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『黒犬が運んできたのは、不幸ではなく恋でした』  作者: 伊佐波瑞樹


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第74話 土曜日の台所と、君に聞いてみたい小さなこと


 土曜日の朝、天野ひよりが目を覚ましたとき、部屋の中には柔らかな陽射しが差し込んでいた。平日なら目覚まし時計の音に急かされる時間だったが、今日は学校が休みということもあり、ひよりは布団の中でしばらく窓の外を眺めていた。


 カーテンの隙間から見える空は明るく、薄い雲がゆっくりと流れている。開けていない窓の向こうからは、近所を通る車の音と、どこかで鳴いている鳥の声がかすかに聞こえてきた。


(今日は何からしようかな。借りている本も読みたいし、明日のクッキー作りの準備もしておきたいな)


 ひよりは枕元の時計を確認し、いつもより少し遅い時間になっていることに気づいた。慌てる必要はなかったが、家族はもう起きているかもしれないと思い、布団を抜け出した。


 机の隅では、茶色のぬいぐるみのくるみが、いつものように少し傾いた耳をこちらへ向けている。ひよりはその頭をそっと撫で、隣に置かれた淡い黄色のリボンが落ちていないことを確かめた。


「おはよう、くるみ。今日はお休みだから、少しのんびりできそうだね」


 声を掛けてから、ひよりは机の上へ目を向けた。そこには、水色の読書ノートと、昨日図書室から持ち帰った連作短編集が並んでいる。


 本の間から覗いているのは、木曜日に千夏と選んだ淡い青色の栞だった。小さな白い花が描かれたその栞は、昨日の図書室でも使いやすく、ひよりは改めて気に入っていた。


 ひよりは本を手に取り、栞が挟まれたページを開いた。古い商店街を舞台にした物語は、登場人物たちのささやかな日常を丁寧に描いており、読み進めるほど、その場所を実際に歩いているような気持ちになる。


 今読んでいるのは、商店街の小さな店を訪れる人たちが、昔の思い出と向き合う話だった。何気ない品物に込められた気持ちが少しずつ明らかになっていく展開に、ひよりは昨夜から続きを楽しみにしていた。


(あと少しで、このお話は読み終わりそう。でも、続きが気になるからって急いで読むのは、なんだかもったいないな)


