第71話 水曜日の図書室で、私の言葉が誰かに届いた日
水曜日の朝、天野ひよりが目を覚ましたとき、窓の外には久しぶりに澄んだ青空が広がっていた。昨日は薄い雲が空を覆っていたが、今日は朝から陽射しが明るく、カーテンの隙間を通った光が机の上に細長い模様を作っている。ひよりは布団から身体を起こすと、少しだけ眠たそうに目を擦り、それから机の隅に座っている茶色のぬいぐるみへ笑顔を向けた。
「おはよう、くるみ。今日はいい天気だね。明日は千夏とお買い物だから、今日も頑張らなくちゃ」
少し傾いた耳と、くるみの実に似た鼻を持つぬいぐるみは、もちろん返事をしない。それでも、姉の美月に縫い目を直してもらってから以前よりも安心して触れられるようになったくるみを見ていると、ひよりは自然と穏やかな気持ちになれた。
机の端には、くるみのものだった淡い黄色のリボンが置かれている。幼いころから一緒に過ごしてきたぬいぐるみには、家族との思い出がいくつも重なっていた。
ひよりはくるみの頭をそっと撫でると、制服へ着替えるために立ち上がった。
今日も学校がある。
授業を受け、友達と話し、家へ帰ってからは読みかけの本の続きを読む。そんな普段と変わらない一日になるはずだったが、明日の放課後には千夏と雑貨店へ行く約束があるため、ひよりの気持ちはいつもより少しだけ弾んでいた。
(栞も見たいけど、読書ノートに使えるものも気になるな。千夏は机に置く小さな花を探してるんだよね。どんな色が似合うかな)
ひよりは制服のリボンを整えながら、昨日の帰り道で話したことを思い出した。
千夏は明るい色の花も好きだが、机に置くなら落ち着いた雰囲気のものがいいと言っていた。ひより自身も、今使っている栞とは少し違うものを探してみたいと思っている。
どちらも必ず買わなければならないわけではない。
気になるものを見つけ、友達と感想を言い合いながら選ぶ時間そのものが楽しみだった。
着替えを終えたひよりは、机の上に置いてある水色の読書ノートを手に取った。昨夜書いた文章には、まだ来ていない約束を楽しみにする気持ちが残されている。
真樹とノアとの公園散歩についても、少しずつ予定が具体的になってきた。
真樹は来週の土曜日も日曜日も、今のところ予定が空いているという。ひよりも家族に大きな用事がないことは確認できているが、どちらの日にするかはまだ決めていない。
(北条君、どっちでも大丈夫って言ってくれたんだよね。でも、私だけで決めちゃうのもなんだか悪い気がするし、今日もう少し相談してみようかな)
ひよりはそんなことを考えながら、ノートを閉じた。
約束を決めることに慣れていないわけではない。
千夏と出かけるときなら、都合のいい日を相談して、行きたい場所を決めればいい。それなのに、真樹との約束になると、少しだけ慎重になってしまう。
その理由を、ひよりはまだうまく説明できなかった。
◇
朝食の席では、母の由美が温かな味噌汁をよそいながら、ひよりへ声を掛けた。
「ひより、明日は千夏ちゃんとお買い物なのよね。行くお店はもう決まっているの?」
「うん。学校から帰る途中にある雑貨店だよ。千夏は机に置くものを探してて、私は栞とか文房具を見たいんだ」
ひよりが答えると、向かいに座っていた父の浩介が新聞から顔を上げた。
「栞か。そういえば、ひよりは昔から本に挟むものを選ぶのが好きだったな。小さいころ、旅行先で買ったものを大事に使っていたのを覚えているよ」
「えっ、お父さん、そんなことまで覚えてるの?」
思いがけない話に、ひよりは驚いて箸を止めた。
浩介は懐かしそうに笑いながら、湯呑みを置いた。
「覚えているさ。お土産屋さんでいろいろ見ていたのに、最後に選んだのが小さな栞だったからね。もっと大きなものを欲しがるかと思っていたんだ」
「そうだったんだ……。私、そのときのことはあんまり覚えてないかも」
ひよりは少し考えてみたが、旅行先で栞を選んだ記憶は曖昧だった。
けれど、子どものころから使っていたものをしまってある箱の中には、確かに昔買ってもらった栞があったはずだ。最近は取り出していなかったが、今度時間のあるときに見てみようと思った。
由美は二人の会話を聞きながら、優しく微笑んだ。
「ひよりは昔から、気に入ったものを長く大事にする子だったものね。くるみちゃんだって、ずっと一緒にいるでしょう?」
「うん。くるみは特別だから」
ひよりが照れくさそうに答えると、浩介は穏やかに頷いた。
「明日も、気に入ったものが見つかるといいな。ただ、無理に何か買わなくてもいいんだから、千夏ちゃんと楽しんでおいで」
「ありがとう、お父さん。私もそう思ってるよ」
