第69話 月曜日の教室で、君に伝えたくなったこと
月曜日の朝、天野ひよりは目覚まし時計が鳴る少し前に目を覚ました。カーテンの向こうからは柔らかな朝の光が差し込み、窓を閉めていても、庭木の葉が風に揺れる音がかすかに聞こえてくる。昨日は母と買い物へ出かけたり、読みかけの本を読んだりして過ごしたため、休日が終わってしまったことを少し残念に思いながらも、気持ちは不思議と軽かった。
ひよりは布団から身体を起こし、机の隅に座っている茶色のぬいぐるみへ目を向けた。少し傾いた耳と、くるみの実に似た鼻を持つくるみは、姉の美月に縫い目を直してもらってからも、いつもの場所で変わらずひよりを見守っている。
「おはよう、くるみ。今日からまた学校だね」
ひよりは小さく声を掛け、ベッドから降りた。机の上には昨夜書いた水色の読書ノートが置かれており、隣にはまだ読み終えていない二冊の本が並んでいる。
一冊は北条真樹に薦められて購入した、古い街を舞台にした連作短編集。もう一冊は学校の図書室で借りている、昔ながらの商店街を舞台にした物語だ。
どちらも人と人とのつながりを丁寧に描いた作品で、読んでいると、普段なら見過ごしてしまいそうな小さな出来事にも目を向けたくなる。
(昨日も、そんなことを考えてたんだよね。お母さんと買い物へ行っただけなのに、いつもとは少し違う一日だった気がする)
ひよりはノートを開き、昨夜書いた文章を読み返した。
『楽しみにしていることがあると、まだ来ていない日まで少し明るく見える。誰かと一緒に過ごす時間を、急がずに待つのも悪くない。』
自分で書いた言葉なのに、読み返すと少し照れくさい。それでも、昨日の気持ちを思い出すには十分だった。
真樹から送られてきた夕暮れの公園の写真も、まだ鮮明に覚えている。柔らかな橙色の空と、首を傾げたノアの姿。来週の休日に予定が合えば、あの公園を一緒に歩けるかもしれない。
ひよりはスマートフォンを手に取り、昨日のやり取りをもう一度確認した。
真樹は、無理のない日で大丈夫だから、ゆっくり決めようと言ってくれている。
(今日はお母さんに予定を聞いてみようかな。まだ決まっていないけど、ちゃんと約束できたら嬉しいな)
ひよりはスマートフォンを机へ戻し、制服へ着替え始めた。朝から胸が少し弾んでいる理由を、今は深く考えないことにした。
◇
階下へ降りると、台所から味噌汁の香りが漂ってきた。由美は朝食の準備をしており、父の浩介は食卓で新聞を広げている。兄の悠一もすでに起きていて、湯呑みを片手に眠そうな顔をしていた。
「おはよう、お父さん、お母さん、お兄ちゃん」
「おはよう、ひより。今日はいつもより早いな。何か学校で楽しみなことでもあるのか?」
悠一がからかうように尋ねると、ひよりは少しだけ頬を膨らませた。
「別に、早く起きただけだよ。お兄ちゃんこそ、今日はちゃんと起きてるんだね」
「俺だって毎日寝坊してるわけじゃないぞ。昨日はゆっくり休めたから、今日は調子がいいんだよ」
悠一はそう言って笑ったが、由美から朝食の皿を運ぶように頼まれると、素直に立ち上がった。ひよりも箸を並べながら、昨日買ってきたクッキーの材料のことを思い出す。
「お母さん、昨日の材料って、しばらく置いておいても大丈夫だよね?」
「ええ、保存の仕方を守れば大丈夫よ。どうしたの?」
「今週は学校のこともあるし、作る日はもう少し考えようかなって。せっかくだから、時間がある日にゆっくり作りたいな」
由美は頷き、ひよりの前へ朝食を置いた。
「そうしましょう。急いで作って慌ただしくなるより、楽しめる日のほうがいいものね。お母さんも予定を確認しておくわ」
「ありがとう。私も学校の予定を見ておくね」
ひよりが笑顔で答えると、浩介は新聞から顔を上げた。
「クッキー作り、楽しみにしてるぞ。昨日、材料を選んだって聞いたからな」
「まだ作ってもいないのに、お父さんまで期待しないでよ。ちゃんとおいしくできるか分からないんだから」
「大丈夫だよ。ひよりが作ってくれるなら、それだけで嬉しいさ」
浩介の穏やかな言葉に、ひよりは少し照れながら笑った。
家族と過ごす時間は、いつも特別な出来事が起こるわけではない。けれど最近は、こうした何気ない会話が以前よりも大切に感じられるようになっていた。
