第72話 木曜日の寄り道と、君に見せたい小さな宝物
木曜日の朝、天野ひよりが目を覚ましたとき、窓の外には薄い雲が浮かんでいた。昨日ほど陽射しは強くないものの、空は明るく、カーテン越しに差し込む柔らかな光が机の上を照らしている。ひよりは枕元の時計を確認してからゆっくりと身体を起こし、まだ少し眠気の残る目を擦りながら、机の隅に座っている茶色のぬいぐるみへ顔を向けた。
「おはよう、くるみ。今日は千夏とお買い物の日だよ。どんなものが見つかるかな」
少し傾いた耳と、くるみの実に似た鼻を持つぬいぐるみは、いつもと変わらない表情でひよりを見つめている。姉の美月に直してもらった縫い目は今もしっかりとしており、その隣には淡い黄色のリボンが丁寧に置かれていた。
ひよりはくるみの頭を軽く撫でると、制服を取り出した。
今日は授業が終わったあと、親友の藤崎千夏と雑貨店へ行く約束をしている。千夏は机の上を整理するための小物入れと、小さな花を探したいと言っていた。ひより自身は栞や文房具を見てみたいと思っているが、何を買うかまでは決めていない。
(昨日、紹介文が展示されているのを見たばかりだから、今日はなんだか余計に楽しみだな。かわいい栞があったら、今読んでいる本にも使えるかもしれない)
ひよりは制服のリボンを結びながら、昨日の図書室での出来事を思い返した。
自分が書いた『雨上がりの手紙』の紹介文が、展示台に置かれていた。
提出した文章が実際に本の隣へ並んでいるのを見たときは、嬉しさと緊張が一度に押し寄せてきた。千夏が隣で喜んでくれたことも、知らない女子生徒が紹介カードを読んでくれたことも、ひよりにとって忘れたくない思い出になっている。
帰宅後に真樹へ報告したところ、彼も自分のことのように喜んでくれた。
そのメッセージを思い出すと、ひよりの頬は自然と緩んだ。
(北条君にも、いつか展示の写真を見せられたらいいな。図書委員の人に確認してからだけど、きっと喜んでくれるよね)
ひよりはそんなことを考えながら、鞄の中身を確認した。
今日は学校が終わったあと、そのまま千夏と出かける予定だ。昨日のうちに教科書を整理しておいたため、荷物はいつもより少し軽くなっている。
机の上には、水色の読書ノートが置かれていた。
昨日書いた文章には、自分の言葉が誰かへ届いた嬉しさが残されている。ひよりは表紙を指先で撫で、今日も何か心に残る出来事があったら書き留めようと思った。
そのあと、くるみへもう一度笑顔を向けてから、部屋を出た。
◇
朝食の準備が進む台所では、母の由美が味噌汁を温めていた。
ひよりが階段を下りると、食卓にはすでに父の浩介が座っており、新聞を読みながら湯呑みに手を伸ばしている。焼いた魚の香ばしい匂いが漂い、いつもの朝らしい穏やかな空気が広がっていた。
「おはよう、お母さん。何か手伝うことある?」
「おはよう、ひより。もうほとんどできているから大丈夫よ。それより、今日は千夏ちゃんとお買い物でしょう? 帰りが少し遅くなるなら、また連絡してね」
「うん。昨日話したとおり、学校が終わったらそのまま行くよ。あんまり遅くならないようにするね」
ひよりが答えると、由美は安心したように頷いた。
「楽しんでおいで。欲しいものが見つかるといいわね」
「ありがとう。栞とか文房具を見たいんだけど、千夏と一緒にいろいろ見てから決めようと思ってるの」
ひよりは食卓へ座り、由美が運んできた朝食に手を合わせた。
向かいに座っていた浩介は、新聞を畳みながら娘の顔を見た。
「昨日は図書室の紹介文が展示されたんだって? お母さんから聞いたよ」
思いがけず話題を向けられ、ひよりは少し驚いた。
「うん。昨日、千夏と一緒に見てきたんだ。自分が書いた文章が本の隣に置いてあって、なんだか不思議な気持ちだったよ」
「そうか。自分の好きな本を紹介するって、簡単そうに見えて難しいことだからな。よく頑張ったね」
浩介は穏やかに笑った。
ひよりは照れくさそうに視線を落としたが、父の言葉は素直に嬉しかった。
「ありがとう。でもね、千夏や友達にも相談したんだよ。私一人だったら、きっともっと悩んでたと思う」
「相談できる相手がいるのも、いいことじゃないか。ひよりが大切にしている本のことを、一緒に考えてくれる人がいるんだから」
浩介の言葉に、ひよりは小さく頷いた。
自分の好きなものについて話せる相手がいること。
その相手が、自分の言葉を真剣に受け止めてくれること。
以前は当たり前のように感じていたことも、最近は少し違って見えるようになっていた。
由美は二人の会話を聞きながら、味噌汁の椀を置いた。
「そういえば、ひより。借りている本、もう少しで読み終わりそうなの?」
「ううん、まだ途中だよ。図書室で借りた短編集も、北条君に薦めてもらって買った本も、少しずつ読んでるところ」
「そうなのね。何冊も並行して読むと、話が混ざったりしない?」
由美が少し不思議そうに尋ねると、ひよりは笑った。
「最初はそう思ってたんだけど、雰囲気が違うから意外と大丈夫だよ。どっちも短いお話がつながってる本だけど、登場する人も場所も違うし、読むときの気分で選べるのが楽しいんだ」
