。


 子どものころから、父親の仕事関係者や家同士の付き合いで大人たちに紹介されることはあった。今日も特別なことではない。


 相手が話す会社の展望や事業の話を聞き、必要なときだけ返事をする。


 それでも今日は、時計を見る回数がいつもより多かった。


 午後四時二十分。


(まだか)


 自分でも気づかないうちに、また時計へ目が向く。


 父親の視線が一瞬だけこちらへ来た。


 真樹は何事もなかったように前へ向き直る。


 しばらくして話が一区切りつき、相手の二人が席を立った。真樹も父親とともに見送り、扉が閉じる。


「真樹」


「何」


「このあと予定があるのか?」


 真樹は父を見る。


「何で」


「先ほどから時計を気にしていただろう」


「……別に」


「そうか」


 父はそれ以上追及しなかった。


 真樹はその反応に少しだけ居心地の悪さを覚えながらスマートフォンを確認する。


 一件。


『今終わったよ』


 送信時刻は三十分ほど前。


 真樹はすぐに返信を打った。


『今終わった』


 既読がつく。


 驚くほど早かった。


『お疲れさま!』


『今どこ』


 送ってから、一瞬だけ指が止まる。


 なぜ居場所を聞いた。


 しかし取り消す前に既読になった。


『公園』


「……は?」


 思わず声が出た。


 父が少し離れたところから振り返る。


「どうした?」


「何でもない」


 真樹は画面へ視線を戻す。


『何でいるんだよ』


『帰り道だから』


『俺遅くなるって言っただろ』


『知ってるよ』


『じゃあ何で』


 返事が来るまで少し間があった。


『なんとなく寄っただけ』


 真樹はその文字を見つめる。


 胸の奥に、朝から引っかかっていたものが少しだけほどけた。


(何だよ、それ)


 自分がいないと分かっているのに、ひよりは公園へ寄った。


 ただの帰り道。


 ただ何となく。


 それだけかもしれない。


 それでも。


「相沢」


 近くで待っていた相沢直人が顔を上げる。


「はい」


「車、出せる?」


「もちろんです。ご自宅へお戻りになりますか?」


「……いや」


 真樹は一瞬だけ迷った。


「公園寄って」


 相沢は表情を変えなかった。


「かしこまりました」


 けれど車へ向かう真樹の少し後ろで、相沢はほんのわずかに目元を和らげていた。


 雨の日。


 真樹はノアを連れずに同じ公園へ寄った。


 今日もまた、家へ帰る前にそこへ行く。


 理由を尋ねる必要はない。


 長く北条家に仕えてきた相沢には、少年が自分でもまだ言葉にできていない何かを大切にし始めていることだけは、十分に伝わっていた。


     ◇ ◇ ◇


『今から行く』


 届いたメッセージを見て、ひよりは目を丸くした。


『え?』


『まだいる?』


『いるけど』


『じゃあ待ってろ』


 ひよりは画面を見つめた。


「……来るの?」


 もう夕方だ。


 真樹は家の用事が終わったばかりのはずである。


『無理しなくていいよ?』


『もう向かってる』


『ノアは?』


 今度の返事は早い。


『いない』


「……え?」


 ひよりはベンチから顔を上げた。


 ノアはいない。


 それなのに真樹が来る。


 雨の日にも似たことはあった。あのときは、ひよりが公園へ来ているかもしれないと思って確認に来たのだと、今なら何となく分かる。


 でも今日は。


 自分がいると知ってから、わざわざ来る。


(何で?)