朝食を食べ終え、ひよりが食器を片づけようとしたとき、由美がふと思い出したように声を掛けた。
「そういえば、ひより。来週の休日に何か予定があるって言っていなかった?」
ひよりは一瞬手を止め、それから頷いた。
「うん。まだ決まってないんだけど、北条君とノアと一緒に公園を散歩できたらいいなって話してるの。夕方の景色がきれいな公園なんだって」
「あら、そうなのね。ノアちゃんにもまた会えるの?」
「うん。昨日も写真を送ってくれて、すごくかわいかったんだよ」
ノアの話になった途端、ひよりの声が自然と明るくなる。由美はその様子を微笑ましく眺めながら、食器を重ねた。
「来週なら、今のところ家族の用事は入っていないと思うわ。ただ、帰りが遅くならないように、時間と場所はきちんと確認しておいてね」
「うん、分かってる。まだ日にちも決まってないから、決まったらちゃんと伝えるね」
ひよりが答えると、悠一が少しだけ興味深そうに顔を向けた。
「北条君って、あの黒い犬の飼い主の子だろ? ひより、ずいぶん仲良くなったんだな」
「うん。本の話もできるし、ノアのこともいろいろ教えてくれるから」
ひよりは何気なく答えたが、悠一はその言葉を聞いて小さく笑った。
「そっか。楽しく過ごせる友達が増えるのはいいことだな。ただ、夕方に出かけるなら、帰る時間はちゃんと考えろよ」
「もう、お兄ちゃんまで。ちゃんと分かってるってば」
少し恥ずかしくなって答えると、悠一は両手を軽く上げて笑った。由美もそれ以上は尋ねず、ひよりの弁当を包み始める。
ひよりはその様子を見ながら、胸の奥に小さな安心感が広がるのを感じた。
家族に予定を話せたことで、真樹との約束が少しだけ現実に近づいたような気がした。
◇
県立青葉高校へ向かう道には、同じ制服を着た生徒たちの姿が増えていた。ひよりは通学鞄を肩へ掛け直し、校門の近くで藤崎千夏を見つけると、自然と足を速めた。
「千夏、おはよう!」
「おはよう、ひより。今日はなんだか機嫌がよさそうだね。昨日、何かいいことあった?」
千夏は笑いながら尋ねた。ひよりは少し考え、昨日の出来事を思い返す。
「お母さんと買い物に行ったんだ。今度クッキーを作ることになってて、その材料を選んできたの。まだ作る日は決まってないけど、すごく楽しみなんだよね」
「いいじゃん! ひよりの手作りクッキーかあ。完成したら、ぜひ感想を聞かせてほしいな」
「うん。うまくできたら、千夏にも食べてもらいたいな。でも、最初だから失敗するかもしれないよ?」
「失敗したら、その話も聞かせてよ。ひよりが一生懸命作ったなら、きっと楽しい思い出になると思うし」
千夏の明るい言葉に、ひよりは笑った。
二人は並んで校舎へ向かいながら、休日の過ごし方について話した。千夏は机の上を片づけ、以前から気になっていた収納用品を置く場所を考えていたという。
「そうそう、ひより。雑貨店へ行く話、覚えてる? 今週どこかで時間が合えば、一緒に見に行きたいなって思って」
「もちろん覚えてるよ。私も新しい栞とか、読書ノートに使える文房具を見たいな」
「じゃあ、放課後に予定を確認しようか。無理に今日決めなくてもいいけど、行けそうな日が分かると楽しみが増えるし」
「うん、そうしよう!」
ひよりは嬉しそうに頷いた。
最近は、楽しみにしていることが少しずつ増えている。母とのクッキー作り、千夏との雑貨店巡り、真樹とノアとの散歩。
どれも大きな出来事ではないかもしれない。
けれど、その一つ一つを考えるだけで、いつもの学校生活まで少し明るく感じられる。
教室へ入ると、すでに何人かの生徒が席に着いていた。週末の出来事を話しているグループや、朝の小テストに備えてノートを開いている生徒もいる。
ひよりと千夏はそれぞれの席へ向かい、鞄から教科書を取り出した。
「ひより、そういえば図書室の紹介文って、もう展示されたのかな?」
千夏が小声で尋ねると、ひよりは首を横へ振った。
「まだ分からないんだ。木曜日に提出したばかりだし、図書委員の人も準備ができたらって言ってたから。今日、図書室へ行ったら少し様子を見てみようかな」
「いいね。私も気になるし、放課後に一緒に寄ってみる?」
「うん。でも、まだ準備中だったら急かすみたいになっちゃうかな」
ひよりが少し心配そうに言うと、千夏は柔らかく笑った。
