第70話 まだ知らない気持ちと、少しずつ近づく約束
火曜日の朝、天野ひよりが目を覚ましたとき、窓の外には薄い雲が広がっていた。昨日のような明るい陽射しは差し込んでいなかったものの、部屋の中は静かで、カーテン越しに届く柔らかな光が机の輪郭を淡く照らしている。ひよりは布団の中でゆっくりと伸びをしてから、枕元の時計へ目を向けた。
目覚まし時計が鳴るまで、あと数分。
もう少し眠っていてもよかったが、今日は自然と目が覚めてしまった。
ひよりは身体を起こし、机の隅に座っている茶色のぬいぐるみへ目を向けた。少し傾いた耳と、くるみの実のような鼻を持つくるみは、姉の美月に縫い目を直してもらってからも、変わらず同じ場所でひよりを見守っている。
「おはよう、くるみ。今日はちょっと曇ってるね」
ひよりは小さく声を掛け、ベッドから降りた。
窓を少し開けると、涼しい風が部屋へ入り込んできた。雨が降りそうなほど空は暗くないが、昨日よりも空気がひんやりしている。
ひよりは窓を閉め、制服へ着替える前に机の上を見た。
水色の読書ノートと、読みかけの二冊の本。
昨日は学校の図書室へ寄り、千夏と古い商店街の写真が載った本を眺めた。家へ帰ってからも、あの写真のことが少し気になっていた。
(本の中の街も、実際に歩いてみたらあんな感じなのかな。古いお店が並んでいて、夕方になると明かりがついて……)
ひよりはそんな景色を想像しながら、机の上の連作短編集へ手を伸ばした。
学校の図書室で借りた本は、古い商店街を舞台にした物語だ。文房具店の女性と、亡くなった妻から贈られた万年筆を大切に使い続ける男性の話が印象に残っている。
昨日の夜も少しだけ読み進めたが、まだ最後まで読み終えていない。
ひよりは栞の位置を確かめ、今日は帰宅してから続きを読もうと決めた。
そのとき、スマートフォンの画面が小さく光った。
通知を確認すると、昨夜の真樹とのメッセージが表示されていた。
来週の休日に、ノアと一緒に公園を歩くかもしれない。
まだ具体的な日付は決まっていないが、ひよりは母の由美へ予定を確認し、今のところ家族の用事がないことを伝えていた。真樹も予定を確かめると言ってくれている。
(北条君、いつ頃なら都合がいいのかな。ノアにも会いたいし、あの公園も歩いてみたいな)
ひよりは昨日届いた公園の写真を思い出し、自然と笑みを浮かべた。
夕暮れの光を受けた木々と、その手前で首を傾げているノア。
写真だけでも十分にきれいだったが、実際にその場所を歩いたら、もっといろいろなものが見えるのかもしれない。
ひよりはスマートフォンを机へ戻し、制服へ着替え始めた。
◇
朝食の時間、食卓には温かな味噌汁と焼き魚が並んでいた。由美は台所で弁当の準備をしており、浩介は新聞を読みながらお茶を飲んでいる。悠一もすでに席に着いていて、ひよりが入ってくると軽く手を上げた。
「おはよう、ひより。今日は早いな」
「おはよう、お兄ちゃん。昨日も言ってたよ、それ」
ひよりが少し笑いながら答えると、悠一は肩をすくめた。
「そうだったか? まあ、早起きはいいことだろ」
由美は二人のやり取りを聞きながら、ひよりへ朝食を勧めた。
「ひより、今日は少し涼しいみたいだから、上着を持っていったほうがいいわよ。帰りは風が強くなるかもしれないし」
「うん、そうする。昨日より少し寒いよね」
ひよりは椅子へ座り、味噌汁を一口飲んだ。
温かな味が身体へ広がり、朝の涼しさが少し和らいだように感じられる。
食事をしながら、由美は今週の予定について話し始めた。
「そういえば、ひより。クッキー作りのことだけど、今週はお母さんも少し用事があるから、まだ日にちは決められなさそうなの。週末までに一度予定を見ておくわね」