 友達だから。


 たぶん、それでいい。


 自分だって、千夏から「今近くにいる」と言われれば会いに行くかもしれない。


 そう考えれば不思議ではない。


 それでも、ひよりはスマートフォンを持ったまま、少しだけ落ち着かなくなった。


 十分ほどして、公園前に見覚えのある黒い車が停まった。


「あ」


 後部座席の扉が開く。


 制服姿の真樹が降りてきた。


 車内の相沢へ何か言ってから扉を閉め、こちらへ歩いてくる。


 ひよりは立ち上がった。


「本当に来た」


「来るって言っただろ」


「でも家の用事終わったばっかりでしょ?」


「ああ」


「疲れてない?」


「別に」


 真樹はひよりの前まで来ると、少し眉を寄せた。


「寒そう」


「手袋忘れたから」


「朝言っただろ」


「それ昨日!」


「どっちでもいい。何で持ってこないんだよ」


「忘れたものは仕方ないでしょ」


 ひよりは両手をコートのポケットへ入れる。


 真樹は呆れた顔をした。


「何分いた?」


「そんなにいないよ」


「何分」


「……十五分くらい?」


「寒いのに?」


「ベンチ座ってただけだし」


「馬鹿だろ」


「北条君に会うために待ってたわけじゃないもん」


 反射的に言ってから、ひよりは口を閉じた。


 真樹も黙る。


 少しだけ気まずい間が生まれた。


「……分かってる」


 真樹が先に視線を逸らした。


「帰り道なんだろ」


「うん」


「なんとなく寄っただけ」


「うん」


「……それ、何回も言わなくていい」


「北条君が聞いたんでしょ」


 ひよりは少し頬を膨らませる。


 真樹は何か言い返そうとして、やめた。


 本当は少しだけ期待した。


 自分がいなくても、公園へ来た。


 その理由に、自分が含まれているのではないかと。


 けれどひよりには颯太がいる。


(何期待してんだよ)