 そう考えていると、階下から食器の触れ合う音が聞こえてきた。ひよりは本を閉じ、栞を丁寧に挟み直してから、朝の支度を始めた。


     ◇


 一階へ降りると、台所から味噌汁の香りが漂っていた。


 母の由美は朝食の準備をしており、父の浩介は食卓で新聞を広げている。休日の朝らしく、家の中には平日よりもゆったりとした空気が流れていた。


「おはよう、お母さん。何か手伝うことある?」


 ひよりが声を掛けると、由美は振り返って笑った。


「おはよう、ひより。よく眠れた? もうすぐ朝ご飯だから、お箸を並べてもらえると助かるわ」


「うん、分かった」


 ひよりは食器棚から箸を取り出し、人数分を食卓へ並べた。浩介が新聞から顔を上げ、穏やかな声で挨拶する。


「おはよう。今日はずいぶん気持ちのいい天気だね」


「おはよう、お父さん。うん、窓から見たら空がすごくきれいだったよ」


「こういう日は外へ出るのもいいけど、家でゆっくりするのも悪くないな」


 浩介はそう言って新聞を畳み、ひよりが並べた箸を見て微笑んだ。


 しばらくすると、兄の悠一も食卓へやってきた。少し眠そうな表情をしていたが、ひよりの顔を見ると、軽く手を上げた。


「おはよう。ひより、今日は何か予定あるのか?」


「おはよう、お兄ちゃん。今日は家で本を読もうかなって思ってる。あと、明日お母さんとクッキーを作るから、少し準備もしたいんだ」


「クッキーか。そういえば、昨日そんな話してたな」


 悠一は椅子へ座りながら頷いた。


「星の形とか作るんだろ? 昔、お前が作ったやつ、角が丸くなってたの覚えてるぞ」


「もう、お兄ちゃんまで覚えてるの?」


 ひよりが頬を膨らませると、悠一は楽しそうに笑った。


「そりゃ覚えてるよ。美月が『これは星じゃなくてお花みたいだね』って言って、お前がちょっと怒ってたからな」


「そんなに怒ってないもん」


「そうだったか? まあ、あれもおいしかったけどな」


 悠一の言葉に、ひよりは少し照れくさそうに笑った。子どものころのことを家族が覚えているのは恥ずかしいが、同時に嬉しくもあった。


 由美が味噌汁を運びながら、二人の会話へ加わった。


「明日は久しぶりだから、まずは基本の生地を作りましょうね。飾りつけ用のチョコレートもあるけれど、焼き上がってから考えればいいわ」


「うん。最初から難しいことをしないほうがいいよね」


 ひよりが頷くと、由美は満足そうに微笑んだ。


「そうね。大切なのは、楽しく作ることよ」


 朝食が始まると、食卓にはいつものように穏やかな会話が広がった。ひよりは味噌汁を一口飲みながら、明日の午後が少し楽しみになっていることを感じていた。


 家族と一緒に何かを作る時間は、久しぶりだった。


 以前なら、休日には一人で本を読んでいることが多かった。もちろん、それも大好きな時間だったが、最近は誰かと一緒に過ごす予定を考えることも楽しくなっている。


 ひよりはその変化を、まだ特別なことだとは思っていなかった。


 ただ、毎日の中に小さな楽しみが増えていることが、嬉しかった。


     ◇


 朝食のあと、ひよりは由美と一緒に台所の棚を確認することにした。


 明日のクッキー作りに必要な材料は、先週の日曜日に買ってある。けれど、実際に使う前に量を確かめておけば、途中で慌てずに済むだろう。


 由美は棚から薄力粉や砂糖を取り出し、ひよりは冷蔵庫の中にあるバターと卵を確認した。


「お母さん、薄力粉はこれで足りるかな?」


「そうね。今回はたくさん作りすぎない予定だから、それだけあれば十分だと思うわ」


 由美は袋の表示を確かめながら答えた。


「でも、全部使うわけじゃないから、明日ちゃんと量ってから混ぜましょうね」


「うん。計量って大事だもんね」


 ひよりは頷き、材料を一つずつ確認していった。


 台所の窓からは明るい光が差し込み、棚の上に置かれたガラス瓶が小さく輝いている。由美が引き出しを開けると、以前見つけた星と花の抜き型が、きれいに洗われた状態で入っていた。