ひよりは笑顔で答え、朝食を食べ進めた。
食卓ではそのあと、由美が週末の買い物について話し、浩介が仕事帰りに寄る店のことを確認していた。兄の悠一は少し遅れて台所へ顔を出し、ひよりの栞の話を聞くと、昔の彼女が本の間に落ち葉を挟もうとして由美に止められたことを思い出したらしく、楽しそうに笑っていた。
「もう、お兄ちゃん。そんな昔のことまで言わなくていいよ」
「いや、懐かしいなと思ってさ。あのころから、本に関係するものが好きだったんだな」
ひよりは頬を膨らませたものの、家族が自分の小さな思い出を覚えていてくれることは嬉しかった。
朝食を終えて玄関へ向かうころには、家の中にいつもの朝の慌ただしさが戻っていた。ひよりは鞄を肩へ掛け、家族へ挨拶をすると、明るい陽射しの中へ歩き出した。
◇
県立青葉高校の校門付近では、登校してきた生徒たちが友達を見つけて手を振ったり、昨日の宿題について話したりしていた。ひよりが人の流れに合わせて歩いていると、少し先で藤崎千夏がこちらへ気づき、大きく手を振ってくれた。
「ひより、おはよう! 今日はいい天気だね。明日もこれくらい晴れてくれたらいいなあ」
「おはよう、千夏。そうだね。お買い物の日に雨が降らないといいね」
二人は並んで校舎へ向かった。
千夏は昨夜、机の上に置いているものを少し整理したらしく、どのくらいの大きさの収納用品が欲しいのか考えてきたという。ひよりはその話を聞きながら、自分も机の上に本を積み重ねすぎないようにしたいと思った。
「でもね、片づけてたら昔の写真とか手紙とか出てきちゃって、結局そっちを見始めちゃったんだよね。片づけあるあるって感じ」
千夏が少し困ったように笑うと、ひよりも思わず頷いた。
「分かるよ。私も家族の写真を整理してたとき、つい一枚ずつ見ちゃって、全然進まなかったもん」
「そうそう。懐かしいものって、見つけた瞬間に手が止まるんだよね。でも、そういう時間も嫌いじゃないな」
千夏はそう言って笑ったあと、ひよりの顔を覗き込んだ。
「そういえば、ひより。最近、読書ノートのほうはどう? まだ続けてるんでしょ?」
「うん。毎日必ず書いてるわけじゃないけど、気になったことがあったら少しずつ書いてるよ。昨日は、誰かと約束を決める時間も楽しいなって思って、そのことを書いたんだ」
「へえ、いいね。ひよりって、最近そういう小さなことに気づくのが上手になった気がする」
千夏の言葉に、ひよりは少し驚いた。
「昨日も似たようなこと言ってくれたよね。そんなに変わったかな?」
「変わったと思うよ。でも、急に別人になったって意味じゃないからね。前からひよりは人の話をちゃんと聞いてくれるし、好きなものを大切にしてたけど、最近はそれを言葉にすることが増えた感じ」
千夏は歩く速度を少し緩め、ひよりの表情を見ながら続けた。
「前は、嬉しいことがあっても『うん、嬉しかった』って言って終わることが多かったでしょ。でも今は、どうして嬉しかったのかまで話してくれるから、私も聞いてて楽しいんだよね」
ひよりはすぐに返事ができず、足元へ視線を落とした。
千夏は以前から自分のことをよく見てくれていた。
失恋したあと、ひよりが無理に明るく振る舞おうとしていたときも、必要以上に問い詰めず、いつもどおり隣にいてくれた。
そんな友達が、自分の変化を喜んでくれている。
ひよりは胸の奥が温かくなるのを感じながら、顔を上げた。
「ありがとう、千夏。私も、千夏に話を聞いてもらえるのが嬉しいよ。自分では気づかなかったことを教えてもらえるし、何でもない話でも楽しくなるから」
「それはこっちの台詞だよ。明日のお買い物だって、ひよりと一緒だから楽しみなんだもん」
千夏は照れくさそうに笑い、ひよりの肩を軽く叩いた。
二人は顔を見合わせて笑いながら、教室へ向かった。
廊下の窓から差し込む朝の光は明るく、教室の入口付近では数人の生徒が週末の予定について話していた。ひよりは千夏と別れて自分の席へ向かい、鞄から教科書を取り出した。
そのとき、机の横から声が掛かった。
「天野さん、おはよう」
顔を上げると、橘海斗が文庫本を片手に立っていた。
「おはよう、橘君。今日は早いね」
「今日はちょっと読みたい本があって、早めに来たんだ。家だと途中で時間がなくなっちゃうから、学校で少し読もうと思って」
海斗は手にしていた本を軽く持ち上げた。
ひよりは表紙へ目を向けたが、見覚えのない作品だった。
「新しい本?」
「うん。前から気になってた短編集。まだ最初の話しか読んでないけど、静かな雰囲気で面白そうなんだ」
海斗は本を鞄へしまいながら、少し笑った。
