第75話 日曜日の甘い香りと、まだ伝えていない小さな願い
日曜日の朝、天野ひよりが目を覚ましたとき、窓の外には薄い雲が広がっていた。昨日のような澄んだ青空ではなかったものの、雲の隙間からは柔らかな陽射しが差し込み、カーテンの向こうに穏やかな朝の気配を感じることができた。
ひよりは枕元の時計を確認し、布団の中で小さく伸びをした。今日は学校が休みで、午後には母の由美と一緒にクッキーを作る予定になっている。
(いよいよ今日だ。ちゃんと作れるかな。でも、お母さんと一緒だから、きっと大丈夫だよね)
昨夜、真樹にもクッキー作りのことを話していた。楽しんで作ってね、と言ってくれた彼の言葉を思い出すと、ひよりは自然と笑顔になった。
ベッドから起き上がり、机の隅に座っている茶色のぬいぐるみへ目を向ける。少し傾いた耳と、くるみの実に似た鼻を持つそのぬいぐるみは、今日も変わらない表情でひよりを見つめていた。
「おはよう、くるみ。今日はクッキーを作るんだよ。久しぶりだから、ちょっと緊張するね」
ひよりはくるみの頭をそっと撫で、姉の美月が直してくれた縫い目へ指先を近づけた。隣に置かれた淡い黄色のリボンは、昨日と同じ場所にきちんと収まっている。
昨日、真樹へくるみのことを話した。
昔から大切にしているぬいぐるみだと伝えると、真樹は素敵だねと言ってくれた。その言葉は短かったけれど、ひよりにとっては嬉しいものだった。
自分が大切にしているものを、誰かにも大切に思ってもらえる。
それは、思っていた以上に温かいことなのかもしれない。
ひよりはそんなことを考えながら、机の上へ目を向けた。
そこには、水色の読書ノートと、学校の図書室で借りている連作短編集が置かれている。本の間からは、木曜日に千夏と選んだ淡い青色の栞が少しだけ覗いていた。
昨日は古い時計の物語と、文房具店を舞台にした物語を読んだ。どちらも、誰かが大切にしてきたものについて描かれており、ひよりの心に静かな余韻を残している。
(今日も少し読みたいけど、まずは朝の支度をしよう。午後はクッキー作りだし、午前中にできることを済ませておかないと)
ひよりは本を手に取って栞の位置を確かめると、丁寧に机へ戻した。
窓の外では、雲の間から差し込む光が少しずつ明るくなっていた。
◇
一階へ降りると、台所から味噌汁の香りが漂っていた。
母の由美は朝食の準備をしており、父の浩介は食卓で新聞を広げている。休日の朝らしく、家の中には平日よりもゆったりとした空気が流れていた。
「おはよう、お母さん。今日はクッキーの日だね」
ひよりが笑顔で声を掛けると、由美は振り返って微笑んだ。
「おはよう、ひより。そうね。午後から一緒に作りましょう。昨日、材料も確認できたし、準備は大丈夫そうよ」
「うん。楽しみだな。何か手伝うことある?」
「それじゃあ、お箸を並べてもらえる? もうすぐ朝ご飯だから」
ひよりは頷き、食器棚から箸を取り出した。
食卓へ並べていると、浩介が新聞から顔を上げた。
「おはよう、ひより。今日はお菓子作りだったね」
「おはよう、お父さん。うん。星とお花の型を使う予定なんだ」
「それは楽しみだな。昔みたいに、いろんな形のクッキーができるかもしれないね」
浩介は楽しそうに笑った。
ひよりは少しだけ頬を膨らませた。
「もう、お父さん。昨日もその話してたよ」
「ははは。ごめんごめん。でも、あれは本当にいい思い出なんだよ」
浩介の言葉に、ひよりは照れくさそうに笑った。
しばらくすると、兄の悠一も食卓へやってきた。眠そうに目をこすりながら椅子へ座ると、ひよりへ軽く手を上げる。
「おはよう。今日、クッキー作るんだろ?」
「おはよう、お兄ちゃん。うん。午後から作るよ」
「じゃあ、俺も楽しみにしてるかな。味見係くらいならできるぞ」
悠一が冗談めかして言うと、由美が笑った。
「味見だけじゃなくて、あとで片づけも手伝ってくれると助かるわね」
「……あ、そっちもあるのか」
「もちろんよ。食べるだけじゃなくて、作る人のことも考えないとね」
由美が穏やかに答えると、悠一は苦笑した。
「分かったよ。手が空いてたら手伝う」
そのやり取りを聞いて、ひよりは思わず笑ってしまった。
家族と過ごす休日の朝。
特別な出来事があるわけではないけれど、こうして笑い合える時間が、ひよりには心地よかった。