「あ、これだね」


 ひよりは嬉しそうに型を手に取った。


 星の型は少し大きめで、花の型は丸みのある形をしている。どちらも子どものころに使ったものだった。


「懐かしいな。これで美月お姉ちゃんと一緒に作ったんだよね」


「そうよ。美月は花の形が好きで、ひよりは星をたくさん作りたがっていたわ」


 由美は穏やかに答えた。


 ひよりは星の型を指先でなぞりながら、昔のことを思い返した。


 姉と並んで台所に立ったこと。


 生地が手にくっついて困ったこと。


 焼き上がるまでオーブンの前を何度も覗いて、母に注意されたこと。


 細かなことは曖昧になっているが、あのときの楽しさだけは、今でも覚えている。


「……明日も、楽しく作れたらいいな」


 ひよりが小さく言うと、由美は優しく笑った。


「きっと楽しいわよ。久しぶりに一緒に作れるんだもの」


 ひよりはその言葉に頷いた。


 材料の確認を終えると、二人は使わないものを棚へ戻した。明日すぐに準備できるよう、抜き型と計量用の道具だけを分かりやすい場所へまとめておく。


 その作業をしながら、ひよりはふと、先週の買い物で選んだ飾りつけ用のチョコレートを思い出した。


「お母さん、焼き上がったクッキーにチョコレートで模様を描いてもいいかな?」


「もちろん。でも、焼きたては熱いから、ちゃんと冷ましてからにしましょうね」


「うん。星の真ん中に小さな点を描いたり、お花の形に線を入れたりしてみたいな」


 ひよりが楽しそうに話すと、由美は少し考えた。


「それなら、最初に何枚かは何も飾らずに残しておくといいかもしれないわね。焼きたての味も楽しめるし、飾りつけの練習にもなるでしょう?」


「そっか。全部同じにしなくてもいいんだね」


 ひよりは嬉しそうに頷いた。


 まだ作っていないクッキーの形を想像するだけで、心が弾んでくる。


 由美はそんな娘の様子を見ながら、静かに微笑んでいた。


     ◇


 午前中の家事が一段落すると、ひよりは自室へ戻った。


 机の上には、読みかけの短編集が置かれている。ひよりは椅子へ座り、窓から差し込む光の向きを確かめてから、本を開いた。


 今日読んでいる物語には、商店街の小さな時計店が登場する。


 古い時計を修理している店主のもとへ、長い間使われていなかった腕時計が持ち込まれる。依頼した人は、その時計を直しても、もう身につけるつもりはないという。


 それでも修理を頼んだ理由が、物語の中で少しずつ明らかになっていく。


 ひよりはページをめくる手を緩め、文章を丁寧に追った。


 時計は、昔その人が大切な誰かから贈られたものだった。


 もう使わなくなっても、動かなくなっても、手放すことはできなかった。


 けれど、止まったままの時計を見るたびに、思い出まで止まってしまったような気持ちになる。


 だから、もう一度動かしてほしかったのだ。


 ひよりはその場面を読みながら、机の隅に座るくるみへ目を向けた。


 くるみも、長い間一緒に過ごしてきたぬいぐるみだ。


 新しいものと比べれば、色も少し褪せているし、耳も傾いている。


 けれど、ひよりにとっては、ほかのどんなぬいぐるみとも取り替えられない存在だった。


(大切なものって、使えるかどうかだけじゃ決まらないんだよね。そこに思い出があるから、ずっとそばに置いておきたくなることもあるんだ)


 ひよりはそんなことを考えながら、再び本へ目を落とした。


 物語の終盤、修理を終えた時計を受け取った人物は、すぐに腕へつけるわけではなかった。


 ただ、動き始めた秒針を静かに見つめる。


 その場面には、大きな出来事も劇的な言葉もない。


 けれど、ひよりはその静かな描写が好きだった。


 失われた時間が戻るわけではない。


 過去の出来事を変えることもできない。


 それでも、これからの時間は動いていく。


 ひよりは最後のページまで読み終えると、しばらく本を閉じずにいた。


 窓の外では風が木の枝を揺らし、部屋の中には時計の針が進む音が小さく響いている。


 ひよりはその音に耳を傾けながら、物語の余韻を味わった。


 それから、水色の読書ノートを開いた。


 すぐに文章を書き始めるのではなく、まずは自分がどの場面を大切に感じたのかを考える。


 止まった時計。


 修理を頼んだ理由。


 もう一度動き始めた秒針。


 その一つ一つを思い返してから、ひよりはペンを持った。


『大切な思い出は、過去の中だけにあるわけではないのかもしれない。昔のことを覚えているからこそ、今の時間を大切にしたいと思うこともある。止まっていたものがもう一度動き始める場面が、とても静かで、優しかった。』


 書き終えると、ひよりは少しだけ満足そうに頷いた。


 自分の気持ちを、急がずに言葉へする。


 以前は難しいと思っていたことが、最近は少しずつ楽しくなっている。


 ひよりはノートを閉じ、もう一度本の表紙へ目を向けた。


 古い商店街を描いたその表紙には、夕暮れの光が落ちている。


 まだ読み終わっていない話が残っている。


 ひよりは栞を次のページへ挟み、昼食の時間まで少し休憩することにした。


     ◇


 昼前、ひよりが台所へ降りると、由美が野菜を切っていた。


 昼食には温かいうどんを作る予定らしく、鍋からは出汁の香りが漂っている。


「お母さん、何か手伝おうか?」


 ひよりが声を掛けると、由美は笑顔で振り返った。


「ありがとう。それじゃあ、ねぎを小皿へ移してもらえる?」


「うん」


 ひよりは手を洗い、切り終えたねぎを小皿へ移した。


 台所の窓から差し込む光は朝よりも高い位置へ移り、床にできた影が少し短くなっている。


 由美は鍋の火加減を確かめながら、ひよりへ尋ねた。


「午前中は本を読んでいたの?」


「うん。図書室で借りてる短編集の続きを読んでたんだ。今日は時計のお話を読んだよ」


「時計?」


「古い時計を修理するお話なの。使わなくなった時計なんだけど、持ち主にとってはすごく大切な思い出があるんだよ」


 ひよりは楽しそうに説明した。


 由美は手を止めずに耳を傾け、穏やかに頷いた。


「そういうものって、あるわよね。使うためだけじゃなくて、持っていることに意味があるもの」


「うん。私、くるみのことを思い出しちゃった」


 ひよりがそう言うと、由美は少し懐かしそうに笑った。


「あの子も、ずいぶん長くひよりのそばにいるものね」


「うん。美月お姉ちゃんが直してくれたところも、今は大切な思い出になってるんだ」


 ひよりは少し照れくさそうに笑った。


 由美はその表情を見ながら、優しく頷いた。


「そうね。直した跡が残っているのも、悪いことばかりじゃないわ。そこに誰かが大切にしてくれた時間があるんだから」


 ひよりはその言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 自分が本を読んで考えたことを、母が別の言葉で受け止めてくれる。