「普通に本を見に行けばいいんじゃない? ひより、借りてる本の続きも気になってるんでしょ。展示のことを聞かなくても、図書室へ行く理由はあるじゃない」
「そっか。そうだよね」
ひよりは安心したように頷いた。
自分の紹介文がどうなっているのか気になる気持ちはある。けれど、図書委員の人たちにも準備があるのだから、急かしたくはなかった。
展示される日を楽しみに待つ。
それもまた、今の自分にできることなのだと思った。
◇
一時間目の授業が終わると、教室には休み時間らしい賑やかさが戻ってきた。窓際の席では数人の生徒が週末の話をしており、廊下からは別のクラスの生徒たちの笑い声が聞こえてくる。
ひよりがノートを片づけていると、橘海斗が机の横へやってきた。
「天野さん、ちょっといい?」
「うん、どうしたの?」
海斗は手にしていた教科書を胸の前で持ち直し、少しだけ照れたように笑った。
「この前の図書室の紹介文、提出できたって言ってたよね。週末にふと思い出してさ。展示されるのって、いつごろなんだろうと思って」
「まだ日にちは分からないんだ。図書委員の人が準備してくれるみたいで、できたら展示するって言ってたよ」
「そっか。じゃあ、もう少し先かもしれないんだね」
海斗は頷き、それからひよりの机へ目を向けた。
「でも、完成した文章を読ませてもらってよかった。最初の案より、初めて読む人にも物語が伝わりやすくなってたと思う」
その言葉に、ひよりは少し頬を赤くした。
「ありがとう。橘君が、もう少し物語の雰囲気が分かるようにしたほうがいいって教えてくれたからだよ。自分では気づかなかったことだったし、すごく助かったの」
「いや、俺は少し感想を言っただけだよ。ちゃんと文章にしたのは天野さんだから」
海斗はそう答えながら、ひよりの表情を見た。
彼女は本の話になると、いつも少し嬉しそうに目を輝かせる。自分の好きなものを誰かへ伝えるとき、言葉を慎重に選ぶところも印象的だった。
海斗はそんなひよりの姿を見ていると、自然と話を続けたくなる。
「展示されたら、俺も見に行くよ。自分が読んだ本だから、ほかの人がどんなふうに興味を持つのかも気になるし」
「うん。私も楽しみなんだ。でも、知らない人が読むって考えると、まだちょっと緊張するかも」
「それは分かる気がする。自分の感想って、友達に話すのと、誰が読むか分からない場所へ置くのとでは違うもんな」
海斗はそう言って、少し考えるように視線を落とした。
「でも、天野さんの文章は押しつけがましくなかったよ。『絶対に読んでください』って感じじゃなくて、自分が読んでよかったことを、静かに伝えてる感じがした」
ひよりは思わず目を丸くした。
その感想は、これまでに聞いた言葉とは少し違っていた。千夏や真樹は最後の一文を気に入ってくれたが、海斗は文章全体の雰囲気を見てくれていたのだ。
「……ありがとう、橘君。私、そういうふうに伝わったらいいなって思ってたから、すごく嬉しい」
ひよりが心からの笑顔を向けると、海斗は一瞬言葉に詰まった。
自分が何か特別なことを言ったつもりはない。それでも、彼女がこんなふうに喜んでくれるなら、話してよかったと思えた。
「そっか。それならよかった」
海斗は少し照れくさそうに笑い、次の授業の準備をするため自分の席へ戻っていった。
ひよりはその後ろ姿を見送りながら、胸の奥に温かな気持ちが残っていることに気づいた。
(橘君も、ちゃんと私の文章を読んでくれたんだな。自分では気づかなかったところを教えてもらえるのって、嬉しいね)
その様子を少し離れた席から見ていた千夏は、頬杖をつきながら小さく微笑んだ。
海斗がひよりへ話しかける機会は、以前よりも増えている。
もちろん、同じ本を読んだ友達として話しているだけかもしれない。けれど、ひよりが笑うと海斗も嬉しそうにすることには、千夏も気づいていた。
(橘君も、ひよりと話すのが好きなんだろうな。でも、ひよりはまだ、そういうことには全然気づいてなさそう)
千夏は友人の横顔を見ながら、無理に何かを言うつもりはなかった。
ひよりが誰かを好きになるとしても、その気持ちは本人が自分で見つけるものだと思っている。
だから今は、少しだけ温かい気持ちで見守っていたかった。
◇