「最近、天野さんと話してると、今まで読まなかったような本にも興味が出てくるんだよね。前はもっと展開の早い話を選ぶことが多かったんだけど」
ひよりはその言葉に目を丸くした。
「そうなんだ。でも、橘君が教えてくれる本も面白そうなものが多いよ。私も、今まであんまり読んでこなかったジャンルを読んでみたいって思うことがあるし」
「それなら、今度読み終わったら感想を話すよ。天野さんが好きそうな話だったら、紹介できるかもしれない」
「うん、楽しみにしてるね」
ひよりが笑顔で答えると、海斗は少しだけ視線を逸らした。
彼女が自分の話を楽しみにしてくれる。
それは以前なら、同じ趣味を持つ友達として素直に嬉しいだけだったはずなのに、最近はその笑顔を見るたび、胸の奥が落ち着かなくなることがあった。
(……別に、変なことを言ったわけじゃないよな。ただ、本の話をしただけだし)
海斗はそんなことを考えながら、自分の席へ戻った。
ひよりは彼の様子を特に不思議には思わず、次の授業の準備を始めた。
◇
午前中の授業は、いつもより少しだけ長く感じられた。
二時間目には黒板いっぱいに説明が書かれ、ひよりは先生の話を聞きながらノートへ要点をまとめていった。窓の外では風が吹くたびに木々の葉が揺れ、校庭からは体育の授業を受けている生徒たちの掛け声が聞こえてくる。
休み時間になると、ひよりはペンを置いて小さく肩を回した。
隣の席の生徒が授業の内容について友達と確認している声を聞きながら、ひよりもノートの書き漏らしがないか見直す。今日は説明が多かったため、帰宅してからもう一度整理したほうがよさそうだった。
そんなことを考えていると、千夏が飲み物を片手に近づいてきた。
「ひより、午後って図書室に寄る予定ある?」
「うーん、今日はどうしようかな。昨日は行かなかったし、少し本を見たい気もするけど」
「私も寄ってみたいんだ。借りてる本はまだ読み終わってないけど、展示が変わってないか気になるし」
千夏はそう言って、少しだけいたずらっぽく笑った。
ひよりはすぐに何のことか分かり、頬を赤くした。
「もしかして、紹介文のこと?」
「もちろん、それもあるよ。でも、普通に本を見たいっていうのも本当だからね」
千夏の言葉に、ひよりは少し考えた。
月曜日に図書室へ行ったときは、まだ自分の紹介文は展示されていなかった。昨日も準備が終わったという話は聞いていないため、今日も変わっていないかもしれない。
けれど、いつ展示されるのかを気にしているだけでは、何も変わらない。
ひよりは小さく頷いた。
「じゃあ、放課後に一緒に行こうか。私も少し見たい本があるし、展示のことは気長に待つつもりだから」
「うん。そうしよう」
千夏は嬉しそうに笑い、次の授業の準備へ戻っていった。
ひよりはその後ろ姿を見送りながら、机の上に置いたノートへ目を向けた。
自分が書いた文章を、誰かが読むかもしれない。
そう考えると、今でも少し緊張する。
けれど以前よりは、その緊張を楽しみに近いものとして受け止められるようになっていた。
◇
同じころ、私立桜陵学園では、北条真樹が休み時間に神崎蓮と話していた。
窓際の席には明るい陽射しが差し込み、教室では次の授業へ向けて教科書を取り出す音があちこちから聞こえている。真樹は机の上に置いた手帳を閉じ、蓮の話へ耳を傾けていた。
「それで、真樹。来週の休日はどうなりそうなんだ?」
蓮が何気なく尋ねると、真樹は少しだけ笑った。
「俺の予定は確認できたよ。土曜日も日曜日も今のところ大丈夫だから、あとは天野と相談して決めようと思ってる」
「そっか。じゃあ、もう少しだな。ノアも喜びそうだし、天野さんも楽しみにしてるんだろ?」
「うん。昨日のメッセージでも、楽しみだって言ってくれた」
真樹はそう答えながら、昨夜のやり取りを思い出した。
ひよりは、どちらの日にするかもう少し考えてみると言っていた。
無理に急がせるつもりはないが、真樹自身もその日が来るのを楽しみにしている。
蓮は友人の表情を見て、小さく笑った。
「お前、天野さんの話をしてるとき、ほんと分かりやすくなったよな」
「そうかな。自分ではあんまり変わってないと思うんだけど」
「いや、変わったよ。前は誰と話してても落ち着いてたけど、最近は天野さんの話になると、ちょっと嬉しそうなんだよ」
真樹は困ったように笑い、手帳を鞄へしまった。
蓮の言葉を否定することはできなかった。
ひよりからメッセージが届くと嬉しい。
彼女がノアの写真を喜んでくれると、また写真を撮りたくなる。
本の感想を聞かせてもらうと、同じ本を読み返したくなることもある。