「なるほどね。お母さんも、あなたから借りた『雨上がりの手紙』を少しずつ読んでいるところよ」
由美はそう言って、優しく微笑んだ。
ひよりは嬉しくなり、思わず顔を上げた。
「本当? どう? 面白い?」
「まだ最後まで読んでいないから、感想はもう少し待ってね。でも、最初のほうを読んだだけでも、ひよりが大切にしている理由が少し分かる気がしたわ」
由美はそこで一度言葉を止め、娘の表情を見つめた。
「手紙って、書いた人の気持ちが全部そのまま伝わるわけじゃないでしょう。読む側にも、そのときの事情や気持ちがあるものね。そういうところを丁寧に描いているお話なのかなって思ったの」
ひよりは母の言葉に、静かに頷いた。
まだ読み終えていない由美へ結末に関わる話をするつもりはなかったが、今の感想だけでも十分に嬉しかった。
「うん。私も、そこが好きなんだ。お母さんが読み終わったら、またゆっくり話したいな」
「もちろん。ちゃんと最後まで読んでから、感想を聞かせるわね」
由美がそう答えると、ひよりは笑顔になった。
同じ本を家族と読んで、感想を話し合える日が来る。
それもまた、これから楽しみにしていたいことの一つだった。
◇
県立青葉高校へ向かう道では、朝の風が街路樹の葉を揺らしていた。
ひよりが校門の近くまで来ると、少し先で千夏が友達と話している姿が見えた。千夏はこちらへ気づくと、明るい笑顔で手を振ってくれた。
「ひより、おはよう! 今日、ちゃんと覚えてるよね?」
千夏は冗談めかして尋ねた。
ひよりは笑いながら頷いた。
「もちろん。放課後のお買い物でしょ? 昨日から楽しみにしてたんだから」
「よかった。私もね、昨日の夜に机の上をもう一回見てみたんだけど、やっぱり小物入れが欲しいなって思ったの。今使ってるの、ちょっと大きすぎて場所を取っちゃうんだよね」
千夏は身振りを交えながら、机の上の様子を説明した。
ひよりはその話を聞きながら、どんなものが使いやすいのか一緒に考えた。
「小さい引き出しがついてるのとか、仕切りがあるのとか、いろいろあるよね。千夏はペンとか細かいものを入れたいの?」
「そうそう。消しゴムとか付箋とか、気づくとあちこちに置いちゃうからさ。見た目がかわいいのもいいけど、ちゃんと使いやすいものがいいな」
「分かるよ。私も読書ノートに使う付箋を、どこに置いたか分からなくなることがあるもん」
二人はそんな話をしながら校舎へ入った。
廊下には登校してきた生徒たちの声が響き、教室の入口付近では数人が宿題の内容を確認している。ひよりは千夏と別れて自分の席へ向かい、鞄から教科書を取り出した。
そのとき、隣から声が掛かった。
「天野さん、おはよう」
顔を上げると、橘海斗が立っていた。
「おはよう、橘君」
ひよりが笑顔で答えると、海斗は少しだけ表情を和らげた。
「昨日、図書室へ行ったんだって? 紹介文、展示されてた?」
「うん! 昨日、千夏と一緒に見てきたんだ。ちゃんと『雨上がりの手紙』の隣に置いてあって、すごく嬉しかったよ」
ひよりは自然と声を弾ませた。
海斗はその様子を見て、嬉しそうに頷いた。
「そっか。よかったね。俺も昨日は図書室へ寄れなかったから、今日時間があったら見に行こうと思ってたんだ」
「本当? ぜひ見てみて。橘君にも相談に乗ってもらったから、ちゃんと報告したかったんだ」
ひよりの言葉に、海斗は一瞬だけ返事を忘れた。
自分のことを覚えていてくれた。
それだけのことなのに、胸の奥が少し温かくなる。
(……天野さん、本当に嬉しそうだな。俺も、あの文章が展示されたところを見てみたい)
海斗はそんなことを考えながら、穏やかに笑った。
「うん。放課後に寄ってみるよ。天野さんの文章、俺も好きだったから」
「ありがとう。そう言ってもらえると、やっぱり嬉しいな」
ひよりが照れくさそうに笑うと、海斗は少しだけ視線を逸らした。
彼女が自分の言葉を素直に喜んでくれることが、以前よりも気になるようになっていた。
ただ本の話をしているだけなのに、会話が終わったあとも、その表情が頭に残ることがある。
海斗は自分の気持ちをまだはっきりとは理解していなかったが、ひよりと話す時間を楽しみにしていることだけは確かだった。
◇
午前中の授業は、いつもと変わらない時間の流れの中で進んでいった。
ひよりは黒板に書かれた内容をノートへまとめ、先生の説明を聞きながら、分からないところには小さく印をつけた。窓の外では雲がゆっくりと流れ、時折差し込む陽射しが教室の床を明るく照らしている。
休み時間になると、千夏がひよりの席へやってきた。
「ひより、今日のお買い物なんだけどさ。あのお店、文房具のコーナーが結構広いらしいよ」
「そうなの? じゃあ、栞だけじゃなくて、ノートとかペンも見られそうだね」
「うん。あと、小さな花を飾るための花瓶もあるみたい。私、最初は造花にしようかなって思ってたんだけど、かわいい花瓶があったら本物の花を飾るのもいいなって」
千夏は楽しそうに話した。
