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『黒犬が運んできたのは、不幸ではなく恋でした』  作者: 伊佐波瑞樹


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第73話 金曜日の図書室と、まだ知らない君の好きなもの


 金曜日の朝、天野ひよりが目を覚ましたとき、窓の外には久しぶりに澄んだ青空が広がっていた。昨日は一日を通して薄い雲が浮かんでいたが、今日は朝から陽射しが明るく、カーテンの隙間を通った光が机の上に細長い模様を作っている。


 ひよりはベッドの上で軽く伸びをすると、枕元の時計を確認した。いつもより少し早く目が覚めたらしく、朝食までにはまだ余裕がありそうだった。


「おはよう、くるみ。今日は金曜日だね」


 机の隅に座っている茶色のぬいぐるみへ声を掛けると、ひよりはベッドから降りた。少し傾いた耳と、くるみの実に似た鼻を持つそのぬいぐるみは、今日も変わらない表情で彼女を見つめている。


 姉の美月が直してくれた縫い目は、今もしっかりとしていた。その隣には、淡い黄色のリボンが丁寧に置かれている。


 ひよりはくるみの頭をそっと撫でてから、机の上へ目を向けた。


 そこには、昨日千夏と一緒に買い物をしたときに選んだ、淡い青色の栞が挟まれた本が置かれていた。


 古い商店街を舞台にした連作短編集。


 学校の図書室で借りているその本は、まだ最後まで読み終わっていない。昨夜も少しだけ続きを読んだが、登場人物たちが大切にしているものや、それぞれの思い出について考えているうちに、時間が過ぎてしまった。


(今日、図書室で少し読めたらいいな。でも、借りている本だから、返却期限もちゃんと確認しておかないと)


 ひよりはそんなことを考えながら、机の上に置いてある貸出時の控えを確かめた。


 まだ返却期限までは余裕がある。


 それでも、読み終えるまでにどのくらい時間が掛かるかは分からないため、無理のないペースで読み進めようと思った。


 昨日買った栞を挟んだページを開くと、そこには商店街の小さな店について描かれた文章が続いていた。


 ひよりは数行だけ目を通し、名残惜しく思いながら本を閉じた。


 今は朝の支度をする時間だ。


 読み始めてしまったら、きっと続きが気になってしまう。


「帰ってきたら、また読もうね」


 誰にともなく呟いたあと、ひよりは制服を取り出した。


 昨日の買い物は、とても楽しかった。


 千夏と一緒に文房具を選び、小物入れや花瓶を見比べた時間。帰宅後に届いた、白い花を飾った千夏の机の写真。そして、真樹と交わしたメッセージ。


 そのどれもが、ひよりの心に穏やかな余韻を残していた。


 特に、真樹が話してくれたノアの子犬時代の首輪については、今朝になっても気になっている。


(ノアが小さかったころって、どんな感じだったんだろう。今はあんなに大きいけど、きっと最初は抱っこできるくらいだったんだよね)


 ひよりは想像して、思わず笑顔になった。


 来週の土曜日の午後には、真樹とノアと一緒に公園を歩く予定になっている。具体的な時間はまだ決めていないが、昨日の夜に日にちを相談できたことで、楽しみが少しだけ近づいた気がした。


 ひよりは鏡の前で制服のリボンを整えると、鞄を持って部屋を出た。


     ◇


 朝食の席では、母の由美が焼いた卵焼きを皿へ盛りつけていた。


 父の浩介はすでに食卓へ座っており、湯呑みを手にしながらテレビの天気予報へ目を向けている。窓から差し込む朝の光が食卓を照らし、台所には温かい味噌汁の香りが漂っていた。