そうした気持ちは、以前の自分にはなかったものだった。
「……まあ、天野と話すのは楽しいよ。無理に話題を探さなくても、自然に話せるから」
真樹が静かに答えると、蓮は少しだけ表情を和らげた。
「それならいいんじゃないか。変に格好つけようとするより、いつもどおりのお前でいたほうが、天野さんも安心すると思うぞ」
「そうだな。俺も、そうしたいと思ってる」
真樹は頷き、窓の外へ目を向けた。
ひよりと初めて出会ったころ、彼女はどこか遠慮がちなところがあった。自分の気持ちを言葉にする前に、相手がどう思うかを考えすぎてしまうような様子もあった。
けれど最近は、本の話をするときも、ノアに会いたいと伝えてくれるときも、以前より少し素直になっている気がする。
その変化を、真樹は嬉しく思っていた。
彼女が安心して笑える時間を、これからも増やしていきたい。
そう考えたところで、授業開始を知らせる予鈴が鳴った。
蓮は軽く手を振って自分の席へ戻り、真樹も教科書を開いた。
◇
昼休みの桜陵学園では、一ノ瀬玲奈が三浦沙耶と一緒に弁当を食べていた。
窓から差し込む光が机の上を明るく照らし、周囲では週末の予定や部活動の話をする生徒たちの声が重なっている。玲奈は弁当箱の蓋を開けながら、沙耶が話している雑貨店のことへ耳を傾けていた。
「この前見つけたお店、今度一緒に行ってみない? 小物がかわいいって聞いたんだけど、私一人だと何を選ぶか迷っちゃいそうで」
沙耶がそう言うと、玲奈は嬉しそうに頷いた。
「いいね。私も最近、部屋に置くものを少し変えたいなって思ってたの。落ち着いた色のものがあったら見てみたい」
「じゃあ、今度予定を合わせようよ。玲奈と一緒なら、いろいろ相談できそうだし」
沙耶は笑顔で答えた。
玲奈はその表情を見ながら、土曜日のカフェで過ごした時間を思い出した。
真樹と二人で出かけたことは、今でも大切な思い出になっている。
けれど、あの日から少し時間が経った今、玲奈は自分の気持ちをどう扱えばいいのか、以前よりも考えるようになっていた。
真樹は優しい。
幼馴染として長く一緒に過ごしてきた玲奈にも、いつも自然に接してくれる。
だからこそ、その優しさが特別なものなのか、それとも昔から変わらない親しさなのか、分からなくなることがあった。
沙耶は玲奈が少し考え込んでいることに気づき、箸を置いた。
「玲奈、何か気になることでもある?」
「……ううん。ちょっと考え事してただけ」
玲奈はそう答えたが、沙耶は無理に笑わせようとはしなかった。
その代わり、少しだけ声を落として尋ねた。
「真樹君のこと?」
玲奈は思わず顔を上げた。
沙耶の表情は穏やかで、からかうような様子はない。
そのことに安心しながらも、玲奈は少しだけ頬を赤くした。
「……そんなに分かりやすいかな」
「玲奈のこと、長く見てるからね。でも、無理に話さなくてもいいよ」
沙耶は優しく笑った。
玲奈はしばらく迷ったあと、小さく息を吐いた。
「この前、真樹とカフェへ行ったでしょ。すごく楽しかったし、また出かけようって話もできたんだけど……それから、ちょっと考えちゃうことが増えて」
「うん」
「真樹にとって、私はずっと幼馴染なんだろうなって。もちろん、それが嫌なわけじゃないんだよ。昔から一緒にいられたことは嬉しいし、今でも普通に話せるのは幸せだと思う」
玲奈はそこで一度言葉を止め、弁当箱の端へ視線を落とした。
自分の気持ちを口にするのは、思っていたよりも難しかった。
「でも、私だけが違う意味で大切に思ってたら、いつか今の関係が変わっちゃうのかなって……そんなことを考えると、少し怖くなるの」
沙耶は玲奈の言葉を最後まで聞き、静かに頷いた。
「そっか。玲奈は、真樹君との今の関係も大切なんだね」
「うん。だから、何かを急いで変えたいわけじゃないの。ただ、ずっとこのままでいいのかなって思うこともある」
玲奈は少し困ったように笑った。
沙耶はその表情を見ながら、慎重に言葉を選んだ。
「私は、玲奈が自分の気持ちを大切にしてくれたらいいなって思うよ。今すぐ何かしなきゃいけないわけじゃないし、真樹君がどう思ってるかも、玲奈が全部決めつけなくていいんじゃないかな」
玲奈はゆっくりと顔を上げた。
「……そうだね。私、考えすぎちゃうところがあるのかもしれない」
「考えるのは悪いことじゃないよ。それだけ大切なんだと思うし。でも、玲奈自身が楽しかったことまで、不安で消しちゃわないでほしいな」
沙耶の言葉に、玲奈は小さく頷いた。
土曜日のカフェで過ごした時間は、確かに楽しかった。
真樹が笑ってくれたことも、昔のノアの話をしたことも、玲奈にとっては大切な思い出だ。