「うん、大丈夫だよ。私も学校の予定があるし、急がなくていいから」
ひよりは頷き、昨日買ってきた材料のことを思い出した。
星形や花形のクッキーを作りたいと考えているが、まだ具体的な作り方は決めていない。母と一緒に台所へ立つ日を楽しみにしながら、少しずつ準備を進めていけばいいと思っていた。
悠一が箸を置き、ひよりへ目を向けた。
「そういえば、昨日言ってた公園の散歩はどうなったんだ?」
「まだ日にちは決まってないよ。北条君も予定を確認してくれるって言ってたから、もう少し待ってるところ」
「そっか。まあ、急ぐことじゃないしな。夕方なら帰る時間だけ気をつけろよ」
「分かってるってば。お兄ちゃん、昨日も同じこと言ってたよ」
ひよりが少し頬を膨らませると、悠一は楽しそうに笑った。
「心配してるんだよ。妹が知らない場所へ行くんだから、当たり前だろ」
その言葉に、ひよりは少しだけ表情を和らげた。
兄が自分を心配してくれていることは分かっている。
だからこそ、約束が決まったら、時間や場所をきちんと伝えようと思った。
朝食を終えるころには、窓の外の雲が少し薄くなっていた。ひよりは弁当を受け取り、家族へ挨拶をして玄関へ向かった。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
由美の声に見送られ、ひよりは家を出た。
◇
県立青葉高校へ向かう道には、昨日と同じように多くの生徒が歩いていた。空は曇っているものの、雨が降りそうな気配はなく、風が吹くたびに木々の葉が揺れている。
ひよりは校門の近くで藤崎千夏を見つけ、手を振った。
「千夏、おはよう!」
「おはよう、ひより。今日はちょっと涼しいね。上着持ってきて正解だったかも」
千夏は制服の袖を軽く押さえながら笑った。
二人は並んで校舎へ向かい、昨日の図書室のことを話し始めた。
「ひより、昨日見てた商店街の写真、ちょっと気になってるんだよね。ああいう場所にある雑貨屋さんって、なんだか楽しそうじゃない?」
「うん。私もそう思った。古い建物の中に小さなお店があって、店主さんが一つずつ商品を選んで並べてるような場所、素敵だよね」
ひよりが答えると、千夏は嬉しそうに頷いた。
「今度行く雑貨店も、そんな雰囲気だったらいいなあ。もちろん、普通のお店でも楽しいと思うけど」
「うん。私は栞とか文房具を見たいな。千夏は小さな花と収納用品だったよね」
「そうそう。ひより、ちゃんと覚えててくれたんだ」
千夏は少し驚いたように笑った。
ひよりは首を傾げる。
「もちろんだよ。千夏が楽しみにしてることだもん」
その言葉に、千夏は一瞬目を丸くし、それから柔らかな笑顔になった。
「……ありがとう、ひより。なんか、そういうふうに言ってもらえると嬉しいね」
ひよりは少し照れながら笑った。
自分にとっては当たり前のことだったが、誰かが楽しみにしていることを覚えているだけでも、その人を喜ばせられるのかもしれない。
二人は教室へ入り、それぞれの席へ向かった。
朝の教室には、週の二日目らしい落ち着いた空気が流れている。月曜日ほど週末の話題で盛り上がっているわけではないが、友達同士で話す声や、教科書を取り出す音があちこちから聞こえてきた。
ひよりは鞄からノートを取り出し、机の上へ置いた。
そのとき、千夏が少し声を落として話しかけてきた。
「ひより、雑貨店へ行く日なんだけど、木曜日の放課後ってどうかな? 私、その日は特に予定がないんだ」
ひよりは少し考え、学校の予定を思い返した。
「木曜日なら、私も今のところ大丈夫だと思う。でも、家に帰ってから一応確認してもいい?」