「おはよう、お母さん。今日はいい天気だね」


「おはよう、ひより。そうね。洗濯物もよく乾きそうだわ」


 由美は笑いながら答え、ひよりの前へ朝食を置いた。


「昨日のお買い物、千夏ちゃんも楽しめたみたいね。帰ってきたとき、ひよりがずいぶん嬉しそうだったもの」


「うん。千夏も机に置くものを買えたんだよ。昨日の夜、飾った写真を送ってくれたの」


 ひよりは椅子へ座りながら答えた。


「小さな仕切り箱と、白い花を飾った花瓶があってね。すごくかわいかったんだ」


「まあ、素敵ね。自分の机を少し整えるだけでも、気分が変わるものね」


 由美は頷きながら、ひよりの表情を見つめた。


 最近の娘は、以前よりも日々の出来事をよく話してくれるようになった。


 本のこと、友達のこと、学校で嬉しかったこと。


 もちろん、以前からひよりは家族に対して穏やかで優しい子だったが、このところは自分が楽しかった時間を、誰かに伝えようとすることが増えている。


 由美はその変化を嬉しく感じていた。


「そういえば、ひより。日曜日の午後、クッキーを作ってみない?」


 由美が何気なく尋ねると、ひよりは箸を持つ手を止めた。


「クッキー? この前、材料を買ったやつ?」


「そうよ。せっかく材料も揃っているし、日曜日ならお母さんも時間が取れそうだから。一緒に作ってみないかなと思って」


 ひよりは嬉しそうに顔を上げた。


「作りたい! でも、久しぶりだからちゃんとできるかな」


「最初から上手に作ろうとしなくても大丈夫よ。生地を混ぜたり、型を抜いたりするところから一緒にやりましょう」


 由美は優しく笑った。


 ひよりは少し考えたあと、頷いた。


「うん。じゃあ、日曜日の午後にしよう。星とお花の型、まだ使えるかな」


「この前確認したときは大丈夫そうだったわ。使う前にもう一度洗って、きれいにしておきましょうね」


 二人の会話を聞いていた浩介が、湯呑みを置いた。


「おっ、クッキーを作るのか。楽しみだな」


「お父さん、まだちゃんとできるか分からないよ?」


 ひよりが笑いながら答えると、浩介は穏やかに首を振った。


「形が少しくらい変わっていても、おいしく食べられれば十分だよ。昔、美月とひよりが作った星のクッキーも、なかなか個性的な形だったからな」


「もう、お父さん。その話、覚えてるの?」


「もちろん。あれはあれで、いい思い出だからね」


 浩介が楽しそうに笑うと、ひよりもつられて笑った。


 由美は二人を見ながら、柔らかな表情で頷いた。


「じゃあ、日曜日の午後にしましょう。ひより、土曜日は学校のことを片づけておけば、日曜日はゆっくり作れるわね」


「うん。そうする!」


 ひよりは嬉しくなり、卵焼きを一口食べた。


 今度の日曜日には、母とクッキーを作る。


 来週の土曜日には、真樹とノアと公園を歩く。


 少し先の予定が増えていくことが、今のひよりには楽しかった。


     ◇


 県立青葉高校へ到着すると、校舎の中には金曜日らしい賑やかさが広がっていた。


 週末を前にした生徒たちは、授業の話だけでなく、部活動や休日の予定についても楽しそうに話している。廊下の窓からは明るい陽射しが差し込み、遠くの運動場からは朝練習を終えた生徒たちの声が聞こえていた。


 ひよりが教室へ入ると、千夏がすぐに気づいて手を振ってくれた。


「ひより、おはよう! 昨日はありがとね!」


「おはよう、千夏。こちらこそ、すごく楽しかったよ」


 ひよりが笑顔で答えると、千夏は自分の席から立ち上がり、近くへやってきた。


「ねえ、昨日送った写真、ちゃんと見られた?」


「うん。すごくかわいかった。白い花があるだけで、机の雰囲気がずいぶん変わるんだね」


「そうなの! 朝起きて机を見たら、なんかちょっと嬉しくなっちゃってさ。昨日までは付箋とか消しゴムとか、いろんなところに置いてあったんだけど、今はちゃんと仕切り箱に入ってるんだよ」