朝食が始まると、由美は午後の予定について話した。
「今日はお昼を食べて、少し休んでから始めましょう。生地を作って、冷蔵庫で休ませて、それから型抜きして焼くから、思っているより時間が掛かるかもしれないわ」
「うん。急がずに作ろうね」
ひよりが頷くと、由美は満足そうに微笑んだ。
「そうね。せっかくだから、楽しく作りましょう」
◇
朝食のあと、ひよりは自室へ戻り、学校の課題を確認した。
週末に済ませておきたいことは、昨日のうちにある程度進めていた。残っているものも多くはなかったため、ひよりは机へ向かい、静かな部屋の中でノートを開いた。
窓の外では雲がゆっくりと流れ、時折差し込む陽射しが机の上を明るく照らしている。
ひよりは課題を一つずつ進めながら、午後のクッキー作りのことを考えていた。
久しぶりに母と一緒に台所へ立つ。
子どものころは、姉の美月も一緒だった。
生地を伸ばすときに力を入れすぎてしまったこと。
型を抜いたあと、余った生地をどうすればいいのか分からなくなったこと。
焼き上がるまで何度もオーブンを覗いて、母に笑われたこと。
そうした記憶が、少しずつ蘇ってくる。
(あのころは、早く食べたくて仕方なかったんだよね。今は、作る時間も楽しみだなって思えるけど)
ひよりは小さく笑い、再びノートへ目を落とした。
課題を終えたころには、午前中も半ばを過ぎていた。
ひよりは机の上を片づけ、読みかけの短編集を手に取った。
今日は少しだけ続きを読もうと思っていた。
古い商店街を舞台にした連作短編集は、残りの話が少なくなっている。返却期限まではまだ余裕があるが、読み終えたら感想を読書ノートへまとめてから返したいと考えていた。
ひよりは栞を抜き、ページを開いた。
次の物語には、小さな花屋が登場する。
商店街の一角で長く店を続けている女性と、毎年同じ季節に花を買いに来る客の話だった。
ひよりは文章を読み進めながら、木曜日に千夏と一緒に雑貨店で見た小さな花を思い出した。
千夏は白い花を選び、机の上へ飾った。
その写真を送ってくれたとき、とても嬉しそうだった。
(千夏のお花、今日も元気かな。あの花も、毎日見ているうちに大切なものになっていくのかもしれないね)
ひよりはそんなことを考えながら、ページをめくった。
物語の中で、花屋の女性は客へ尋ねる。
どうして毎年、同じ季節に同じ花を買うのか。
客は少し考えたあと、昔、大切な人と一緒にその花を見たことがあるのだと答える。
ひよりはその場面で、ページをめくる手を止めた。
花そのものが特別なのではなく、その花を見たときの時間が特別だった。
だから、同じ花を見るたびに、あの日のことを思い出す。
ひよりはその気持ちが、少し分かるような気がした。
自分にも、何かを見るたびに思い出す人や時間がある。
例えば、黒い犬を見かけると、ノアのことを思い出す。
そして、ノアのことを考えると、自然と真樹の顔が浮かんでくる。
(……あれ?)
ひよりはそこで、少しだけ首を傾げた。
ノアと真樹は、いつも一緒にいる。
だから、片方を思い出せば、もう片方も思い出す。
それは当たり前のことのように感じる。
けれど、最近はノアの話をしていないときでも、真樹のことを考えることが増えていた。
昨日読んだ本の感想を話したいと思ったとき。
図書室の紹介文が展示されたとき。
木曜日に買った栞を見せたいと思ったとき。
そうした小さな出来事の中で、真樹の名前が自然に浮かんでくる。
(北条君、本の話をちゃんと聞いてくれるからかな。それに、いつも優しく返してくれるし……)
ひよりはそう考え、少しだけ頬を緩めた。
それ以上深く考えることはせず、再び本へ目を落とした。
花屋の物語は、静かな余韻を残して終わった。
ひよりは本を閉じ、読書ノートを開いた。
『同じ花を毎年見ることで、大切な時間を思い出す人がいる。何かを好きになる理由には、そのもの自体の魅力だけでなく、一緒に過ごした人や、そのときの気持ちが関係しているのかもしれない。』
書き終えると、ひよりはペンを置いた。
自分が何を好きなのか。
どうして好きなのか。
そんなことを考えるのも、読書の楽しさの一つだった。
◇
昼食を終えると、ひよりは由美と一緒に台所へ立った。
窓から差し込む午後の光が調理台を照らし、棚の上に置かれたガラス瓶が小さく輝いている。