その気持ちまで疑う必要はないのだと思うと、胸の奥に少しだけ余裕が生まれた。
「ありがとう、沙耶。なんか、話してよかった」
「どういたしまして。じゃあ、今度は私ともおいしいもの食べに行こうよ。玲奈が見つけたカフェ、私も気になってるんだから」
沙耶が明るく笑うと、玲奈もつられるように笑った。
「うん。今度、一緒に行こうね」
玲奈はそう答えながら、窓の外へ目を向けた。
真樹への気持ちがなくなったわけではない。
けれど、その気持ちだけで自分の毎日をいっぱいにしなくてもいい。
沙耶と過ごす時間も、家族と話す時間も、自分が好きなものを選ぶ時間も、同じように大切にしていきたかった。
◇
午後の授業が終わるころ、青葉高校の廊下には放課後らしい賑わいが広がっていた。
部活動へ向かう生徒たちが鞄を持って教室を出ていき、教室の中では残った生徒たちが友達と話したり、課題を確認したりしている。ひよりは教科書を鞄へしまい、千夏が準備を終えるのを待っていた。
「ひより、お待たせ。図書室へ行こうか」
「うん。今日は少しだけ本を見てから帰ろう」
二人は並んで教室を出た。
廊下の窓からは明るい午後の光が差し込み、階段を下りる生徒たちの足音が響いている。ひよりは千夏と明日の雑貨店について話しながら、図書室へ向かった。
扉を開けると、いつものように紙と本棚の落ち着いた匂いが迎えてくれた。
室内には数人の生徒がいて、閲覧席では静かに勉強している姿も見える。ひよりは自然と声を落とし、千夏と並んで入口近くの展示スペースへ目を向けた。
そこで、足が止まった。
以前まで並んでいた本の一部が入れ替わり、展示台の中央には、見覚えのある表紙の本が置かれていた。
淡い色合いの装丁。
静かな雰囲気の中に、一通の手紙が印象的に描かれた表紙。
ひよりが何度も読み返した、大切な一冊。
『雨上がりの手紙』だった。
その隣には、小さな紹介カードが立てられている。
ひよりは思わず息を止めた。
カードに書かれている文章は、自分が何度も考え、書き直し、木曜日に提出したものだった。
『一通の手紙から始まる、人と人との小さな物語。すぐには伝わらなかった気持ちも、相手を思う時間の中で少しずつ形になっていきます。』
ひよりはゆっくりと視線を動かし、続きの文章を読んだ。
『同じ言葉でも、読む人や読むときの気持ちによって、違う意味を持つことがあります。この本を読んだあと、誰かの言葉をもう少し大切に受け取りたくなりました。』
確かに、自分が書いた文章だった。
文字の配置は読みやすく整えられ、表紙と一緒に並んでいることで、提出したときとは少し違って見える。
「……ひより」
隣から千夏が小さく声を掛けた。
ひよりが顔を向けると、千夏は嬉しそうに笑っていた。
「展示されてるよ。ひよりの紹介文」
「……うん。ほんとに、展示されてる」
ひよりは小さな声で答えた。
胸の奥がじんわりと温かくなり、同時に少しだけ緊張が広がっていく。
自分の書いた文章が、図書室の展示台に置かれている。
それは分かっていたはずのことなのに、実際に目の前にすると、不思議な気持ちだった。
家で書いていたときは、ただ自分の好きな本について考えていただけだった。
千夏や海斗に相談し、真樹にも文章を読んでもらいながら、少しずつ言葉を整えていった。
その文章が、今は自分の手を離れ、誰かに読んでもらうためにここへ置かれている。
(……本当に、展示されたんだ。私が書いた言葉が、ここにあるんだね)
ひよりは胸元で鞄の持ち手を握り直し、もう一度紹介カードへ目を向けた。
嬉しい。
けれど、それだけではなかった。
知らない人が読むかもしれないと思うと、少し恥ずかしい。
文章の意味がちゃんと伝わるだろうかと、不安にもなる。
それでも、ひよりは目を逸らしたくなかった。
自分で考え、自分で選んだ言葉だからこそ、最後まで見届けたいと思った。
千夏はそんなひよりの横顔を見ながら、静かに微笑んだ。
「すごくいい感じだね。表紙と一緒に並んでると、ひよりの文章がもっと読みやすく感じる」
「……ありがとう。私、なんだかまだ実感がなくて」
ひよりは少し照れながら答えた。
「家で書いてたときは、こんなふうに並ぶところまで想像できなかったんだ。提出したときも緊張してたけど、実際に見ると、また違う緊張があるね」
「うん。でも、私はすごく嬉しいよ。ひよりが頑張って書いてたの、知ってるから」
千夏の言葉に、ひよりはゆっくりと頷いた。
自分一人で書いた文章ではあるが、完成するまでにはいろいろな人の言葉があった。
千夏が背中を押してくれたこと。