 千夏は嬉しそうに話した。


 ひよりはその様子を見ながら、自分まで楽しくなってくるのを感じた。


「よかったね。使いやすそうなものが見つかって、本当によかった」


「ひよりが一緒に考えてくれたおかげだよ。そういえば、栞はもう使ってみた?」


「うん。昨日の夜、読みかけの本に挟んでみたよ。薄くて使いやすいし、色も気に入ってるんだ」


 ひよりは鞄から本を取り出し、ページの間に挟まれた栞を少しだけ見せた。


 千夏はそれを見て、嬉しそうに目を細めた。


「やっぱり似合ってる。選んでよかったなあ」


「ありがとう。これから大切に使うね」


 二人は笑顔を交わした。


 そのとき、近くにいた女子生徒が会話へ加わった。


「それ、昨日買ったの? かわいい栞だね」


 ひよりが顔を向けると、同じクラスの女子生徒が興味深そうに栞を見ていた。


「うん。昨日、千夏と一緒に雑貨店へ行ってきたんだ」


「いいなあ。私も最近、新しい文房具が欲しいと思ってたんだよね。こういう落ち着いた色のもの、好きだな」


 女子生徒は笑顔で話した。


 千夏が店の場所を説明すると、その生徒は嬉しそうに頷いた。


 ひよりは会話を聞きながら、自分が選んだ小さな栞が、思いがけず新しい話題につながったことを嬉しく思った。


 好きなものを誰かへ見せる。


 それだけで、会話が広がることもある。


 昨日の買い物は、今日の学校生活にも小さな楽しさを運んできてくれたようだった。


     ◇


 午前中の授業が終わり、昼休みになると、ひよりは千夏と一緒に弁当を広げた。


 教室には生徒たちの話し声が重なり、窓際では数人が週末の予定を相談している。ひよりは弁当箱の蓋を開けながら、今朝母と話したことを思い出した。


「そうだ、千夏。今度の日曜日、お母さんとクッキーを作ることになったんだ」


 ひよりが話すと、千夏は嬉しそうに顔を上げた。


「えっ、いいなあ! この前、材料を買うって言ってたやつ?」


「うん。日曜日の午後に作ってみようって、お母さんが言ってくれたの。久しぶりだから、ちゃんとできるか少し心配だけど」


「大丈夫だよ。ひより、丁寧に作りそうだもん。きっとかわいいクッキーになると思う」


 千夏は笑顔で答えた。


 ひよりは少し照れくさそうに笑った。


「ありがとう。でも、昔作ったときは星の形が変になっちゃったこともあるんだよ」


「それはそれでかわいいじゃん。手作りなんだから、少しくらい形が違ってもいいと思うよ」


 千夏はそう言って、弁当のおかずを一口食べた。


 ひよりはその言葉に頷いた。


「うん。お母さんも同じようなこと言ってた。上手に作ろうとしすぎないで、楽しんで作れたらいいな」


「そうそう。もし写真を撮ったら、私にも見せてね」


「もちろん。ちゃんとできたら送るね」


 二人はそんな話をしながら、昼休みを過ごした。


 しばらくすると、千夏が少しだけ声を落とした。


「そういえば、ひより。来週の土曜日の公園、日にちは決まったんだよね?」


 ひよりは頷いた。


「うん。昨日の夜、北条君と相談して、土曜日の午後にしようって話したよ。時間はまだ決めてないんだけど」


「そっか。よかったね。ノアにも会えるし、楽しみだね」


 千夏は優しく笑った。


 ひよりは少しだけ頬を緩めた。


「うん。北条君が、ノアの子犬だったころの写真も見せてくれるかもしれないんだ」


「えっ、それは見たい! 絶対かわいいじゃん!」


 千夏は思わず声を弾ませた。


 ひよりは笑いながら頷いた。


「私も楽しみなんだ。昨日、ノアが小さかったころに使っていた首輪を、今でも大切にしまってあるって教えてくれてね」


「へえ……北条君、ノアのこと本当に大切にしてるんだね」


 千夏は少し感心したように呟いた。


 ひよりはその言葉に頷いた。


「うん。ノアの話をするとき、いつもすごく優しいんだよ」


 そう言ったあと、ひよりは自分の言葉を思い返した。


 真樹がノアのことを話すときの表情。


 大きな黒犬の頭を撫でる手つき。


 ノアが嬉しそうに尻尾を振る様子。


 ひよりはその光景を思い浮かべ、自然と笑顔になった。


 千夏はそんな親友の表情を、少しだけ静かに見つめていた。


(……ひより、北条君の話をするとき、本当に嬉しそうなんだよね)


 千夏はそう思ったが、口には出さなかった。


 ひよりが以前、佐伯颯太へ気持ちを伝え、断られたことを知っている。


 だからこそ、今のひよりが誰かと過ごす時間を自然に楽しめていることが、千夏には何より嬉しかった。


 無理に気持ちを確かめる必要はない。


 今はただ、親友が笑顔でいられる時間を大切にしてほしかった。


     ◇


 午後の授業が始まるころ、私立桜陵学園では北条真樹が窓際の席で教科書を開いていた。


 昼休みの賑わいが少しずつ落ち着き、生徒たちは次の授業の準備を始めている。窓の外には青空が広がり、校庭の木々が風に揺れていた。


 真樹は筆記用具を整えながら、昨日ひよりと交わしたメッセージを思い出していた。


 淡い青色の栞。


 千夏と一緒に選んだという、小さな白い花の模様。


 そして、ノアが子犬だったころの首輪の話。


 ひよりは、古い首輪を大切にしまっていると聞いて、とても嬉しそうにしてくれた。


 真樹にとっては、何年も前から持っている思い出の品だった。


 けれど、その話を誰かへ詳しくする機会は、これまであまりなかった。


(天野は、そういう話もちゃんと聞いてくれるんだよな)


 真樹は小さく笑った。


 ひよりは、相手が大切にしているものを軽く扱わない。


 それが自分にとって馴染みのないものでも、どうして大切なのかを知ろうとしてくれる。


 真樹はそんなところに、何度も心を動かされていた。


 そのとき、隣から神崎蓮が声を掛けてきた。


「真樹、何かいいことあったのか?」


 真樹が顔を向けると、蓮は少し面白そうに笑っていた。


「どうして?」


「いや、さっきからちょっと嬉しそうだからさ。まあ、何となく理由は想像できるけど」


 真樹は苦笑した。


「……そんなに分かりやすい?」


「少なくとも、俺には分かるかな」


 蓮は笑いながら答えた。


 真樹は少し考えたあと、昨日のことを話した。


「天野が友達と買い物に行って、栞を買ったんだって。その写真を送ってくれたんだ」


「へえ、栞か。天野さんらしいな」


「うん。友達が選んでくれたらしくて、すごく気に入ってたよ」


 真樹は穏やかに話した。


 蓮はその様子を見ながら、少しだけ表情を和らげた。


「お前さ、天野さんの話をするとき、本当に楽しそうだよな」


 真樹は一瞬だけ言葉を止めた。


 それから、照れくさそうに笑った。


「……そうかもしれない」


 蓮はその返事に少し驚いたような顔をしたあと、嬉しそうに笑った。


「お、今日は素直に認めるんだな」


「別に、隠すことでもないだろ」


「まあな。俺はいいと思うよ」


 蓮はそう言って、机の上の教科書へ目を向けた。


 真樹は窓の外を見ながら、来週の土曜日のことを考えた。


 ひよりとノアと一緒に公園を歩く。


 まだ時間は決まっていないが、日にちは相談できた。


 天気がよければ、ゆっくり歩きながらいろいろな話ができるだろう。


 真樹はその時間を楽しみにしていた。


 ただ、楽しみだからといって、ひよりへ何かを急がせるつもりはなかった。


 彼女が自然に笑ってくれる時間を、一緒に大切にしたい。


 その気持ちは、今も変わっていなかった。


     ◇


 同じころ、桜陵学園の別の席では、一ノ瀬玲奈が三浦沙耶と話していた。


 昼休みの終わりが近づき、教室の中では生徒たちがそれぞれの席へ戻り始めている。玲奈は机の上のノートを整えながら、沙耶の言葉へ耳を傾けていた。


「玲奈、日曜日の予定、どうだった?」


 沙耶が尋ねると、玲奈は笑顔で頷いた。


「うん。家で確認したけど、大丈夫だったよ。日曜日、一緒に雑貨店へ行けそう」


「やった! じゃあ、あとで時間を相談しようね」


 沙耶は嬉しそうに笑った。


 玲奈もその表情を見て、自然と笑顔になった。


 真樹との土曜日のカフェは、今でも大切な思い出として残っている。


 けれど、今週は沙耶と話す時間も楽しかった。


 昨日、雑貨店へ行こうと誘ってもらったことも嬉しかった。


 誰かと一緒に過ごす予定があるだけで、日曜日が少し楽しみになる。


 玲奈はそんな気持ちを、素直に受け止めていた。


「沙耶、何か欲しいものがあるの?」


 玲奈が尋ねると、沙耶は少し考えた。


「うん。新しいポーチが欲しいんだよね。今使ってるの、ちょっと古くなってきたから。玲奈にも一緒に選んでほしくて」


「もちろん。私も何か気に入ったものがあったら見てみたいな」


 玲奈は穏やかに答えた。


 そのとき、少し離れたところから真樹と蓮の話し声が聞こえてきた。


 玲奈は無意識にそちらへ目を向けた。


 真樹は蓮と何かを話しながら、柔らかな表情で笑っている。


 その笑顔を見た瞬間、玲奈の胸が小さく揺れた。


(……真樹、楽しそう)