由美はエプロンを身につけ、ひよりにも用意しておいたエプロンを渡した。
「はい、ひより。久しぶりだから、まずは材料を量るところから始めましょう」
「うん。よろしくお願いします!」
ひよりが少し改まった声で答えると、由美は楽しそうに笑った。
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ。失敗しても、次にどうすればいいか一緒に考えればいいんだから」
「うん。でも、せっかくだからおいしく作りたいな」
「その気持ちは大事ね。じゃあ、まずは手を洗って、材料を並べましょう」
二人は手を洗い、調理台へ必要なものを揃えた。
薄力粉、砂糖、バター、卵。
そして、先週買っておいた飾りつけ用のチョコレート。
ひよりは材料を一つずつ確認しながら、由美の説明へ耳を傾けた。
「最初にバターを柔らかくして、砂糖と混ぜるの。今日は室温に戻しておいたから、使いやすくなっていると思うわ」
「なるほど。冷たいままだと混ぜにくいんだね」
「そうよ。無理に力を入れるより、ちゃんと準備しておいたほうがきれいに混ざるの」
由美はそう言って、ボウルへバターを入れた。
ひよりは泡立て器を手に取り、ゆっくりと混ぜ始めた。
最初は少し硬く感じたが、混ぜているうちにバターがなめらかになっていく。
「お母さん、こんな感じでいい?」
ひよりが尋ねると、由美はボウルの中を覗き込んだ。
「うん、いい感じね。じゃあ、砂糖を少しずつ加えてみましょう」
ひよりは頷き、量っておいた砂糖を数回に分けて加えた。
泡立て器を動かすたびに、ボウルの中の色が少しずつ変わっていく。
ひよりはその変化を面白く感じながら、丁寧に混ぜ続けた。
「なんだか、少しずつクッキーの生地になっていくのが楽しいね」
「そうね。材料が混ざって、形が変わっていくところを見るのも、お菓子作りの楽しさだと思うわ」
由美は穏やかに答えた。
ひよりはその言葉に頷いた。
普段は完成したお菓子を食べることが多い。
けれど、こうして自分で作ってみると、一つのお菓子ができるまでにいろいろな工程があることを改めて感じる。
卵を加えるときには、由美が手元を見守ってくれた。
ひよりは少し緊張しながら、溶いた卵を少しずつ加えて混ぜていく。
「一度に全部入れなくてもいいんだね」
「そうよ。少しずつ混ぜたほうが、まとまりやすいからね」
ひよりは頷き、慎重に手を動かした。
材料がなめらかに混ざると、次は薄力粉を加える。
由美はゴムべらを渡し、混ぜ方を説明した。
「ここからは、あまり練りすぎないようにしましょう。粉っぽさがなくなるまで、切るように混ぜていくの」
「切るように……こうかな?」
ひよりは由美の手つきを真似しながら、ゆっくりと混ぜ始めた。
最初は思うように動かせなかったが、由美が隣で教えてくれるうちに、少しずつ感覚が分かってきた。
生地がまとまってくると、ひよりは嬉しそうに顔を上げた。
「お母さん、できてきた!」
「うん。上手にまとまってきたわね」
由美は笑顔で頷いた。
ひよりはボウルの中を見つめながら、小さな達成感を覚えていた。
まだ焼いてもいない。
けれど、最初の工程を一つ終えただけで、こんなにも嬉しくなるとは思わなかった。
◇
生地をまとめたあと、由美はそれを包み、冷蔵庫へ入れた。
「これで少し休ませましょう。生地が落ち着いたら、型抜きしやすくなるわ」
「うん。じゃあ、その間に片づけをしようか」
ひよりが言うと、由美は嬉しそうに頷いた。
「ありがとう。使った道具を洗っておけば、あとが楽になるものね」
二人はボウルや泡立て器を洗い、調理台をきれいにした。
水道から流れる水の音が台所に響き、窓の外では風が庭の木々を揺らしている。
ひよりは洗った道具を拭きながら、ふと由美へ尋ねた。
「お母さん、昔もこうやって一緒に作ったよね」
「そうね。ひよりがまだ小さかったころ、美月と三人で作ったことがあったわ」
「うん。私、星の形をたくさん作りたかったのを覚えてる」
ひよりが笑うと、由美も懐かしそうに微笑んだ。
「そうだったわね。美月は花の形をきれいに並べていたけれど、ひよりは星をたくさん作りたくて、何度も生地を伸ばしていたのよ」
「えへへ……なんだか、想像できるかも」
ひよりは少し照れくさそうに笑った。
由美はその表情を見ながら、静かに頷いた。