ひよりはその表情を見ながら、明日のことではなく、今日の放課後が待ち遠しくなっている自分に気づいた。
友達と一緒に出かけること。
同じものを見て、感想を言い合うこと。
それは特別な事件が起きるわけではない、ごく普通の時間だ。
けれど、ひよりにとっては十分に楽しみなことだった。
「千夏の机、どんな感じになるんだろうね。今度、片づけたら写真見せてほしいな」
「もちろん! でも、ちゃんと片づけられたらね。途中でまた昔の写真とか見始めちゃったら、完成まで時間かかるかもしれないけど」
千夏が笑うと、ひよりもつられて笑った。
そのあと二人は次の授業の準備を始めたが、ひよりの胸の中には放課後への小さな期待が残っていた。
◇
同じころ、私立桜陵学園では、北条真樹が昼休みに神崎蓮と話していた。
教室の窓からは柔らかな陽射しが差し込み、廊下では生徒たちが行き交っている。真樹は弁当を片づけながら、蓮が話している週末の予定へ耳を傾けていた。
「そういえば、真樹。来週の天野さんとの予定、もう決まったのか?」
蓮が尋ねると、真樹は少しだけ笑った。
「まだ日にちは決まってないよ。俺は土曜日でも日曜日でも大丈夫だから、天野と相談して決めるつもり」
「そっか。まあ、急ぐことでもないしな。ノアもいるんだし、天気のいい日に行けるといいな」
「うん。天野もノアに会うのを楽しみにしてくれてるみたいだから、できればゆっくり歩ける日がいいと思ってる」
真樹はそう答えながら、昨日ひよりから届いたメッセージを思い出した。
図書室に『雨上がりの手紙』の紹介文が展示されたという報告だった。
ひよりはとても嬉しそうで、その気持ちが文章からも伝わってきた。
真樹自身も、彼女が頑張って書いた文章が形になったことを嬉しく思っている。
「昨日さ、天野から嬉しい報告があったんだ」
真樹がそう切り出すと、蓮は興味深そうに顔を向けた。
「へえ、何があったんだ?」
「学校の図書室に、天野が書いた本の紹介文が展示されたんだって。前から準備してたのは聞いてたけど、昨日ようやく並んだらしい」
真樹は少し誇らしそうに話した。
蓮はその表情を見て、思わず笑った。
「なるほど。それは天野さん、嬉しかっただろうな。それにしても、お前までそんなに嬉しそうにしてるのが面白い」
「……そんなに顔に出てる?」
「出てるよ。まあ、いいことだと思うけどな」
蓮はからかうように笑ったあと、少しだけ真面目な表情になった。
「でもさ、真樹。天野さんが自分の好きなことを楽しめるようになってるのは、いいことだよな。お前も、その話を聞けるのが嬉しいんだろ?」
真樹は静かに頷いた。
「うん。天野が嬉しそうに話してくれると、俺も嬉しいよ。別に俺が何かしたわけじゃないけど、そういう時間を一緒に喜べるのはいいなって思う」
蓮はその言葉を聞き、穏やかに笑った。
「それでいいんじゃないか。無理に何かを進めようとしなくても、今みたいに自然に話せる関係を大事にすれば」
「そうだな。俺も、そうしたいと思ってる」
真樹は頷き、窓の外へ目を向けた。
ひよりと出会ってから、彼女の小さな変化に気づくことが増えた。
以前よりも、自分の好きなものについて話してくれる。
嬉しいことがあったとき、素直に報告してくれる。
そして、ノアと一緒に過ごす時間を楽しみにしてくれている。
その一つ一つが、真樹にとって大切だった。
◇
昼休みの桜陵学園では、一ノ瀬玲奈が三浦沙耶と一緒に弁当を食べていた。
玲奈は窓際の席に座り、沙耶が話している雑貨店のことへ耳を傾けていた。昨日も少し話題に上がった店について、沙耶は今度の休日に行けそうか予定を確認しているところだった。
「玲奈、今度の日曜日って空いてる? この前話してた雑貨店、ちょっと見に行ってみたいんだよね」
沙耶が尋ねると、玲奈は少し考えた。
「日曜日なら、今のところ大丈夫だと思う。家に帰ってから確認してみるね」
「うん。無理だったら別の日でもいいから。玲奈と一緒に選びたいものがあるんだ」
沙耶は笑顔で答えた。
玲奈はその表情を見ながら、少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
真樹への気持ちは、今も変わらず大切だ。
けれど、昨日沙耶と話したことで、自分の毎日にはほかにも大切なものがたくさんあるのだと改めて感じていた。
友達と出かける約束。
好きなものを選ぶ時間。
何でもない話をしながら笑う昼休み。
そうした時間も、今の自分を支えてくれている。
「沙耶、ありがとう。私も楽しみにしてるね」
玲奈がそう答えると、沙耶は嬉しそうに笑った。
「うん。じゃあ、予定が分かったら教えてね」
二人はそのあと、授業の話や最近読んだ本のことを話しながら昼休みを過ごした。
玲奈はふと、土曜日のカフェで真樹が話していた『雨上がりの手紙』という本の題名を思い出した。
真樹が楽しそうに話していた作品。
どんな物語なのだろう。
玲奈はまだその本を読んでいなかったが、少し興味が湧いていた。
(今度、本屋さんで見かけたら手に取ってみようかな。真樹がどんなところを面白いと思ったのか、私も知ってみたい)