 何を話しているのかは分からない。


 けれど、真樹が穏やかに笑っていることが嬉しかった。


 同時に、その笑顔が自分へ向けられているわけではないことを、少しだけ寂しく感じてしまう。


 玲奈は視線を戻し、ノートの端を指先で整えた。


 沙耶はその様子に気づいたが、何も言わなかった。


 玲奈が真樹を好きなことは知っている。


 だからこそ、無理に話を聞き出すよりも、今は自然に隣にいたかった。


「玲奈、日曜日はゆっくり見て回ろうね。時間に余裕があったら、どこかでお茶もしようよ」


 沙耶が明るく話しかけると、玲奈は顔を上げた。


「うん。そうしよう。私も楽しみにしてるね」


 玲奈は笑顔で答えた。


 胸の奥には、まだ少し複雑な気持ちが残っている。


 けれど、沙耶と過ごす時間を楽しみに思う気持ちも、本当だった。


 玲奈はその両方を抱えながら、午後の授業の準備を始めた。


     ◇


 青葉高校では、放課後になると図書室へ向かう生徒たちの姿が見られた。


 ひよりは帰り支度を終えたあと、鞄を持って廊下へ出た。


 今日は少しだけ図書室へ寄ってから帰ろうと思っている。


 昨日は千夏と買い物へ行ったため、展示されている紹介文をゆっくり見る時間がなかった。


 それに、今借りている短編集の返却期限も、念のため確認しておきたかった。


 図書室へ向かう途中、階段の踊り場で橘海斗と顔を合わせた。


「あ、天野さん」


 海斗が声を掛けると、ひよりは笑顔で足を止めた。


「橘君、お疲れさま。今から帰るところ?」


「いや、図書室へ行こうと思ってたんだ。昨日は結局寄れなかったから、今日こそ紹介文を見に行こうと思って」


 海斗は少し照れくさそうに笑った。


 ひよりは嬉しくなり、頷いた。


「私も今から図書室へ行くところなんだ。よかったら、一緒に行かない?」


 海斗は一瞬だけ驚いたように目を丸くした。


 それから、穏やかに笑った。


「うん。もちろん」


 二人は並んで廊下を歩き始めた。


 窓からは午後の光が差し込み、床に長い影が伸びている。部活動へ向かう生徒たちが時折すれ違い、遠くからは吹奏楽部の練習らしい音が聞こえてきた。


「天野さん、昨日は藤崎さんと買い物だったんだよね?」


 海斗が尋ねると、ひよりは頷いた。


「うん。雑貨店へ行ってきたんだ。千夏は机に置く小物入れと花瓶を買って、私は栞を買ったの」


「栞か。いいね。どんなものを選んだの?」


「淡い青色で、小さな白い花が描いてあるの。千夏が見つけてくれたんだよ」


 ひよりは嬉しそうに話した。


 海斗はその表情を見ながら、自然と笑顔になった。


「天野さん、そういう落ち着いた色が好きなんだね」


「うん。水色とか、淡い色が好きかな。読書ノートも水色なんだ」


「そうなんだ。確かに、天野さんらしい気がする」


 海斗は穏やかに答えた。


 ひよりは少し照れくさそうに笑った。


「ありがとう。橘君は、栞ってどんなものを使ってるの?」


 その質問に、海斗は少し考えた。


「俺は普通の紙製の栞かな。本屋でもらったものを使うこともあるし、気に入ったデザインがあれば買うこともあるよ」


「そうなんだ。紙製のものって、使いやすいよね」


「うん。本に挟んだときに厚みが出にくいから、俺も好きだな」


 二人はそんな話をしながら、図書室へ向かった。


 ひよりは海斗と本の話をする時間が好きだった。


 同じ本を読んでも、違うところに目を留めていることがある。


 その違いを知ると、自分では気づかなかった物語の魅力を見つけられる。


 今日も、何か新しい発見があるかもしれない。


 ひよりはそんなことを考えながら、図書室の扉へ手を伸ばした。


     ◇


 図書室の中には、いつもと変わらない静かな空気が広がっていた。


 窓際の席では数人の生徒が本を読んでおり、奥の机では課題に取り組んでいる生徒たちの姿が見える。紙をめくる音や椅子を引く小さな音が、落ち着いた空間に控えめに響いていた。