「でも、あのときも楽しそうだったわ。焼き上がるまで、二人で何度もオーブンを覗いていたもの」
「うん。早く食べたかったんだよね」
「そうね。今は作る工程も楽しめるようになったみたいで、お母さんは嬉しいわ」
由美の言葉に、ひよりは少しだけ驚いた。
「そうかな?」
「ええ。さっきも、材料が混ざっていくのを楽しそうに見ていたでしょう。昔は完成することばかり気にしていたけれど、今は途中の時間も大切にしているように見えるわ」
ひよりはその言葉を聞き、少し考えた。
確かに、以前なら早く焼き上がらないかと気にしていたかもしれない。
けれど、今日は生地を混ぜる時間も楽しかった。
母と話しながら手を動かすことも、思っていた以上に心地よかった。
「……そうかもしれないね」
ひよりは穏やかに笑った。
「最近、何かをする時間そのものが楽しいなって思うことが増えた気がする」
由美はその言葉に、優しく頷いた。
「それは素敵なことね。楽しいことって、結果だけじゃなくて、そこまでの時間にもたくさんあるものだから」
ひよりは胸の奥が温かくなるのを感じた。
母の言葉は、今日読んだ本の感想とも少し似ているように思えた。
大切なものは、完成した形だけではない。
そこへ至るまでに過ごした時間も、思い出になる。
ひよりはそんなことを考えながら、最後の道具を丁寧に拭いた。
◇
生地を休ませている間、ひよりは由美と一緒に星と花の抜き型を並べた。
星の型は少し大きく、花の型は丸みのある形をしている。
ひよりは二つを見比べながら、どちらから使おうかと考えた。
「お母さん、星とお花、両方作ってもいいよね?」
「もちろん。生地の量を見ながら、好きなように作りましょう」
由美は笑顔で答えた。
ひよりは頷き、星の型を手に取った。
「じゃあ、最初は星にしようかな。昔、うまくできなかったから、今度はきれいに作ってみたいんだ」
「いいわね。でも、あまり力を入れすぎないようにね」
由美が優しく注意すると、ひよりは笑った。
「うん。気をつける」
しばらくして生地を取り出すと、二人は調理台へ打ち粉を用意し、めん棒で生地を伸ばし始めた。
ひよりは最初、力加減が分からず、少しだけ厚さにばらつきが出てしまった。
「あれ……こっちが薄くなっちゃった」
ひよりが困ったように呟くと、由美は隣から手元を覗き込んだ。
「大丈夫よ。少し向きを変えて、ゆっくり伸ばしてみましょう。急いで一度に薄くしようとしなくていいの」
ひよりは頷き、めん棒を持ち直した。
由美に教えてもらいながら、少しずつ厚さを整えていく。
やがて、生地が均等に広がると、ひよりは嬉しそうに笑った。
「できた!」
「うん。きれいに伸ばせたわね」
由美は穏やかに頷いた。
ひよりは星の型を手に取り、生地へそっと押し当てた。
型を持ち上げると、きれいな星の形が現れた。
「わあ……!」
思わず声が出た。
子どものころはうまくできなかった星の形が、今はきちんとできている。
ひよりはその小さな変化が嬉しかった。
「お母さん、見て。ちゃんと星になったよ」
「本当ね。とてもきれいよ」
由美は笑顔で答えた。
ひよりは少し照れくさそうに笑い、次の星を抜いた。
そのあと、花の型も使ってみる。
丸みのある花びらが生地に現れると、ひよりは嬉しくなった。
「お花もかわいいね。千夏が買った白いお花を思い出すなあ」
ひよりが呟くと、由美は少し首を傾げた。
「この前、千夏ちゃんが机に飾ったお花?」
「うん。写真を送ってくれたんだけど、すごくかわいかったんだ。小さな花瓶に白いお花が飾ってあってね」
ひよりは楽しそうに説明した。
由美はその様子を見ながら、穏やかに頷いた。
「そうね。自分で選んだものを飾ると、毎日見るのが楽しみになるものね」
「うん。千夏も、朝起きて机を見るのが嬉しいって言ってたよ」
ひよりはそう言って、花の型をもう一度押し当てた。
生地の上には、星と花が少しずつ増えていく。
ひよりはそれを天板へ並べながら、自然と笑顔になった。
◇
型抜きを終えるころには、台所の中に穏やかな達成感が広がっていた。
天板には星と花の形をした生地が並び、ひよりはその一つ一つを眺めていた。
形が少し違うものもある。
星の角が少し丸くなったもの。
花びらの一部が少し小さくなったもの。
けれど、どれも自分たちで作ったものだった。
「お母さん、全部きれいにできたわけじゃないけど、なんだかかわいいね」