 その時間が、ひよりには嬉しかった。


「お母さんも、そういう大切なものってある?」


 ひよりが尋ねると、由美は少し考えた。


「そうね……たくさんあるけれど、家族の写真なんかは特にそうかしら。撮ったときは何気ない一日でも、あとから見ると、そのころの声まで思い出すことがあるのよ」


「写真かあ……」


 ひよりは頷いた。


 家族の写真は、以前から少しずつ整理している途中だった。


 まだ全部を見終えたわけではない。


 けれど、昔の写真を見るたびに、自分が覚えていなかった出来事を家族が話してくれることがある。


「今度、また写真の整理をしたいな」


 ひよりがそう言うと、由美は嬉しそうに笑った。


「いいわね。時間があるときに、少しずつ進めましょう」


 ひよりは頷き、うどんの準備を手伝った。


 鍋から立ち上る湯気が、窓から差し込む光の中でゆっくりと揺れていた。


     ◇


 同じころ、北条真樹は自宅の庭でノアと過ごしていた。


 空は明るく、風も穏やかだった。庭の木々は小さく葉を揺らし、芝生の上には柔らかな陽射しが広がっている。


 ノアは真樹の足元で嬉しそうに尻尾を振り、遊んでもらえるのを待っていた。


「よし、ノア。少し遊ぼうか」


 真樹が声を掛けると、ノアはすぐに顔を上げた。


 真樹は庭に置いてある犬用のおもちゃを手に取り、少し離れた場所へ投げた。


 ノアは勢いよく駆け出し、芝生の上を軽やかに走っていく。


 大きな黒い身体が陽射しを受け、毛並みがつややかに輝いていた。


 おもちゃをくわえて戻ってきたノアを見て、真樹は笑顔になった。


「よくできたな。もう一回やるか?」


 ノアは嬉しそうに尻尾を振った。


 真樹はその様子を見ながら、昨日見つけた子犬時代の写真を思い出した。


 今では大きく成長したノアも、昔は腕の中に収まるほど小さかった。


 初めて家へやってきた日のこと。


 慣れない場所で少し不安そうにしていたこと。


 それでも、真樹がそばにいると、少しずつ落ち着いてくれたこと。


 そうした記憶は、今でも鮮明に残っている。


(……天野に写真を見せたら、どんな顔をするかな)