同じころ、私立桜陵学園では、北条真樹が教室の窓際で神崎蓮と話していた。朝のホームルームが終わったばかりで、教室にはまだ週明け特有の賑やかさが残っている。
蓮は机へ片肘をつき、真樹の顔を見ながら笑った。
「真樹、昨日は何してたんだ? 日曜日だし、ノアと散歩でもしてたのか?」
「うん。いつもより少し早めに散歩へ出たよ。夕方の公園がきれいだったから、写真も撮った」
「へえ。あの公園か。前にも写真を撮ってたよな」
真樹は頷き、スマートフォンに保存してある写真を思い出した。
「昨日はノアがいい顔してたんだよ。天野にも送ったら、喜んでくれた」
その名前が自然に出てきたことに、蓮は小さく笑った。
「なるほど。写真を撮ったら、天野さんにも見せたくなるわけだ」
「……別に、そういう言い方しなくてもいいだろ」
真樹は少し困ったように笑ったが、否定はしなかった。
蓮はそんな友人の様子を見ながら、以前よりも素直になったものだと思っていた。
真樹が天野ひよりを好きだと打ち明けてくれたとき、蓮は驚いた。真樹は誰に対しても穏やかで、周囲から好意を寄せられることも多いが、自分から特定の女の子の話をすることは少なかったからだ。
それが最近では、ひよりの話になると表情が柔らかくなる。
「それで、天野さんとは今度いつ会うんだ?」
蓮が尋ねると、真樹は少し考えてから答えた。
「来週の休日に、予定が合えばノアと一緒に公園を歩こうって話してる。まだ日にちは決まってないけど」
「いいじゃん。天野さんも楽しみにしてるんだろ?」
「うん。昨日も、ノアに会いたいって言ってくれた」
真樹はそう答えながら、ひよりから届いたメッセージを思い出した。
彼女は、ノアの写真を見て喜んでくれた。公園の景色も楽しみにしていると、素直に伝えてくれた。
そのことが、今も嬉しかった。
蓮は真樹の表情を見て、少しだけ声を落とした。
「真樹、お前さ。天野さんといるとき、前よりずっと楽しそうだよな」
「そうかな」
「そうだよ。別に悪い意味じゃない。むしろ、いいことだと思う」
蓮は笑いながら続けた。
「ただ、焦るなよ。天野さんもいろいろあったんだろうし、お前が大事にしたいと思ってるなら、その気持ちはちゃんと持っておけよ」
真樹は友人の言葉を聞き、静かに頷いた。
「分かってる。今は、天野が安心して笑っていられる時間を増やしたいんだ」
その答えに、蓮は少し驚いたように目を細めた。
真樹がひよりを大切に思っていることは知っていたが、今の言葉には以前よりもはっきりした意志が感じられた。
「そっか。じゃあ、まずは公園の約束だな。ノアにも頑張ってもらわないと」
「ノアはいつもどおりでいいよ。変に頑張られたら、こっちが振り回されそうだし」
二人は顔を見合わせて笑った。
そのとき、教室の入口から別の生徒が声を掛けてきたため、蓮は話を切り上げて自分の席へ戻っていった。
真樹は窓の外へ目を向け、昨日の夕暮れを思い出す。
同じ景色を、ひよりと一緒に見られたら。
そのとき彼女が何を感じるのか、隣で聞いてみたい。
真樹はそんなことを考えながら、次の授業の教科書を取り出した。
◇
昼休み、玲奈は沙耶と一緒に教室の隅で昼食を取っていた。窓から差し込む陽射しが机の上を明るく照らし、周囲では週末の出来事を話す生徒たちの声が重なっている。
沙耶は弁当箱の蓋を開けながら、玲奈へ穏やかな笑顔を向けた。
「昨日はメッセージありがとう。写真、すごくきれいだったね。あのお店、私も今度行ってみたくなっちゃった」
「うん、落ち着いた雰囲気でよかったよ。焼き菓子もおいしかったし、沙耶もきっと気に入ると思う」
玲奈はそう答えながら、土曜日のカフェを思い出した。
真樹と向かい合って座った席。窓から差し込む午後の光。昔のノアの話をして笑った時間。
どれも楽しかった。
けれど、今日になっても、胸の奥にはまだ少しだけ複雑な気持ちが残っている。
沙耶は玲奈の表情を見て、声を少し落とした。
「玲奈、昨日は楽しかったって言ってたけど……何か気になることもあった?」
玲奈は一瞬迷い、箸を持つ手を止めた。
沙耶には、自分が真樹を特別に思っていることを、はっきり言葉にしたわけではない。それでも、長く一緒にいる友人には、ある程度気づかれているのかもしれなかった。