ひよりが言うと、由美は笑顔で頷いた。
「そうね。少しずつ形が違うのも、手作りらしくていいと思うわ」
ひよりはその言葉に頷いた。
以前なら、形が崩れたものを見て残念に思ったかもしれない。
けれど、今日はそう感じなかった。
自分で生地を混ぜ、伸ばし、型を抜いた。
その時間が楽しかったからこそ、少しくらい形が違っても愛おしく感じる。
由美はオーブンの準備を確認し、天板を入れた。
「じゃあ、焼き上がるまで少し待ちましょう。途中で様子を見ながら、焼き色を確認するわね」
「うん。楽しみだな」
ひよりはオーブンの前へ近づき、ガラス越しに並んだ生地を眺めた。
由美はその姿を見て、少し懐かしそうに笑った。
「ひより、昔もそうやってオーブンを覗いていたわね」
「えっ、今も同じことしてる?」
ひよりが振り返ると、由美は楽しそうに頷いた。
「ええ。でも、今日はちゃんと待てそうね」
ひよりは少し照れくさそうに笑った。
「うん。焼き上がるまで、ちゃんと待つよ」
そう言ってから、ひよりは調理台の片づけを手伝った。
しばらくすると、台所の中に甘い香りが広がり始めた。
バターと砂糖が焼ける香り。
ひよりはその匂いを感じ、思わず顔を上げた。
「……いい匂い!」
由美も笑顔で頷いた。
「そうね。もう少ししたら焼き上がるわ」
ひよりは胸を弾ませながら、オーブンの中を見つめた。
星と花の形をした生地が、少しずつ焼き色をつけていく。
その光景を見ているだけで、今日の午後が特別な時間に思えた。
◇
クッキーが焼き上がると、由美は天板を取り出し、冷ますために並べた。
ひよりは少し離れたところから、焼き上がったクッキーを眺めていた。
星の角にはきれいな焼き色がつき、花の形も崩れずに残っている。
ひよりは嬉しそうに顔を上げた。
「お母さん、すごい! ちゃんとクッキーになってる!」
由美はその反応に笑った。
「そうね。初めて作るわけじゃないけれど、焼き上がるとやっぱり嬉しいものね」
「うん。思ってたよりきれいにできたよ」
ひよりは笑顔で頷いた。
少し形が違うものもあるが、どれもおいしそうだった。
由美はクッキーを冷ましながら、飾りつけ用のチョコレートを準備した。
「全部に飾りつけをしなくてもいいから、何枚か選んでみましょうか」
「うん。星とお花、両方やってみたいな」
ひよりは頷き、形のきれいなものをいくつか選んだ。
チョコレートを使って模様を描くのは、久しぶりだった。
最初の一枚は少し緊張したが、由美が手元を見守ってくれたため、ひよりはゆっくりと線を描くことができた。
星の真ん中に小さな点を置く。
花びらの形に沿って、細い線を描く。
思っていたよりも難しかったが、少しずつ慣れてくると楽しくなってきた。
「お母さん、見て。お花の模様、できたよ」
ひよりが嬉しそうに見せると、由美は笑顔で頷いた。
「かわいいわね。丁寧に描けてると思うわ」
「ありがとう。最初はちょっと緊張したけど、楽しいね」
ひよりはそう言って、次のクッキーへ手を伸ばした。
由美も隣で飾りつけを始めた。
二人はときどき手を止め、互いのクッキーを見せ合いながら、ゆっくりと作業を進めた。
台所には甘い香りが残り、窓から差し込む午後の光が調理台を照らしている。
ひよりはその時間が、ずっと続けばいいのにと思うほど楽しかった。
◇
飾りつけを終えたクッキーを並べると、ひよりはスマートフォンを取り出した。
千夏から、完成したら写真を見せてほしいと言われている。
それに、真樹にもクッキー作りのことを話していた。
ひよりは皿へ星と花のクッキーをいくつか並べ、由美へ声を掛けた。
「お母さん、写真撮ってもいい?」
「もちろん。せっかくだから、きれいに並べて撮りましょう」
由美は笑顔で答えた。
二人は皿の上のクッキーを少し整え、明るい場所へ移した。
ひよりは画面を確認しながら、何枚か写真を撮った。
星と花の形が分かるように。
飾りつけの模様が見えるように。
そして、手作りらしい温かさが伝わるように。
ひよりは撮った写真を確認し、嬉しそうに笑った。
「うん。きれいに撮れた!」
由美も画面を覗き込み、頷いた。
「いい写真ね。千夏ちゃんにも見せるの?」
「うん。昨日、できたら見せてねって言ってくれたんだ」
「そうなのね。きっと喜んでくれるわ」
ひよりは笑顔で頷いた。