玲奈はそんなことを考えながら、弁当箱の蓋を閉じた。
◇
午後の授業が終わると、青葉高校の教室には放課後らしい賑わいが広がった。
部活動へ向かう生徒たちが次々と教室を出ていき、残った生徒たちは友達と話したり、課題を確認したりしている。ひよりは教科書を鞄へしまい、千夏が準備を終えるのを待っていた。
「ひより、お待たせ! じゃあ、行こうか」
千夏が笑顔で声を掛けてきた。
「うん。今日はよろしくね」
「こちらこそ。いっぱい見て回ろうね」
二人は並んで教室を出た。
昇降口で靴を履き替え、校門を出ると、午後の風が頬を撫でた。空には薄い雲が広がっていたが、雨が降りそうな様子はなく、歩くにはちょうどいい気温だった。
雑貨店までは、学校から歩いて行ける距離にある。
ひよりと千夏は通学路から少し外れた道へ入り、並んで歩きながら今日の授業や明日の予定について話していた。
「ひより、今日の授業、最後のところちょっと難しくなかった?」
「うん。私もノートに印をつけておいたよ。帰ったらもう一回確認しようと思ってる」
「やっぱり? 私もそこが気になってたんだよね。今度、時間があるときに一緒に見直そうよ」
「いいよ。私も分からないところがあるから、二人で確認できたら助かるな」
そんな話をしているうちに、二人は雑貨店の前へ到着した。
店の入口には季節の小物が並び、ガラス越しに色とりどりの文房具や小さな飾りが見える。木製の看板には柔らかな文字が書かれており、店内からは穏やかな音楽が聞こえていた。
「わあ、かわいい。入る前からいろいろ気になるものがあるね」
千夏が目を輝かせると、ひよりも笑顔になった。
「うん。思ってたより広そうだね。どこから見ようか?」
「まずは文房具のところに行ってみない? ひよりの栞も見たいし、そのあと収納用品を探そうよ」
「ありがとう。じゃあ、そうしよう」
二人は入口の扉を開け、店内へ足を踏み入れた。
◇
店内には、木の棚がゆったりと配置されていた。
入口近くには季節の飾りや小さな置物が並び、奥には文房具や収納用品、さらに小さな花瓶や造花のコーナーが見える。照明は柔らかな色合いで、商品を眺めているだけでも落ち着いた気持ちになれる雰囲気だった。
ひよりは千夏と並んで文房具の棚へ向かった。
そこには色とりどりのノートやペン、付箋、便箋などが整然と並んでいる。ひよりは思わず足を止め、棚の端から順番に眺め始めた。
「すごいね。こんなに種類があるんだ」
「でしょ? 私も前に来たときは、全部見きれなかったんだよね」
千夏は楽しそうに笑い、ひよりの隣で商品を眺めた。
ひよりが特に気になったのは、栞が並んでいる小さな棚だった。
紙製のものから金属製のものまで、さまざまな種類が置かれている。花の模様が描かれたものや、細いリボンがついたもの、透明な素材に小さな絵が入ったものなど、どれも違った魅力があった。
「ひより、これなんかどう? 小さな花が描いてあって、すごくかわいいよ」
千夏が手に取ったのは、淡い青色の栞だった。
表面には小さな白い花が描かれており、落ち着いた雰囲気がある。
ひよりは受け取って眺め、思わず笑顔になった。
「本当だ。すごくきれい。派手すぎないから、どんな本にも合いそうだね」
「うん。ひよりの読書ノートにも似合いそうな色だと思って」
千夏の言葉に、ひよりは少し驚いた。
自分が使っている水色の読書ノートを覚えていてくれたことが嬉しかった。
「ありがとう、千夏。そう言ってもらえると、なんだか余計に気になるな」
ひよりは栞を丁寧に戻し、ほかの種類も見比べた。
その中には、薄い金属で作られた葉の形の栞もあった。
細かな模様が入っており、光の当たり方によって少し色が変わって見える。
ひよりはその栞を手に取り、しばらく眺めた。
「これも素敵だな……。でも、金属製って本に挟んだとき、ページが傷ついたりしないのかな」
ひよりが少し心配そうに呟くと、千夏は隣から覗き込んだ。
「どうだろう。薄いけど、角があるものだと気になるかもしれないね。ひよりは本を大事にするから、使いやすさも考えたほうがよさそう」
「そうだね。見た目はすごく好きなんだけど、毎日使うなら紙製のほうが安心かも」
ひよりは金属製の栞を元の場所へ戻し、もう一度淡い青色の栞へ目を向けた。
白い花の模様。
落ち着いた色合い。
そして、千夏が自分に似合うと思って選んでくれたもの。
ひよりは少し考えたあと、その栞を手に取った。
「私、これにしようかな」
千夏は嬉しそうに笑った。
「いいと思う! ひよりらしくて、すごくかわいいよ」
「ありがとう。千夏が見つけてくれたから、余計に気に入っちゃった」
ひよりが照れくさそうに笑うと、千夏は少し得意げに胸を張った。
「ふふん。私の目に狂いはなかったね」
二人は顔を見合わせて笑った。
ひよりは栞を大切に持ちながら、ほかの文房具も眺めた。
読書ノートに使えそうな付箋や、書き心地のよさそうなペンも気になったが、今日は無理に買いすぎないようにしようと思った。
気に入ったものを一つ選ぶ。
それだけでも、十分に満足できそうだった。