「……楽しかったのは本当だよ。ただ、私だけが特別な時間だと思ってたのかなって、少し考えちゃった」
玲奈が小さな声で答えると、沙耶はすぐには返事をしなかった。
代わりに、玲奈が続きを話せるように待ってくれている。
その沈黙がありがたくて、玲奈は少しだけ言葉を続けた。
「真樹は昔から優しいし、私とも普通に話してくれるでしょ。昨日も楽しそうにしてくれたし、また出かけようって言ってくれた。でも、それが真樹にとってどんな意味なのか、私には分からなくて」
沙耶は静かに頷いた。
「そっか。玲奈にとっては大切な時間だったから、相手にも同じくらい大切だと思ってほしくなるんだね」
その言葉に、玲奈は目を伏せた。
自分が何を気にしていたのか、少しだけ分かった気がした。
「……うん。そうなのかもしれない」
沙耶は箸を置き、玲奈の顔を見た。
「でも、真樹君がどう思ってたかは、本人にしか分からないよ。玲奈が楽しかったことまで、相手の反応だけで決めなくてもいいんじゃないかな」
玲奈はその言葉を聞き、昨日のメッセージを思い出した。
沙耶は昨日も、自分が楽しめたかどうかを気にしてくれていた。
玲奈は小さく息を吐き、ゆっくり頷いた。
「そうだね。私、真樹がどう思ってたのかばかり考えてたかもしれない」
「気になるのは仕方ないよ。大切な相手なんでしょ?」
沙耶が優しく尋ねると、玲奈は頬を少し赤くした。
その言葉にすぐ答えることはできなかったが、否定することもできなかった。
沙耶はそれ以上追及せず、明るい声で話題を変えた。
「それにしても、写真の焼き菓子、本当においしそうだったなあ。今度、玲奈と一緒に行ってもいい?」
「もちろん! 沙耶とも行きたいなって思ってたの」
玲奈は笑顔で答えた。
その瞬間、胸の奥に残っていた重たい気持ちが少しだけ軽くなった。
真樹との時間は大切だ。
けれど、自分には沙耶と過ごす時間もある。
好きな人のことばかり考えて、ほかの大切なものを見失いたくはなかった。
◇
青葉高校では、午後の授業が終わるころ、ひよりは少しだけ疲れを感じていた。週明けの授業は思っていたよりも内容が多く、ノートを取る手が何度も忙しく動いた。
最後の授業が終わると、教室にはほっとした空気が広がった。生徒たちはそれぞれ鞄をまとめ、部活動へ向かう者や友達と帰る者に分かれていく。
ひよりが教科書をしまっていると、千夏が机の横へやってきた。
「ひより、お疲れさま。今日、図書室へ寄ってみる?」
「うん。少し本も見たいし、紹介文の展示がどうなってるかも気になるから」
「じゃあ、一緒に行こう。私も借りてる本の続きを読んでるところだし、新しい本が入ってないか見てみたいな」
二人は鞄を持ち、教室を出た。
廊下には放課後らしい賑わいがあり、窓の外では運動部の生徒たちが準備を始めている。校庭から聞こえる掛け声を遠くに感じながら、ひよりと千夏は図書室へ向かった。
扉を開けると、紙と本棚の落ち着いた匂いが迎えてくれた。
室内には数人の生徒がいて、静かに本を選んだり、閲覧席で勉強したりしている。ひよりは自然と声を落とし、千夏と並んで入口近くの展示スペースへ目を向けた。
そこには、以前から並んでいた本がまだ置かれていた。
ひよりが提出した『雨上がりの手紙』の紹介文は、まだ展示されていないようだった。
「まだみたいだね」
千夏が小声で言うと、ひよりは頷いた。
「うん。でも、まだ月曜日だしね。準備ができたらって言ってたから、ゆっくり待とうと思う」
ひよりはそう答えながら、少しだけ胸を撫で下ろした。
楽しみにしていた気持ちはあるが、いざ展示されるとなると、やはり緊張する。
自分の書いた文章が、知らない誰かの目に触れる。
その瞬間を想像すると、嬉しさと恥ずかしさが同時に湧いてくるのだった。
千夏はそんなひよりの表情を見て、柔らかく笑った。
「展示されたら、私も一緒に見に来るからね。ひよりが頑張って書いた文章だし、ちゃんと見たいもん」
「ありがとう、千夏。そう言ってもらえると、少し安心する」
二人はそれから本棚の間を歩き、それぞれ気になる本を探した。
ひよりは小説の棚へ向かい、背表紙を一冊ずつ眺めていく。最近は連作短編集を読むことが増えていたため、今度は少し違う雰囲気の作品も読んでみたいと思っていた。
けれど、気になる本を手に取っても、すぐに借りることはしなかった。