 ひよりと海斗は、入口近くの展示台へ向かった。


 そこには『雨上がりの手紙』が置かれ、その隣にひよりの紹介文が並んでいる。


 ひよりはその光景を見て、昨日と同じように胸が温かくなるのを感じた。


「……あった」


 思わず小さく呟くと、海斗が隣で足を止めた。


「これが、天野さんの紹介文なんだね」


 海斗は静かに言い、展示カードへ目を向けた。


 ひよりは少し緊張しながら、その様子を見守った。


 海斗は文章を最初からゆっくりと読み始めた。


『一通の手紙から始まる、人と人との小さな物語。すぐには伝わらなかった気持ちも、相手を思う時間の中で少しずつ形になっていきます。』


 海斗の視線が、文章の上をゆっくりと移動していく。


 ひよりはその横顔を見ながら、少しだけ落ち着かない気持ちになった。


 以前、海斗は紹介文の下書きを読んでくれている。


 それでも、実際に展示されたものを見てもらうのは、また違った緊張があった。


 海斗は最後まで読み終えると、しばらくカードを見つめていた。


 それから、ひよりへ顔を向けた。


「……すごくいいね」


 静かな声だった。


 ひよりは少し驚き、海斗を見つめた。


「本当?」


「うん。前に読ませてもらったときもいいと思ったけど、こうして本の隣に並んでると、文章がちゃんと作品につながってる感じがする」


 海斗は展示台へ目を向けながら続けた。


「特に、最後の『誰かの言葉をもう少し大切に受け取りたくなりました』ってところが好きだな。読んだ人がどう感じるかを決めつけてないし、天野さん自身が何を感じたのかが伝わってくる」


 ひよりはその言葉を聞き、胸の奥がじんわりと温かくなった。


 自分が悩みながら選んだ言葉。


 何度も書き直し、ようやく納得できた文章。


 その中でも大切にしたかった部分を、海斗がきちんと受け取ってくれた。


「……ありがとう、橘君」


 ひよりは少し照れくさそうに笑った。


「私も、最後のところはすごく悩んだんだ。『この本は絶対にこう感じる本です』って言い切るんじゃなくて、読んだ人が自分で何かを見つけられるような文章にしたくて」


 海斗は静かに頷いた。


「うん。その気持ち、ちゃんと伝わると思う。俺も『雨上がりの手紙』を読んだから分かるけど、あの本って、読む人によって印象に残る場面が違いそうだもんね」


「そうなの。北条君も、前に同じようなことを話してくれたんだよ」


 ひよりは自然に真樹の名前を口にした。


 海斗はその言葉を聞き、ほんの少しだけ表情を変えた。


 ひよりが以前から話している、別の学校の男子生徒。


 北条真樹。


 海斗は彼と直接会ったことはなく、詳しいことも知らない。


 ただ、ひよりが本の話をするとき、ときどきその名前が出てくることは覚えていた。


(……北条君も、この本を読んだんだよな)