◇
文房具のコーナーを見終えた二人は、店の奥にある収納用品の棚へ向かった。
そこには木製の小箱や、仕切りのついた小物入れ、布製の収納ケースなどが並んでいた。千夏は棚の前で足を止め、真剣な表情で一つずつ見比べ始めた。
「うーん、やっぱり迷うなあ。かわいいのはいっぱいあるんだけど、机に置くなら大きすぎないほうがいいし」
千夏は小さな木製の引き出しを手に取り、サイズを確かめた。
ひよりは隣から覗き込み、千夏の話を聞きながら考えた。
「千夏の机って、右側に本を置いてるんだよね? だったら、横に広いものより縦に少し高さがあるほうが置きやすいかも」
「そうそう! それなんだよね。横に広いと、ノートを開く場所が狭くなっちゃうんだ」
千夏は嬉しそうに頷いた。
二人は棚を見ながら、いくつかの小物入れを比べた。
引き出しがついているものは便利そうだが、少し重たい。
布製のものは軽くてかわいいが、細かいものを分けるには工夫が必要そうだった。
千夏はしばらく悩んだあと、木製の小さな仕切り箱へ目を留めた。
「これ、いいかもしれない。ペンも付箋も分けられるし、机の端に置けそう」
ひよりは箱を見つめ、頷いた。
「うん。色も落ち着いてるし、千夏の机に合いそうだね」
「でしょ? それに、あんまり飾りが多くないから、ほかのものとも合わせやすそう」
千夏は箱を手に取り、もう一度大きさを確かめた。
ひよりはその様子を見ながら、千夏が本当に使いやすいものを選ぼうとしていることに気づいた。
見た目だけではなく、毎日使うときのことを考えている。
それは、ひよりが栞を選ぶときに感じたことと少し似ていた。
「千夏、ちゃんと使うところまで考えてるんだね」
ひよりがそう言うと、千夏は少し照れくさそうに笑った。
「まあね。せっかく買うなら長く使いたいし。ひよりが本を大事にするのと、ちょっと似てるかも」
その言葉に、ひよりは嬉しくなった。
「うん。そうかもしれないね」
千夏は最終的に、その小さな仕切り箱を選んだ。
ひよりは隣で見守りながら、友達が気に入ったものを見つけたことを自分のことのように嬉しく思った。
◇
次に二人が向かったのは、小さな花瓶や造花が並んでいるコーナーだった。
棚には透明なガラスの花瓶や、淡い色の陶器製のものが置かれている。隣には小さな造花の束も並んでおり、白や黄色、薄い桃色の花が柔らかな照明に照らされていた。
「わあ……ここもかわいいものがいっぱいだね」
千夏は目を輝かせながら、棚を眺めた。
ひよりも隣で足を止め、小さな花瓶へ目を向けた。
「千夏、どんな花を飾りたいって言ってたっけ?」
「最初は白い花がいいなって思ってたんだけど、こうして見ると淡い黄色もかわいいなあ。机に置くなら、あんまり大きくないほうがいいよね」
千夏はそう言って、小さなガラスの花瓶を手に取った。
丸みのある形で、透明な表面には細い模様が入っている。
ひよりはその花瓶を見つめ、優しく笑った。
「それ、すごくきれいだね。光が当たると、机の上も明るく見えそう」
「うん。窓の近くに置いたらかわいいかも」
千夏は嬉しそうに頷いた。
ただ、花瓶を選ぶとなると、実際に花をどう飾るかも考えなければならない。
千夏は少し悩んだあと、造花のコーナーへ目を向けた。
「今日は造花にしようかな。水を替える心配もないし、まずは机の雰囲気を変えてみたいんだ」
ひよりはその考えに頷いた。
「いいと思うよ。最初は飾りやすいものにして、慣れてきたら本物の花を飾ってみてもいいかもしれないね」
「そうだね。ひより、ありがとう」
千夏は小さな白い花の造花を選び、花瓶と一緒に持った。
ひよりはその組み合わせを見て、思わず笑顔になった。
「すごく似合ってるよ。千夏の机、きっとかわいくなるね」
「ふふ、そう言ってもらえると嬉しいな。帰ったら早速飾ってみようかな」
二人はそのあとも少しだけ店内を見て回った。
ひよりは小さな置物や便箋にも目を留めたが、今日は栞だけを買うことにした。千夏も、選んだ小物入れと花瓶、造花以外には手を伸ばさなかった。
買い物を終えるころには、店内の照明が少しだけ明るく感じられる時間になっていた。
◇
会計を済ませたあと、ひよりと千夏は店の外へ出た。
午後の空には薄い雲が広がっていたが、雨は降っていない。通りには学校帰りの生徒や買い物客が行き交い、店の前に置かれた小さな植木鉢の葉が風に揺れていた。
「はあ、楽しかったね!」
千夏は買い物袋を持ちながら、満足そうに笑った。
ひよりも頷き、手元の小さな袋へ目を向けた。
「うん。思ってたよりいろいろ見られたし、気に入った栞も見つかったから嬉しいな」
「私も、机に置くものがちゃんと選べてよかった。ひよりが一緒に考えてくれたおかげだよ」
「そんなことないよ。千夏がちゃんと使いやすいものを考えてたから、いいものが見つかったんだと思う」
ひよりがそう答えると、千夏は少し照れくさそうに笑った。
二人はそのまま帰り道を歩き始めた。
通り沿いには小さな店が並び、夕方へ向かう街の空気が少しずつ変わっていく。ひよりは歩きながら、今日選んだ栞のことを考えていた。