海斗が、初めて読む人にも物語の雰囲気が伝わるように考えてくれたこと。
真樹が最後の一文を気に入ってくれたこと。
その一つ一つが、今の紹介文につながっている。
ひよりは展示台を見つめながら、小さく息を吐いた。
「……千夏、ありがとう。私、やっぱり書いてよかった」
千夏はその言葉を聞き、嬉しそうに笑った。
「うん。私も、ひよりが書いてくれてよかったと思う」
二人はしばらく展示台の前に立ち、ほかの紹介カードも眺めていた。
それぞれの本には違う文章が添えられており、書いた人が何を大切に感じたのか、少しずつ伝わってくる。
ひよりは自分の文章だけではなく、ほかの生徒たちが選んだ言葉にも興味を持った。
同じように本を紹介する文章でも、書き方は人によって違う。
物語の面白さを伝えようとする人もいれば、登場人物の魅力を紹介する人もいる。
短い文章の中にも、それぞれの好きなものが詰まっているのだと感じられた。
◇
ひよりと千夏が展示台の前を離れ、本棚のほうへ向かおうとしたときだった。
入口から入ってきた一人の女子生徒が、展示スペースの前で足を止めた。
ひよりたちより少し年下に見えるその生徒は、並んでいる本を一冊ずつ眺め、やがて『雨上がりの手紙』の前へ視線を向けた。
ひよりは偶然その様子に気づいたものの、声を掛けるつもりはなかった。
紹介文を読んでくれるかもしれない。
そう思うだけで少し緊張したが、相手の読書を邪魔したくなかったからだ。
女子生徒は表紙を見たあと、隣の紹介カードへ顔を近づけた。
最初の一文から、ゆっくりと視線を動かしている。
ひよりは思わず足を止めそうになったが、千夏が隣で小さく笑い、さりげなく本棚のほうへ歩くよう促してくれた。
二人は少し離れた場所へ移動し、背表紙を眺めながら静かに本を探し始めた。
ひよりは気になる本を一冊手に取ったものの、すぐには内容が頭に入ってこなかった。
さっきの女子生徒が、紹介文を最後まで読んでくれただろうか。
それとも、少し見ただけで別の本へ移っただろうか。
気になってしまう自分に、ひよりは少しだけ苦笑した。
(……こんなに気になるんだ。自分が書いた文章を誰かが読むって、思ってたより緊張するんだね)
ひよりは一度ゆっくりと息を整え、手にしていた本の表紙へ目を向けた。
誰かが何を感じるかは、自分には決められない。
紹介文を読んで興味を持つ人もいれば、別の本を選ぶ人もいるだろう。
それでも、誰かが立ち止まってくれたこと自体が嬉しかった。
しばらくして、千夏が小さな声で話しかけてきた。
「ひより、さっきの子、紹介カードを読んでたね」
「……うん。私も見えた」
ひよりが少し照れながら答えると、千夏は優しく笑った。
「ちゃんと誰かの目に留まってるんだよ。ひよりの文章」
その言葉に、ひよりは胸の奥が温かくなるのを感じた。
自分の書いた言葉が、知らない誰かへ届くかもしれない。
それは、思っていた以上に嬉しいことだった。
◇
図書室を出たあと、ひよりと千夏は昇降口へ向かいながら、展示のことを話していた。
廊下には放課後の陽射しが差し込み、窓の外では部活動の生徒たちが校庭へ集まっている。遠くから聞こえる掛け声と、廊下を歩く生徒たちの足音が重なる中、ひよりはまだ少し夢を見ているような気持ちだった。
「ひより、写真は撮らなかったんだね」
千夏が尋ねると、ひよりは頷いた。
「うん。撮ってもよかったのかもしれないけど、今日は見るだけにしたかったんだ。なんだか、ちゃんと自分の目で覚えておきたくて」
千夏はその言葉を聞き、少しだけ目を細めた。
「そっか。ひよりらしいね。でも、また見に行けるんだし、次に行ったときは写真を撮ってもいいかもね」
「うん。図書委員の人に確認してから、撮れそうだったら撮ってみようかな」
ひよりはそう答えながら、真樹のことを思い出した。
真樹は別の学校に通っているため、青葉高校の図書室へ気軽に来られるわけではない。
以前、展示されたら写真を見せられたらいいと話したことがあった。
今日のことを伝えたら、きっと喜んでくれるだろう。
(北条君にも、ちゃんと報告したいな。文章を読んでくれたし、展示されるのを楽しみにしてくれてたもんね)
ひよりはそんなことを考えながら、靴を履き替えた。
校門を出ると、午後の風が頬を撫でた。
空は朝よりも少し淡い青色になっており、遠くには薄い雲が浮かんでいる。ひよりは千夏と並んで歩きながら、明日の雑貨店についても話した。
「明日、学校が終わったらそのまま行くんだよね?」
ひよりが確認すると、千夏は頷いた。
「うん。荷物が多かったら一度考えようと思ってたけど、明日は特に大きなものを持っていく予定もないし、そのままで大丈夫そう」