 海斗はそんなことを考えた。


 少しだけ胸の奥に引っ掛かるものがあったが、それが何なのかは自分でも分からなかった。


 ひよりは海斗の小さな変化に気づかず、展示台へ目を向けていた。


「こうして置いてもらえると、やっぱり嬉しいね。自分の好きな本を、誰かが手に取ってくれたらいいな」


 海斗はその横顔を見て、穏やかに笑った。


「きっと、気になって読む人もいると思うよ。俺も、知らない本だったら手に取ってみたくなる文章だと思ったから」


「ありがとう。そう言ってもらえると、勇気を出して書いてよかったって思えるよ」


 ひよりは嬉しそうに笑った。


 海斗はその笑顔を見ながら、自分まで温かい気持ちになっていた。


 ただ紹介文を見に来ただけだった。


 けれど、ひよりが大切にしているものを一緒に見られたことが、思っていた以上に嬉しかった。


     ◇


 二人が展示台の前で話していると、図書委員の女子生徒が近くへやってきた。


「あ、天野さん。こんにちは」


 声を掛けられ、ひよりは顔を上げた。


「こんにちは。紹介文、展示してもらえてすごく嬉しいです。ありがとうございます」


 ひよりが頭を下げると、図書委員の女子生徒は笑顔で首を振った。


「こちらこそ、素敵な紹介文をありがとう。昨日も何人か読んでくれていたし、今日も立ち止まって見ている人がいたよ」


 その言葉に、ひよりは驚いた。


「本当ですか?」


「うん。展示を始めたばかりだから、まだ大きな反応があるわけじゃないけど、興味を持ってくれる人がいるのは嬉しいよね」


 図書委員は穏やかに答えた。


 ひよりは胸の奥が温かくなるのを感じた。


 自分の文章を、知らない誰かが読んでくれた。


 それだけでも、十分に嬉しかった。


「ありがとうございます。私、すごく嬉しいです」


 ひよりがそう答えると、図書委員の女子生徒は笑顔で頷いた。


「よかった。あ、それと、展示の写真を撮りたいって前に話してたよね?」


 ひよりは少し驚きながら頷いた。


「はい。友達にも見せたいなと思っていて……。でも、図書室の中だから、勝手に撮るのはよくないかなって」


「うん。ほかの生徒が写らないようにして、展示台だけを撮るなら大丈夫だよ。ただ、掲示物の扱いもあるから、撮る前に先生へ一声掛けてくれる?」


「分かりました。ありがとうございます」


 ひよりは丁寧に頭を下げた。


 図書委員の女子生徒は笑顔で頷き、カウンターへ戻っていった。


 ひよりは少しだけ嬉しそうに海斗へ顔を向けた。


「写真、撮れるかもしれないんだって」


「よかったね。北条君にも見せたいって言ってたもんね」


 海斗がそう言うと、ひよりは頷いた。


「うん。北条君も、この本を読んでくれてるから。展示されたって話したら、すごく喜んでくれたんだ」


 海斗は穏やかに笑った。


「そっか。それなら、写真を見たらもっと喜んでくれるかもしれないね」


 ひよりは嬉しそうに頷いた。


 そのあと、図書室の先生へ確認すると、ほかの生徒や個人情報が写らないようにすることを条件に、展示台の撮影を許可してもらえた。


 ひよりはスマートフォンを取り出し、周囲に人が写り込まない位置を確かめてから、展示台の写真を撮った。


 画面には『雨上がりの手紙』と、その隣に置かれた紹介文が収まっている。


 ひよりは写真を確認し、少しだけ笑顔になった。


「……ちゃんと撮れた」


 海斗は隣から画面を覗き込み、頷いた。


「うん。きれいに撮れてると思う」


「ありがとう。あとで北条君にも送ってみようかな」


 ひよりはそう言って、スマートフォンを鞄へしまった。


 海斗はその様子を見ながら、静かに微笑んだ。


 ひよりが嬉しそうにしていることは、素直に嬉しい。


 ただ、その喜びを真っ先に伝えたい相手の一人が、自分ではない別の学校の男子生徒であることに、少しだけ複雑な気持ちが残った。


 海斗はその感情をまだうまく言葉にできなかった。


     ◇


 図書室を出る前に、ひよりは借りている短編集の返却期限を確認した。


 まだ数日余裕があることが分かり、ひよりは安心した。


 海斗はその間、書架の前で新しく読む本を探していた。


 ひよりが近づくと、彼は一冊の本を手に取っていた。


「橘君、何か面白そうな本、見つかった?」


 ひよりが尋ねると、海斗は表紙を見せた。


「うん。まだ借りるか迷ってるんだけど、短い話がいくつか入ってる本みたいで。最近、こういう形式の本も面白いなって思ってるんだ」


 ひよりは表紙へ目を向け、興味深そうに頷いた。


「連作短編?」


「いや、これはそれぞれ独立した話みたい。でも、同じ作家さんの作品がまとめられてるから、雰囲気は近いのかもしれないね」


「そうなんだ。私、最近は連作短編を読むことが多いけど、独立した短編集も好きだよ。一つのお話を読み終えるたびに、違う世界へ行ける感じがするんだ」


 ひよりは楽しそうに話した。


 海斗はその表情を見ながら、少し考えた。


「天野さんって、本当にいろんな読み方を楽しんでるんだね」


「そうかな?」


「うん。同じ本でも、誰かと感想を話したり、読書ノートに書いたり、気になったところを読み返したりしてるでしょう。俺は読んで終わりにすることも多いから、そういうの、いいなって思う」


 海斗の言葉に、ひよりは少し照れくさそうに笑った。


「ありがとう。でも、私も全部の本でそうしてるわけじゃないよ。何となく読んで、面白かったなって思って終わることもあるし」


「それでも、気になったものを大切にしてるのは伝わってくるよ」


 海斗は穏やかに答えた。


 ひよりはその言葉を聞き、嬉しくなった。


 自分が好きで続けていることを、誰かが見てくれている。


 それは少し照れくさいが、とても温かいことだった。


「橘君も、読んだ本の話をいつも丁寧にしてくれるよね。私、橘君の感想を聞くのも好きだよ」


 ひよりがそう言うと、海斗は一瞬だけ動きを止めた。


 それから、少しだけ頬を赤くして笑った。


「……ありがとう。そう言ってもらえると嬉しい」


 ひよりはその反応を見て、自然と笑顔になった。


 二人はそのあと、書架に並ぶ本を少しだけ眺めてから、図書室を出ることにした。


 海斗は気になった短編集を借り、ひよりは今読んでいる本を読み終えてから次の本を探すことにした。


 図書室の扉を出ると、廊下には夕方へ向かう柔らかな光が差し込んでいた。


「今日は一緒に見てくれてありがとう、橘君」


 ひよりが笑顔で言うと、海斗は首を振った。


「こちらこそ。紹介文、見られてよかったよ」


「また本の話、しようね」


「うん。もちろん」


 二人は昇降口の近くで別れ、それぞれの帰り道へ向かった。


 海斗は校門へ向かいながら、先ほどの会話を思い返していた。


 ひよりが自分の感想を聞くのも好きだと言ってくれたこと。


 紹介文を見て嬉しそうに笑っていたこと。


 その一つ一つが、胸の奥に残っている。


(……天野さんと話すと、もっといろんな本を読んでみたくなるな)


 海斗はそう思った。


 ただ、それだけでは説明できない気持ちがあることにも、少しずつ気づき始めていた。


 けれど、その感情に名前をつけるには、まだ時間が必要だった。


     ◇


 夕方、ひよりが帰宅すると、台所では由美が夕食の準備をしていた。


 玄関で靴を脱ぎ、鞄を持ったまま顔を出すと、由美が笑顔で迎えてくれた。


「おかえり、ひより。今日は少し遅かったのね」


「ただいま。図書室へ寄ってきたんだ。紹介文を見たり、借りてる本の返却期限を確認したりしてたの」


「そうだったのね。ちゃんと確認できた?」


「うん。まだ余裕があったよ。あとね、先生に確認して、展示の写真も撮らせてもらえたんだ」


 ひよりは嬉しそうに話した。


 由美は手を止め、娘の顔を見た。


「まあ、よかったわね。きれいに撮れた?」


「うん。あとでお母さんにも見せるね」


「楽しみにしてるわ」


 由美は優しく笑った。


 ひよりはそのあと自室へ戻り、鞄を置いた。


 机の上には、水色の読書ノートと、昨日買った栞を挟んだ短編集が並んでいる。


 ひよりはスマートフォンを取り出し、今日撮った写真をもう一度確認した。


 展示台に置かれた『雨上がりの手紙』。


 その隣に並ぶ、自分の紹介文。


 画面越しに見ても、やはり少し不思議な気持ちになる。


(……北条君にも見せたいな)