「もちろん。無理だったら別の日にすればいいし、急がなくて大丈夫だよ」
千夏は笑顔で頷いた。
ひよりも安心し、帰宅したら由美へ確認しようと決めた。
◇
一時間目の授業が終わると、教室には休み時間の賑やかさが戻ってきた。ひよりがノートを閉じていると、橘海斗が少し離れた席から声を掛けてきた。
「天野さん、ちょっといい?」
「うん、どうしたの?」
海斗は手にしていた文庫本を軽く持ち上げた。
「この前話してた『雨上がりの手紙』なんだけどさ。読み終わってから少し時間が経ったのに、まだ気になる場面があって」
ひよりはその言葉に目を輝かせた。
「どの場面?」
「最後のほうで、登場人物が昔の手紙を読み返すところ。最初に読んだときと、最後に読んだときで、同じ言葉なのに意味が違って見えるだろ?」
海斗は少し考えながら続けた。
「俺、あれがずっと気になってたんだ。言葉そのものは変わってないのに、受け取る側が変わると、こんなに印象が違うんだなって」
ひよりは嬉しそうに頷いた。
「分かる! 私もあそこが好きなんだ。最初は何でもないように見えた言葉が、あとから読むとすごく大切に感じられるんだよね」
海斗はその反応を見て、少し安心したように笑った。
「やっぱり、天野さんもそう思ったんだ」
「うん。でも、橘君がそういうふうに考えてたのは、今初めて知ったよ。前に感想を話したときは、別の場面の話が多かったもんね」
「そうなんだよ。読み終わった直後は気づかなかったんだけど、あとから思い出すと気になってきてさ」
ひよりはその言葉を聞き、少し考えた。
読書の感想は、読み終わった瞬間だけで決まるわけではない。
時間が経ってから、ふと意味が変わって感じられることもある。
(私も、そういうことがあるな。読み終わったときは気づかなかったのに、あとから思い出して大切だと思う場面があるんだよね)
ひよりは海斗へ笑顔を向けた。
「橘君、またそういう感想があったら聞かせてね。同じ本の話を何回しても、違うことに気づけるのって楽しいから」
海斗はその言葉に少しだけ頬を緩めた。
「うん。俺も、天野さんの感想を聞くの楽しいし」
何気なく答えたあと、海斗は少しだけ照れたように視線を落とした。
ひよりはその変化に気づかず、嬉しそうに本の話を続けようとしたが、次の授業の準備を知らせる声が聞こえてきたため、二人は会話を切り上げた。
海斗が自分の席へ戻ると、千夏がひよりの横へやってきた。
「ひより、また橘君と本の話してたんだね」
「うん。『雨上がりの手紙』のことを話してたの。読み終わってから時間が経っても、気になる場面があるんだって」
ひよりは楽しそうに答えた。
千夏はその表情を見ながら、少しだけ笑った。
(橘君、ひよりと話してるとき、やっぱり嬉しそうなんだよね。でも、ひよりは本の話が楽しいって気持ちでいっぱいみたい)
千夏は無理にからかうことはせず、次の授業の準備を始めた。
◇
同じころ、私立桜陵学園では、真樹が教室の窓際で蓮と話していた。
朝から曇っていた空は少しずつ明るくなり、窓の外には薄い陽射しが差し込み始めている。教室では次の授業へ向けて生徒たちが準備をしており、廊下からは別のクラスの話し声が聞こえてきた。
「真樹、昨日の公園の話だけどさ。天野さんとの予定、決まりそうなのか?」
蓮が尋ねると、真樹は頷いた。
「うん。天野が家族に確認してくれたみたいで、来週の休日なら今のところ大丈夫そうだって。俺も予定を確認して、合う日を決めようと思ってる」
「へえ、いいじゃん。天野さんもちゃんと楽しみにしてくれてるんだな」
蓮は笑いながら続けた。