家にはまだ読み終えていない本がある。
今は、その一冊一冊を大切に読み進めたい気持ちのほうが強かった。
ひよりは手に取った本を元の場所へ戻し、少し離れた棚へ移動した。そこには、物語の舞台になった街や風景について紹介する本が並んでいる。
ひよりはその中の一冊を開き、古い商店街の写真へ目を留めた。
小さな文房具店、昔ながらの喫茶店、夕暮れの通り。
図書室で借りている物語の景色と少し似ている。
(本の中の街も、こんなふうに人が暮らしてる場所なんだよね。登場人物が何気なく歩いている道にも、いろんな思い出があるのかもしれない)
ひよりは写真を眺めながら、昨日読んだ万年筆の物語を思い返した。
年配の男性が大切にしている万年筆には、亡くなった妻との思い出が込められている。文房具店の女性は、その事情を知ったことで、ただの古い筆記具として扱わなくなった。
物の価値は、見た目だけでは決まらない。
そのことを、ひよりはくるみを通しても感じていた。
少し離れた場所で本を探していた千夏が戻ってくると、ひよりは開いていたページを見せた。
「千夏、これ見て。古い商店街の写真なんだけど、今読んでる本の雰囲気に少し似てるんだ」
「ほんとだ。こういう場所、なんだか落ち着くね。お店の看板とか、昔から使ってる感じがしていいな」
千夏は写真を覗き込み、少し懐かしそうに笑った。
「私、こういう商店街にある小さな雑貨屋さんって好きなんだよね。大きなお店とは違って、ひとつひとつの商品をゆっくり見られる感じがするから」
「分かる気がする。私も、本屋さんで棚をゆっくり眺めてる時間が好きだな」
二人は顔を見合わせて笑った。
好きなものは少し違っていても、何かをゆっくり選ぶ時間が好きだというところは似ている。
ひよりはそのことが嬉しかった。
◇
図書室を出たあと、ひよりと千夏は昇降口へ向かいながら、雑貨店へ行く予定を相談した。
千夏は今週の放課後なら何日か時間が取れそうだと言い、ひよりも家族の予定を確認してから返事をすることにした。急いで日付を決めなくても、行きたい場所や見たいものを話しているだけで楽しかった。
「ひよりは、どんな栞が欲しいの?」
千夏が尋ねると、ひよりは少し考えた。
「今使ってるのも好きなんだけど、もう一つあってもいいかなって。できれば、あんまり派手じゃなくて、本を開いたときにちょっと嬉しくなるようなものがいいな」
「ひよりらしいね。私は机に置く小さな花も見たいな。部屋が少し明るくなるような色がいいんだけど、派手すぎないものがいいんだよね」
「じゃあ、お互いに似合いそうなものを探してみようよ。千夏が選ぶもの、私も見てみたいな」
千夏は嬉しそうに頷いた。
昇降口へ着くと、外から夕方の風が入り込んできた。校庭では部活動が始まっており、遠くからボールの弾む音や生徒たちの声が聞こえてくる。
二人は靴を履き替え、並んで校門へ向かった。
「そういえば、ひより。北条君とノアのお散歩、どうなった?」
千夏が何気なく尋ねると、ひよりは少しだけ表情を明るくした。
「まだ日にちは決まってないんだけど、昨日も北条君が公園の写真を送ってくれたんだ。夕方の景色がすごくきれいで、ノアもかわいかったよ」
「へえ、いいなあ。ひより、写真見せてもらってもいい?」
「もちろん!」
ひよりはスマートフォンを取り出し、昨日届いた写真を開いた。
千夏は画面を覗き込み、思わず笑顔になった。
「わあ、ノアって本当に大きいね。でも、顔がすごく優しそう。首を傾げてるの、かわいいなあ」
「でしょ? 北条君が撮る写真って、ノアの表情がよく分かるんだよね。いつも一緒にいるから、かわいい瞬間を見つけるのが上手なのかな」
ひよりが嬉しそうに話すと、千夏はその横顔を見た。
写真を見せているひよりの表情は、いつもより少し柔らかい。
ノアが好きなのはもちろんだろう。
けれど、写真を送ってくれた相手のことも、ひよりは大切に思っているのかもしれない。
千夏はそう感じながら、あえてからかうことはしなかった。
「私もいつかノアに会ってみたいな。前に北条君がいいって言ってくれたんでしょ?」
「うん。千夏にも会ってもらえたら嬉しいなって思ってる。でも、まだいつになるかは決めてないんだ」
「全然急がなくていいよ。ひよりが会うときに、都合が合えば私も紹介してもらえたら嬉しいな」