 ひよりはそう思い、メッセージを開いた。


 ただ、送る前に少しだけ迷った。


 真樹は今、学校から帰っているころだろうか。


 忙しい時間だったら、返事を急がせてしまうかもしれない。


 ひよりは少し考えたあと、写真と一緒に短い文章を送ることにした。


『北条君、こんにちは! 今日、図書室の先生に確認して、紹介文の展示を写真に撮らせてもらえたんだ。よかったら見てね。返事は時間があるときで大丈夫だよ』


 ひよりは写真を添えて送信した。


 送ったあと、少しだけ胸が高鳴った。


 自分が書いた文章を、真樹が見てくれる。


 彼は以前から、この紹介文のことを気に掛けてくれていた。


 だからこそ、実際に展示された様子を見せられることが嬉しかった。


 ひよりはスマートフォンを机へ置き、制服から部屋着へ着替え始めた。


     ◇


 真樹がひよりからのメッセージに気づいたのは、帰宅してノアの様子を見に行ったあとだった。


 ノアは庭に面した場所でくつろいでおり、真樹が近づくと嬉しそうに尻尾を振った。


「ただいま、ノア」


 真樹は笑いながら頭を撫で、少しだけ一緒に過ごしてから自室へ戻った。


 机の上へ鞄を置き、スマートフォンを確認すると、ひよりから写真が届いていた。


 真樹は画面を開き、しばらくその写真を見つめた。


 『雨上がりの手紙』。


 そして、その隣に並ぶ紹介文。


 写真には、ひよりが選んだ言葉が丁寧に収められていた。


 真樹は文章を最初から読み返した。


 以前、ひよりから内容を聞いていた。


 けれど、こうして本の隣に並んでいるのを見ると、また違った印象がある。


 彼女が大切にしている物語。


 その魅力を誰かへ伝えようと、悩みながら書いた言葉。


 それが今、学校の図書室で誰かの目に触れている。


 真樹は胸の奥が温かくなるのを感じた。


(……本当に、よかったな)


 真樹はそう思いながら、写真をもう一度眺めた。


 紹介文の最後には、ひよりらしい言葉が残されている。


 誰かの言葉を、もう少し大切に受け取りたくなった。


 真樹はその一文が好きだった。


 ひより自身が、普段から人の言葉を丁寧に受け止めようとしているからこそ、自然に書けた文章なのだろう。


 真樹は返信を打ち始めた。


『天野、写真ありがとう。すごくきれいに展示されてるね。こうして本の隣に並んでるのを見ると、天野が頑張って書いた文章がちゃんと形になったんだなって思う。本当におめでとう』


 送信したあと、少し考えてもう一通送った。


『紹介文も改めて読んだけど、やっぱり最後のところが好きだよ。天野がこの本を大切にしてる気持ちが伝わってくる』


 真樹はスマートフォンを置き、椅子の背もたれへ身体を預けた。


 ひよりが嬉しそうに報告してくれたことが、何より嬉しかった。


 その喜びを一緒に感じられることも、真樹にとって大切だった。


 しばらくすると、ひよりから返事が届いた。


『ありがとう! 北条君にそう言ってもらえて、すごく嬉しいよ。私も最後のところは大切にしたかったから、ちゃんと伝わってよかった』


 真樹はその文章を読み、自然と笑顔になった。


 そのあと、ひよりからもう一通届いた。


『今日、橘君も図書室で紹介文を見てくれたんだ。前に相談に乗ってもらってたから、展示されたところを見てもらえて嬉しかったよ』


 真樹はその名前を見て、少しだけ考えた。


 橘海斗。


 ひよりと同じ学校に通い、本が好きな男子生徒。


 真樹は彼と直接会ったことはない。


 ただ、ひよりが本の話をするとき、ときどき名前が出てくることは知っていた。


(……天野の学校にも、一緒に本の話ができる人がいるんだな)