そのあと、チョコレートが落ち着くまで少し待ち、家族で味見をすることになった。
浩介と悠一が食卓へやってくると、皿に並んだクッキーを見て、嬉しそうに顔を上げた。
「おお、ずいぶんきれいにできたね」
浩介が感心したように言うと、ひよりは少し照れくさそうに笑った。
「お母さんに教えてもらいながら作ったんだ。星とお花、両方あるよ」
「どれもおいしそうだな。じゃあ、俺はこの星をもらおうかな」
浩介は一枚手に取り、ゆっくりと口へ運んだ。
ひよりは少し緊張しながら、その様子を見つめた。
浩介は一口食べると、穏やかに笑った。
「うん。おいしいよ。甘さもちょうどいいし、食感もいいね」
「本当?」
「本当だよ。ひより、上手に作れたね」
ひよりはその言葉を聞き、嬉しくなった。
悠一も花の形をしたクッキーを一枚手に取り、食べてみた。
「お、うまいじゃん。見た目もちゃんとしてるし、これなら売れそうだな」
「もう、お兄ちゃん。そんなに大げさに言わなくてもいいよ」
ひよりが笑うと、悠一は首を振った。
「いや、普通においしいって。昔の星とは違うな」
「またその話!」
ひよりが少し頬を膨らませると、家族の間に笑い声が広がった。
由美はその様子を見ながら、満足そうに微笑んでいた。
クッキーの味も、もちろん嬉しい。
けれど、こうして家族で笑い合いながら食べられることが、何より嬉しかった。
◇
夕方、ひよりは自室へ戻り、撮った写真を千夏へ送った。
『千夏、こんにちは! 今日、お母さんとクッキーを作ったよ。星とお花の形にして、少しだけチョコレートで飾りつけもしてみたんだ』
写真を添えて送信すると、しばらくして返事が届いた。
『えっ、すごい! めちゃくちゃかわいい! ひより、上手じゃん!』
ひよりはその文章を読み、嬉しそうに笑った。
『ありがとう! お母さんに教えてもらいながら作ったんだ。最初は緊張したけど、すごく楽しかったよ』
千夏からは、すぐに返事が届いた。
『いいなあ。星もお花もきれいだし、チョコの模様もかわいい! 私も久しぶりに何か作りたくなってきた』
ひよりはその言葉に頷いた。
自分が楽しかったことを話すことで、千夏も何かをしてみたいと思ってくれる。
それが嬉しかった。
『千夏も何か作ったら、写真見せてね』
『もちろん! そのときはひよりにも見せる!』
ひよりは笑顔で返信を終えた。
そのあと、少しだけ迷ってから、真樹とのメッセージ画面を開いた。
昨日、明日のクッキー作りを楽しんでねと言ってくれた。
だから、完成したことを報告したかった。
ひよりは写真を選び、文章を打ち始めた。
『北条君、こんにちは! 今日、お母さんとクッキーを作ったよ。星とお花の型を使って、少しだけチョコレートで飾りつけもしてみたんだ。よかったら見てね』
送信すると、ひよりはスマートフォンを机へ置いた。
返事は急がなくてもいい。
そう思いながら、机の上に置かれた読書ノートへ目を向けた。
今日のクッキー作りのことも、あとで書いておきたい。
母と一緒に生地を混ぜたこと。
星の形がきれいに抜けたこと。
焼き上がるまでの甘い香り。
家族が喜んでくれたこと。
ひよりはその一つ一つを思い返し、自然と笑顔になった。
◇
同じころ、北条真樹はノアと一緒に庭で過ごしていた。
午後の陽射しは少し弱まり、庭の木々が長い影を落としている。
ノアは真樹の足元でくつろぎ、ときどき顔を上げては、周囲の音へ耳を動かしていた。
真樹はノアの頭を撫でながら、来週の土曜日のことを考えていた。
ひよりとノアと一緒に公園を歩く予定だ。
日にちは決まっているが、具体的な時間と待ち合わせ場所はまだ決めていない。
真樹はそろそろ相談してもいいころだと思っていた。
ただ、ひよりの都合もある。
家族へ確認する必要があるかもしれないし、帰宅時間についても考えておきたい。
真樹は無理のない予定にしたいと思っていた。
「ノア、来週は天野と一緒に散歩だぞ」
真樹が声を掛けると、ノアは顔を上げ、嬉しそうに尻尾を振った。
真樹はその反応に笑った。
「お前、本当に天野のこと好きだよな」
ノアは返事をするように鼻先を寄せた。
真樹はその頭を優しく撫でながら、穏やかに笑った。
ひよりがノアへ接するときの表情を思い出す。
大きな黒い身体を怖がることなく、優しく声を掛ける。