淡い青色に、小さな白い花。
派手ではないけれど、見ていると落ち着く色合いだった。
千夏が自分に似合うと思って選んでくれたもの。
そのことが、ひよりにとって何より嬉しかった。
「ねえ、千夏」
ひよりが声を掛けると、千夏は顔を向けた。
「どうしたの?」
「今日の栞、大切に使おうと思う。千夏が見つけてくれたから、なんだか特別なものになった気がするんだ」
千夏は少し驚いたように目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。
「そんなふうに言ってもらえると、私まで嬉しくなっちゃうよ。でも、ひよりが気に入ってくれたなら本当によかった」
ひよりは笑顔で頷いた。
「うん。ありがとう」
二人はしばらく並んで歩き、交差点の手前で足を止めた。
信号が変わるのを待つ間、千夏はふと思い出したように尋ねた。
「そういえば、ひより。北条君との公園の予定、もう決まった?」
ひよりは少し驚き、千夏の顔を見た。
「ううん、まだ。北条君は来週の土曜日も日曜日も大丈夫みたいなんだけど、どっちにしようか相談してるところ」
「そっか。ノアにも会えるんだよね。いいなあ、私もいつか会ってみたいな」
千夏は楽しそうに笑った。
ひよりはその言葉に頷いた。
「うん。北条君も、千夏がノアに会いたがってるって話したとき、いいよって言ってくれたから、いつか一緒に会えたらいいね」
「ほんと? それは楽しみだなあ。写真で見ただけでもかわいかったし、実際に会ったらもっと好きになっちゃいそう」
千夏は嬉しそうに笑った。
ひよりもノアの大きな身体と穏やかな表情を思い出し、自然と笑顔になった。
ノアは大きな黒犬だが、ひよりにとってはとても優しい存在だった。
最初に出会ったときから、ノアは彼女のそばへ自然に寄ってきてくれた。
その出会いが、真樹との関係につながっている。
ひよりはそんなことを考えながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
(ノアに会えたから、北条君とも知り合えたんだよね。あの日のこと、今でも不思議なくらい覚えてるな)
信号が青に変わり、二人は並んで横断歩道を渡った。
そのあとも少し話しながら歩き、やがて帰り道が分かれる場所へ到着した。
「じゃあ、ひより。また明日ね!」
「うん。今日はありがとう、千夏。すごく楽しかったよ」
「私も! 帰ったら机の写真、送るかもしれないから楽しみにしててね」
千夏が笑顔で手を振ると、ひよりも手を振り返した。
二人はそれぞれの家へ向かって歩き始めた。
◇
帰宅したひよりは、玄関で靴を脱ぐと、台所にいる由美へ声を掛けた。
「ただいま、お母さん!」
「おかえり、ひより。お買い物、どうだった?」
由美が顔を向けると、ひよりは嬉しそうに買い物袋を持ち上げた。
「すごく楽しかったよ。気に入った栞が見つかったんだ」
「まあ、よかったわね。どんな栞なの?」
由美に尋ねられ、ひよりは袋から小さな包みを取り出した。
中には、淡い青色に白い花が描かれた栞が入っている。
由美はそれを見て、優しく微笑んだ。
「きれいね。落ち着いた色で、ひよりに似合いそう」
「千夏もそう言ってくれたんだ。私の読書ノートの色に似てるからって、見つけてくれたの」
「そうなのね。千夏ちゃん、ひよりの好きなものをよく分かってくれているのね」
由美の言葉に、ひよりは頷いた。
「うん。今日も一緒にいろいろ見てくれて、すごく楽しかったよ」
ひよりは栞を丁寧に包み直し、自室へ持っていくことにした。
階段を上がりながら、今日の出来事を思い返す。
千夏と一緒に選んだ栞。
小物入れを真剣に見比べていた千夏の姿。
小さな花瓶と白い花を選んだときの嬉しそうな笑顔。
どれも、何でもない日常の中にある小さな思い出だった。
けれど、ひよりにとっては十分に大切なものだった。
◇
自室へ戻ると、ひよりは机の上に買い物袋を置いた。
窓からは夕方の光が差し込み、部屋の中には柔らかな橙色が広がっている。机の隅に座っているくるみへ目を向けると、ひよりは自然と笑顔になった。
「ただいま、くるみ。今日はね、かわいい栞を買ってきたんだよ」
ひよりは包みを開き、栞を取り出した。
淡い青色の表面には、小さな白い花が描かれている。
ひよりはそれを水色の読書ノートの隣へ置き、少し離れて眺めた。
「うん。やっぱり、色が似てるね」
ひよりは小さく笑った。
千夏が選んでくれた栞。
それを使うたびに、今日の買い物を思い出すのだろう。
ひよりはそんなことを考えながら、学校の図書室で借りている連作短編集を手に取った。
古い商店街を舞台にした物語。
まだ読み終わっていないその本には、さまざまな人が大切にしているものや思い出が描かれている。
ひよりは新しい栞をページの間へ挟み、しばらく表紙を眺めた。
(この本にも、ちょうど合う気がするな。大切なものって、使うたびに思い出が増えていくのかもしれない)
ひよりはそう考えながら、本を開いた。
読み進めるうちに、物語の中では古い商店街にある小さな店が描かれていた。