「そっか。私も大丈夫だと思う。あんまり遅くならないように、時間を見ながら回ろうね」
「もちろん。ひよりの栞も、いいものが見つかるといいな」
二人は笑いながら歩き続けた。
明日の予定は楽しみだが、今日の出来事も大切にしたかった。
ひよりは空を見上げ、胸の奥に残る温かな気持ちを確かめるように、小さく息を吸った。
◇
帰宅したひよりは、制服から部屋着へ着替えると、机の上へ鞄を置いた。
窓からは夕方の光が差し込み、部屋の中には柔らかな橙色が広がっている。机の隅に座っているくるみへ目を向けると、ひよりは自然と笑顔になった。
「ただいま、くるみ。今日はね、すごく嬉しいことがあったんだよ」
ひよりは椅子へ座り、くるみをそっと抱き上げた。
少し傾いた耳を撫でながら、今日の図書室のことを思い返す。
「私が書いた紹介文、ちゃんと展示されてたの。『雨上がりの手紙』の隣に置いてあってね、なんだか自分の文章じゃないみたいだった」
くるみは何も答えないが、ひよりは構わず話を続けた。
「それに、知らない子が読んでくれてたんだよ。どんなふうに思ったかは分からないけど、ちゃんと見てもらえたのが嬉しかったな」
ひよりはくるみを膝の上へ置き、少しだけ目を伏せた。
紹介文を書こうと決めたとき、自分にできるだろうかと不安だった。
好きな本だからこそ、うまく紹介できなかったらどうしようと思った。
けれど、千夏や海斗、真樹の言葉に背中を押されながら、少しずつ文章を整えていった。
その時間が、今日の展示につながっている。
(……私、ちゃんと最後までできたんだね。誰かに読んでもらうために書いた文章が、本当に誰かの目に届いたんだ)
ひよりは胸の奥に広がる温かさを感じながら、くるみを元の場所へ戻した。
それから水色の読書ノートを開き、今日の出来事を書き留めようとした。
ペンを持ったものの、すぐには言葉が浮かばなかった。
嬉しい。
緊張した。
少し恥ずかしかった。
いろいろな気持ちが重なっていて、どれか一つだけでは今日のことを表せない気がした。
ひよりはしばらく考え、ゆっくりと文章を書き始めた。
『自分の好きなものを誰かへ伝えるために選んだ言葉が、自分の手を離れて、知らない誰かの目に届いた。相手が何を感じたのかは分からないけれど、読んでもらえたことが嬉しかった。言葉を届けるのは少し怖いけれど、その先に新しい出会いがあるのかもしれない。』
書き終えた文章を読み返すと、ひよりは小さく頷いた。
今日の気持ちを、少しだけ形にできた気がした。
そのとき、机の上に置いたスマートフォンが目に入った。
真樹へ報告したい。
そう思うと、自然と手が伸びた。
ひよりはメッセージ画面を開き、少し考えてから文章を打ち始めた。
『北条君、こんばんは! 今日、学校の図書室へ行ったら、私が書いた『雨上がりの手紙』の紹介文が展示されてたよ! すごく緊張したけど、ちゃんと本の隣に置いてあって嬉しかったんだ』
送信すると、ひよりはスマートフォンを机へ置いた。
返事を待つ間に、学校の課題を少し進めようと思ったが、胸の奥にはまだ今日の余韻が残っていた。
◇
真樹がひよりからのメッセージを読んだのは、夕食前に自室で課題を片づけていたときだった。
足元ではノアが寝そべっており、ときどき尻尾を揺らしながら真樹の様子を見上げている。真樹は机の上に置いたスマートフォンが光ったことに気づき、画面を確認した。
ひよりからのメッセージだった。
内容を読み進めるうちに、真樹の表情が自然と柔らかくなった。
「……展示されたんだ」
真樹は小さく呟き、もう一度文章を読み返した。
ひよりが『雨上がりの手紙』の紹介文を書いていたことは知っている。
最初に相談してくれたときから、彼女がどれほど真剣に考えていたかも、メッセージを通して少しずつ伝わってきていた。
好きな本の魅力を、まだ読んだことのない人へ届けたい。
その気持ちが、今日ようやく形になったのだ。
真樹は嬉しくなり、すぐに返信を打ち始めた。
『天野、おめでとう! ついに展示されたんだね。頑張って書いてたのを知ってるから、俺もすごく嬉しいよ。実際に並んでるところを見たら、きっと感動するだろうな』
送信すると、真樹は足元のノアへ目を向けた。
「ノア、天野の紹介文が展示されたんだって。よかったな」
ノアは真樹の声に反応し、ゆっくりと顔を上げた。
真樹は笑いながら頭を撫でた。
「お前も、天野が嬉しそうにしてるところ見たら、きっと喜ぶんだろうな」
ノアは尻尾を揺らし、真樹の手へ鼻先を寄せた。
真樹はその様子を見ながら、ひよりの笑顔を思い浮かべた。