ノアが嬉しそうに尻尾を振ると、ひよりも嬉しそうに笑う。
その光景を見るたびに、真樹は胸の奥が温かくなるのを感じていた。
(……来週も、あんなふうに笑ってくれたらいいな)
真樹はそう思いながら、ノアの背中を撫でた。
そのとき、スマートフォンに通知が届いた。
真樹は画面を確認し、ひよりからのメッセージだと気づいた。
写真を開くと、星と花の形をしたクッキーが並んでいた。
淡い焼き色のついた生地に、チョコレートで小さな模様が描かれている。
真樹は思わず笑顔になった。
「……すごいな」
ノアが顔を上げた。
真樹はその頭を撫でながら、写真をもう一度眺めた。
ひよりが母と一緒に作ったクッキー。
きっと、楽しみながら作ったのだろう。
その様子が、写真から伝わってくるようだった。
真樹は返信を打ち始めた。
『天野、写真ありがとう。すごくきれいにできてるね。星も花もかわいいし、チョコレートの模様も丁寧だね。お母さんと一緒に楽しく作れたみたいでよかった』
送信したあと、少し考えてもう一通送った。
『ノアにも写真を見せてみたけど、さすがにクッキーの形までは分からなかったみたいだよ』
真樹はそう書いてから、少しだけ笑った。
ノアは人間用のクッキーを食べられない。
けれど、写真を見せたときに鼻先を近づけてきた様子が、なんだかおかしかった。
しばらくすると、ひよりから返事が届いた。
『ありがとう! 北条君にそう言ってもらえて嬉しいよ。ノアにも見せてくれたんだね。ふふ、ノアが写真を見てるところ、想像するとかわいいな』
真樹はその文章を読み、自然と笑顔になった。
ひよりが嬉しそうにしている。
それだけで、真樹も嬉しかった。
◇
夕方、ひよりは由美と一緒に残ったクッキーを保存容器へ移していた。
チョコレートの飾りつけが落ち着いたものから、形が崩れないように丁寧に並べていく。
由美は容器の中を確認しながら、ひよりへ声を掛けた。
「今日はたくさん作れたわね。明日のおやつにもできそうよ」
「うん。お父さんもお兄ちゃんも喜んでくれたし、作ってよかったな」
ひよりは嬉しそうに答えた。
由美はその表情を見て、穏やかに微笑んだ。
「ひより、今日は本当に楽しそうだったわね」
「うん。久しぶりだったけど、すごく楽しかったよ」
ひよりは少し考えたあと、続けた。
「最初はちゃんとできるか心配だったんだけど、生地を混ぜたり、型を抜いたりするのも楽しくて……。焼き上がるまで待ってる時間も、なんだか嬉しかったんだ」
由美はその言葉に、優しく頷いた。
「そうね。お菓子作りって、完成するまでの時間も楽しいものよね」
「うん。なんだか、読書と少し似てるかもしれない」
ひよりがそう言うと、由美は少し首を傾げた。
「読書と?」
「うん。本も、最後まで読んで結末を知るのは楽しいけど、途中の時間も大切でしょう? 登場人物が何を考えてるのかなって想像したり、次はどうなるんだろうって楽しみにしたりするの」
ひよりは自分の考えを確かめるように、ゆっくりと話した。
「クッキーも、完成したものを食べるのは嬉しいけど、作ってる途中が楽しかったから、もっと嬉しく感じるのかもしれないなって」
由美はしばらく娘の言葉へ耳を傾け、それから穏やかに笑った。
「素敵な考え方ね。ひよりらしいと思うわ」
ひよりは少し照れくさそうに笑った。
「そうかな?」
「ええ。何かを大切に思う理由って、きっと一つじゃないものね」
由美はそう言って、保存容器の蓋を閉めた。
ひよりはその言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。
何かを大切に思う理由は、一つではない。
その言葉は、今日読んだ花屋の物語にもつながるように思えた。
ひよりは小さく頷き、容器を棚へしまった。
◇
夜、ひよりは自室で水色の読書ノートを開いていた。
机の上には、今日撮ったクッキーの写真を表示したスマートフォンが置かれている。
ひよりはその画面を眺めながら、今日の出来事を思い返した。
母と一緒に生地を混ぜたこと。
星と花の型を抜いたこと。
焼き上がるまでの甘い香り。
家族が喜んでくれたこと。
千夏が写真を見て、かわいいと言ってくれたこと。
そして、真樹が丁寧に感想を伝えてくれたこと。
どれも、ひよりにとって嬉しい出来事だった。
ひよりはペンを持ち、少し考えてから文章を書き始めた。