「それにしても、ノアってすごいよな。お前と天野さんの間を、ずっと自然につないでる感じがする」
真樹はその言葉に少し笑った。
「確かに、ノアがいなかったら天野と知り合うこともなかったかもしれないしな」
黒い犬がきっかけで始まった出会い。
真樹はそのことを思い返し、少し不思議な気持ちになった。
ひよりと出会ったころは、こんなふうに毎日の出来事を話す関係になるとは思っていなかった。
それが今では、本の感想を交換したり、ノアの写真を送ったり、休日の予定を相談したりしている。
真樹にとって、その変化はとても大切なものだった。
「まあ、ノアには感謝してるよ。あいつがいなかったら、天野とこんなに話すこともなかっただろうし」
真樹が穏やかに答えると、蓮は少しだけ目を細めた。
「そっか。じゃあ、今度の散歩もノアに頑張ってもらわないとな」
「いや、あいつはいつもどおりでいいよ。変に張り切られても困るし」
二人は顔を見合わせて笑った。
そのとき、教室の入口から玲奈が入ってきた。
彼女は友人と話しながら席へ向かっていたが、真樹の姿を見つけると、自然と笑顔を向けた。
「真樹、おはよう。今日、少し涼しいね」
「おはよう、一ノ瀬。朝は風が冷たかったな」
真樹はいつもどおりの穏やかな声で答えた。
玲奈はその表情を見て、土曜日のカフェを思い出した。
あの日も、真樹はこうして自然に笑ってくれた。
けれど、今の笑顔が自分だけへ向けられた特別なものではないことも、玲奈は分かっている。
(……でも、普通に話せるのは嬉しいな)
玲奈は胸の奥に小さな温かさを感じながら、真樹へ軽く手を振って自分の席へ向かった。
蓮はその様子を見ていたが、何も言わなかった。
玲奈が真樹をどう思っているのか、確かなことは知らない。
ただ、彼女の表情には時折、友人としての親しさだけでは説明できないものがあるように感じていた。
蓮はそれを軽々しく口にするつもりはなかった。
◇
昼休み、ひよりは千夏と一緒に教室で弁当を食べていた。
窓の外では雲が少しずつ流れ、校庭には薄い陽射しが落ちている。教室には昼食を楽しむ生徒たちの声が広がり、週の二日目らしい落ち着いた雰囲気があった。
「ひより、そういえば図書室の紹介文、昨日はまだだったんだよね?」
千夏が尋ねると、ひよりは頷いた。
「うん。今日もまだかもしれないけど、急がず待とうと思ってるよ」
「そっか。でも、展示されたら嬉しいよね。ひよりが頑張って書いた文章だし」
ひよりは少し照れながら笑った。
「うん。知らない人が読むって考えると緊張するけど、誰かが本を手に取ってくれたら嬉しいな」
千夏はその言葉を聞き、少し考えた。
「ひよりって、前より自分の気持ちを言葉にするのが上手になった気がする」
「えっ、そうかな?」
ひよりは驚いて顔を上げた。
千夏は頷き、弁当箱を閉じながら続けた。
「うん。前から本の話は楽しそうにしてたけど、最近は『どうして好きなのか』とか『どこが心に残ったのか』まで、ちゃんと話してくれることが増えたと思う」
ひよりはその言葉を聞き、少しだけ視線を落とした。
確かに、読書ノートを書くようになってから、自分の気持ちを考える時間が増えた。
真樹や海斗と感想を話すときも、ただ「面白かった」と言うだけではなく、どの場面が好きだったのかを伝えたいと思うようになっている。
「……そうかもしれない。読書ノートを始めてから、自分が何を感じたのか考えることが増えた気がする」
「それって、すごくいいことだと思うよ。ひよりの言葉、聞いてて楽しいもん」
千夏は笑顔で答えた。
ひよりは少し頬を赤くしながら、嬉しそうに笑った。
「ありがとう、千夏。そう言ってもらえると、自信が持てる気がする」