 真樹はそんなことを考えながら、ノアの頭を撫でた。


 ひよりはノアのことを、とてもかわいがってくれる。


 大きな身体を怖がることなく、優しく声を掛け、ノアの様子をよく見てくれる。


 ノアもまた、ひよりに会うと嬉しそうにしている。


 その姿を見るたびに、真樹は自然と笑顔になった。


 来週の土曜日には、ひよりとノアと一緒に公園を歩く予定だ。


 日にちは決まっているが、時間や待ち合わせ場所については、まだ相談している途中だった。


 真樹は無理のない予定にしたいと考えていた。


 ひよりが安心して来られる場所。


 ノアも落ち着いて歩ける時間帯。


 そして、帰りが遅くならないようにできること。


 そうしたことを一つずつ確認してから、予定を決めたいと思っている。


「ノア、来週は天野と一緒に散歩できるぞ」


 真樹が話しかけると、ノアは名前を聞き取ったのか、嬉しそうに耳を動かした。


 真樹はその反応に笑った。


「お前も楽しみなんだな」


 ノアは返事をするように尻尾を振り、真樹の手へ鼻先を寄せた。


 真樹はその頭を撫でながら、穏やかな午後を過ごした。


     ◇


 午後になり、ひよりは再び自室で本を読んでいた。


 昼食のあとに少し休憩し、窓を開けて部屋の空気を入れ替えると、外から涼しい風が入ってきた。


 机の上には水色の読書ノートが開かれ、その隣に短編集が置かれている。


 ひよりは次の物語を読み始めていた。


 今度は、商店街の小さな文房具店が舞台になっている。


 長く店を続けてきた店主と、久しぶりに訪れた客の会話が、ゆっくりと描かれていた。


 ひよりはその文章を読みながら、昨日海斗と話したことを思い出した。


 同じ本を読んでも、人によって印象に残るところは違う。


 海斗は物語の中にある言葉の意味を丁寧に考えることが多く、ひよりは登場人物が大切にしているものや、そこに込められた気持ちへ目を向けることが多い。


 その違いを知ることが、ひよりには楽しかった。


(橘君なら、このお話のどこが気になるんだろう。文房具店の店主の言葉かな。それとも、久しぶりに来たお客さんの気持ちかな)


 ひよりはそんなことを考えながら、ページをめくった。


 文房具店の物語には、古い万年筆が登場する。


 以前読んだ別の話にも、万年筆が大切な品物として描かれていた。


 ひよりはそのつながりに気づき、少し嬉しくなった。


 連作短編の面白さは、こういうところにもある。


 一つの話だけでも楽しめるが、別の話を読むことで、以前の出来事が違う意味を持つことがある。


 ひよりは読書ノートへ短く印をつけ、続きを読み進めた。


 物語の中では、店主が客へ昔の話をしていた。


 長い間店を続けていると、同じ商品を買いに来る人でも、そのときによって表情が違う。


 嬉しそうな日もあれば、疲れた顔をしている日もある。


 けれど、店主は必要以上に事情を聞こうとはしない。


 ただ、その人が欲しいものを一緒に探す。


 ひよりはその姿勢に、静かな優しさを感じた。


(相手のことを知りたいと思うのと、何でも聞いていいと思うのは、違うんだよね)