 真樹はそう思った。


 ひよりが学校で楽しく過ごせていることは、素直に嬉しい。


 けれど、彼女の学校での時間を自分は直接見ることができない。


 そのことに、ほんの少しだけ距離を感じる瞬間もあった。


 真樹はその気持ちを否定せず、静かに受け止めた。


 ひよりには、ひよりの学校生活がある。


 自分には、自分の学校生活がある。


 その違いがあるからこそ、会えない時間に何をしていたのかを話し合えるのかもしれない。


 真樹はそう考え、返信を送った。


『そっか。橘君にも見てもらえてよかったね。天野の紹介文を読んで、喜んでくれる人がいるのは嬉しいことだと思う』


 ひよりからは、すぐに返事が届いた。


『うん! 橘君も最後の文章が好きだって言ってくれたんだ。自分が大切にしたかったところを読んでもらえると、やっぱり嬉しいね』


 真樹はその文章を読み、静かに頷いた。


 ひよりが嬉しそうにしている。


 それだけで、今は十分だった。


     ◇


 その夜、天野家の食卓では、日曜日のクッキー作りの話題が出ていた。


 夕食を終えたあと、由美が台所で食器を片づけていると、ひよりが手伝いにやってきた。


「お母さん、日曜日のクッキーなんだけど、型抜きする前に生地を冷やすんだよね?」


「そうよ。生地が柔らかいままだと型を抜きにくいから、少し冷蔵庫で休ませるの」


 由美は食器を拭きながら答えた。


 ひよりは頷き、以前母が教えてくれたことを思い返した。


「じゃあ、生地を作ってから、少し時間があるんだね」


「そうね。その間に片づけをしたり、オーブンの準備をしたりできるわ」


 由美は穏やかに説明した。


 ひよりは少し考えたあと、笑顔になった。


「なんだか楽しみになってきた。久しぶりだから、ちゃんとできるか心配だけど」


「大丈夫よ。失敗したら、次にどうすればいいか一緒に考えましょう。お菓子作りって、そういうところも楽しいんだから」


 由美の言葉に、ひよりは頷いた。


 最近、ひよりは何かを始めるとき、以前よりも少しだけ気持ちが軽くなっていることに気づいていた。


 上手にできるか分からない。


 思っていたとおりにならないかもしれない。


 それでも、やってみたいと思えることが増えている。


 紹介文を書いたときもそうだった。


 最初から納得できる文章が書けたわけではない。


 何度も考え、言葉を選び直し、周囲の人に相談しながら形にしていった。


 クッキー作りも、きっと同じなのだろう。


 ひよりはそんなことを考えながら、食器を丁寧に拭いた。


     ◇


 同じころ、真樹は自室で古い写真を探していた。


 机の引き出しには、ノアが子犬だったころの写真がいくつかしまわれている。


 以前、ひよりへ見せたいと思ったことはあったが、きちんと探す時間が取れていなかった。


 来週の土曜日には、ひよりとノアと一緒に公園を歩く予定になっている。


 そのときに見せられる写真を、今のうちに探しておこうと思った。


 真樹は引き出しの中を整理しながら、小さな写真の束を取り出した。


 そこには、まだ身体の小さかったノアが写っていた。


 庭の芝生の上で座っている写真。


 初めて首輪をつけたときの写真。


 そして、少し大きくなってから、真樹の隣で嬉しそうに尻尾を振っている写真。


 真樹はその一枚一枚を眺めながら、懐かしい気持ちになった。


「……本当に大きくなったな」


 思わず呟くと、足元にいたノアが顔を上げた。


 真樹は笑いながら写真を見せた。


「ほら、これ。お前が小さかったころだよ」


 ノアは写真の匂いを確かめるように鼻先を近づけた。


 真樹はその様子を見て、思わず笑った。


「分からないか。まあ、そうだよな」


 真樹は写真を丁寧に戻し、来週持っていくものを考えた。


 古い首輪そのものを持ち歩く必要はないだろう。


 けれど、写真ならひよりにも見せやすい。


 真樹は何枚かを選び、傷つかないように小さな封筒へ入れた。


 そのあと、机の上に置いてあったスマートフォンへ目を向けた。


 ひよりから届いた展示の写真が、画面に残っている。


 真樹はその写真をもう一度見つめた。


 自分が大切にしているノアの思い出。


 ひよりが大切にしている本の紹介文。


 それぞれ違うものだが、誰かに見せたいと思う気持ちは少し似ているのかもしれない。


(……来週、天野にもいろいろ話せたらいいな)


 真樹はそう思いながら、封筒を引き出しへしまった。


 土曜日まで、まだ一週間ほどある。


 その時間を急いで縮めることはできない。


 けれど、待っている間にも、楽しみは少しずつ増えていく。


 真樹は足元のノアへ目を向け、優しく笑った。


「来週、天野に会えるのが楽しみだな」


 ノアは真樹の声に反応し、尻尾をゆっくりと揺らした。


     ◇


 夜も更け、ひよりは自室で水色の読書ノートを開いていた。


 机の上には、今日撮った図書室の展示写真を表示したスマートフォンが置かれている。


 ひよりはその画面を眺めながら、今日の出来事を思い返した。


 海斗が紹介文を読んでくれたこと。


 図書委員の女子生徒が、展示を見てくれた人がいると教えてくれたこと。


 先生に確認して、写真を撮らせてもらえたこと。


 そして、真樹がその写真を見て、とても喜んでくれたこと。


 ひよりはペンを持ち、少し考えてから文章を書き始めた。


『自分が大切にしているものを誰かへ見せるのは、少し緊張する。でも、同じものを見て、それぞれ違う言葉を聞けることが嬉しい。自分では気づかなかったところを、誰かが見つけてくれることもある。』


 書き終えた文章を読み返すと、ひよりは小さく頷いた。


 今日の気持ちを、少しだけ形にできた気がした。


 ひよりはノートを閉じ、机の隅に座っているくるみへ目を向けた。


「ねえ、くるみ。今日も嬉しいことがあったよ」


 ひよりはくるみの頭をそっと撫でた。


「私の書いた紹介文、いろんな人が見てくれてるんだって。北条君も、橘君も、いいって言ってくれたんだ」


 くるみはいつもと変わらない表情で座っている。


 ひよりはその姿を見て、優しく笑った。


「日曜日はお母さんとクッキーを作るんだよ。久しぶりだから、上手にできるか分からないけど……楽しみだな」


 そう言ってから、ひよりはベッドへ向かった。


 窓の外には静かな夜空が広がり、遠くの街灯が淡く光っている。


 明日は土曜日。


 学校は休みで、少しゆっくり過ごせそうだった。


 読みかけの本を進めたり、日曜日のクッキー作りの準備をしたり、家族と話したりする時間もあるだろう。


 そして、その次の土曜日には、真樹とノアと一緒に公園を歩く予定がある。


 ひよりは布団へ入り、今日撮った展示の写真を思い浮かべた。


 自分の好きな本の隣に、自分の言葉が並んでいる。


 その光景を、誰かと分かち合えたことが嬉しかった。


 まだ知らないことは、たくさんある。


 真樹が子犬だったノアと過ごした日々のことも、海斗がこれまで読んできた本のことも、千夏が自分の机でこれからどんな時間を過ごすのかも、ひよりはすべてを知っているわけではない。


 けれど、知らないからこそ、聞いてみたいと思う。


 誰かの大切なものを知ることで、その人のことを少しずつ理解できるのかもしれない。


 ひよりはそんなことを考えながら、ゆっくりと目を閉じた。


 金曜日の夜は静かに更けていく。


 机の上では、水色の読書ノートが閉じられ、その隣に置かれた短編集から、淡い青色の栞が少しだけ覗いていた。


 今日という一日の思い出が、また一つ増えていた。


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