二人はそのあと、雑貨店へ行く予定についても少し話した。
木曜日の放課後が候補になっているが、ひよりはまだ家族へ確認していない。帰宅したら由美へ尋ね、問題がなければ千夏へ連絡することにした。
◇
午後の授業が終わるころ、空には再び薄い雲が広がっていた。
ひよりは教科書を鞄へしまい、千夏と一緒に教室を出た。今日は図書室へ寄らず、そのまま帰宅することにしている。
昨日、紹介文がまだ展示されていないことを確認したばかりだったし、今日は家で読みかけの本を進めたかった。
昇降口へ向かう途中、ひよりは廊下の窓から校庭を眺めた。
部活動の準備をしている生徒たちが行き交い、遠くから掛け声が聞こえてくる。風に揺れる木々の葉は、昨日より少し濃い色に見えた。
「ひより、今日はまっすぐ帰るんだよね?」
千夏が尋ねると、ひよりは頷いた。
「うん。家で本の続きを読みたいんだ。あと、木曜日のこともお母さんに聞いてみるね」
「ありがとう。私も楽しみにしてるよ」
二人は校門を出て、いつもの帰り道を歩き始めた。
しばらく歩いたところで、千夏がふと空を見上げた。
「今日は夕焼け、あんまり見えないかもね。雲が多いし」
「そうだね。でも、こういう空も落ち着く気がする」
ひよりは空を見上げ、淡い灰色の雲がゆっくり流れていく様子を眺めた。
昨日、真樹から送られてきた公園の写真は、柔らかな橙色の空が印象的だった。
けれど、今日のような曇り空にも、違う良さがあるのかもしれない。
(北条君と公園を歩く日も、晴れるとは限らないんだよね。でも、きっとその日の景色を楽しめたらいいな)
ひよりはそんなことを考えながら、千夏との会話を続けた。
◇
帰宅したひよりは、由美へ木曜日の予定を確認した。
由美は台所で夕食の下ごしらえをしていたが、ひよりの話を聞くと手を止め、予定を思い返した。
「木曜日の放課後に、千夏ちゃんと雑貨店へ行きたいのね?」
「うん。まだ決めてないんだけど、千夏がその日なら時間があるって言ってて。私も行けそうかなって思ったんだ」
由美は少し考え、頷いた。
「今のところ家の用事はないから、大丈夫だと思うわ。ただ、帰りが遅くならないようにしてね」
「うん、ありがとう! 千夏にも連絡しておくね」
ひよりは嬉しそうに笑い、自室へ戻った。
スマートフォンを取り出し、千夏へメッセージを送る。
『千夏、木曜日の放課後、大丈夫そうだよ! お母さんにも確認できたから、一緒に雑貨店へ行こう』
ほどなくして、千夏から明るい返事が届いた。
『やった! 楽しみ! じゃあ木曜日、学校が終わったら一緒に行こうね』
ひよりはその文章を読み、自然と笑顔になった。
木曜日の予定が決まった。
それだけで、今週の学校生活が少し楽しみになった気がした。
ひよりはスマートフォンを机へ置き、読みかけの本を手に取った。
学校の図書室で借りた、古い商店街を舞台にした連作短編集。
今日は続きをゆっくり読み進めようと思っていた。
栞を挟んでいたページを開くと、物語は前に読んだ場面から静かに続いていた。
登場人物たちは、それぞれの思い出や大切なものを抱えながら、同じ街で暮らしている。
ひよりは文章を追いながら、昨日考えたことを思い出した。
誰かにとって大切なものは、ほかの人には何でもないものに見えるかもしれない。
けれど、その理由を知ることで、見え方が変わることもある。
(私も、誰かの大切なものを、ちゃんと大切にできる人になりたいな)
ひよりはそう考えながら、ページをめくった。
◇
夕方、真樹は自室で来週の予定を確認していた。
机の上には学校の課題と手帳が並び、足元ではノアが静かに寝そべっている。