きっと、少し照れながらも嬉しそうに笑っているのだろう。
その場にいられなかったことを残念に思う気持ちもあったが、それ以上に、ひよりが自分へ報告してくれたことが嬉しかった。
彼女にとって大切な出来事を、こうして教えてもらえる。
それは真樹にとって、何よりもありがたいことだった。
しばらくして、ひよりから返事が届いた。
『ありがとう! 北条君にも文章を読んでもらってたから、ちゃんと報告したかったんだ。今度、図書委員の人に確認して、写真を撮れそうだったら送るね』
真樹はその文章を読み、胸の奥が温かくなるのを感じた。
ひよりは、自分のことを覚えていてくれた。
紹介文を読んだことも、感想を伝えたことも、大切にしてくれている。
(……天野、ありがとう。俺も、あの文章が好きだったから、本当に嬉しいよ)
真樹は少し考えてから、返信を送った。
『ありがとう。写真も楽しみにしてるよ。でも、無理に撮らなくても大丈夫だからね。天野が嬉しかったって教えてくれただけで、俺も十分嬉しいよ』
送信したあと、真樹は椅子の背もたれへ身体を預けた。
窓の外では夕陽が少しずつ傾き、遠くの建物の輪郭が柔らかな光に包まれている。
来週、ひよりとノアと一緒に公園を歩く日が来たら、今日のことも直接聞いてみたい。
彼女がどんな顔で展示を見たのか。
どんな気持ちで、自分の文章を読み返したのか。
そうした話を、隣でゆっくり聞けたら嬉しいと思った。
◇
夕食後、ひよりは自室で明日の準備をしていた。
机の上には教科書とノートが並び、通学鞄の中へ順番にしまっていく。明日は千夏と雑貨店へ行く予定があるため、必要以上に荷物が増えないように気をつけながら準備を進めていた。
スマートフォンには、真樹とのやり取りが残っている。
紹介文が展示されたことを伝えると、真樹は自分のことのように喜んでくれた。
その言葉を思い出すたび、ひよりは自然と笑顔になった。
(北条君、すごく喜んでくれたな。私が嬉しかったことを、同じように嬉しいって言ってもらえるのって、こんなに温かいんだね)
ひよりは机の上に置いた水色の読書ノートへ目を向けた。
今日書いた文章には、自分の言葉が誰かへ届いた喜びが残されている。
けれど、今はもう一つ、書き留めておきたいことがあった。
ひよりはノートを開き、先ほどの文章の下へ新しい一文を加えた。
『嬉しかった出来事を誰かに話したとき、その人も一緒に喜んでくれると、思い出がもっと大切になる。』
書き終えたあと、ひよりは少しだけ頬を緩めた。
今日の図書室のことを、きっと長く覚えているだろう。
自分の文章が展示されていたこと。
千夏が隣で喜んでくれたこと。
知らない生徒が紹介カードを読んでくれたこと。
そして、真樹がメッセージで祝ってくれたこと。
どれも、ひよりにとって大切な思い出になっていた。
ひよりはノートを閉じ、机の隅に座っているくるみへ目を向けた。
「ねえ、くるみ。私、少しだけ自信が持てた気がするよ」
小さく声を掛けながら、くるみの傾いた耳をそっと撫でる。
「自分が好きなものを、誰かに伝えるのって緊張するけど……ちゃんと伝えようとしてよかったなって思うんだ」
ひよりはそのまま少し黙り、窓の外へ目を向けた。
夜空には薄い雲が流れ、遠くの街灯が静かに光っている。
明日は千夏と雑貨店へ行く。
来週の休日には、真樹とノアと一緒に公園を歩けるかもしれない。
まだ決まっていないことも、これから考えることもたくさんある。
それでも、今日のひよりは、その一つ一つを楽しみに思っていた。
自分の言葉を誰かへ届けること。
誰かの言葉を受け取ること。
そして、そのやり取りの中で、少しずつ新しい気持ちを知っていくこと。
ひよりはベッドへ入り、布団を肩まで引き上げた。
目を閉じる直前、図書室の展示台に置かれていた『雨上がりの手紙』の表紙が浮かんだ。
その隣には、自分が書いた紹介文がある。
誰かが立ち止まり、読んでくれるかもしれない。
もしかしたら、その文章をきっかけに、本を手に取ってくれる人もいるかもしれない。
ひよりはそんなことを考えながら、静かに微笑んだ。
「……明日も、いい日になるといいな」
小さく呟き、ゆっくりと目を閉じる。
水曜日の夜は穏やかに更けていく。
まだ名前のついていない気持ちも、少しずつ近づいている約束も、今はそれぞれの胸の中にある。
けれど、今日ひよりが誰かへ届けた言葉は、確かに一つの小さな変化を生んでいた。
その変化が、これからどんな出会いや思い出につながっていくのか。
ひよりはまだ知らない。
ただ、明日を楽しみに思えることが、今は何よりも嬉しかった。