 ひよりはそう考え、少しだけ本を閉じた。


 最近、真樹と話す機会が増えている。


 ノアのこと、本のこと、休日のこと。


 少しずつ知っていることは増えているが、まだ知らないこともたくさんある。


 真樹が普段どんな本を読んでいるのか。


 学校ではどんな時間を過ごしているのか。


 子どものころ、ノアとどんなふうに遊んでいたのか。


 そうしたことを、もっと聞いてみたいと思う。


 けれど、無理に聞き出したいわけではなかった。


 相手が話したいと思ったときに、自然に聞けたら嬉しい。


 ひよりはそんな気持ちを抱きながら、再び本を開いた。


     ◇


 夕方近くになると、ひよりのスマートフォンへ千夏からメッセージが届いた。


『ひより、こんにちは! 今日は何してる? 私は昨日買った小物入れを使って、机の上をもう少し整理してたよ』


 ひよりは画面を見て、嬉しそうに笑った。


『こんにちは、千夏! 私は家で本を読んでたよ。昨日買った栞、今日も使ってるんだ。机の整理、順調?』


 しばらくすると、千夏から返事が届いた。


『うん! 思ってたより使いやすいよ。今まで机の上で迷子になってたものが、ちゃんと見つかるようになった!』


 ひよりはその文章を読み、思わず笑ってしまった。


 千夏らしい明るい言い方だった。


『よかったね。白いお花も元気?』


『元気だよ! 朝、カーテンを開けたらすごくきれいだった。買ってよかったなって思ってる』


 ひよりはその返事に頷いた。


 昨日の買い物で選んだものが、今日も千夏の生活の中で役立っている。


 それを聞けることが、嬉しかった。


 ひよりは少し考え、今朝母と確認したことを伝えた。


『そういえば、明日はお母さんとクッキーを作る予定なんだ。星とお花の型を使うんだよ』


 千夏からは、すぐに楽しそうな返事が届いた。


『いいなあ! 絶対かわいいじゃん! できたら写真見せてね!』


『うん。ちゃんとできたら送るね』


 ひよりはそう返し、スマートフォンを机へ置いた。


 千夏と話していると、何気ないことも楽しく感じられる。


 同じ学校へ通い、毎日のように顔を合わせているのに、休日にもこうして話したいことがある。


 ひよりはそのことを嬉しく思った。


 そして、ふと真樹のことを思い出した。


 来週の土曜日の予定について、そろそろ時間を相談してもいいかもしれない。


 けれど、今日はまだ土曜日だ。


 急いで決める必要はない。


 ひよりは少し考えたあと、まずは明日のクッキー作りを楽しみにしようと思った。


     ◇


 真樹が自室へ戻ったのは、ノアとの散歩を終えたあとだった。


 窓の外では夕陽が少しずつ傾き、庭の木々が長い影を落としている。


 真樹は手を洗い、机の上へスマートフォンを置いた。


 昨日ひよりから送られてきた図書室の展示写真が、まだ保存されている。


 真樹はその写真を開き、紹介文をもう一度眺めた。


 ひよりが大切にしている本。


 その本について、彼女が選んだ言葉。


 写真を見るだけで、昨日のやり取りが思い出される。


 真樹は穏やかに笑った。


 そのとき、机の引き出しにしまっておいた封筒が目に入った。


 昨日選んだ、ノアの子犬時代の写真が入っている。


 真樹は封筒を取り出し、中身をもう一度確認した。


 写真には、まだ小さかったノアが写っていた。


 今では大きく成長した身体も、当時は真樹の膝の上に収まるほどだった。


 真樹は写真を見ながら、懐かしい気持ちになった。


(天野、きっと驚くだろうな。今のノアしか知らなかったら、こんなに小さかったなんて想像しにくいかもしれない)


 真樹はそう考え、少しだけ笑った。


 写真を封筒へ戻すと、スマートフォンへ目を向けた。


 ひよりへ何かメッセージを送ろうかと思ったが、すぐには文章を打たなかった。


 今日は休日だ。


 ひよりも家族と過ごしたり、本を読んだりしているかもしれない。


 特に用事があるわけではないのに、何度も連絡してしまうのはどうだろう。


 真樹は少し考えた。


 けれど、ひよりと話したいと思うこと自体は、悪いことではない。


 相手の時間を大切にしながら、自然に言葉を交わせばいい。


 真樹はそう思い、短いメッセージを送ることにした。


『天野、こんにちは。今日はゆっくりできてる? 俺はノアと散歩してきたところだよ。天気がよくて、気持ちよかった』


 送信したあと、真樹はスマートフォンを机へ置いた。


 返事はいつでもいい。


 そう思いながら、封筒を引き出しへ戻した。


     ◇


 ひよりが真樹からのメッセージに気づいたのは、夕食の少し前だった。


 読んでいた本を閉じ、机の上を片づけようとしたとき、スマートフォンの画面が明るくなった。


 ひよりはメッセージを開き、自然と笑顔になった。


『天野、こんにちは。今日はゆっくりできてる? 俺はノアと散歩してきたところだよ。天気がよくて、気持ちよかった』


 ひよりは窓の外へ目を向けた。


 空は夕方の色へ変わり始めているが、まだ明るさが残っている。


 今日は一日を通して、穏やかな天気だった。


(ノア、お散歩楽しかったんだろうな。北条君も、きっと気持ちよかったんだろうね)