店主が長く使っている道具には、見た目だけでは分からない思い出がある。
それを知った登場人物が、以前とは違う気持ちでその道具を見るようになる。
ひよりはその場面を読みながら、今日買った栞へ目を向けた。
まだ新しい栞には、長い思い出があるわけではない。
けれど、千夏と一緒に選んだ時間は、すでに大切な思い出になっている。
これから何冊もの本を読むたびに、その思い出も少しずつ増えていくのかもしれない。
ひよりは本を閉じ、水色の読書ノートを開いた。
今日の出来事を書き留めたいと思った。
ペンを持ち、少し考えてから文章を書き始めた。
『誰かと一緒に選んだものには、そのときの会話や気持ちも残る。新しいものでも、選んだ瞬間から大切な思い出が始まることがある。』
書き終えた文章を読み返すと、ひよりは小さく頷いた。
今日の気持ちを、少しだけ形にできた気がした。
◇
夕食後、ひよりは自室で明日の準備をしていた。
机の上には教科書とノートが並び、通学鞄の中へ順番にしまっていく。今日の買い物で少し歩いたため、いつもより身体に心地よい疲れが残っていた。
そのとき、スマートフォンが小さく震えた。
画面を見ると、千夏から写真が届いていた。
写真には、机の端に置かれた小さな仕切り箱と、白い花を飾ったガラスの花瓶が写っている。周囲にはノートやペンが整然と並び、以前よりもすっきりとした雰囲気になっていた。
『ひより、見て! 今日買ったもの、早速飾ってみたよ。思ってたよりいい感じになった!』
ひよりは写真を見て、思わず笑顔になった。
『すごくかわいい! 小物入れも花瓶も、千夏の机にぴったりだね。白い花があると、明るく見えるね』
返信すると、すぐに千夏から返事が届いた。
『ありがとう! ひよりと一緒に選んでよかった。栞も使ってみたら感想聞かせてね』
『うん。今日、さっそく読んでる本に挟んでみたよ。すごく気に入ってる!』
ひよりがそう送ると、千夏から嬉しそうな絵文字が返ってきた。
ひよりはスマートフォンを置き、机の上にある栞へ目を向けた。
小さな買い物だった。
けれど、友達と一緒に選んだ時間があるだけで、その栞は特別なものになっていた。
ひよりはしばらく眺めたあと、ふと真樹のことを思い出した。
真樹にも、今日のことを話したい。
そう思うと、自然とスマートフォンへ手が伸びた。
ひよりは少し考えてから、メッセージを打ち始めた。
『北条君、こんばんは! 今日は千夏と雑貨店へ行ってきたよ。かわいい栞を見つけたんだ。淡い青色で、小さな白い花が描いてあるの』
送信したあと、ひよりは栞を手に取り、写真を撮った。
机の上に置いた水色の読書ノートと並べると、色合いがよく似ている。
ひよりはその写真も真樹へ送った。
◇
真樹がひよりからのメッセージを読んだのは、ノアの世話を終えて自室へ戻ったときだった。
足元ではノアがゆったりと寝そべり、ときどき尻尾を揺らしている。真樹はスマートフォンを手に取り、画面に表示された写真へ目を向けた。
淡い青色の栞。
小さな白い花。
その隣には、水色の読書ノートが置かれている。
真樹は思わず笑顔になった。
「……天野らしいな」
小さく呟き、写真をもう一度眺めた。
派手ではないが、落ち着いた色合いで、ひよりの雰囲気によく似合っている。
真樹はそう感じた。
それに、ひよりが嬉しそうに報告してくれたこと自体が、何よりも嬉しかった。
真樹は返信を打ち始めた。
『こんばんは、天野。すごくきれいな栞だね。読書ノートとも色が合ってるし、天野に似合いそう。いいものが見つかってよかったね』
送信すると、少ししてひよりから返事が届いた。
『ありがとう! 千夏が見つけてくれたんだ。私の読書ノートの色に似てるからって。今日、一緒に選んだ時間も楽しかったから、大切に使おうと思ってるよ』
真樹はその文章を読み、胸の奥が温かくなるのを感じた。
ひよりは、物そのものだけではなく、それを選んだ時間も大切にしている。
そういうところが、真樹は好きだった。
(……天野は、本当に小さなことを大切にするんだな。だから、話してると俺まで嬉しくなるのかもしれない)
真樹は少し考えてから、返信を送った。
『いい思い出になったんだね。これからその栞を使うたびに、今日のことを思い出せそうだね』
ひよりからは、すぐに返事が届いた。
『うん、私もそう思う! 北条君も、何か長く使ってるものってある?』
真樹はその質問を読み、少し考えた。
自分が長く使っているもの。
いくつか思い浮かんだが、その中でも特に大切にしているものがあった。
ノアがまだ小さかったころに使っていた、古い首輪だった。
今のノアにはもう小さすぎて使えないが、初めて一緒に散歩の練習をしたころの思い出が詰まっている。
真樹は机の引き出しを開け、小さな箱を取り出した。
中には、丁寧にしまわれた古い首輪が入っている。
真樹はそれを手に取り、少し懐かしそうに笑った。
「ノア、お前が小さかったころの首輪だよ」
足元のノアは真樹の声に反応し、ゆっくりと顔を上げた。
真樹は笑いながら首輪を見せた。