 自分でも意味が分からない。


「ノアいないと変だね」


 ひよりが公園の入口へ目を向ける。


「そうだな」


「北条君だけだと、なんか足りない」


「帰るぞ」


「冗談!」


 ひよりが慌てて真樹のコートの袖を軽くつかむ。


 その手に気づき、真樹の視線が下がった。


 ひよりも一拍遅れて気づき、すぐに離す。


「ごめん」


「……別に」


 わずかな接触だった。


 それでも真樹は、つかまれていた袖のあたりが妙に気になった。


 ひよりは自分の手をポケットへ戻し、話題を変えるように尋ねる。


「家の用事、どうだった?」


「いつも通り」


「会社の人と会ったんでしょ?」


「ああ」


「どんな感じなの?」


 真樹は少し考えた。


 昨日までなら、「別に普通」と答えて終わっていたかもしれない。


 けれど。


『知らないならこれから知ればいい』


 ひよりがそう言った。


 自分も同じでいいと返した。


「親父の仕事関係の人に挨拶して、話聞いてただけ」


「北条君も会社継ぐの?」


 真樹はすぐには答えなかった。


 ひよりが自分の家についてどこまで知っているのか。


 桜陵へ通っている。


 家が裕福らしい。


 大きな車が迎えに来る。


 それくらいだ。


「まだ決めてない」


 真樹は答えた。


「家としては、そういう方向で考えてると思うけど」


「そっか」


 ひよりはそれ以上踏み込まず、ゆっくり頷いた。


「大変だね」


「何が」


「高校生なのに、もう将来のことを家から考えられてるの」


 真樹はひよりを見る。


「嫌だって言ったら?」


「え?」


「もし俺が、家の仕事とかやりたくないって言ったら」


 なぜそんなことを聞いたのか、自分でも分からなかった。


 ひよりは少し考えた。


「北条君が本当に嫌なら、ちゃんと考えたほうがいいんじゃない?」


「簡単に言うな」


「簡単じゃないよ」


 ひよりの声から、いつもの軽さが少し消えた。


「家のことって、自分だけの問題じゃないときあるじゃん。私には北条君の家の事情分かんないし、何が正しいかも分かんない」


 冷たい風が二人の間を抜ける。


 ひよりはマフラーへ顎を少し埋めながら、それでも真樹から目を逸らさなかった。


「だから、やりたくないなら逃げればいいとか、家の言う通りにしたほうがいいとか、私には言えない。でも北条君がどうしたいかは、ちゃんと考えていいと思う」


「……」


「北条君の人生なんだから」


 真樹は何も言わなかった。


 父親の仕事。


 北条家。


 将来。


 周囲からは、昔から当然のようにひと続きで語られてきた。


 それが嫌だと明確に思ったことはない。


 受け入れているのか。


 ただ慣れているだけなのか。


 自分でも、まだ分からない。


「ごめん。偉そうだった?」


 ひよりが少し不安そうに聞く。


「いや」


 真樹はゆっくり首を横へ振った。


「お前らしい」


「何それ」


「そのままの意味」


「いい意味?」


「多分」


「多分なの?」


 ひよりが笑う。


 真樹もほんの少しだけ口元を緩めた。


「北条君、やっぱり今日疲れてる?」


「何で」


「いつもより素直」


「帰るぞ」


「すぐ逃げる!」


 ひよりの笑い声が、夕方の公園へ広がった。


     ◇ ◇ ◇


 二人は公園を一周するように歩いた。


 ノアがいないので、いつもの散歩とは違う。


 立ち止まる理由も、歩く方向を決める存在もいない。


 だから自然と、二人の歩幅だけで進むことになる。


「変な感じ」


 ひよりが言った。


「何が」


「ノアいないのに北条君と公園歩いてるの」


「雨の日もいなかっただろ」


「あのときは歩いてないじゃん」


「そうだっけ」


「そうだよ」


 ひよりは少し先へ進み、振り返る。


「北条君、私と二人でいるの嫌じゃない?」


 真樹は眉を寄せた。


「何でそうなる」


「ノアいないと話すことないかなって」


「今ずっと話してるだろ」


「そうだけど」


「嫌なら来てない」


 真樹は何でもないことのように言った。


 ひよりの足が少しだけ遅くなる。


 以前にも似たことを言われた。


 嫌なら何度も話していない。


 少なくとも嫌いではない。


 そのときは、それだけで友達に近づけた気がして嬉しかった。


 今は。


 ノアがいなくても、真樹が自分に会いに来た。


「……そっか」


「何」


「何でもない」


「それ俺のやつ」


「北条君専用じゃないでしょ」


 ひよりは笑いながら前を向く。


 頬が少し温かい。


 寒さのせいではない気がしたが、理由を考えるほどのものでもないと思った。


「そういえば」


 ひよりは思い出して真樹を見る。


「今日、佐伯君が教室まで来たの」


 真樹の表情が止まる。


「……何で」


「写真欲しいって。佐伯君の友達が写ってるやつ」


「ふうん」


「向こうから私の教室来てくれたんだよ」


「写真のためだろ」


「分かってるけど、嬉しかったの」


 ひよりは笑う。


 その笑顔を見て、真樹の胸の奥へ先ほどまでとは違う重さが落ちた。


 せっかく会えたのに。


 なぜ今、その話をする。


(……いや、天野は悪くないだろ)


 自分は友達だ。


 ひよりが好きな相手との関係が少し進んだなら、聞くのは普通だ。


 そう思うのに。


「告白すんの?」


 真樹の口から出た言葉に、ひよりが驚いた。


「今日?」


「違う。近いうち」


「……まだ」


 ひよりの声が少し小さくなる。


「でも、前より話せるようになったから。もうちょっと自然に話せるようになったら、ちゃんと言いたいなとは思ってる」


「そう」


「バレンタインみたいに逃げたくないし」


「……そっか」


 真樹は前を向く。


 風が冷たい。


 それなのに、胸の奥にある重さだけは消えなかった。


「北条君」


「何」


「また機嫌悪くなった?」


「なってない」


「佐伯君の話すると、たまになるよね」


 真樹は足を止めた。


 ひよりも数歩先で止まり、振り返る。


「恋愛の話、やっぱり嫌?」


「……分かんない」


「え?」


 今までなら「別に」「嫌じゃない」「興味ない」と答えていた。


 けれど今日は、そのどれも妙に違う気がした。


「聞きたくないときもある」


 真樹は正直に言った。


 ひよりは少し困ったような顔をする。


「じゃあ、あんまり話さないほうがいい?」


 その言葉を聞いた瞬間、真樹はすぐに否定したくなった。


 ひよりが颯太について何を考えているのか。


 何を話したのか。


 告白するのか。


 知らないほうが嫌だ。


(何なんだよ、本当に)