 ひよりはそう思いながら、返信を打ち始めた。


『こんにちは、北条君! 今日は家で本を読んだり、明日のクッキー作りの準備をしたりしてたよ。ノアとお散歩だったんだね。今日は本当にいい天気だったね!』


 送信すると、しばらくして真樹から返事が届いた。


『クッキー作りの準備? 明日作る予定なの?』


 ひよりは嬉しくなり、頷いた。


『うん! お母さんと一緒に作るんだ。昔使ってた星とお花の型を使う予定なの。久しぶりだから、ちゃんとできるか少し心配だけど』


 真樹からは、少し間を置いて返事が届いた。


『楽しそうだね。天野なら、きっと丁寧に作るんだろうな。形が少し違っても、手作りならそれも思い出になると思うよ』


 ひよりはその文章を読み、思わず笑った。


 今朝、家族からも似たようなことを言われていた。


 上手に作ることだけが大切なのではない。


 楽しみながら作る時間も、思い出になる。


 真樹も同じように考えてくれていることが、嬉しかった。


『ありがとう! お父さんもお兄ちゃんも、昔作ったクッキーの形を覚えてて、ちょっと恥ずかしかったんだ。でも、そういうのも思い出だよね』


 真樹からは、笑顔の絵文字と一緒に返事が届いた。


『そうだね。家族で覚えてることがあるのって、いいなと思う。俺もノアが小さかったころのこと、写真を見るといろいろ思い出すよ』


 ひよりはその文章を読み、胸が少し弾んだ。


 ノアの子犬時代。


 以前から気になっていた話題だった。


『そういえば、ノアが小さかったころの写真、見つかった?』


 ひよりが尋ねると、真樹からすぐに返事が届いた。


『うん。昨日、何枚か見つけたよ。来週の土曜日に持っていこうと思ってる』


 ひよりは嬉しくなり、思わず小さく声を上げた。


「わあ……!」


 机の上に置かれたくるみが、いつもの表情でこちらを見ている。


 ひよりは少し照れくさそうに笑い、返信を打った。


『本当? すごく楽しみ! 今のノアもかわいいけど、小さかったころのノアも見てみたいな』


 真樹からは、穏やかな返事が届いた。


『きっと驚くと思うよ。今とは全然大きさが違うから』


 ひよりはその文章を読み、自然と笑顔になった。


 来週の土曜日が、ますます楽しみになってきた。


     ◇


 しばらくメッセージを交わしたあと、ひよりはふと、今日読んだ本のことを思い出した。


 古い時計の話。


 文房具店の話。


 どちらも、大切なものや思い出について描かれていた。


 真樹なら、こういう話をどう感じるのだろう。


 ひよりは少し考え、メッセージを打った。


『北条君、今日読んだ本に、古い時計を修理するお話があったんだ。使わなくなったものでも、大切な思い出があるから手放せないっていうお話でね。ノアの昔の首輪のことを少し思い出したよ』


 真樹はその文章を読み、少しだけ驚いた。


 ひよりが自分の話を覚えていてくれたこと。


 そして、読んだ本の内容と結びつけて考えてくれたこと。


 そのどちらもが、嬉しかった。


『そうなんだ。確かに、ノアの昔の首輪も、今は使えないけど大切なものだよ。あのころのことを思い出せるから、ずっと取ってあるんだと思う』


 ひよりはその返事を読み、静かに頷いた。


『うん。私も、くるみっていう昔から持ってるぬいぐるみがあるんだ。古くなってるけど、ずっと大切にしてるの』


 真樹はその文章を読み、穏やかに笑った。


『くるみっていう名前なんだね。どんなぬいぐるみなの?』


 ひよりは少し考えたあと、机の隅へ目を向けた。


 茶色の身体。


 少し傾いた耳。


 くるみの実に似た鼻。


 姉が直してくれた縫い目。


 ひよりはその姿を見ながら、ゆっくりと文章を打った。


『茶色のぬいぐるみで、耳が少し傾いてるんだ。鼻がくるみみたいな形だから、くるみって名前にしたの。昔、美月お姉ちゃんが破れたところを直してくれたこともあるんだよ』


 真樹はその説明を読み、くるみの姿を想像した。


 ひよりが長い間大切にしているぬいぐるみ。


 きっと、彼女にとって特別な存在なのだろう。


『素敵だね。お姉さんが直してくれたところも、大切な思い出になってるんだろうな』


 ひよりはその言葉に、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 自分が大切にしているものを、真樹が自然に大切だと言ってくれる。