千夏の言葉に、ひよりは安心したように笑った。
「ありがとう。ノア、人懐っこいから、きっと千夏にもすぐ懐くと思うよ」
「それは楽しみだなあ。大きい犬って少し緊張するけど、ノアなら仲良くなれそう」
二人はそんな話をしながら、帰り道を歩いた。
夕方の空には薄い雲が広がり、陽射しが少しずつ柔らかくなっている。道端の木々が風に揺れるたび、葉の影が歩道へ落ちていた。
ひよりはその景色を見ながら、昨日の公園の写真を思い出した。
同じ夕方でも、場所によって見える景色は違う。
真樹とノアが歩いている道には、自分の知らない風景がある。
その場所をいつか一緒に歩けるかもしれないと思うと、胸の奥が静かに弾んだ。
◇
帰宅したひよりは、制服から部屋着へ着替え、机の上へ鞄を置いた。窓の外では夕陽が少しずつ傾き、部屋の中にも淡い橙色の光が差し込んでいる。
ひよりはくるみの頭を撫で、椅子へ座った。
「ただいま、くるみ。今日はね、橘君が紹介文のことを褒めてくれたんだよ」
もちろん、くるみは何も答えない。
それでも、ひよりは自然と笑顔になった。
海斗が言ってくれた言葉を思い出す。
自分の感想を押しつけるのではなく、読んでよかったことを静かに伝えている。
その感想は、ひよりにとって新鮮だった。
(私、そんなふうに書けてたんだ。自分では分からなかったけど、誰かに読んでもらうと気づくことがあるんだね)
ひよりは水色の読書ノートを開き、今日の出来事を書き留めようとした。
けれど、すぐにはペンが進まなかった。
紹介文のことも、千夏との雑貨店の約束も、真樹とノアとの散歩も、どれも大切な出来事だ。
その中で、今日一番心に残っていることは何だろう。
ひよりはしばらく考え、ゆっくりと文章を書き始めた。
『自分が伝えたかったことを、誰かが違う言葉で受け取ってくれると、新しい発見がある。同じものを見ていても、感じることは少しずつ違う。その違いを知ることも、誰かと話す楽しさなのかもしれない。』
書き終えた文章を読み返すと、ひよりは小さく頷いた。
真樹は、自分の言葉を大切にしてくれる。
千夏は、緊張しているときに安心できる言葉を掛けてくれる。
海斗は、自分では気づかなかった視点を教えてくれる。
それぞれ違う形で関わってくれる人たちがいることを、ひよりはありがたく感じていた。
ふと、スマートフォンへ目を向ける。
真樹へ、今日の出来事を話したくなった。
けれど、何から伝えようか少し迷う。
紹介文がまだ展示されていなかったこと。
千夏と雑貨店へ行く相談をしたこと。
母に来週の予定を確認できたこと。
どれも話したい気がした。
(北条君には、まず公園のことを伝えようかな。昨日、予定を確認するって言ったもんね)
ひよりはスマートフォンを手に取り、メッセージを打ち始めた。
『北条君、こんばんは。今日、お母さんに来週の予定を聞いてみたよ。今のところ家族の用事はなさそうだから、予定が合えばノアと一緒にお散歩できそう!』
送信すると、ひよりは少しだけ胸が高鳴るのを感じた。
まだ具体的な日付は決まっていない。
それでも、自分から約束へ向けて一歩進めたことが嬉しかった。
◇
真樹がそのメッセージを読んだのは、夕食を終えて自室へ戻ったあとだった。
足元ではノアがくつろいでおり、真樹が椅子へ座ると、黒い鼻先を膝へ寄せてくる。
真樹はノアの頭を撫でながら、スマートフォンの画面を見た。
ひよりから届いた文章には、来週の予定を家族へ確認したことが書かれている。
その一文を読んだ瞬間、真樹の表情が自然と柔らかくなった。
(天野、ちゃんと覚えててくれたんだな。しかも、もう家族に確認してくれたんだ)
もちろん、ひよりが約束を忘れるとは思っていなかった。
それでも、自分との散歩を楽しみにしてくれていることが、こうして言葉になって届くと嬉しかった。
真樹は少し考えてから返信を打った。
『こんばんは、天野。確認してくれてありがとう。俺も来週の予定をもう一度見てみるよ。ノアもきっと喜ぶと思う』
送信してから、真樹は足元のノアへ目を向けた。
「天野、来週会えるかもしれないぞ。よかったな」
ノアは真樹の声に反応し、尻尾をゆっくり揺らした。
真樹は笑いながら、もう一度頭を撫でた。
「お前、天野のこと本当に好きだよな。まあ、俺もだけど」