『何かを作る時間には、完成したものだけでは残らない思い出がある。材料を混ぜたり、形を整えたり、焼き上がるまで待ったりする時間も、あとから思い出すと大切なものになるのかもしれない。誰かと一緒に楽しんだ時間は、きっと形がなくなっても残っていく。』
書き終えると、ひよりは少しだけ満足そうに頷いた。
今日の気持ちを、少しだけ言葉にできた気がした。
そのあと、スマートフォンを手に取り、真樹とのメッセージを読み返した。
クッキーの写真を見て、きれいにできていると言ってくれたこと。
母と楽しく作れたことを喜んでくれたこと。
ノアにも写真を見せてくれたこと。
ひよりはその一つ一つを思い返し、自然と笑顔になった。
(北条君って、いつもちゃんと見てくれるんだよね。私が楽しかったことを話すと、一緒に喜んでくれる)
ひよりはそう思いながら、画面を閉じた。
来週の土曜日には、真樹とノアと一緒に公園を歩く予定になっている。
まだ具体的な時間や待ち合わせ場所は決めていない。
そろそろ相談したほうがいいかもしれない。
ひよりは少し考えたあと、明日学校から帰ってきたら、真樹へ相談してみようと思った。
急いで決める必要はない。
けれど、楽しみにしている時間を少しずつ形にしていくことも、嬉しいことだった。
◇
同じころ、真樹は自室で来週の予定を確認していた。
机の上には、ノアの子犬時代の写真を入れた封筒が置かれている。
真樹はその封筒を手に取り、中身をもう一度確かめた。
小さかったころのノア。
初めて首輪をつけたときの写真。
庭で遊んでいる写真。
どれも、真樹にとって大切な思い出だった。
ひよりへ見せることを考えると、自然と笑顔になる。
(……天野、きっと喜んでくれるだろうな)
真樹はそう思いながら、写真を丁寧に戻した。
そのあと、スマートフォンへ目を向けた。
ひよりから送られてきたクッキーの写真が、画面に残っている。
星と花の形をしたクッキー。
丁寧に描かれたチョコレートの模様。
その写真を見るだけで、ひよりが楽しそうに作っていた様子が想像できた。
真樹は穏やかに笑った。
ひよりは、自分が楽しかったことを素直に話してくれる。
それが嬉しかった。
以前よりも、少しずついろいろなことを話してくれるようになっている。
本のこと。
友達のこと。
家族のこと。
そして、昔から大切にしているぬいぐるみのこと。
真樹はその一つ一つを、大切に受け止めたいと思っていた。
来週の土曜日には、ひよりとノアと一緒に公園を歩く。
その時間が、今から楽しみだった。
ただ、真樹は自分の気持ちを急いで伝えようとは思っていなかった。
ひよりが以前、別の相手へ気持ちを伝え、傷ついたことを知っている。
だからこそ、彼女が自然に笑える時間を大切にしたかった。
自分の気持ちを押しつけるのではなく、ひよりが安心して過ごせるようにしたい。
真樹はそんなことを考えながら、封筒を引き出しへしまった。
◇
夜も更け、ひよりはベッドへ腰を下ろした。
窓の外には静かな夜空が広がり、遠くの街灯が淡く光っている。
ひよりは机の隅に座るくるみへ目を向け、優しく笑った。
「ねえ、くるみ。今日、クッキーを作ったんだよ」
ひよりはくるみの頭をそっと撫でた。
「星もお花も、ちゃんとできたの。お母さんと一緒に作って、すごく楽しかったな」
くるみはいつもと変わらない表情で座っている。
ひよりはその姿を見ながら、少しだけ考えた。
今日のクッキー作りは、特別な出来事ではないのかもしれない。
けれど、ひよりにとっては大切な時間だった。
母と一緒に過ごした午後。
家族が笑ってくれたこと。
友達が写真を見て喜んでくれたこと。
真樹が優しい言葉を返してくれたこと。
そのすべてが、今日という一日を温かいものにしてくれた。
ひよりは布団へ入り、ゆっくりと目を閉じた。
明日からは、また学校が始まる。
千夏へクッキー作りの話をするのも楽しみだった。
海斗と本の話をする機会もあるかもしれない。
そして、真樹とは来週の土曜日の予定を少しずつ決めていきたい。
(……楽しみなことがあるって、いいな)
ひよりはそんなことを考えながら、穏やかな眠りへ落ちていった。
机の上では、水色の読書ノートが閉じられ、その隣に置かれた短編集から、淡い青色の栞が少しだけ覗いている。
日曜日の夜は、静かに更けていった。