「今のお前には、もう全然合わないな」
ノアは鼻先を近づけ、少しだけ匂いを嗅いだ。
真樹はその様子を見ながら、幼いころのノアを思い出した。
まだ身体が小さく、散歩の途中で立ち止まってしまうことも多かった。
初めて首輪をつけたときは、少し気にしていたが、すぐに慣れて元気に歩き始めた。
そのころの思い出が、今でも鮮明に残っている。
真樹は首輪を箱へ戻し、ひよりへ返信した。
『あるよ。ノアが子犬だったころに使ってた首輪を、今でも大事にしまってあるんだ。もう小さくて使えないけど、初めて一緒に散歩したころの思い出があるから』
送信すると、ひよりからすぐに返事が届いた。
『わあ、素敵だね! ノアが小さかったころの首輪なんだ。今のノアを見ると、子犬だったころが想像できないけど、きっとすごくかわいかったんだろうな』
真樹は思わず笑った。
『うん。今よりずっと小さかったよ。でも、元気なところは昔から変わってないかな』
『ふふ、そうなんだ。いつか子犬のころのノアの写真も見せてもらえたら嬉しいな』
真樹はその文章を読み、自然と頷いた。
『もちろん。今度、写真を探しておくよ。来週の散歩のときにでも見せられたらいいね』
送信すると、ひよりから嬉しそうな返事が届いた。
『ありがとう! 楽しみにしてるね』
真樹はスマートフォンを置き、足元のノアへ目を向けた。
ノアはすでに落ち着いた様子で寝そべっており、真樹が見つめると尻尾をゆっくりと揺らした。
「来週、天野と一緒に散歩できるといいな」
真樹がそう声を掛けると、ノアは顔を上げて小さく鼻を鳴らした。
真樹は笑いながら、その頭を優しく撫でた。
◇
夜、ひよりはベッドへ入る前に、もう一度水色の読書ノートを開いた。
今日買った栞は、読みかけの短編集に挟んである。
机の上には、くるみがいつもと変わらない表情で座っていた。
ひよりはノートへ目を向け、今日の出来事を思い返した。
千夏と一緒に選んだ栞。
千夏が選んだ小物入れと、小さな白い花。
そして、真樹が話してくれたノアの古い首輪。
どれも違うものだが、大切にしている理由には少し似たところがある気がした。
物そのものの価値だけではなく、そこに重なった時間や思い出がある。
ひよりはペンを持ち、ゆっくりと文章を書き始めた。
『大切なものには、誰かと過ごした時間が残っていることがある。今日選んだ栞も、これから読む本と一緒に、新しい思い出を増やしていけたらいいな。』
書き終えたあと、ひよりは小さく頷いた。
今日の気持ちを、少しだけ形にできた気がした。
それからノートを閉じ、机の隅に座っているくるみへ目を向けた。
「ねえ、くるみ。今日も楽しかったよ。千夏と一緒にお買い物できたし、北条君ともいろいろ話せたんだ」
ひよりはくるみの頭をそっと撫でた。
「ノアが小さかったころの写真も、今度見せてもらえるかもしれないんだって。楽しみだな」
そう言って笑ったあと、ひよりは少しだけ考え込んだ。
真樹とノアとの公園散歩。
来週の土曜日か日曜日に行けたらいいと話しているが、まだ具体的な日にちは決めていない。
ひよりはスマートフォンを手に取り、真樹とのメッセージを開いた。
少し迷ったあと、文章を打ち始めた。
『北条君、来週の公園のことなんだけど、土曜日の午後はどうかな? 家の予定も確認したけど、今のところ大丈夫そうなんだ』
送信すると、ひよりは少しだけ緊張した。
真樹は土曜日も日曜日も空いていると言っていたが、具体的な時間まで確認したわけではない。
無理をさせたくない。
そう思いながら返事を待っていると、しばらくしてスマートフォンが震えた。
『土曜日の午後、俺も大丈夫だよ。ノアも喜ぶと思う。天気がよければ、いつもの公園をゆっくり歩こうか』
ひよりはその文章を読み、自然と笑顔になった。
『うん! 楽しみにしてるね。時間はまた近くなったら相談しよう』
『そうだね。天気も見ながら決めよう。天野、今日はお買い物お疲れさま。ゆっくり休んでね』
『ありがとう。北条君もおやすみなさい』
ひよりは最後のメッセージを送り、スマートフォンを机へ置いた。
来週の土曜日の午後。
まだ具体的な時間は決まっていないが、真樹とノアと一緒に公園を歩く約束が、少しだけはっきりした形になった。
ひよりはベッドへ入り、布団を肩まで引き上げた。
窓の外には静かな夜空が広がり、遠くの街灯が淡く光っている。
今日買った栞は、読みかけの本の間に挟まれている。
明日も学校があり、いつものように授業を受け、友達と話し、家へ帰るだろう。
それでも、ひよりは明日を楽しみに思っていた。
今日のような小さな出来事が、また一つ増えるかもしれない。
誰かと笑い合える時間があるかもしれない。
そして、来週の土曜日には、真樹とノアと一緒に公園を歩くことができるかもしれない。
ひよりは目を閉じる直前、今日の栞を思い浮かべた。
淡い青色と、小さな白い花。
千夏が見つけてくれた、特別な一枚。
それは、今日という一日を思い出すための、小さな宝物になっていた。
ひよりは穏やかな気持ちのまま、ゆっくりと眠りへ落ちていった。