最後の言葉は、ほとんど独り言のように小さかった。
ノアは意味を理解したのかどうか分からないまま、満足そうに目を細めている。
真樹はその様子を見て、少しだけ照れくさくなった。
自分の気持ちをノアへ話すことはできても、ひより本人へ伝えるにはまだ勇気がいる。
けれど、焦るつもりはなかった。
ひよりが安心して笑っていられる時間を、これからも大切にしたい。
その気持ちは、以前よりもはっきりしている。
しばらくして、ひよりから返事が届いた。
『ありがとう! 私も楽しみにしてるね。あと、今日図書室へ行ってみたけど、紹介文はまだ展示されてなかったよ。準備ができたらって言ってたから、ゆっくり待とうと思う』
真樹はその文章を読み、穏やかな笑みを浮かべた。
ひよりは、楽しみにしていることを急いで結果へ変えようとしない。
それは、彼女らしいところだと思った。
『そうなんだね。展示されるの、俺も楽しみにしてるよ。天野が頑張って書いた文章だから、きっと誰かの目に留まると思う』
返信を送ると、ほどなくしてひよりから感謝の言葉が届いた。
真樹はスマートフォンを机へ置き、窓の外へ目を向けた。
夜の空には薄い雲が流れ、遠くの街灯が静かに光っている。
来週、ひよりとノアと一緒に公園を歩けるかもしれない。
その日が来たら、どんな話をしよう。
本のことでもいい。
ノアの小さいころのことでもいい。
あるいは、何も特別な話をしなくても、同じ景色を眺めながら歩くだけで十分かもしれない。
(天野と一緒なら、きっと何でもない時間も楽しいんだろうな)
真樹はそう思いながら、足元のノアへもう一度手を伸ばした。
◇
夜、ひよりは家族との夕食を終え、自室で明日の準備をしていた。
机の上には教科書とノートが並び、通学鞄の中には明日使うものを順番に入れていく。学校生活はいつもどおり続いていくが、その中には少しずつ新しい楽しみが増えている。
ひよりは準備を終えると、窓の外へ目を向けた。
夜風が庭木を揺らし、遠くから車の走る音が聞こえてくる。
真樹とのメッセージを思い返すと、自然と頬が緩んだ。
来週の予定は、まだ決まっていない。
それでも、二人で確認しながら約束へ近づいていることが嬉しかった。
ひよりはくるみを抱き上げ、膝の上へ置いた。
「ねえ、くるみ。私、最近楽しみなことが増えたんだよ」
小さな声で話しかけながら、くるみの傾いた耳をそっと撫でる。
「お母さんとクッキーを作ることも、千夏と雑貨店へ行くことも、北条君とノアに会うことも。まだ決まってないことが多いけど、考えるだけで嬉しくなるんだ」
ひよりはそのまま少し黙り、今日の出来事を思い返した。
海斗が紹介文を褒めてくれたこと。
千夏が一緒に展示を見に行こうと言ってくれたこと。
真樹が公園の約束を楽しみにしてくれていること。
どれも、誰かが自分の気持ちを受け取ってくれた出来事だった。
(私も、誰かの言葉をちゃんと受け取れる人になりたいな。嬉しいことも、困っていることも、すぐに決めつけずに聞けるようになりたい)
ひよりはそう考えながら、くるみを元の場所へ戻した。
水色の読書ノートを閉じ、机の明かりを少し落とす。
明日もきっと、特別な事件が起こるわけではない。
授業を受け、友達と話し、本を読み、家へ帰る。
そんな一日になるのだろう。
けれど、今のひよりは、その何気ない時間の中にも大切なものがあると知っている。
誰かと交わした言葉が、あとから思い出になること。
自分では気づかなかった気持ちを、誰かの言葉で知ること。
まだ来ていない日を、楽しみに待てること。
その一つ一つが、ひよりの毎日を少しずつ変えていた。
ひよりはベッドへ入り、布団を肩まで引き上げた。
目を閉じる直前、真樹から届いた夕暮れの公園の写真が浮かんだ。
黒い犬のノアが、柔らかな光の中で首を傾げている。
その隣には、きっと真樹が立っている。
いつか自分も、その景色の中へ並んで歩けるかもしれない。
そう思うと、胸の奥が静かに温かくなった。
「……楽しみだな」
ひよりは小さく呟き、目を閉じた。
月曜日の夜は穏やかに更けていく。
まだ言葉にならない想いも、まだ決まっていない約束も、それぞれの胸に残されたまま。
けれど、確かに少しずつ、明日へ向かって進んでいた。