真樹は手帳を開き、来週の休日に特別な用事が入っていないことを確かめた。
今のところ、土曜日も日曜日も大きな予定はない。
ただ、ひよりの都合もあるため、すぐに日付を決めるのではなく、彼女が無理なく過ごせる日を相談したいと思っていた。
(天野は家族にも確認してくれたし、俺も予定は大丈夫そうだな。あとは、どちらの日がいいか聞いてみよう)
真樹はスマートフォンを手に取り、ひよりへメッセージを打ち始めた。
『天野、こんばんは。来週の予定を確認したよ。今のところ土曜日も日曜日も大丈夫そうだから、天野の都合がいい日を選んでもらえたら嬉しい』
送信すると、真樹は少しだけ胸が高鳴るのを感じた。
まだ約束が決まったわけではない。
それでも、ひよりと一緒に公園を歩ける日が少しずつ近づいている。
足元のノアが顔を上げたので、真樹は笑いながら頭を撫でた。
「お前、来週は天野に会えるかもしれないぞ。ちゃんといい子にしてくれよ」
ノアは嬉しそうに尻尾を振り、真樹の手へ鼻先を寄せた。
真樹はその姿を見て、自然と笑みを浮かべた。
◇
夜、ひよりは夕食を終え、自室で明日の準備をしていた。
机の上には教科書とノートが並び、鞄の中へ順番にしまっていく。木曜日には千夏と雑貨店へ行く予定が決まり、来週の休日には真樹とノアとの散歩ができるかもしれない。
楽しみにしていることが増えていくたび、毎日の時間が少し明るく感じられる。
ひよりは準備を終えると、スマートフォンを確認した。
画面には、真樹から新しいメッセージが届いていた。
『天野、こんばんは。来週の予定を確認したよ。今のところ土曜日も日曜日も大丈夫そうだから、天野の都合がいい日を選んでもらえたら嬉しい』
ひよりはその文章を読み、思わず笑顔になった。
真樹も、ちゃんと予定を確認してくれた。
そのことが嬉しかった。
(北条君、ありがとう。私もどっちの日がいいか考えてみようかな)
ひよりは少し迷ったあと、返信を打ち始めた。
『こんばんは、北条君! 予定を確認してくれてありがとう。私も土曜日と日曜日、どちらがいいかもう一度考えてみるね。ノアと一緒にお散歩できるの、すごく楽しみ!』
送信すると、真樹からすぐに返事が届いた。
『俺も楽しみにしてるよ。急がなくていいから、ゆっくり決めよう』
ひよりはその言葉に安心し、スマートフォンを机へ置いた。
急がなくていい。
まだ決まっていない約束を、楽しみに待っていてもいい。
最近のひよりは、そうした時間を以前よりも大切にできるようになっていた。
水色の読書ノートを開き、今日の出来事を書き留める。
『誰かと約束を決める時間も、その約束の一部なのかもしれない。相手の予定を考えたり、楽しみにしていることを伝えたりするだけで、まだ来ていない日が少し近く感じられる。』
ひよりは書き終えた文章を読み返し、少しだけ頬を緩めた。
木曜日には千夏と雑貨店へ行く。
来週の休日には、真樹とノアと一緒に公園を歩けるかもしれない。
そして、図書室へ提出した紹介文も、いつか展示される日が来る。
まだ知らないことも、決まっていないこともたくさんある。
それでも、ひよりはその一つ一つを楽しみに思っていた。
窓の外では、夜風が静かに木々を揺らしている。
ひよりはくるみの頭をそっと撫で、明日からの学校生活を思い浮かべた。
今日も特別な事件が起こったわけではない。
けれど、友達と本の話をし、誰かの言葉を受け取り、これからの約束を少しずつ形にしていく。
そんな何気ない一日が、今のひよりには大切だった。
そして、その小さな積み重ねが、まだ名前のついていない気持ちを、少しずつ未来へ運んでいくのだった。