 そのことが、嬉しかった。


『うん。だから、今でもずっと机の上に置いてるんだ』


 ひよりはそう返し、少しだけ考えた。


 真樹は、ほかにも大切にしているものがあるのだろうか。


 ノアの写真や首輪だけでなく、昔から持っているものや、思い出の品があるのかもしれない。


 けれど、今すぐ何でも聞こうとは思わなかった。


 少しずつ話していく中で、自然に知ることができたら嬉しい。


 ひよりはそう思い、スマートフォンを机へ置いた。


     ◇


 夕食の時間になると、天野家の食卓には温かな料理が並んだ。


 ひよりは家族と一緒に食事をしながら、今日読んだ本の話を少しだけした。


 古い時計の物語について話すと、浩介は興味深そうに耳を傾けていた。


「時計か。そういえば、昔使っていた腕時計がどこかにしまってあったな」


 浩介がそう言うと、悠一が顔を上げた。


「お父さん、前に使ってたやつ? 革のベルトがついてた時計?」


「そうそう。もう長いこと使ってないけど、捨てずに取ってあるんだ」


 浩介は懐かしそうに笑った。


 ひよりはその話に興味を持った。


「どうして取ってあるの?」


「昔、仕事を始めたころに買った時計だからね。今となっては使う機会もないけど、あのころのことを思い出すんだよ」


 浩介は穏やかに答えた。


 ひよりは静かに頷いた。


 今日読んだ物語と、少し似ている。


 けれど、父にとっての時計には、父だけの思い出がある。


 ひよりはそのことを嬉しく感じた。


「今度、見せてもらってもいい?」


 ひよりが尋ねると、浩介は笑顔で頷いた。


「もちろん。どこにしまったか確認しておくよ」


 由美はその会話を聞きながら、穏やかに微笑んでいた。


 ひよりが本の話を家族へするようになったことで、昔の思い出を話す機会も増えている。


 それは、由美にとっても嬉しい変化だった。


 夕食を終えるころには、窓の外はすっかり暗くなっていた。


 ひよりは食器を片づけながら、明日のクッキー作りのことをもう一度確認した。


「お母さん、明日は午後からでいいんだよね?」


「ええ。午前中にほかの用事を済ませて、午後からゆっくり作りましょう」


「うん。楽しみにしてるね」


 ひよりは笑顔で答えた。


     ◇


 夜、ひよりは自室へ戻り、水色の読書ノートを開いた。


 今日読んだ本の感想は、すでに午前中に書いている。


 けれど、夕方に真樹と話したことで、もう少し書き足したいことができていた。


 ひよりはペンを持ち、少し考えた。


 ノアの昔の首輪。


 くるみの縫い目。


 父の古い腕時計。


 それぞれ違うものだが、誰かにとって大切な思い出がある。


 そして、その思い出を話すことで、今まで知らなかった相手の一面を知ることができる。


 ひよりはゆっくりと文章を書き始めた。


『大切なものについて話すと、その人が過ごしてきた時間を少しだけ知ることができる。物そのものだけではなく、そこにある思い出や、誰かが大切にしてきた気持ちも、一緒に受け取れるのかもしれない。』


 書き終えると、ひよりはペンを置いた。


 今日の出来事を思い返す。


 母とクッキーの準備をしたこと。


 本を読んで、古い時計の物語に心を動かされたこと。


 千夏とメッセージを交わしたこと。


 真樹と、ノアやくるみの話をしたこと。


 どれも大きな出来事ではない。


 けれど、ひよりにとっては大切な一日だった。


 ひよりはノートを閉じ、机の隅に座るくるみへ目を向けた。


「ねえ、くるみ。今日、北条君にあなたのことを話したんだよ」


 ひよりはくるみの頭をそっと撫でた。


「大切にしてるって言ったら、素敵だねって言ってくれたの。なんだか、すごく嬉しかったな」


 くるみはいつもと変わらない表情で座っている。


 ひよりはその姿を見て、優しく笑った。


 真樹は、ひよりが大切にしているものを、自然に大切だと言ってくれる。


 それは、ひよりにとって心地よいことだった。


 無理に何かを説明しなくても、少しずつ分かってもらえる。


 そんな安心感が、真樹と話す時間にはあった。


 ひよりはベッドへ腰を下ろし、スマートフォンを確認した。


 真樹から、最後のメッセージが届いていた。


『天野、今日は話せて楽しかったよ。明日のクッキー作り、楽しんでね。おやすみ』


 ひよりはその文章を読み、自然と笑顔になった。


『ありがとう、北条君。私も楽しかったよ。明日は楽しんで作ってみるね。おやすみなさい!』


 返信を送ると、ひよりはスマートフォンを枕元へ置いた。


 窓の外には静かな夜が広がっている。


 明日は日曜日。


 母と一緒にクッキーを作る予定だ。


 来週の土曜日には、真樹とノアと公園を歩く。


 楽しみにしていることが、少しずつ近づいてくる。


 ひよりは布団へ入り、ゆっくりと目を閉じた。


 今日、真樹へくるみの話をしたことを思い出す。


 今度会ったときには、ノアの子犬時代の写真を見せてもらえるかもしれない。


 そのとき、真樹がどんな顔で昔の話をするのか、ひよりは少し楽しみだった。


(北条君のこと、まだ知らないことがたくさんあるんだよね。でも、こうして少しずつ知っていけたらいいな)


 そんな思いを胸に、ひよりは穏やかな眠りへ落ちていった。


 机の上では、水色の読書ノートが閉じられ、その隣に置かれた短編集から、淡い青色の栞が少しだけ覗いている。


 土曜日の夜は、静かに更けていった。


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