「……いや」


「どっち?」


「話したければ話せばいい」


「でも嫌なんでしょ?」


「嫌っていうか」


 真樹は言葉を探す。


 自分でも分からないものを、ひよりへ説明できるはずがない。


「聞きたくないけど、知らないのも嫌」


 ひよりが瞬きをした。


「難しいね、北条君」


「俺もそう思う」


 その返事が少しおかしくて、ひよりは笑った。


「じゃあ、話してもいい?」


「好きにしろ」


「分かった」


 ひよりは再び歩き始める。


 真樹も隣へ並んだ。


「でも北条君も何かあったら話してね」


「何を」


「好きな人できたとか」


「何で」


「私ばっかり話すの不公平じゃん」


「できたらな」


「うん」


「多分できないけど」


「分かんないでしょ」


 ひよりは笑う。


「北条君、自分で気づくの遅そうだし」


「またそれかよ」


「だって本当にそう思う」


「お前にだけは言われたくない」


「何で?」


「……何でもない」


「また!」


 ひよりが抗議する。


 真樹はそれ以上答えなかった。


 自分でも、なぜそう言ったのか分からなかったからだ。


     ◇ ◇ ◇


 空が暗くなり始めたところで、二人は公園の入口へ戻った。


 相沢の車は少し離れた場所で待っている。


「北条君、車待たせてるんでしょ?」


「ああ」


「早く帰りなよ」


「お前もな」


「私は歩いて帰れるし」


「だから暗くなる前に帰れって言ってんの」


「分かってます」


 ひよりは少し笑い、手を振った。


「今日は来てくれてありがと」


 真樹がわずかに目を見開く。


「何で礼言うんだよ」


「だって用事のあとだったのに来てくれたから」


「俺が勝手に来ただけ」


「それでも」


 ひよりは柔らかく笑った。


「会えてよかった」


 真樹の呼吸が一瞬だけ止まる。


 ひよりはその変化に気づかないまま続けた。


「ノアはいなかったけどね」


「……結局それかよ」


「でも北条君ともいっぱい話せたし」


「……そう」


「じゃあ、また明日」


「ああ。また明日」


 ひよりが歩き出す。


 真樹はその背中を見送る。


 角を曲がる直前、ひよりが一度振り返った。


 真樹がまだそこにいることに気づくと、もう一度小さく手を振る。


 真樹も軽く片手を上げた。


 ひよりが見えなくなってから、真樹は車へ向かう。


 後部座席へ乗ると、運転席の相沢がミラー越しに確認した。


「ご自宅へお戻りしてよろしいでしょうか」


「ああ」


「かしこまりました」


 車が静かに走り出す。


 真樹は窓の外へ目を向けた。


『会えてよかった』


 ひよりの言葉が頭に残っている。


 そのあとに「ノアはいなかったけど」と続いた。


 それでも。


(俺とも話せたって言ってたよな)


 そこだけをわざわざ拾っている自分に気づき、真樹は眉を寄せる。


「……何なんだよ」


 小さな声は、走行音に紛れた。


 相沢には聞こえていたが、何も尋ねなかった。


     ◇ ◇ ◇


 夜、ひよりは夕食を終えて自室へ戻ると、机へ教科書を広げた。


 宿題を始める前にスマートフォンを見る。


 真樹からメッセージが来ていた。


『帰った?』


『帰ったよ』


『手袋明日は忘れんな』


『まだ言うの?』


『寒いって言ってただろ』


『分かりました』


 ひよりは少し考え、続けて送る。


『北条君もちゃんとノア散歩させてあげてね』


『今から行く』


『今!?』


『今日まだ行けてないから』


『寒いよ?』


『お前に言われたくない』


『私はもう家です』


『俺も手袋ある』


『ずるい』


『何が』


 ひよりは笑った。


『ノアによろしく』


『自分で言え』


『どうやって』


 少しして、一枚の写真が送られてきた。


 玄関らしき場所で、散歩へ行く準備をしたノアがこちらを見上げている。


「ノア!」


 ひよりの顔が一気に緩む。


『かわいい!!』


『知ってる』


『保存した』


『勝手にしろ』


『ありがとう』


 写真を拡大する。


 ノアの後ろには、これまで見たことのない広い玄関の一部が写っていた。床も壁も自分の家とは明らかに違うが、ひよりはそこを拡大して見るようなことはしなかった。


 見るのはノアだけ。


 真樹が話したくなったら、そのとき聞けばいい。


 それでいい。


『散歩行ってくる』


『いってらっしゃい』


 ひよりは送信し、スマートフォンを机へ置いた。


 少しして、机の引き出しを開ける。


 中には、バレンタインの日に使った白いリボンが残っていた。


 箱はもうない。


 クッキーも家族で食べた。


 それでもリボンだけ、何となく捨てられずにいる。


 ひよりは指先でそれに触れた。


(今度はちゃんと言いたいな)


 颯太へ。


 あの日できなかったことを。


 今日、向こうから教室へ来てくれただけで嬉しかった。


 もっと話せるようになりたい。


 いつか自分の気持ちを伝えたい。


 その思いは今も確かに胸の中にある。


 引き出しを閉めようとしたとき、スマートフォンが震えた。


 真樹から写真がもう一枚。


 今度は暗い道を歩くノアの後ろ姿だった。


『お前によろしくって言われたから』


 ひよりは思わず笑った。


『伝えてくれたの?』


『一応』


『ありがとう』


 白いリボンを見たときとは違う温かさが胸へ広がる。


 ひよりはその違いを、まだ不思議には思わなかった。


 颯太は好きな人。


 真樹は友達。


 ノアは大好きな犬。


 今のひよりの中では、それぞれがきちんと別の場所にいる。


 ただ、真樹の場所だけが。


 最初に出会ったころより、少しずつ広くなっていた。


     ◇ ◇ ◇


 同じ夜、真樹はノアとの散歩を終えて自室へ戻っていた。


 机の上には日曜日の交流会について書かれた資料が置かれている。


 父から確認しておくよう言われたものだ。


 真樹は椅子へ座り、数ページめくったところでスマートフォンを見た。


 ひよりから最後に届いたのは、


『ノアかわいかった。また明日いっぱい撫でる』


 というメッセージだった。


(また明日、か)


 明日は金曜日。


 その次の日は、午後二時に会う。


 日曜日は交流会。


 週末の予定を頭の中で並べている自分に気づく。


 以前なら、学校と家の用事とノアの散歩くらいしか考えなかった。


 今はその中に、ごく自然にひよりがいる。


 今日だってそうだ。


 家の用事が終わったあと、そのまま帰ればよかった。


 ノアも家で待っていた。


 なのに。


『公園』


 ひよりからその二文字が届いた瞬間、会いに行くことをほとんど迷わなかった。


(友達だからって、普通そこまで行くか?)


 蓮なら。


 近くにいると言われても、用事のあとなら「また今度」で済ませる気がする。


 玲奈でも同じだ。


 では、なぜひよりには行ったのか。


 真樹は資料へ視線を戻した。


 文字が頭に入らない。


『会えてよかった』


 また思い出す。


 ひよりの笑顔まで一緒に浮かんだ。


 胸の奥が、妙に落ち着かない。


 けれど不快ではない。


 むしろ。


(……嬉しかったのか、俺)


 そこまでは認められた。


 会えてよかったと言われて、嬉しかった。


 それくらいなら、友達でもあるだろう。


 真樹はそう結論づけ、資料を読み直そうとする。


 しかし数行進んだところで、別の言葉まで思い出した。


『向こうから私の教室来てくれたんだよ』


 颯太の話をしたときのひよりは、本当に嬉しそうだった。


 真樹は無意識に眉を寄せる。


(……何でそっちまで思い出すんだよ)


 ひよりが誰を好きでも、自分には関係ない。


 そう思う。


 それでも、告白する日が近づいているのかもしれないと考えると、胸の奥が重くなる。


 もし。


 ひよりが颯太へ告白して。


 颯太が受け入れたら。


 二人は付き合う。


 当たり前のことだ。


 そうなれば、ひよりは放課後に颯太と帰ることが増えるかもしれない。


 公園へ来る回数も減る。


 メッセージだって。


 今みたいには――。


 そこまで考えたところで、真樹は手にしていた資料を机へ置いた。


(何でそこまで考えてんだ)


 まだ告白すらしていない。


 何より、自分には関係ない。


 関係ないはずなのに。


 想像しただけで面白くなかった。


 真樹は背もたれへ体を預け、天井を見る。


 ひよりに言われた言葉が頭をよぎる。


『北条君、自分で気づくの遅そうだし』


「……うるさい」


 本人はここにいない。


 それでも反射的に言い返してから、真樹は自分の額を片手で押さえた。


 部屋の外では、散歩を終えて満足したノアが廊下を歩く足音が聞こえる。


 真樹は少しして立ち上がり、扉を開けた。


「ノア」


 呼ぶと、黒い大きな体がこちらを向く。


 真樹はその頭を撫でながら、ため息をついた。


「明日も行くぞ」


 ノアの尻尾が床を叩く。


「……そんな喜ぶなよ」


 もっとも。


 明日の散歩を少し楽しみにしているのがノアだけではないことを、真樹自身も否定しきれなくなり始めていた。


 ただし、その理由へ名前をつけるには。


 まだ少しだけ、時間が必要だった。

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